Epilogue 7
7月。《胡蝶》の秋の新発売を前に、喜多嶋化粧品主催のファッションショーが開かれた。
本国でさえ滅多にショーという形式での作品発表をしないガロワが服を手がけたとあって、当日は国内外から多くの記者たちが押し掛けた。
日本の伝統的な色彩感覚を随所に取り入れたガロワのドレスは、期待で膨らませるだけ膨らませた多くの観客の胸を、更に大きな満足感で満たした。なかでも評判を呼んだのは、特別出演のタエコこと喜多嶋多恵子と、彼女が身につけたドレスだった。
「こんなおばあちゃんを、いまさらショーに引っ張りだしてどうすんのよ?」と、ぎりぎりまで出演を渋っていた多恵子であるが、スポットライトを浴びながらランウェイを歩く彼女の姿は、実に堂々として美しく、若いモデルたちの負けん気をおおいに刺激した。特に、新しく《胡蝶》に選ばれた春瀬リナは、ショーのトリを飾る者としての誇りがある。伝説のモデルだかなんだか知らないが、30年も前に引退したオバサンに喰われるわけにはいかない。
素朴な印象を与えがちな綿と喜多嶋ケミカルの最新技術で作られた霞のように薄い紗を組み合わせたガロワのウェディングドレスを着て登場したリナの姿は、観客を魅了しただけでなく、 初めて恋人の仕事場に足を踏み入れることになった森沢の幼なじみを虜にし、その後3日間ほど魂が抜けたような状態になさしめた。リナとしては彼が抵抗しないうちに教会で式を挙げてしまいたかったようだが、さすがに、それは森沢が思いとどまらせた。
「リナのドレスもいいけど、俺は、明子のウェディングドレスのほうが好きだな。中味はもっと好きだけど」
寝床から起き上がろうとした明子を行かせまいとするかのように彼女の長い髪に指を絡ませながら、森沢が、そんな感想を洩らしたのは、ショーから2週間ほど経過した朝だった。
「リナさんと比べてもらえるなんて、光栄ですね」
誉め言葉と、髪から背中へと移動してきた彼の指の感触のくすぐったさに身をよじりながら、明子が礼を言う。
リナのウェディングドレスは、本当に美しかった。優しくて力強い存在感を持つ綿のドレスを幾重にも包む薄いベールが風をはらんで揺れるたびにスポットライトの光を虹色に弾く様は、なんとも幻想的で、ファッションショーというよりも夢の中にしかない美しい光景を見せられているようだった。 同じガロワ作のドレスとはいえ、あのドレスを着たリナと自分を比べるのは、非常におこがましい気がする。
リナの姿を思い出してうっとりと目を瞑る明子を現実に引き戻すように、起き上がった森沢が彼女の肩に唇を寄せた。最初の頃に怖いと思ったのが嘘のように、これはこれで彼女を現実から遠ざけようとする危険な誘惑である。しかしながら、今日のふたりは、いつまでも寝床でじゃれあっているわけにはいかない。
明子は優しく、だがキッパリと悪戯な森沢の手を押さえた。態度で諌められて、自分のすべきことを思い出したのだろう。彼は、残念そうにため息をつくと、明子にちょっかいを出すのをやめた。……と見せかけて、いきなり明子を押し倒した。
「も~っ! だから、ダメですってば!」
「わかってる。冗談だよ」
明子の動きを片手で苦もなく封じながら、森沢が笑う。
「でも、君はリナとは比べ物にならないって思っているみたいだけど、ふたつのドレスは基本的に同じものだって、ガロワが言ってたよ」
「え、そうなんですか?」
「うん。どちらのドレスも『これから空に飛び立とうとしている蝶々』をイメージしたんだってさ。特に明子のは、さなぎから出てきたばかりの生まれてほやほやの蝶々だって」
森沢が、明子の額にかかる前髪をそっと払いのけると、白くすべらかな皮膚に口付けた。
「きれいに治ったね」
「うん」
明子は、森沢を見上げて微笑んだ。額も首も、背中も腕も。彼女を悩ませていたじんましんの痕は、もうどこにも残っていない。ここまで良くなったのは、傷ついていた明子が立ち直るまで傍で根気よく見守り助けてくれた森沢のおかげだと、明子は信じている。
「……ということは、俊鷹さんは、さなぎ?」
「は? さなぎって?」
思いがけないことを言われて森沢が面食らった隙に、明子は、するりと彼の腕の中から抜け出した。
「ちょっと、明子? さなぎって、なんでだよ?」
「私をいっぱい守ってくれて、元気になったら、自由に空に送り出してくれるからですよ」
困惑しながら追ってくる森沢を振り返ると、明子は、彼の頬に軽く、だけども心からの感謝と愛情をこめてキスをした。
今日は、ふたりの結婚式である。
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結婚式を長野で行いたいと最初に言い出したのは、明子だった。
達也の結婚式を半分乗っ取る形ではあったけれども、東京にいる人にはある程度のお披露目はしているし、なにより、中途半端な状態で森沢にくっついてきてしまった明子を受け入れた地元の人々にも、ふたりの結婚を祝ってもらいたかったのだ。
「それに、『祝! 俊鷹くん明子さん、御成婚!』って横断幕が商店街の入り口に掲げられているのを無視して、東京で式は挙げられないわよねぇ」
すぐ下の妹の橘乃と共に明子の着付けを手伝いながら、姉の紫乃が苦笑いを浮かべる。
紫乃には内緒だが、結婚式を長野にした理由は、もうひとつあった。紫乃と弘晃に、ちょっとした旅行をプレゼントしたかったのだ。
日帰りならばともかく、体が弱い弘晃が泊りがけの旅行をするとなれば医師やその他の随行者も必要であるし、滞在先で彼が体調を崩すようなことがあれば、そちらの人々にも迷惑がかかるから……と、普段の姉夫婦は遠出を諦めている。しかしながら、明子と森沢が、どうしても中村夫妻に式に出席してほしい、だから遠くて申し訳ないけれども長野まで来てほしいと駄々をこねれば、彼らとて無下には断れないだろう。
明子たちの意図を察してくれた紫乃と弘晃は、遠慮しながらも嬉しそうに、ふたりの招待に応じてくれた。やってきたのは4日前。生まれて初めてふたつ以上の県境を越えた弘晃は、滞在初日こそ熱を出して寝込んでいたものの、翌日には回復して、紫乃と共に仲睦まじげに付近を散策する姿が見られた。
「今日は? 弘晃お義兄さまは?」
「調子よさそうよ。美味しい空気って、やっぱり体にいいのかもしれないわね。『式が始まるまで、木陰で本でも読みながらゆっくりしてます』って。はい、出来上がり」
着付けの出来ばえを確認するように、紫乃が数歩後ろに下がった。
ガーデンパーティなので動きやすくて華美になり過ぎないドレスにしてほしい……という明子の要望に応えてガロワが作ったのは、和綿の優しい風合いが見る者にも伝わってくるような、くるぶし丈のドレスであった。結婚式が終わった後でも何度か着る機会がありそうなシンプルなドレスは、明子の希望以上 ―― ただし、非常に薄くて透明感がある布地で出来ているものの、結ぶとスカートの後部全体と覆い隠してしまうほどボリュームたっぷりの飾り帯を除けば―― である。
「なるほど。こうして見ると、確かに『生まれたての蝶々』みたいだわね」
肩甲骨の合わせ目あたりでリボン結びにされ、ふんわりと腰を覆うようにして垂れ下がる帯の形を整えながら、紫乃が微笑んだ。
「そうね。大きなリボンが、まるで蝶の羽みたい。しかも、早く空を飛たくて、うずうずしている蝶々」
橘乃も同意し、自分の後ろ姿を鏡で確認しながら、明子も納得する。なるほど、蝶の羽というにはハリと長さが幾分足りないリボンは、羽が乾ききっていない生まれたての蝶を連想させた。
「いままで苦労してきた芋虫が、やっとキレイな蝶々になれたってところかしらね。羽があるから、これからはどこへでも飛んでいけるわね」
紫乃が明子にベールを被せた。リボンの邪魔をしないように、ベールもまた、肩に掛かる程度に短いものである。
「これから始まって、これからいいことが一杯あるのね」
橘乃が、慎重な手つきで、ベールの上に花冠を載せた。盛りのクローバーの花と葉をメインに、いくつかの野の花がバランスよく編みこまれた花冠は、明子が近所の小学生たちに頼んで作ってもらったものだ。ちなみに、森沢の和綿畑の世話を手伝い、彼の車に飾ってあるフェルトの人形をプレゼントしてくれたのも、この女の子たちで、今日の結婚式にも来てくれることになっている。
その後まもなく、3人の妹たちが、ガロワと一緒に庭や畑を一周して摘んできたバラやハーブをまとめたブーケを持ってきてくれ、森沢と一緒に入ってきたガロワが花嫁の最終チェックをして準備完了。
結婚式は、屋内ではなく、まだいくつか花を残しているバラの畑や紫意の穂をつけ始めたラベンダーやその他ハーブの畑が見える森沢家の庭で、大勢の人々に見守られながら行われた。
結婚式の後は、立食形式でのガーデンパーティー……などという上品なものではなく、時間制限無し、来るもの拒まずやりたい放題食べ放題の大宴会となった。
屋外に出された幾つものテーブルの上には、喜多嶋ケミカル研究所の食堂の厨房を使って昨夜から準備された心づくしの料理や菓子が並べられ、会場の隅に設置されたバーベキューコンロでは、焼きたての肉や魚が供される。
明子と森沢は、あちこちで呼び止められては酒や料理を勧められながら、訪れた者たちに挨拶をして回った。料理を作るのも手伝ってくれた近所の奥さんたちは、子供の頃から知っている森沢の結婚を自分の息子や孫のことのように喜んでくれていた。そして、「次は、小次郎くんだね」 と、リナと並ぶ森沢の幼なじみに目を向ける。あの無口で無愛想で無表情な朴念仁が、どうやったらあんな美人をものにできるのか? 彼女たちは、それを本人の口から聞き出したくて(……というよりも、彼をからかい倒したくて)うずうずしているようだ。
お祭り好きの喜多嶋の親族たちは、ここぞとばかりに陽気に盛り上がっていた。
「でもさ、心なしか、髪が薄くなった人が増えたと思わない?」
森沢が明子に耳打ちする。ここ半年間のグループ内での激しい変化と、それに伴う仕事や悩み事の増加から、急激に寂しくなっていく頭頂部に不安を抱える者が増えているという。そして、見た目を気にする喜多嶋の男たちが真っ先に頼る先といったら、ここ長野の研究所であった。
「毛生え薬とか絶対に見破られないカツラを開発してほしいって、親父が頼まれているそうだよ」
ケミカルの研究所所長専任となった森沢の父親の信孝も、ここ半年間は息子に劣らないほど忙しかった。
これまで研究してきてことの実用化に向けての更なる努力もさることながら、彼は、それらの研究を更に進化させるために、今度こそ、喜多嶋グループの業務とは未来永劫関係なさそうな研究を整理することにしたのだ。他の会社がほしがっている技術は売却し、それでも残ったものは、似たような研究をしている研究所に蓄積したデーターも含めて提供する。その過程で、今までどおりのテーマではここでの研究を続けられなくなった者も少なからずいたが、信孝はそれらの研究員とトコトンまで話し合い、彼らに自分にとって一番いいと納得できる道を探し出し、その実現のために奔走した。
「気心のしれた奴がいなくなるのは寂しいけど、本人のためにもなるし、新しい人も入ってくるしな」
珍しくしんみりしたことを言っている信孝だが、夜には、花火を打ち上げるのだと張り切っている。
一方、娘を失う悲しみのあまり最初から最後まで号泣する予定だった明子の父親の源一郎は、「こんなに賑やかじゃあ、泣けやしない」と、宴会を楽しむことに決めたようだった。達也との結婚式のときは出席できなかった明子の義母たちも、楽しそうに食事やおしゃべりを楽しんでいる。
源一郎は泣かなかったが、半年前まで明子の義父母であった多恵子と紘一は、幸せそうな明子を見て泣いてくれた。達也と離婚した後も、明子はふたりと仲良くさせてもらっていた。最近では、社長を引退して暇を持て余した紘一が、明子たちが計画中の『オーガニックコットン普及作戦』の相談に積極的に乗ってくれている。「いくらいいものでも、慈善事業では続かない」と紘一に釘を刺されたことで、始めのうちは漠然とするばかりだった明子たちの計画は具体性を帯び、徐々に形になりつつあった。
ところで、紘一夫妻の息子……明子の元夫の達也であるが、当然のことながら、彼は、この宴会には出ていない。
「出られるわけもないけれども、社長から、お祝いを言付かっております。それから、後で自分からも言うつもりだけれども、明子さんに、お礼を言ってほしいそうです」
達也の秘書の久本が、彼の代わりに頭を下げた。
「私?」
「喜多嶋ケミカルが受注した製品を、仕事が激減している喜多嶋紡績の工場で生産するようにしてくださったでしょう?」
『おかげで、こちらの会社も一息つけそうです』と久本がまた頭を下げる。
「それは、私じゃなくて、この人が考えたことですよ」
明子は、傍らにいる森沢に微笑みかけた。彼女は、「そうしてもいいか?」と、彼から相談を受けただけだ。もっとも、森沢は、明子に相談する前に相当悩んだようではあった。
「明子さんが許してくれなければ、実現しなかったですよ。社長は、あなたに酷いことした訳だし……」
「それは、あくまでも個人的な問題ですから」
達也の代わりに申し訳なさそうな顔をしている久本に、明子は微笑んだ。本当は、個人的な報復のために明子の父が行ったことこそが問題なのだ。だが、そこには触れないでおく。どちらにせよ、ケミカルには生産するための工場が足りないし、ひとり勝ちしているケミカルの横で紡績が潰れるのでは夢見が悪すぎる。森沢だって、そう思ったからこそ明子に相談したに違いないのだ。
「それに、最近の達也さんは、ご両親にも謝ってくださって、他の人の助言も仰ぎながら謙虚に仕事に励んでらっしゃると聞きました」
達也の謝罪を受けて、多恵子と紘一は、1ヶ月ほど前に東京に戻っている。そればかりか、久本の助言を受けた達也が『どうか助けてほしい』と、森沢に頭を下げにきたとも聞いている。
自分が一番偉いと思い込んでいた達也が、そこまで膝を屈しているのだ。明子だけが、いつまでも達也がしたことを根に持って、傷ついた自分を可哀想がっているわけにもいくまい。まだまだ大変だろうが、達也は、彼に任された喜多嶋紡績を維持し発展させていくために、少しずつ自分を改めていくのだろう。 意固地なところがある人だが、久本さえ傍にいれば、きっと、この先も大丈夫。そんな気がする。
「そういえば、唯さんはどうしていらっしゃるの?」
「ああ、あの人ですか?」
達也の現在の妻の話になった途端、久本が不快感を露にした。
唯は、昼間は、部屋に閉じこもって自棄食いしているか、さもなくば外で自棄になって買い物しているかのどちらかで、夜は、達也と達也のマンションの家具や壁に当り散らしているそうだ。生傷の絶えない達也を心配した久本と唯の見張り役の探偵たちは凶器になりそうなものをマンションから全て回収し、葛笠も、せめて達也が時々実家に泊ることを許してやるようにと、恐れながら源一郎に進言したという。
「唯さんのほうもですね。『家の中でウジウジさせておくから、この女が調子に乗るんだ』と、先週から、彼女のバイト先だったレストランの店長さんが、また雇ってくださいまして……」
「アルバイトをしているの?」
「文句言いながらですけど」
唯にとっても、アルバイトが気晴らしになっているらしく、達也への暴力が減ったという。稼いだ金は、『離婚した時に備えておけ』という店長の命令に従って貯金しているそうだ。
「『明子と結婚しなければ、こんな目にあわなかったと恨んだこともないわけでもなかったけど、でも、今は必要な経験をさせてもらったと思っているし、明子には申し訳なかったと思っている。だから、今度は、自分がしてあげられなかった分以上に幸せになってほしい』と社長からの言づてです」
久本が達也からの伝言を、どこか誇らしげな顔で伝える。
「私も、あの結婚がなかったら、今の私ではなかったと思います」
私からも彼に『ありがとう』と伝えてくださいと、明子は言った。達也と結婚しなかったら、明子は未だに、誰にも非難されたくないばかりに他人をアテにしてばかりいる優柔不断で小心者の良い子のままだったに違いない。あのままの自分では、森沢と、今のような関係を築くのは無理だっただろう。
「達也さんにも、遠慮なくこちらに遊びに来てくれるように言ってくださいね」
遠くから呼ばれているのに気が付いて、明子は早口で久本に告げた。
遅れて運ばれてきた野いちごで飾った特大のケーキの後を、笑いながら子供たちがついていく。明子と森沢の手でケーキが切り分けられ、みんなのお腹の中に均等に収められたところで、妹たちから明子にブーケトスのリクエストがあった。
(どうか、次の花嫁が幸せになれますように)
(辛いことがあっても乗り越えていけますように)
そんな祈りを込めて、明子は、ブーケと花冠を、空高く放り投げた。
(END)
さいごまで読んでくださって、ありがとうございました。




