Epilogue 6
4月。雪が解けると、のっぺりと白いばかりだった森沢家の周囲に、バラの畑が現れた。家の庭先から敷地の目印となっている石垣までも、研究所に至る道の両側も、バラばかり。それどころか街中のいたるところにバラの木が植えられていた。
バラは全て香料用だという。観賞を目的としたバラではないので、どの木も短く刈り込まれてはおらず、割合に野放図に枝を伸ばしている。
バラの他にも、ここではハーブや漢方の類の植物も栽培されているのだそうだ。ハーブや漢方は、新しい化粧品の開発や薬効成分の研究用に使われ、摘み取られた大量のバラから抽出した精油その他は、喜多嶋化粧品の製品の中でも特に長年の愛用者が多い《胡蝶》の香りづけに主に使われるそうだ。ずいぶん前に他国産の少し安いバラの油を試したことがあったらしいのだが、『何かが違う』と多くの客からクレームがついて以来、《胡蝶》にはこの地で採れたバラを使う決まりになったという。
《胡蝶》といえば、年末年始にかけてオーディションが行われていた新生《胡蝶》のモデルは、リナに決まった。今では達也の妻となった香坂唯は、最終オーディションには現れなかったそうだ。
「『喜多嶋の関係者となった自分が《胡蝶》に選ばれでもしたら、八百長だと思われてしまうから辞退した』って、彼女は周囲に言いふらしているらしいのよ」と、リナが苦笑混じりに教えてくれた。
唯の話を伝え聞くたびに、明子は、今の幸せすぎる自分と引き比べてしまって、軽い罪悪感を覚えずにはいられない。だが、過去を悔やもうと悔やむまいと、あと2ヶ月もしないうちに、このあたりはバラの花とその香で満たされ、時を同じくして約束の半年後もやってくる。「そうしたら、結婚式ね。 精一杯楽しいものにしましょうね」と、森沢の母は嬉しげだ。
5月になると、産後しばらく実家に身を寄せていた華江が夫の実家(こちらのほうが自分の家よりも居心地が良いらしい)に戻ってきた。
「あれだけ忙しくしているっていうのに、森沢さんは、今度は何を始めようというの?」
出来上がったキルトにリボンをかけて中村家を訪れた明子が自分と森沢の近況を語り始めた途端に、無理のきかない自分の夫を思い出した姉の紫乃の声が尖るのは、無理からぬこと。しかしながら、生まれたばかりの幼子に、夫の身を案ずる紫乃の気持ちを理解しろというのは、なお無理というもので、女たちの笑顔に囲まれてゆりかごの中でまどろんでいた赤子は、この家ではめったに聞くことのない厳しい声に驚き、むずかり始めた。
慌てて口をふさいだ紫乃を赦すように微笑みかけながら、華江が慣れた仕草で娘を抱き上げる。母親の腕と明子が渡したばかりのキルトのおくるみに包まれた赤ん坊は、小さなあくびを洩らすと、気持ち良さそうに目を閉じた。
「でも、大丈夫なの?」
声を殺した紫乃が明子に膝を詰めた。
「仁樹谷製薬はともかく、豊本自動車さんや他の会社からいただいたお仕事はようやく形になりかけたところなのでしょう? お父さまも、次から次へと無理難題を押しつけているっていうし。これ以上仕事を増やしたら、森沢さん、冗談抜きで死んじゃうかもしれないわよ」
「大丈夫」
姉の剣幕に押されつつも、明子は、穏やかな笑顔でうなずいた。
『無農薬栽培の綿製品は、実際に触れさえすれば、その良さを実感してくれる人も多いはずだ』という明子の言葉にヒントを得た森沢は、オーガニックコットンの製品を扱うアンテナショップのようなものを始めることを考えていた。ターゲットとなる購買層は、女性である。
自分用であれば、どういったものならば試しに使ってみようと思えるのか? 母となった自分が子供に与えるもの、または友人に対する贈り物としてならば、どうか? 値段は? 商品は小さくても専門店に置くのがよいのか、あるいはデパートなどの一角にある店舗のような場所のほうが手に取りやすいのか? 等々……
知り合いの女性たちからできる限り沢山の意見を集めるのが、森沢から課せられた明子の任務である。 今のところ動いているのは明子だけだから、この件に関する限り森沢は負担を感じていないはずだ。
ついでに言えば、姉妹の父親が喜多嶋ケミカルに頼んでいることにしても、決して無理難題ではない。
六条コーポレーション……この場合は主に六条建設であるが、彼らからケミカルが依頼されているのは、建築用の断熱材の開発である。これまで一般的に使われていた石綿が体に悪いとかで一部で使用が禁止になったそうで、それに代わるものが、今、求められているらしいのだ。
それ以外にも、ケミカルは、既に開発済みの耐熱性や吸音性に優れた布を、洒落た(源一郎的には、ここが重要であるようだ)壁紙やカーペットやカーテン等に誂えてほしいという依頼を受けている。期限は、今秋から六条建設が請け負うことになっている茅蜩館ホテルの改装と一部建て替えに間に合うように。父は、喜多嶋ケミカルが開発した壁紙等が、ホテルの耐火性などを更に高め、雑音の少ない落ち着いた居住環境を作り出すことを期待しているようだ。
断熱材にせよカーテンにせよ、ケミカルが既に開発している技術を少しばかり応用すればできることだというのが、研究所を切り盛りする森沢の父の考えである。今のところ研究室とデザイン部門が検討を重ねている段階なので、こちらについても、森沢の出番は当分回ってこないと思われた。
「そうそう、茅蜩館ホテルの工事といえば……」
兄の提案により、工事の際に建物全体を覆う幕に、ケミカル製の遮音性の高い布が採用されることが決まっている。こちらは、早くも現物が六条建設の別の現場で使われ始め、他の建築会社が興味を示すほど評判が良いという。また、同ホテルには、ケミカルの分室の半分を占拠している浄水器と同じものが近く納入されることになっている。 料理や飲み物を作るのに使いたいのだそうだ。
「浄水器といえば、弘晃さんも欲しがっていたわ。 もう少し小型化できるようなら、飲み水の確保が難しい国に赴任している社員に配布してあげたいって」
「浄水器ならば造船のお祖父さまも、お船につけたいって、うちのお祖父さまに話してらしたそうよ」
中村の分家の出である華江が、同じく分家で中村造船前会長の言葉を伝える。
「あとは、ええと、バラスト水? ……とやらをろ過するフィルターみたいなのをケミカルに作ってほしいとかなんとか……って、あらまあ、なんだかキリがなくなってきたわねえ。こんなに沢山の仕事をいっぺんに始めるなんて、森沢さんも本当に大変でしょうね」
華江が、森沢の忙しさを改めて実感したように目を丸くする。
「ほら、だから……」
「でも、まあ…… 森沢さんだから、きっと大丈夫ではないかしら?」
勢いづきそうになった紫乃を落ち着かせるように華江が笑う。
「なんといっても、彼は伝説の寮長さんですもの」
「伝説?」
「あら、明子ちゃんも知らないの?」
怪訝な顔をしている姉妹を見て、華江が少し得意げに微笑んだ。
「高校生の時に寮長さんだったことは、聞いてますけど」
その寮を建て替えるために、森沢が奔走したことも聞いている。
「そう。うちの正弘さんは、同じ学校で、森沢さんの一学年下だったのだけど……」
華江の夫によれば、寮の建て替え運動は、まるで森沢個人の突発的な思いつきから始まったように見えたという。もちろん、寮そのものは、とっくの昔に耐用年数を終えているようなボロ屋であり、このまま住み続ければ何時か誰かが何かの下敷きになりかねない危険な建造物であったから、建て替えるべきだという森沢の主張は至極もっともなものだった。
「でもね。始めのうちは、当の寮生でさえ、まともに取り合おうとしなかったのですって」
建て替えなどというものは、自分たちが声を上げなくとも大人がやってくれるものだ……と、多くの学生たちは信じて疑っていなかった。だけども、『建て替えたほうがいい』と言われ始めてから、もう10年も20年も経っている。自宅から通っている生徒の中には、この学校に寮があることさえ知らない者がいる。これでは埒が明かないと判断した森沢は、寮生と学校を根気よく説得し、力を貸してくれそうなスポンサー(筆頭は、鶴川電器の会長である)を自力で獲得し、ついには全校生徒と保護者と卒業生まで巻き込んで学校側に建て替えを決断させた。
「でも、これだけのことをやってのけたのに、建て替えが決まって工事の青写真が出来上がったら、本人は、あっさり身を引いてしまったそうなの」
1番の功労者であるにもかかわらず、既に高校を卒業していた森沢は、起工式にも開寮式にも顔を出さなかったそうだ。しかしながら、良い事だけして見返りを求めることなく名前も告げずに去っていったヒーローほど、人の心に強烈に印象付けられるものである。例えば、華江の夫がそうだった。
「あの『兄さん至上主義』の正弘さんが、森沢さんにだけは、弘晃お義兄さまに馴れ馴れしい口をきいているのを笑って許しているのよ。よほど森沢さんのことを尊敬しているのだと思うわ。普通だったら絶対にありえないもの」
『ねえ?』と笑いかけられた娘は、まだ話せないながらも、大きく体を揺らして笑うことで母の主張を全面的に支持してみせた。
森沢の名前までは伝わっていないものの、当時の寮長がリーダーシップを発揮して寮の建て替えが実現したということは、同校が同窓生などに向けて発行している機関紙などを通して、多くの卒業生が知っている。鶴川電器の会長が伝説の寮長が森沢であると公言しまくっている今ならば、森沢に興味を抱く卒業生や卒業生の保護者、または上司や知り合いは多いだろう。そして、森沢が卒業した学校の卒業生というのは、社会のあらゆる場所にいるといっても過言ではない。
「つまり、今の森沢さんは、ひとりにつき1度限りならば、日本国内の、どんな偉い人物にでも直接に会って協力を求めることができる魔法のパスポートを持っているようなものね」と華江は言う。2度目があるかどうかは本人の器量次第だが、今のところ、森沢と会った事は時間の無駄だったと後悔している人物はいないようである。
「だから、そんなに心配しなくても大丈夫だと私は思うわよ。だいたい、あの結婚の条件にしたって、本当は森沢さんへの試練でもなんでもないのでしょう?」
紫乃の顔が引きつるのを見て、今度は華江が慌てて口に手で蓋をした。
「いやだ。もしかして、言っちゃいけないことだった?」
「お姉さま?」
「森沢さんの勢いを削ぐといけないから、しばらく黙っているように言われていたのだけど、森沢さんは、お父さまのとっさの思いつきで喜多嶋ケミカルの社長にさせられたわけではないの」
口止めしたのが弘晃であることを言外に匂わせながら、紫乃が渋々打ち明けた。
達也が明子の夫として相応しくもなく、能力はあるものの社会人としてはまだまだ未熟で使い物にならないとわかった時点で、父は達也を見限ったらしい。時期的には、じんましんを患った明子が一時的に六条家に帰っていた頃だそうだ。そして、この頃から、源一郎は、達也への復讐も兼ねた……というよりも復讐をメインに喜多嶋改造計画を練り始めた。
まずは、明子にとって満足のいく夫であり続けたなら達也が全て手に入れるはずであった喜多嶋グループを完全に3分割し、安定的な利益を上げている化粧品部門と、大化けする予定であるケミカルを引き離す。そうした上で、この先成長する見込みが薄い紡績のみを、達也に引き継がせる。才覚のある男であれば、残された一社を足がかりに更に事業を拡大することも可能だろう。だが、社長が達也では、その見込みもない。達也なんぞ紡績と一緒に潰れてしまえばいいと、父は考えたようだ。
となると、問題は残りの2社である。化粧品部門のほうは、引き続き紘一の弟の伊織に任せればいいとして、ケミカルの社長をどうするか? それまでどおりということならば森沢の父であるが、これは、森沢の祖父が存命中の時、彼が社長の代わりにケミカルの決定権を握っていたからこそ成立していた人事であった。森沢の父は根っからの研究者だから、これから舵取りが難しくなるであろう同社の長としては頼りない。なにより、突飛な発想を科学の力で現実化させる研究所の長としての彼の才能を他に使うのはもったいない。
そこで源一郎が目をつけたのが、森沢だった。森沢ならば、マネーゲームに現を抜かしたりはしないだろうし、なによりも喜多嶋グループ本来の仕事を愛している。また、本人は気が付いていないものの、有効に使えそうな人脈も持っている。試しに鶴川電器の会長に話を振ってみたところ、彼は、源一郎が想像していた以上に森沢を高く買っており、ケミカルを任せるのに森沢以上の適任者がいるわけがないと、手放しの誉めようだった。
既に巻き込んでいた弘晃や彼の大叔母は、もとから森沢に対して好意的であるし、ケミカルの研究に興味を持ちそうだという理由で巻き込んだ豊本自動車と仁樹谷製薬のふたりも、同族意識の強い喜多嶋一族の中から次期社長を選ぶとしたら森沢が適任だろうと、客観的な立場から意見した。
というわけで、喜多嶋ケミカルの後任は森沢に決定。彼の若さと経験不足が欠点といえば欠点かもしれないが、そこは、彼の持ち前の行動力に加えて自分たちのフォローがあれば、なんとでもなるだろう。加えて、ケミカルには、日の目を見ていない研究が山とあるのだ。あれだけの隠し財産があれば、あの思春期を抜け出すことに失敗した自意識過剰の達也くん(仁樹谷氏談)が社長になったとしても、3年あれば従業員の給料を倍にすることだって可能だろう。
達也が3年ならば、森沢は1年程度で足りるんじゃないか? とりあえず、半年あれば今抱えている負債ぐらいならば余裕で返せるはず……などと、一同が軽口を叩いていた頃、達也は家を飛び出して香坂唯の下へ転がり込み、その2週間後には、唯に傷つけられた明子が森沢と両思いになって長野へ逃避行した。
悩みがちな明子のことだから離婚のショックから立ち直るまでには相当な時間を要するだろうとばかり思っていたのに、早くも次の男と逃避行とは…… 源一郎にしてみれば寝耳に水のような出来事である。
それもこれもなにもかも達也が悪い!
怒った源一郎は、年明けに実行を予定していた達也への復讐を早めることにした。
……が、迷うのは森沢の扱いである。源一郎が森沢を社長に指名すれば、彼が明子の次の夫となることを、自分から多くの人の前で認めてやるようなものではないか。森沢にしてみれば、棚からボタモチどころか社長と妻が落っこちてくるようなもの。帰ってくるとばかり思っていた娘を横から森沢に掻っ攫われた源一郎にしてみれば、癪に障る展開である。そんなとき、達也の結婚式を邪魔しに、わざわざ森沢が式場に転がり込んできた。そういう森沢の格好つけなところも、源一郎としては、面白くない。少しぐらい森沢を困らせてやらなければ、源一郎としてはやりきれない。
「……というよりも、 お父さまとしては、やっぱり不安だったのでしょう。だから、ちょっとした嫌がらせも兼ねて、森沢さんが明子を本当に幸せにしてくれるかどうか、どれだけ本気で明子を望んでくれているのかを確認したかったのだと思うの。それを、弘晃さんたちが悪乗りして……」
紫乃が顔をしかめる。
「ああ、そういえば」
明子は結婚式でのやりとりを思い出していた。そうだ。森沢に社長になれと言ったのは父だが、条件付で結婚を認めてやれと言い出したのは、父ではなく鶴川会長だった。達成までの期限を短くするために条件を厳しくしていったのも、弘晃や豊本自動車の社長だった。
「森沢さんには達成不可能に思える条件でも、弘晃さんたちは、森沢さんであれば充分達成可能だと知っていた。だから、お父さまが、これなら明子を嫁にやっても大丈夫だと思ってもらえるような答えを森沢さんから引き出すために、そして、森沢さんが条件を達成できさえすれば、お父さまがどんなにゴネても結婚を先延ばしできないように、横からあれこれ口出ししていたという訳なの」
『あれだけ沢山の人の前で約束してしまったのですもの。いくらお父さまでも『やっぱりやらない』とは言えないでしょう?』と、紫乃が微笑む。
「でも、もしも、あの時、森沢さんが『そんな条件は飲めない』って答えたら、どうなっていたか……」
「そうなのよ。本当に、ごめんなさい。でもね」
弘晃に代わって頭を下げた紫乃が、妹にチラリと舌を出してみせながら顔を上げた。
「森沢さんは、そんなこと言わなかったと思うのよ」
「え?」
「だって、彼がそういう人だったら、明子は好きにならなかったでしょうから」
「……」
明子は顔を赤くして押し黙った。姉の言うとおりだという気がする。
「弘晃さんにしても、森沢さんを信じていたからこそ、あんな悪戯に乗ったのだと思うのよ。結婚の条件もね。この調子なら、森沢さんは、自分たちが予測していたよりもずっと早くに達成できてしまいそうですって。だから結婚は、当初の予定通りに離婚後半年……7月の始めぐらいだと考えていればいいのではないかしら」
姉が言うとおり、香料バラの収穫作業のピークが過ぎた6月初旬の早朝、森沢は最初の条件を見事にクリアしたというお墨付きと、『しかたねえな』という父からの結婚の許しをもらって長野で待つ明子の元に飛んで帰ってきた。そしてそのまま、明子と一緒に部屋に籠もった。
「半年間、がむしゃらに頑張ったんだから、1日ぐらいゆっくり休んだっていいだろう?」
「それは、もちろん、かまわないと思いますけど……」
「それに、頑張ったんだから、ご褒美もほしい」
「それも、そうだとは思いますけど…… でも……」
「明子はいや? 俺のこと嫌い?」
「そんなことは、全然ないですけど、でも、まだ明るいですし……」
森沢に対して強く逆らえないまま押し切られ流されるだけ流されて、明子は、次の日の朝まで彼と共に甘い時を過ごした。
そして、1ヵ月後……




