Epilogue 5
「実は、掃除機のフィルターよりも鶴川会長が欲しがっているものがあるんです。いつだったか、森沢さんから譲っていただいたこの布なんですけど」
弘晃が、ベッド脇に置かれた稼動式のテーブルの上から淡い水色の布を取り上げた。
「ああ、それ? なかなか便利でしょう?」
大きさはハンカチ程度だがハンカチよりも少し厚みのあるその布を、森沢は懐かしげに摘み上げた。
この布は、喜多嶋ケミカルが作り上げた超極細繊維を織り上げた布の一部である。森沢たちは、1年ほど前に、この布の商品化を断念した。諦めた理由の第一は、触り心地の悪さだった。見た目は悪くないのだが、布を撫でると手に引っかかるような感触が残るのだ。しかも、なぜか汚れやすい。試作品を各部に回しているうちに、白い布が灰色に変わっていた。これでは服地として売りようがない。
そうはいっても、試作した布を、ただ捨ててしまうのももったいなかった。放っておいても勝手に汚れる布ならば……と思った母の文緒が、その布をハンカチ大の雑巾にして森沢家で使い始めた。すると、これで窓や床を磨くとピカピカになると誰かが言い始め、その評判に気を良くした母が、一部のサンプルを除いた全てを雑巾にして知り合いに配ってしまった。
森沢も、「車の窓ガラスを拭くのに使ったら?」と渡された大量の雑布のうちの10枚ほどを、日頃お世話になっている中村家に進呈した。紫乃が結婚式で被ったベールにもこれと同じ超極細繊維が用いられていたから、面白がってもらえるかと思ったのだ。
それから1ヶ月ほどたったある日、彼が渡した雑巾を使用人たちが大層気に入っていると弘晃の母が伝えてくれた。商品化するのなら是非買いたいとも彼女は言ってくれたが、その時の森沢は、彼女の言葉をお世辞として愛想よく聞き流した。高級服地としてならともかく、この布を雑巾として売り出したところで値段が高すぎて誰も買ってくれないと思ったからだ。
そんな事情を抱えた布を森沢の手から取り返すと、弘晃は、「ねえ。 この布を売ってみませんか?」と言い出した。
「売る? 雑巾として?」
てっきり冗談だと思った森沢が笑いながらたずねる。すると、弘晃が、「雑巾といえば雑巾ですね」と大真面目な顔で肯定した。
「もちろん、ただの雑巾じゃないですよ。工業用です」
森沢たちは実験したことがなかったが、弘晃が鶴川電器の研究開発部門で試してもらったところ、この布は、ミクロの汚れも油も残さず拭き取ることができる優れものであったらしい。
「最近は精密化が進んでいるために、ホコリを嫌う製作現場が多いですからね」
「だから、欲しがる人がいる?」
「ええ、世界中に」
弘晃が笑顔でうなずいた。
「これと同じような物も幾つか出てきていますけれども、今のところ、これ以上の性能を持つ布はないようです。これが世界一だと言い切ってもいいと思います」
「この布が世界に通用するって?」
森沢は呆然とした。森沢や喜多嶋紡績にとって、世界……特に欧米は、学ぶべき場所だった。化粧品も衣服も、あちらの国のファッションに憧れ追いつきたくて、彼らは猿真似と笑われながらも最先端のものを取り入れようとしてきた。それを、いきなり自分たちの独自開発製品で世界シェアを狙えると言われても、にわかには信じがたい。否、全く信じられない。弘晃の勘違いではないだろうか? 「…………まさかぁ?」という森沢の声と彼の父親の声が、見事にハモった。
「本当ですよ。お願いですからしっかりしてください。これなら世界で自信を持って売れます。だから、商品化した暁には、この布を世界に広げるお手伝いを我が中村物産にさせていただけますか?」
焦点の合っていない森沢の目の前で手を振りながら、弘晃が抜け目なく笑った。
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それから数時間後。
日はとっくに暮れていたものの、森沢は、明子の予想よりずっと早い時間に戻ってきた。
「ただいま」
玄関で出迎えそこねた明子に「お帰りなさい」という暇さえ与えずに、森沢が彼女に抱きついてくる。
「ごめん。話す前に、ちょっとだけ栄養補給させて」
常とは違う森沢の様子に戸惑う明子に、彼が疲弊しきった声で請うた。森沢が早急に欲している栄養とやらが食事で補える類のものでないことは、明子でもわかる。自分で間に合うならば栄養でも生気でも好きなだけ持っていってくれればいい。明子は、彼の背中に手を回すと、ぎゅっと抱きしめ返した。
「随分、忙しかったみたいですね」
「忙しかったというよりも、自分の中の常識が吹っ飛んだというか、臨界点を越えたというか……」
ぐったりと明子に張り付いたまま、森沢が、ポツリポツリと今日の成果を語り始めた。
仁樹谷製薬が、特許を取るつもりさえなかった彼の会社の研究の一部を破格の値段で買い取ってくれることになったこと。豊本自動車と鶴川電器も、彼の会社の大口の取引先をして名乗りを上げてくれたこと。中村物産が、行き詰っている眼鏡用のプラスチックレンズの開発に力を貸してくれることになったこと。
「いまひとつ見えづらいのは、レンズを成型するための金型がいけないんじゃないかっていう話になってね」
弘晃は、金型作りの名人がいる、とある蒲田の工場を喜多嶋ケミカルに紹介するようにと、その場で自分の会社の社員に指示してくれたそうだ。
ガラスのレンズよりも値段が高くなるかもしれないが、プラスチックならば割れる心配もない。また、従来のガラスより軽いレンズが眼鏡に使えるようになれば、レンズを支えるべきフレームも軽く細くすることができるようになり、今までは目が悪いばかりに太い黒縁眼鏡しかかけられなかった人でも、自分の好みにあったフレームを選ぶことができるようになる。性能の良いプラスチックレンズを作り出すことができれば、それは確実に世間に受け入れられ、喜多嶋ケミカルに安定的な利益をもたらすことになるだろう。
プラスチックレンズのこと以上に森沢たちを驚かせたのは、彼らの会社が作り出した布を、中村物産が世界中に売り込んでくれるつもりだということだったようだ。
「俺たちの作った布を、『一番だ』って言ってくれたんだ。これなら自信を持って売り込めるって。みんながほしがるって」
「すごいじゃないですか!」
「そ、そうだよね? すごいんだよね?」
明子を捕えていた腕を緩めると、森沢が、彼女の目を見て自信なさげに問いかける。
「そうですよ! すごいです!」
明子は、きっぱりと答えた。その答えと彼女の笑顔に励まされたかのように、どこか不安げだった森沢の顔にもやっと笑みが浮かんだかと思ったら、次の瞬間、彼は堰を切ったような喜びの声をあげ、笑いながら再び明子に抱きついてきた。
抱き合ったり、手を繋いで飛び跳ねたり、万歳三唱をしたりと、ふたりは心ゆくまで喜びを分かち合った。もっとも、心から無邪気に喜んでいたのは明子だけだったかもしれない。この時の森沢は、これらの成功の種が実を結ぶまでにどれだけの準備をしなければならないかをほぼ正確に予測していたようだ。その予測の中には、当然のことながら仕事に忙殺される自分も含まれている。
「しばらく、明子を放ったらかしにしてしまうかもしれないけど」
「そんなことは、いいんですよ」
申し訳なさそうな顔をする森沢の腕を優しくさすりながら、明子は微笑んだ。せっかく舞い込んできたチャンスなのだから、彼には悔いの残らぬよう、思い切り自分のしたいようにしてほしい。
「あ、でも、体を壊すほどの無茶はしないでくださいね」
「大丈夫。俺には明子がいるからね」
何の根拠にもならないこと言いながら、森沢が明子の額にキスを落とす。
「本当だよ。 君さえいれば、矢でも鉄砲でも六条源一郎でも、なんでもござれ……」
明子に軽口を叩きながら背後で聞こえたノックの音に振り返った森沢の声が凍りついた。『噂をすれば影』とはよく言ったもので、返事を待たずに扉を開けたのは、息子の和臣を従えた明子の父、六条源一郎だった。
「『矢でも鉄砲でも、俺でも』?」
冷たい笑みを浮かべる源一郎の後で、目をつぶった兄がこめかみを押さえている。
「い、今のは単なるたとえですっ! 明子さんが俺にとってどれだけ頼りになる存在かということと、おとうさんがどれだけ力のある方かということを、ひとつの比ゆによって端的に表現してみたまでで……」
明子を楯にしながら青くなった森沢が必死で言い訳する。 だが、源一郎は聞く気がないようだった。
「国語の勉強は後だ。弘晃くんからある程度の話は聞かされていると思うが、六条コーポレーションから喜多嶋ケミカルへの依頼だ。沢山あるぞぉ。これから一晩かけて、未来のお義父さんと年下のお義兄さんと一緒に科学の話をしようぜ」
源一郎が森沢の首根っこを掴み、力ずくで明子から引き剥がす。
「あの? お義父さん? なにも、そんなに急がなくてもですね?」
森沢が、ずるずると部屋の外へと引きずられていく。
「すまないね。森沢さんが死んだりしないように僕と葛笠と弘晃義兄さんとで充分に気をつけるから。明子は、安心して結婚式の準備でもしておいで」
和臣が拝むような仕草をしながら明子をなだめ、父親の後を追っていく。
「安心してって言われても……」
遠ざかっていく森沢に手を振りながら、明子は顔をしかめた。一体、この状況のどこをどう安心すればいいのだろう?
気を揉む明子の元に森沢がやっと戻ってきたのは、翌日の夜中だった。その後しばらく、夜中に森沢が布団にもぐりこんできては、彼女に纏わりついた途端に朝まで熟睡しているという日々が続き、気がついたらクリスマスが終わっていた。
年末には、ふたりで長野に帰省したものの、疲れきっている森沢に運転させるのは心苦しく……というよりも非常に危なっかしく、明子は東京に戻ったら絶対に運転免許を取ろうと決めた。
長野でも、森沢は喜多嶋ケミカルの社員と共に正月返上で頑張っていた。だが、長野の森沢家はケミカルの一部のようなものなので、明子が起きている森沢と過ごす時間は増えた。
森沢は、忙しそうだったが、水を得た魚のように生き生きとしてみえた。喜多嶋グループの立て直しを命ぜられた時と同じように、自分ひとりで仕事を抱え込むこともしていないようだ。巻き込めるだけの人を巻き込み、 任せられるところは他人に任せ、わからないことにはわからないと言い、できないことには素直に助けを求めてくるという森沢の行動は、ある意味わかり易く、周囲の人も手を貸しやすいらしい。また、彼には偉ぶったところもないし自分の功績でも人にあげてしまうようなところがあるから、異例の出世を誰かにやっかまれることもなく、人間関係も上手くいっているようである。
これなら大丈夫そうだ……と、明子は少し安心した。
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2月も半ばになると、森沢もようやく新しい自分の役目と仕事に慣れてきたようだった。時間的にも余裕ができてきたようだが、明子と過ごす時間をできるだけ有効に使おうとするあまりに彼の睡眠時間がさほど増えないのが、当時の彼女の贅沢な悩みでもあった。
森沢に余裕はできたものの、2月の喜多嶋ケミカルの忙しさは相変わらずであるようだった。1月中に決めた計画の実現にむけて、仕事の量は数倍どころか数十倍に増えているとのことである。
「とはいえ、仕事量以上に大量に人が増えたようだから、なんとかなるのではないかしら」
再び長野を訪れた明子に、森沢の母の文緒が、昨年取れた綿から糸を繰り出しながら、嬉しいような困ったような顔で教えてくれる。
「増えた? 新しく人を雇ったということですか?」
「いいえ。達也くんの会社から、社員が次々に流入してきているんですって」
達也が年末に社長就任の挨拶をして以来、喜多嶋紡績……とくに本社では、退職希望者が後を絶たないという。退職の理由については、人それぞれであるようだ。もともと本社の仕事と兼務でケミカル関係の事務や営業の一部を担当していたために森沢たちに愛着のある者もいれば、森沢個人に惚れ込んで彼の下で働きたいと思ったという者や、森沢と達也の将来性を冷静に天秤にかけた上で移動することを決めた者もいる。また、達也と口論になった挙句に、その場で辞意を告げた者も少なくはないという。
「むこうに退職願いを出しちゃった後で、『行き場がないのでうちに入れてください』と言われちゃったら、俊鷹だって追い返す訳にもいかないでしょう? うちは喉から手が出るほど人手が欲しいし、やってくるのは、うちに足りない営業とか事務方の人がほとんどだし…… 大体、お兄さまがいけないのよ」
暖かいラグの上で糸車のハンドルを回しながら、文緒が、近くのテーブルで書き物をしている男に文句を言った。男は、前喜多嶋紡績の社長であり達也の父、そして、去年の末ごろまでは明子の舅でもあった紘一だった。ちなみに、彼が、達也と大喧嘩した挙句に達也を見限った人間の第1号である。
その紘一がここで何をしているかといえば、彼は森沢を手伝っている。彼は潔いほど過去にこだわっていないようで、森沢が助言を請えば元社長として適切なアドバイスをしてくれるが、自分から居丈高に意見するようなこともせず、暇に飽かして誰でもできるような仕事にも楽しげに参加しようとするので、あちこちで一般社員をパニックに陥らせている。 紘一に限らず、ラテン系のノリを持つ喜多嶋一族の男たちは皆、ケミカルの仕事に関わりのない者も含めて、祭りの準備のような賑わいを見せている森沢の仕事のほうが気がなってしかたがないようだった。そういう意味でも、達也は孤立していた。
「俺は、六条さんとの約束どおりに、年が明けたから社長を辞めただけだよ」
「退任の時に達也くんと派手な喧嘩した挙句に、家出してうちに来ちゃったら同じことでしょう? しかも、多恵子さんまで連れてきちゃって……」
息子の元嫁が大好きな多恵子は、家出した紘一を追いかけて、嬉々として長野までやってきた。彼女は今もここにいて、明子の隣で文緒が糸を紡ぐのを眺めている。
「これぐらい離れていたほうがいいのよ。そばで見ていたら、紘一は、達也のやることに口出しせずにはいられないでしょうし、自業自得とはいえ、あの子が痛い目にあっているのを側で見ているのもきついしね」
多恵子が寂しそうに微笑む。が、次の瞬間、眉を吊り上げながら、「それに、あの女が、いちいちムカつくのよ! もう同じ都内の空気を吸うのもイヤ!」と、ここに来た本当の理由を明らかにした。
「でも、このままだと、どんどん人がいなくなって紡績がなくなっちゃうかもしれないわよ?」
「かもな。どんどんどんどん人が減って、最後に、達也の器に見合った数の人間だけが残るんだろうよ。残った人間が少なすぎれば、紡績はケミカルの子会社……つまり社長ごと俊鷹の傘下に入るしかなくなる。達也をクビにできない以上、そうなるのが喜多嶋グループ全体のためだろうし、達也の親としても、ここで達也を甘やかしちゃいかんと思う」
「でも……」
文緒が口を尖らせた。
「俊鷹の母親として言わせてもらえば、こういう勝ち方、俊鷹は好きじゃないと思う」
「そうだろうな。あいつは甘いところがあるし、こういう勝ち方は、誰にとっても後味のいいものではないな。でも、六条さんが決めたことだから、俊鷹には我慢してもらうしかない。俺たちにできることは、自分の至らなさを反省した達也が、自分から自分を変えるための行動を起こすのを、ただ黙って待つことだけだ」
このことについては夫婦で話し合ったのだろう。紘一と多恵子が、お互いの気持ちを確かめ合うように深くうなずきあった。
「大丈夫。 明子ちゃんとのことで達也もかなり思い知ったからね。今度こそは、取り返しがつかないことになる前に自分をどうにかするだろうさ」
「そうよ。明子ちゃんと離婚したときに、あの子も少しは学習したでしょう。そう思えたから、私たち達也を待つことに決めたの」
多恵子と紘一が、申し訳なさそうな顔をしている明子に微笑みかける。それから、多恵子は、今始めて気が付いたかのように、文緒が紡いだ白い糸を見て顔を輝かせると、「ねえ? この糸って、明子ちゃんのウェディングドレスになるの?」と、はしゃいだ声で話題を変えた。
「俊鷹くんが作った綿よね?」
「そうよ。綿100パーセントのウェディングドレスっていうのもどうかと思うんだけど、ガロワさんが使ってみたいって言ってくれるし、明子ちゃんも着てみたいって言ってくれるから」
縒り上がった糸を、文緒が愛しげに掌に掬い上げる。ガロワがドレスに仕立ててくれたら、雑誌での紹介記事を通して、そのドレスを多くの人が見てくれるだろう。そうすれば、消えかけているこの綿に興味を示してくれる人も増えるかもしれない……と、明子たちは密かに期待していた。
「この間ポールが電話で話してくれたのだけど、この後は機械で織るんですって? でも、手よりの糸って機械織ができないんじゃなかったっけ? 大丈夫なの?」
「それがねえ……」
心配する多恵子を前に、明子と文緒は顔を見合わせるとクスクスと笑い出した。
多恵子の言うとおり、この糸はこの後、機械を使って織られることになっている。きっかけは、喜多嶋が懇意にしている織物工場の片隅に豊本織機製の古い自動織機が眠っていると、森沢が聞きつけたことだった。
豊本……という名の示すとおり、豊本織機とは、豊本自動車グループ系列の会社(というよりも、豊本織機の自動車部だったものが後に独立分社化したのが豊本自動車なのであるが)である。
手よりの糸は、短時間で大量の布を織り上げる最近の機械織には耐えられない。だけども、人が織るよりも少しだけ早く休むことなく布を織り続けるこの機械ならば、いい感じの布が作れるかもしれないと森沢は考えた。だが、工場主が捨てそびれていただけの、何年も動かしたことのない機械である。森沢は、ダメで元々の気持ちで、豊本社長に機械の整備を頼んでみたのだが、驚いたことに、森沢の話を聞いた豊本社長は、その日のうちに目の色を変えて、曽祖父が作り出した最高傑作(豊本社長談)に会いに行ったという。
数日後、その機械は、豊本自動車グループの技術研究所に運ばれ、豊本織機の技術者のみならず、豊本自動車の技術者まで総動員して慎重に分解された。解体された部品のうち、まだ使えるものは錆や古い油を丁寧に拭われ、痛んだものは新しいものに作り直され、幾つかのものには新しい工夫も加えられた。その後、バラバラになった部品は、再びひとつの機械として組み立てられ、もとの織物工場に戻された。
古い織機を復活させてもらった工場主は、非効率な分だけ今の機械織にはない味わい深い布を織るその機械に魅了されてしまったらしい。彼は、様々な糸を使って試作を繰り返し、自らフランスに帰ったばかりの巨匠ガロワにも連絡を取って、ガロワの望む明子のウェディングドレスに相応しい風合いの布を完成させるべく現在も奮闘中だという。
男たちの熱意と情熱……というより趣味と意地とこだわりによって、それから1ヶ月ほど後の3月末、文緒の糸は肌に吸い付くように柔らかく優しい風合いの布に仕上がった。
「う~ん、思っていた以上の出来ばえっ! いいなあ。 この、なんとも言いがたい手触り!」
布の出来ばえに感激した森沢が、有頂天気味に喜びながら布に頬ずりする。そんな彼を見て、明子は苦笑いを洩らさずにはいられなかった。
「男の人って……」
「うん? なに?」
「いいえ」
『時々子供みたいに無邪気ですよねぇ』という言葉を笑顔で呑みこむと、明子は、「技術って、こうやって進歩していくんだなと思って」と、別の言葉で言い換えた。
「『嬉しい』とか『楽しい』とか『やってみたい』っていう気持ちが原動力になってたり、利益や新しさを求めてひたすら前に突き進むんじゃなくて、時々後ろを振り返ったりして……」
「そうだな。新しいばっかりが優れているとは限らないし、闇雲に進むだけでは必ずといっていいほど弊害やゆがみも出てくるしね」
森沢も同意し、「技術もそうだけど社会も、時々後ろを振り返りながら、どのぐらいが適当なのかを探りながら進むのがいいのかもしれない。うちも、あんまり調子に乗らないようにしないと」と、自戒めいたことを言いながら、明子の隣に腰を下ろし、「ところで、それは?」と、彼女の膝の上に広げられたものを興味深げに覗き込んだ。
それは、綿を挟んだ白い布をキルティングした、いわゆるホワイトキルトと呼ばれるものだった。大きさは、辺の長さが1メートル強の正方形。トラプントと呼ばれる技法を駆使して縁と中央部に配された植物模様を浮き立たせ、その模様の間を縞や格子のキルティングラインが埋めるという、我ながら、なかなかの力作である。
「これ、明子が作ったの? すごいなあ。 天才?」
「和綿じゃないけどオーガニックコットンで作ったんですよ」
森沢から尊敬の眼差しで見られて顔を赤くしながら明子が説明する。彼女は、これを1ヵ月後に出産を控えている弘晃の弟嫁の出産祝いしようと思っていた。
「華江さんは、なんでも持っていらっしゃるでしょう? だから、こういうもののほうが嬉しいんじゃないかと思ったの。可愛くて派手なものより、素材の良さを生かした素朴で温かいものというか…… 私の手作りなんかじゃ、お嫌かもしれないと思ったんですけど、いくら探してもお店で売ってないんですよ。私がお母さんだったら、見た目に可愛いものよりも、絶対にこっちを選ぶと思うのに……」
じんましんを患っていた時、明子は病院で重い皮膚疾患に悩む子供の姿を何人も見かけた。オーガニックコットンや、あるいは、明子がじんましんで困っていたときに俊鷹がくれた服の布など、そういう素材を究めた肌に優しい糸や織物で作った肌着や服などがあれば、あの子たちは、少しでも楽に日々を過ごせるのではないだろうか? そういった服を探している母親は、存外多いのではないだろうか? それに、子供のものだからと、巷には派手で可愛い色のものばかりが溢れているが、母親たちの誰もがそういったものを欲しているかといえば、それも少し違うような気がする。
「綿の良し悪しなんて知らない人のほうが多いでしょうけど、実際に手に取ってみさえすれば、良いものだってきっとわかってもらえると思うんですよ。そうすれば、欲しい人も、もっと増えてくるんじゃないかしら」
キルトの縫い目を目で追いながら、明子が日頃思っていたことを思いついた順につらつらと話していると、いつの間にか、森沢が彼女の話を真剣な表情で聞き入っていた。
「どうかしました?」
「いいね」
何が『いいね』なのかは知らないが、顔を上げた明子に森沢がニンマリと笑いかける。そう、まるで、新しい玩具を見つけた子供のように楽しげに。
「ねえ、それ、やってみようか?」
戸惑う明子に森沢が言った。




