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悪い女のつくりかた  作者: 風花てい(koharu)
悪い女のつくりかた
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Epilogue 3

 明子が自分の正直な気持ちを母親たちに打ち明けていた頃、森沢は、喜多嶋本社内にあるケミカル分室で、この部屋に常駐する社員たちや両親を相手にコーヒーを飲みながら話していた。


 今日の社内は、どこも騒然としている。無理もない。社員のほとんどは、本日出社して初めて、達也が離婚したとたんに結婚したことや、来年早々から彼が喜多嶋紡績の社長になることだけでなく、森沢までもが喜多嶋ケミカルの社長になることを知ったのである。

 しかも、これら若すぎる男ふたりの昇格には、達也の別れた妻とその実家が大きく関わっているらしいとあっては、騒ぐなというのが無理だろう。自分たちの処遇も含めて、これから先の喜多嶋グループはどうなってしまうのだろうかと、どこもかしこもかしましい。 


 しかしながら、ここケミカルの分室に常駐している社員たちは、全くと言っていいほど動揺していないようだった。「へえ。 3年で給料を20パーセントもアップしてくれるんですか? 夢のようですねえ」と、脳天気なことこの上ない。

「俺が会社を潰さなかったらね」

 独りで苦労を背負い込んだような気分になりながら、森沢は彼らに釘を刺す。だが、社員たちは、それでも明るかった。

「大丈夫じゃないですか?」

「そうですよ。今までだって、こっちの社長でやってこられましたしね」

「そうだ。案ずることはない」

 社員たちに指を差された『こっちの社長』こと父親の信孝が胸を張る。

「ケミカルは、今までだって潰れかけてたんだ。それでもどうにかなっていた。これからは、紡績と化粧品から研究費を出してもらえるみたいだし、おまえが頑張れば俺がやるよりも良くなることは確実だから、社員は文句を言わないだろうよ。だとすれば、残る問題は、六条さんの出した条件を我が社がクリアできるかどうかだが、それはあくまでも、お前個人の問題でしかない」

 信孝が身を乗り出すようにして森沢の顔を覗き込んだ。 

「六条さんが出してきた条件は、お前にとっては明子さんと結婚するための、達也くんにとっては香坂唯と離婚するためのものでしかない。そして、お前が結婚できようができまいが、社員は知ったこっちゃない。そうじゃないか?」

「あ、うん。そうだった」

 父親に軽く突き放されて、森沢は自覚する。確かに、父の言うとおりである。自分にとっての一大事とはいえ、自分の都合で社員を振り回してはいけない。そこだけは、肝に命じておかなければいけない。

「よし、いい子だ」

 頭を冷やした息子に信孝が笑いかけた。

「そこだけお前が覚えていられれば、俺たちは喜んで協力してやる。そうだよな?」

 父に呼びかけられた社員たちも、「ええ、もちろん。 頑張りましょうね」と森沢を励ましてくれた。


「大丈夫。なんとでもなるわよ」

 コーヒーカップから顔を上げた母が、森沢に微笑みかけながら、ほっこりと息を吐く。 

「六条さんが明子ちゃんと俊鷹の仲を強引に引き裂こうとするなら、こっちは長野の家に明子ちゃんを連れて来ちゃえばいいだけよ。うちなら食料も水も電気も自前で調達できるから、六条さんがなにを仕掛けてこようと負けない」

「母さん。籠城してどうするんだよ?」

 森沢は、ほっこりした顔のまま過激なことを言い出した母と、彼女の後ろで、「そうだ、そうだ! 六条なんて何する者ぞ~!」と気を吐く社員たちに呆れた。 だが、彼らの気持ちは、かなり嬉しい。

「そういう意気込みで、気負わずに、みんなで頑張りましょうってことよ。大丈夫。あなたには、運も実力も味方も…… はい。ケミカル分室です」

 森沢を励ましながら、母が鳴り始めた電話に手を伸ばす。

「はい? ええ、彼なら知ってます。ここに上がって来るように言ってください。ほ~ら、さっそく味方が増えた」 

 受話器の送話口を塞ぎながら、母が嬉しそうに森沢に告げた。


「味方?」

「リナから聞いたよ。社長就任だって? おめでとう」

 数分後、分室に入ってきたのは幼なじみの小次郎だった。いつもよりも人の多い分室が、大柄な彼の登場で更に窮屈さを増す。

「お前、なんで?」

「休みをとった」

 森沢の両親への挨拶を中断して、小次郎が用件を告げる。 

「グループを3分割するにあたって、今日の会議でそれぞれの会社の権利関係を明確にすることになっているんだってな。喜多嶋にも弁護士はいるんだろうけど、もっと身近に法律に明るくてケミカルの権利を優先的に代弁できるような奴がいたほうがいいかと思ったんだ。ケミカルには知的財産が多いのに、俊鷹もおじさんも、そういうことに無頓着だから、知らないうちに自分たちにとって不利な結論を呑んでしまいそうだと思ったら、居ても立ってもいられなくてな」

 だから、お節介を承知で押しかけることにしたと言う小次郎に、「ありがとう。お前がいてくれると心強いよ」と森沢は素直に礼を言った。小次郎は、多くの企業を顧客に持つ弁護士事務所に勤めている。こういったことには、ここにいる誰よりも詳しいはずだ。



 小次郎を交えて自分たちが会議で取るべき方針を決めると、森沢たちは10時に会議室に入った。 

 会の進行役は、六条源一郎の秘書の葛笠だった。気持ちの偏りが態度に如実に表れる主とは違って、若い隻眼の秘書は非常に公正だった。彼は、誰の言い分にも誠実に耳を傾け、3つの会社が等しく負担と権利を分かち合えるように骨を折ってくれようとした。権利とか財産とかに関連することが議題なので、森沢には耳慣れない法律用語や普段使っているのとは意味が異なる単語が会議で飛び交うこともあったが、そこは小次郎がフォローしてくれた。森沢も、ケミカルにとって必要な主張も充分に通せたという実感があった。 見解の違いで後々問題になりそうなところは特に念入りに確認しあったので、後から「言った」「言わない」で揉めることもないだろう。会議は特に紛糾することもなく大量の議題を着実に処理し、6時を過ぎる頃にはお開きになった。


 話し合いで決まったことを正式な書類にまとめる作業を手伝うとかで、小次郎は六条が連れてきた弁護士について行った。会議室を出た森沢は、先を歩く六条源一郎に声をかけた。

「ご一緒させていただいても、よろしいですか?」

「なんでだよ?」

 会議中は驚くほど寡黙だった源一郎が、本日始めて森沢に対して口をきいた。


「明子が、そちらにおじゃましているので」

「明子が、帰ってきているのか?」

 紺色の絨毯の上を進む源一郎の足が急に速くなる。この人は、本当に娘が大好きであるようだ。

「返してくれた ……わけ、ないよな?」

「それは、まだいたしかねます」

 見るからに寂しそうな源一郎に、森沢が苦笑を返す。喜多嶋グループ全てを巻き込むような嫌がらせをする男のクセに、こんな顔をされると森沢のほうが意地悪をしているような気分になる。とはいえ、朝方にも考えていたことだが、常識的に考えれば明子はいったん実家に戻るのが筋でもある。筋はともかく、森沢としては明子の気持ちができるだけ楽になるようにしてやりたかった。じんましんは回復に向かっているとはいえ、彼女は、目に見えないトラウマも抱え込んでいるのだ。これからの森沢は東京で仕事をすることが多くなりそうだし、家に帰るのも、今までに比べたら確実に遅くなるだろう。それならば、明子を独りでマンションで待たせておくよりも、住み慣れている六条家のほうが居心地よく暮らせるに違いない。ならば…… 



「明子さんと結婚させていただくまでの間、私が、この家にご厄介になってもよろしいでしょうか?」


 六条家での夕食に加わらせてもらった森沢は、自分からそう頼みこんだ。腰を浮かせ、長いテーブルを囲む人々全員の了解を求めるように彼らの顔を満遍なく見回す。首座にいる源一郎と森沢の正面に座る和臣、そして彼の隣に座る明子と妹たちは、森沢の申し出に明らかに驚いていた。6人の愛人たちは物静かに微笑んでいるだけなのでわかりづらいものの、どちらかといえば彼を歓迎してくれているようにも見える。

「厚かましいお願いだと思うのですが、彼女も一応嫁入り前の状態に戻ったことですし、私のマンションに連れ込むよりは、そのほうがいいかな……と、思ったのですが」

 誰にお願いするのが一番効果的なのかがわからないので、森沢は、とりあえず源一郎に顔を向けて話を続けた。 


「どこかの空いている部屋でも物置でもかまいません。私は、そちらに布団と荷物を置かせてもらえたら、それで充分ですので」

「じゃあ、物置……」

「そういうわけにはいきません」「なに失礼なこと言っているの?」等々…… 源一郎の声を、女たちの声が一斉にかき消した。

 そして、「そんなに気をつかってくださらなくても、私は、森沢さんのマンションでいいです」 と遠慮を口にする明子の声もまた、和臣の隣に座る落ち着いた物腰の和装の女性……紫乃の母親の「私の階にある続き部屋を、ふたりで使えるようにいたしましょう」という声が打ち消した。


「隣は紫乃が使っていた部屋で、荷物も残っておりますけど、あの子はこちらに来ることはあっても泊っていくことはほとんどありませんから邪魔にはならないでしょう」

「あら、それは悪いわ。明子の旦那さんなのだから、うちの階でよいわよ」

 明子と同じように背の高い彼女の母親が、紫乃の母親に遠慮を示す。 

 この家の構造を、森沢は把握していない。怪訝な顔をする彼に、3階建ての六条邸の両翼には北棟と南棟があって、源一郎の妻たちが各棟の各階に娘と共に暮らしているのだと、明子の妹たちが教えてくれる。 つまり、紫乃の母親は、北の棟の1階に森沢たちの部屋を用意してやると言ってくれているようだ。

「でも、明子ちゃんの物だらけの部屋に森沢さんが入るよりも、新しいお部屋で生活を始めたほうが、新婚さんらしくていいと思いません? 愛海さんの所の空いているお部屋を森沢さんのお部屋兼ふたりの寝室にすることも考えたのですけど、それでは秘書の佐々木さんが事務所代わりに使っているお部屋が間に挟まれてしまいますでしょう?」

「ああ。それは確かに居心地が悪いわね。佐々木が。あれでも独身だから」

 明子の母が、苦笑いを浮かべる。

「じゃあ、遠慮なく使わせていただこうかしら」

「ええ、どうぞ。もしも、ふたりが私に対して気詰まりだと感じるようならば、私が他の階に移ってもよいし」

「ああ。そうね。新婚さんですものねぇ。ふたりっきりがいいわよねえ」

 フランス人形みたいな格好をした橘乃の母が両手を頬に添えて微笑む。

「綾女さん。ふたりのお邪魔にならないうちに、うちの階に引っ越していらっしゃいよ」

「それなら、うちのほうがいいわ。同じ1階だから、引っ越すのが楽だもの。綾女ちゃん、うちに来て! うち!」

 人懐っこそうな笑みを浮かべて紅子の母が紫乃の母に向かって手を挙げる。 

「そうですね。では、しばらくの間、朱音さんにご厄介になりましょうか?」

 源一郎が箸でつまんだイモを宙に浮かせたまま唖然とし、森沢が「え?」とか「いや、そこまでしてくださらなくても?」とか言っている間に、彼の同居の申し出は、ふたりに……特に森沢にとって最も望ましい方向に具体化していく。「ちょっと待て、綾女! 俺を無視して勝手に話を決めるな!」と、源一郎がようやく話に割り込んだ時には、部屋のカーテンを新婚用に取り替えるかどうかにまで議論が進んでいた。


「あら? この家の中のことで、あなたがご意見なさるとは珍しいですね。いつもは、私に任せてくださっているのに?」

 怒りのこもった源一郎の視線を適当に受け流しつつ、紫乃の母親が言い返した。

「それはそうだが、森沢は、物置でいいと言っているじゃないか」

「森沢さんを、明子ちゃんとふたりで物置に押し込めるおつもりですか?」

「そうじゃなくて、どうして同室前提で話を進めるんだって言っているんだよ」

「だって新婚ですもの。離れ離れなんて可哀想じゃないですか?」

 そっちこそ何を言っているんだと言わんばかりの顔をしながら、紫乃の母が、「そうですよね?」と他の愛人と娘たちを味方につける。彼女の呼びかけに応じて、女たちは、源一郎に向かって「そうよ、可哀想よ!」と声を揃えた。


「まだ新婚じゃない! このふたりは、結婚してないんだぞ! それなのに床を一緒にするなんてダメだ。 綾女も…… いつもの綾女だったら、『慎みに欠ける』とかなんとか言って反対するはずだろう?」

「でも、半年間は、明子ちゃんは森沢さんのものなのでしょう?」

 森沢の希望を阻止しようと躍起になっている源一郎に、紫乃の母が涼しげな笑顔を向けた。

「昨日の8ミリの中で、あなた、確かに、森沢さんにお約束なさってましたわ」

「ぐ……」

 言葉に詰まった源一郎に、彼女は、「慎みがないというのならば、明子ちゃんが森沢さんのマンションに転がり込むほうが慎みに欠けると思いますよ。あちらのマンションならば誰の目も憚らすにふたりで好きなようにできるというのに、森沢さんは、あえて明子ちゃんのために、妻の実家などという気詰まりな所に来てくださろうというんです。私たちは、彼に感謝こそすれ、『物置でいい』だなんて…… そんなの、人でなしのすることです」と諄々と説いて聞かせ、最後に、「それに、私も含めて誰も、あなたと結婚しておりませんけど?」と冷ややかな眼差しを彼に向けた。 

「……」

 源一郎が、ばつが悪そうに紫乃の母から目を逸らす。だが、女たちの攻撃はここで終わらない。 

「いいじゃない。 どうせ半年後には結婚するんだし」

「だいたい、お父さまが、いけずなことをなさるからいけないのよ!」

「慎みがないと思うんだったら、ふたりを、さっさと結婚させるのね」


「森沢くんは、この家に来てくれるって言ってくれているのよ? 達也くんなんて結局一度もこの家に来なかったじゃないの!」

「こんなことになったのは、そもそも、お父さまに人を見る目が欠けていたからではないの?」

 源一郎に反論の余地がないと見るや、他の妻や娘たちが、彼に向けて一斉に非難を浴びせかける。 


「……。すごいな」

「怖いでしょう? 女って」

 呆然とする森沢の前で、年下の義兄(予定)が苦笑を浮かべた。 

「絶対にいっぺんに敵に回してはいけない。この家で暮らす気なら、覚えておいたほうがいいですよ」

「……だね」

 森沢は心から彼の言葉に同意した。 


「ああ、もうっ! わかった! 俺が悪かったっ!」

 一分も立たないうちに、源一郎が音を上げた。 

 彼は、女たちを黙らせると、精一杯の威厳を取り繕いながら、「一緒の部屋でもなんでも、好きにしなさい」と女たちに言い、森沢には「俺の目に見えるところにキスマークなんか残しやがったら、承知しねえからな」という捨て台詞を残して、食堂から逃げていった。

 源一郎に勝利した女たちは、彼の気が変らないうちにと、その日のうちに部屋の体裁をふたりが暮らせるように整え、明子たちをその中に押し込んだ。

「半年後に条件をクリアできなくても、気にしないで、この部屋で暮らし続けるといいわ。源一郎さんには私たちが文句を言わせないから。明子ちゃんを幸せにしてあげてね」

 森沢は、女たちから、そんな言葉ももらった。


「なんか、六条さんには、かえって申し訳なかった……かな?」

 明子と並んで寝台の縁に腰を下ろしながら、森沢が苦笑いを浮かべる。

「そうですよ。ここまでしてくださることないのに」

 明子がむくれた顔をする。

「私は、あなたのマンションでもよかったのに。俊鷹さんは、私を甘やかしすぎです」

「俺が甘やかしたいんだから、いいじゃないか」

 森沢は笑いながら明子を引き寄せた。彼女の額から頬、うなじへと撫でるように唇を移動させながら、左手で彼女の寝巻きのボタンをはずし肩を露にする。


「俊鷹さん?」

「お父さんの忠告を守らないといけないだろう?」

 戸惑った顔の明子に森沢は大真面目な顔で言った。 

「『キスマークは見えないところにつけろ』。そう言ってた」

「そういう意味で言ったのではないと思うんですけど」

 苦笑しながら明子が森沢のキスを胸元に受け入れる。彼女をすっかり怖がらせてしまった最初の日と比べると、森沢を受け入れる明子は、その声も所作も、優しくて柔らかい。表情も穏やかだ。

 彼は満足げな笑みを浮かべると、明子をそっと横たえた。そして、彼女を怖がらせないように細心の注意を払いながらも情熱的に、彼は、その晩、ゆっくりと彼女との距離を深めていった。



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