僕の一番好きな色
きい、と微かな音の後、潜めた息と忍び足に空気が揺れた。
僕は手を止め、振り返らないまま少し笑う。
「黄花ちゃん?」
「げっ!?なんでわかったの!?」
背後まで近づいていた気配がバランスを崩したのか、ぎしぎしし、と不安定に床を軋ませる。
「分かるよ。驚かせようとしたんでしょう。そんなことするのは黄花ちゃんしか居ない」
「むー、そもそも、気づかれてること前提なのが納得いかない……」
悔しそうな声に更に笑いがこみ上げる。
「僕は人より気配や音を感じるのが得意だからね。黄花ちゃんじゃぁすぐわかるかな」
「く……!私が深黒くらい影が薄ければ!」
「深黒ちゃんでも多分わかると思うけど」
僕はそう呟きながら、もう一度筆を取り上げた。
息が頬に当たる。黄花ちゃんが僕の肩越しに手元を覗き込んでいるようだ。
「わ、きれー!今回は珍しくカラフルだね?」
「そう?沢山の色を使うよう意識したけど、きれいに感じたなら良かった」
「凄いなぁ、これはどれくらいかかりそう?」
「んー、まだ描き始めたばかりだから、もうしばらくはかかるかな。それに、これは彼女への贈り物にしたいから、いつもより手をかけたい」
そう言うと、息を呑む音がした。
「えっ、彼女って!?だ、誰?」
「秘密」
どうせそのうち話すことになるだろうけれど、まだ秘密だ。黄花ちゃんが突然後ろに下がる気配がした。
「そんな……!私というものがありながら!泥棒猫は誰だって言うの!?」
大袈裟な、芝居掛かった台詞で言う。きっと手足もばたばたと動かしているんだろうと想像しながら筆を動かす。
「あなたなんて、あなたなんてキライよ!浮気ものーーー!!!」
と叫びながら声が遠ざかって行った。
最後に、
「あ、バイトあるから帰るね!絵完成したら見して!」
という言葉の後、ドアがばたりと閉まった。
相変わらず嵐のような子だ。僕は一人でまた笑った。
暫くして、控えめなノックの音がした。短く応えると、かちゃり、と微かな音の後、ひんやりとした外の空気が入ってきた。
僕は今度は手を止めないまま指摘する。
「深黒ちゃんだね」
「あ、うん……ご、ごめんね。お邪魔だった?」
「いや、大丈夫だよ。さっき黄花ちゃんが来たばかりだし」
ほ、と息を吐く気配がする。恐る恐る歩く音が床を揺らす。静かな深黒ちゃんですら音がするのだ。黄花ちゃんに隠れることは不可能だろう。
深黒ちゃんは、黄花ちゃんよりは少し離れたところから僕の手元を見ているらしい。
「ほんと、綺麗……」
ほう、と息を吐く音に、少し安心する。カンバスは先程黄花ちゃんが来た時より、色を多く重ねている。自分では客観的に判断することが出来ないので、こういう意見は貴重だ。
「あ、あのね……」
深黒ちゃんが控えめに話を切り出すので、僕はまた少し手を止めた。
「どうしたの?」
「うん……えっと、さっき、黄花ちゃんがメール?で……グループ、あの……」
「うん、ゆっくりでいいよ」
僕が頷くと、深黒ちゃんは小さく息を吸った。
「あの、カイくんに、彼女がいるって……」
僕は額に手を置いて息を吐いた。彼女って、そういう意味じゃない。
息を吐く僕に深黒ちゃんはおろおろした声をだす。
「え、あの、違う……の?」
「んー、いや、違わないといえば違わないかもしれないけど……。少なくとも、付き合っている人という意味ではないないよ。ただ、この絵を渡したい人がいるってだけで」
今までも手を抜いていたわけじゃないけれど、この絵だけはとりわけ力を入れたかった。多分、最高傑作になるかもしれない、なってほしい絵。
深黒ちゃんは、一瞬息を止めた。
「……その、誰に、渡すの……?」
「秘密」
「そっか……」
深黒ちゃんは残念そうにぽつりと呟くと、そろそろ帰るねと言った。
「たぶん、今日は桃ちゃん、来るよ……来たいって言ってた」
その言葉の後、来た時と同じように、ぱたんと控えめに扉が閉まる音がした。
深黒ちゃんの去った後の静寂は、深黒ちゃんの静かな雰囲気の名残のように穏やかだ。ほっと吐く息すら、彼女の雰囲気が混じっているような気がする。
かちゃ、と音がする。ノックはない。たたたたと走る音の後、いきなり体温が僕の頭と背中を包んだ。
「カーイーくーーーん!!!」
ぎゅう、と抱きしめられ、慌ててカンバスから筆を離す。
「桃ちゃん、危ないよ……」
誤って桃ちゃんの服にでもついたら大変だ。パレットに筆を預けて、僕は注意した。
桃ちゃんは嫌々をするように僕の頭の上で首を振る。顎が頭に擦れて痛い……。
「カイくん、桃のこと嫌い?好きだよね?その絵、私のだよね!?」
必死にしがみついてくる腕をぽんぽんと軽く叩く。
「んー、えっと、とりあえず少し離れて……」
渋々、と言った動きで桃ちゃんの腕が離れていく。やっと息ができる。僕は深く呼吸した。
「ええと、桃ちゃんのことは嫌いではないし、好きだよ。でも絵を渡す相手のことは、秘密」
「カイくんの秘密主義者……!」
なんだか涙声だ。まだ僕の服の裾を掴んでいる手が震えている。
「黄花?それとも、深黒?それとも青水?まさか、緑葉さんじゃないよね!?ままままさか、赤樹とか言わないよね!?」
青水ちゃん、緑葉さん、赤樹の名前を順に出して、桃ちゃんの声の動揺の色がどんどん強くなる。
僕は彼女を落ち着かせようと、服の裾を掴む手をぽんぽんと叩いた。
「ん、落ち着いて。渡す相手については、完成したらちゃんと言うから」
「今ぁああぁあ……!」
「はいはい。わがまま言わない」
なんとか宥めすかして、桃ちゃんには今日のところは帰ってもらった。仕方ないなと息を吐いて、吸う。今日の僕の家は朝から大盛況だな。笑って、絵の具を混ぜた。
コンコン、と音がした。入るよう促すときい、ばたんと機械的にドアが開閉する音がする。これは青水ちゃんだな。絵の具を混ぜながら、音に出る個性に笑いを漏らす。
つかつかと真っ直ぐこちらに音が近づく。
振り返らないまま、「青水ちゃん、来たの?」と聞くと、「はい」と端的に返事を返された。
「君もこの絵を送る相手の話?」
「……」
無言は肯定だろうか。
青水ちゃんの足音が一旦遠ざかり、がたがたとした音の後僕の横に何かを置いた。
青水ちゃんが座った気配がするので、恐らく椅子だろう。
「何故秘密なんです?」
なるほど、そっちを聞くか。今まで全てをはぐらかしていた僕を、別のアプローチから問い詰める。青水ちゃんらしい質問だ。
「そうだね。……面白くないから、かな?」
「面白い?」
あ、少し声が低くなった。怒らせたかな。
僕は絵筆を動かしながらも、内心少し焦った。
「別にからかって遊んでいるわけじゃないよ。んー……意趣返し……いや、せっかくなんだから特別なことをしたいというか……うん。ごめん、うまく説明できないけど」
「……カイさんは、その女性のことが、好きなのですか?」
率直にきかれ、僕は少し言葉に窮した。何というか、つまりはそういうことなんだけど、改めて答えるとなると照れくさい。カンバスから筆を離し、パレットに置く。
「……うん。まぁ」
長い沈黙が落ちる。
手持ち無沙汰で筆をいじるが、かといって絵を描く気分でもなくなり、僕はそわそわしていた。
妙に重苦しい静寂の後、ぽつりと小さな声が響いた。
「あなたにとっては単なる吉報でも、私達にとっては…………」
それから言葉が続くことはなく、青水ちゃんは無言のまま立ち上がり、「失礼します」という声だけ残してぱたりと外の空気を遮断してしまった。
僕はすこし居心地の悪い思いをした。
「……失敗した、かなぁ」
傷つけたかったわけではないのだけれど。
多分そろそろ来るだろうなと筆を置いたとき、こんこんと柔らかく扉が叩かれた。
「入っていいかい?」
柔らかくしわの寄った声に、僕は「ええ」と返事をした。
「緑葉さんもいらっしゃったんですね。これは赤樹も来るかなぁ」
「あぁ、是非とも行くと言っていたよ。覚悟しなきゃぁね」
柔らかい声は近づいて、青水ちゃんが置いて行ったままの椅子にきしりと座った。すこし低い位置から聞こえる声に、僕は軽く笑う。
「そうですね。完成してからではなく、赤樹には言ってしまいましょうか」
「おや」
緑葉さんは少し驚いた声を出した。
「良いのかい?何か考えがあったんだろう?」
僕は苦笑する。
「ええ。どうやらみんなを困惑させてしまったようですし。……なんだか、僕自身も彼女に早く思いを告げたくなってしまいまして」
「そうかい。……随分想っているようだね」
「ええ、そうですね、みんなと同じくらい……いえ、それ以上に大切な人です」
そうかい、とまた緑葉さんは呟いた。少し枯れた落ち着いた声が、部屋を穏やかに染める。
「その子は、私も知っている人だろうね?」
「そうですね。皆が誰よりも知っている人ですよ。むしろ、僕の方が知らないかもしれない。僕は、この家を出ることは多くありませんし」
外での彼女は、知らない。そればかりか、僕は彼女の容姿すら知らないのだった。緑葉さんは暖かい手で僕の背中を撫でる。
「仮で、とりあえず、赤樹が来るまでにこの絵に一区切りつけます。そしてその後、また時間をかけて完成させることにします」
「……そうか。じゃあ早めに帰ろうかね。赤樹君が来るまで、一人でゆっくり絵に集中するといい」
そうします、と言うと緑葉さんはもう一度背中を撫で、外の空気に消えて行った。
どれくらいの時間が経っただろうか、乱暴にドアが叩かれる音に、僕はハッと意識を取り戻す。
僕が促す前に、ドアは勢いよく開いた。
「てめぇ!好きな奴居るならなんだって俺に言わねぇんだ!水臭ぇぞ!」
開口一番響く怒鳴り声に、僕は耳を塞いだ。
「うるさいな、僕の大切な感覚器官に気を遣ってよ」
「わ、悪い……」
文句を言うと、赤樹は反省したようだった。相変わらず素直だ。
僕は手元の絵にさっさと布を掛ける。完成してからしばらくぼうっとしていたので、恐らく乾いているだろう。
「んで?」
せっかちに先を促す赤樹に、僕は苦笑する。
「何が?」
「何がも何も、お前の想い人とやらだよ!緑葉さんに聞いたぞ、俺には教えてくれんだろう!?」
掴みかからんばかりの勢いに、さらに苦笑が漏れる。
「分かったよ。……うーん、そうだな、どこから話せばいいか……。そうだ、じゃあ気になってることを質問してよ。答えるから」
赤樹はごくりと唾を飲み込んだようだった。
「……あー、んじゃあ、そいつとはいつ会ったんだ?基本ここには俺ら以外こねぇだろ。俺らも知ってる奴らしいけど……」
「ああ、うん。ちょうど、君たちが来た頃に会ったんだ」
「……どんな奴なんだ?」
「そうだねぇ」
僕は指を折りながら彼女の性格を追っていく。
「基本的に明るくて、元気で、冗談好きで嵐みたいな子だね。それでいて静かで、自信なさげで、遠慮がち。あとは積極的で、素直で、ボディタッチがすごく多い」
「……お、おい、ちょっと待て」
「あとは冷静で、真面目かつ丁寧、はっきり発言するタイプ。で、穏やかで、包容力があって、とても優しい」
「待て待て待て待てそれって!?」
「それで友情に厚くて、フレンドリーでがさつ」
「おおおい!?お、俺も入んのかよ!?」
ずささっと床を擦る音と共に、赤樹の気配が遠ざかっていく。僕はおかしくなって笑った。
「どう思った?」
「は?ど、どうって……お前、気が多いってレベルじゃねぇぞ……?節操なしにも程があんだろ」
「そうかな。僕の気持ちは一つだけど」
「どこがだよ!?」
首をかしげるとすかさずツッコミが入った。
僕は気にせず続ける。
「……でもさ、これだけ知ってるのに、僕は彼女のことを何一つ知らないんだよね」
ひゅっ、と鋭く息を吸う音が聞こえた。
「君も知っての通り、僕は目が見えないんだ。だから、僕の感覚器官は四つしかない。とりわけ、耳にかなり頼っている」
「……」
「『彼女』は優しいから、僕がこの家でひとりぼっちでも寂しくないように、沢山の友達をくれた」
僕はゆっくり立ち上がった。動揺したのか、かたん、と足が床を叩く音がする。それを頼りにそちらへ向かう。
「『彼女』の演技は完璧だ。性格も、声も、声の角度……多分、姿勢や歩き方すら、全部違っていた」
一歩一歩、進むにつれて、息遣いがはっきり聞こえるようになる。
「でも、……ツメが甘かったね。僕の感覚は聴覚以外にもあと三つある」
「っ、」
こつん、とつま先とつま先がぶつかった。
「君の香りはいつも一つだった」
手探りで壁を伝って、頬にたどり着く。柔らかな頬を撫で、さらりと長い髪に指を絡める。
「腕や手の感触、頬の柔らかさも」
肩は華奢で、腕は柔らかく細い。紛れも無い女の子の感触に、僕の推測が的中したことを知る。
「あの絵は君へのプレゼントだ。僕を騙していたお返しに少し意地悪をしたけど、間違いなく、君へのお礼。そして、僕の君への気持ちと、お願いの意味を込めて」
「……お、願い?」
揺れる声。間違いなく、他の誰でもない、彼女自身の声に、僕は今までで一番の喜びを得た。
「本当の君を、教えてほしい」
彼女の顔に両手を触れる。
目を見開いているようだ。柔らかい唇は少し開いて、大きすぎも小さすぎもしない。鼻は小さめ、あ、目を閉じた。丸い額、さらさらの前髪を通って、耳に触れる。
「……地味で、つまらない人間です」
声が震えている。動揺か、緊張か。僕は笑った。
「謙虚で自己評価が低い……その部分は深黒ちゃんに出てたね」
「そんなことはありません。あれは全部、偽物で、幻で、嘘で、どこにもいないんです」
「それこそそんなことないよ。たとえば……実はちょっと大雑把でしょ。黄花ちゃんや赤樹のとき、とりわけ生き生きしてた」
あ、口が尖った。
「すぐ拗ねるところは桃ちゃんかな。青水ちゃんは真面目だったけど、黄花ちゃんとか他の誰かのときでも基本的に真面目だったね」
「……そんなことありません」
「それに、優しいところは、緑葉さん」
「優しくない!」
僕は少し驚いた。頬に触れる手が、濡れる。
「私は……っ自分で、自分自身であなたに接することが出来なかった。怖かった、だから」
僕の手に、こくりと喉を鳴らす振動と音が伝わる。
「私は、あなたの好きな人を、作りたかったんです」
「なんだ、じゃあ、僕と同じだ」
「え?」
「申し訳ないけど、僕をカンバスの前まで連れて行ってくれないかな?」
「え、ぁ、はい」
そっと背中に手を添えられ、もう片方の手は僕の手を取ってゆっくり進む。この手の暖かさは緑葉さん。
真っ直ぐ、迷わず進む、青水ちゃん。
「あたっ!?」
少し間抜けな声は黄花ちゃん。
ぎゅう、ととっさに僕にすがる仕草は桃ちゃん。
がしゃん、と何かを倒したがさつさは赤樹。
そして、未だに不安げに小さく震える手は、深黒ちゃん。
全部、そして、たった一つ。
「……着きました。ええと、ここに椅子があります」
「ありがとう」
馴染んだ椅子に座って、手を伸ばす。
カンバスにかけた布を、慎重に取った。
「……どうかな」
不安は消えない。おそらく、この先ずっと、絵を見せる時の不安は続くだろう。だけど別に、この不安は特別僕の目が見えないからというわけじゃない。絵を描く限り誰にでもつきまとうことだ。人からの評価、反応。人に見せることで完成する絵というものを描く上で、決して切り離せない業のようなもの。
「……すごい」
そう言ったきり、黙ってしまった。その声には確かに感嘆が滲んでいた。
「僕には見えないから、僕の思うものとこれは違うかも知れないのは残念だけど……だからこそ出来ることがあるなと思ったんだ」
「出来ること」
「僕の主観の混じらない、純粋な、君だけの色を作りたかった」
僕はそっとカンバスに手を這わせる。
「ええと、ここかな。この色は、君が喜んでいた時に褒めてくれた色。ここは、君が悲しんでいた時に好きだと言ってくれた。ここは、君が怒っていた時に。ここは、君が眠そうだった時。ここは君が拗ねていた時だ」
僕には色がわからない。そのかわり、その色に誰がどんなことを思うのか、どんな反応をしたかが記憶と共に残っている。
「……だからこれは君だ。この色は君。これは、君だけのための絵だよ」
しん、と沈黙が落ちる。
昼は褒めてくれたけれど、どうだろう。
混ぜているうちに綺麗だと褒めてくれていた形は消えてしまっただろうか。
不意に、がし、と頭を掴まれた。ぐしゃぐしゃと髪をかき回され、困惑する。
「え、何か駄目だった?」
「うーーっ!」
変な唸り声と共に、ぎゅう、と頭を抱きしめられる。さっき僕の手を濡らした水が、髪を湿らせる。
「……大好き」
「……そう、良かった」
首に回った腕を、今度は優しく撫でた。
「名前を聞いても?」
口にした名前は、雨の日がよく似合う、変幻自在な花を思わせるもので。
見えないことが残念に思えるところが、そっくりだ。
僕はまた笑った。