Epilogue 1
6月初旬。
夜通し走った森沢の車が長野県にある彼の家に到着したのは、山の端に太陽が顔を出したのとほぼ同時刻だった。車を降りた彼は、こちらに戻ってきた時には必ずそうしているように腕を広げて大きく息を吸い込んだ。山で生まれ陽の光と朝露の祝福を受けた大気は、ひんやりと冷たく、微かに花の香を含んでいた。
「いい季節になったなあ」
大きく伸びをしながら、彼は満足げに呟いた。その声に応じるように玄関が開く音がし、素足に麻のサンダルをつっかけた明子が慌しく外に飛び出してきた。
「車の音が聞こえたから」
息を弾ませ、柔らかく微笑みながら、明子が近づいてくる。
「おかえりなさい」
「ただいま」
明子を迎え入れるように、森沢は腕を広げた。
「まさかと思うけど、一晩中起きていた?」
「まさか。でも、電話があるかもしれないと思っていたから、あまり眠れませんでしたけど」
「ごめん。でも、電話で知らせるなんて、もったいない気がしたんだよ」
口を尖らせる明子に、彼は、とっておきのプレゼントを後ろに隠し持っているようなもったいぶった笑顔をみせた。
「君も喜んでくれるだろうと思ったから」
「じゃあ、やっぱり、あの話だったのね? それで? 皆さんは?」
「もちろん、許してくださったよ!」
ごく自然に腕の中に滑り込んできた明子を、彼は空に放り投げるようにして抱き上げた。
「結婚しよう! 明子!」 という森沢の声と、鈴を転がすような明子の笑い声が重なった。
昨晩。 森沢は、鶴川電器工業の鶴川会長に招かれて、食事をした。
食事会に呼ばれたのは、森沢だけではなかった。明子の父親である六条源一郎も招待されていたし、達也の結婚式の折に、源一郎が喜多嶋グループに押しつけた改革案を検証する役目を担わされた人々も全員招かれていた。
夕食会への出席者は、招待の電話を受けたときに、あらかじめ森沢に伝えられていた。同じ電話の中で、会長から、「そろそろ、好い頃合いかと思ってね」という含みのある言葉ももらった。ついでに言えば、食事会の場所として指定されたのは、森沢が源一郎と約束を交わした東京の茅蜩館ホテルだった。
ここまで思わせぶりなことをしておいて、まさか楽しく夕食を食べるだけで終わることはないだろう。会長は、自分たちの結婚のことを話し合ってくれるつもりでいるに違いない。森沢も明子も、そう期待していた。
もちろん、ふたりは成人しているのだから、ただ結婚するだけならば、あとひと月待てばできる。しかしながら、明子と森沢にしてみれば、皆に祝福されて結婚したいという思いがある。しかも、森沢は、明子の父親の六条源一郎から、明子の夫となることを是非とも認めてもらいたいと思っている。明子を愛しているからこそ、同じように彼女を大事に思っている男から彼女を無断で掻っ攫うようなことをしたくないのだ。
源一郎から結婚を認めてもらうために、森沢は、3つの課題をクリアする必要があった。
ひとつ、半年以内に、喜多嶋ケミカルが背負っている借金を返済する、あるいは全額返済する目処をつけること。ふたつ、喜多嶋ケミカルを安定的な黒字経営に転換すること。ふたつめの課題に期限は設けられていないが、3つめの条件が、1年以内に10パーセント、3年で20パーセントアップを目標に従業員の給料を上げるというものなので、必然的に、ふたつめの達成期限は、それ以前ということになる。
上記の3つの条件を森沢が達成したとき、または『期限内に達成することが可能である』と、源一郎が指名した人々……この夕食会を企画した鶴川会長他4名のお墨付きがあれば、源一郎は喜んで森沢に娘を与えるし、森沢は何の気兼ねもなく明子を自分の妻にできるという約束になっている。
この約束が成されたのは明子が前夫の達也と離婚した時とほぼ同じだから、3つの課題うちの最初のひとつが達成期限を迎える半年後まで、まだ1ヶ月の猶予がある。しかしながら、夕食会に出席した面々は、森沢が最初の課題を完璧にクリアしたこと、残りの2つの課題についても、それぞれの達成期限を待たずに達成可能だろうと早々に結論づけた。
源一郎も、彼らが出した結論に異論を挟むことなく、「しかたねえな」という言葉で、ふたりの結婚を祝福する意思を示してくれた。しかも、『しかたねえ』という言葉だけでは心もとないからと、夕食会に出席していた弘晃の大叔母が、源一郎から『ふたりの結婚を許す』という言質をしっかりと取ってくれた。
「これで、心おきなく結婚式の準備ができますね」
弘晃が森沢に微笑みかける。森沢は、ホッとしたように友人に笑い返すと、集まった人々に向き直り、「ありがとうございました」と、深く頭を下げた。
離婚後半年は入籍できないという法律上の制約から明子が自由になるのは、来月である。本来なら来月に行われるべき集まりを夕食会を口実にして1ヶ月も前倒しにしてくれたのは、今のうちに結婚許可をとりつけてしまえば入籍と結婚式の時期がずれることもないだろうと、会長を始めとした皆が気を回してくれたからに違いなかった。もっとも、彼らが話し合いを1ヶ月前倒しにすることができたのは、話し合いを1ヶ月も前倒しにしても結論が変らないだけの成果を森沢が……というよりも喜多嶋ケミカルが、事前にしっかりと上げていたからでもある。
「まさか、こんなに順調に事が運ぶなんてね」
明子を腕の中に抱きしめ、喜びを分かち合いながら、森沢は本音を洩らした。彼は、未だに、自分の幸運と、この半年近くの間に自分たちの会社で起こった劇的な変化を信じきれずにいた。
それらのことを説明するには、やはり時間を遡り、達也の2度目の結婚式の翌日あたりから順を追って説明する必要があるだろう。
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今からおよそ5ヶ月前、達也の結婚式が行われた日の翌朝。
森沢は、東京にいるときにはいつもそうしているように、始業30前に会社に着くのを目標に出かける支度をしていた。常とは違うのは、ここがホテルだということと、明子が傍にいるということである。
荷物をまとめ、レストランで朝食をとりながら、森沢は、「支払いは済ませておくから、君はゆっくりチェックアウトしておいで」と明子に勧めた。
「ホテルを出たら、ご実家に行ってくるといいよ」
「家ですか?」
明子が驚いた顔で森沢を見返した。
「俺のマンションでひとりで待っていても、退屈だろう? それに、お母さんや妹さんたちだって、君に会いたがっていると思うよ。会社が終わったら俺も行くから、お家の人にそう言っておいてくれるかな?」
昨日あのようなことがあったばかりである。六条家の女たちは、明子から話を聞きたくて、うずうずしていることだろう。
「でも、父とは、昨日いろいろあったばかりでしたし……」
「六条さんは今日は1日中会議だから、家にはいないよ」
その会議には森沢も出席することになっている。昨日あれほどの大口を叩いた森沢への仕返しとばかりに、源一郎は、会議で彼に突っかかってくることだろう。そう思うと気が重たくなるものの、彼は、「大丈夫だよ。どこにいようと、半年間は君は俺のものだから」と、自分の心配を隠して明子を微笑んでみせた。
「遅くなりすぎない時間に仕事を終わらせて、そっちに行くよ。六条さんにお願いしたいこともあるしね」
「父に何を?」
お願いだから、これ以上父を挑発するようなことはやめてほしいと、明子が顔で訴える。
「たいした事じゃないよ」
森沢は、あえて明子に教えなかった。彼女に意地悪をしたいわけではないのだが、彼女経由ではなく、自分で直接源一郎と彼の家族に頼んだ方がいいだろうと思ったのだ。そうはいっても、このまま明子を放っておくと、よけいなことまで考えて夜まで悩み続けてしまいそうである。
「会社に行く前に、ちょっと寄り道していこうか?」
食事を終えると、森沢は明子を連れてホテルの中にあるチャペルへ向かった。
この国の法律では、離婚後半年を経過するまで、女性は他の男性と結婚できないことになっている。しかしながら、森沢は、明子は既に自分のものであると、衆人の前で彼女の父親に対して啖呵を切ってしまった。
明子も森沢と共にいることを望んでくれているし、間違いなく結婚するのだから、自分のこの発言自体に問題はない。だが、一般的な見方をすれば、離婚したばかりの女性が独身男と寝起きを共にしているという状況は、世間体が悪いというか、あまり感心はされないだろう。明子は何も言わないものの、常識を重んじながら道を踏み外すことなく生きてきた彼女にしてみれば、自分がそういう世間体の悪い立場にいること自体が、いずれ精神的な負担になってくるのではないかと森沢は危惧していた。だから、せめてチャペルで結婚式の真似事などしてみれば、明子の気持ちも軽くなるかもしれないと、彼は考えたのだ。
早朝ゆえに誰もいないだろうとばかり思っていたチャペルには、すでに人がいた。
3人の男が、祭壇の近くで何かを話している。その中のひとりは、昨日の達也の結婚披露宴を担当してくれた梅宮で、残りのふたりのうちの若い方のひとりは、その衣装から、このホテルで神前結婚式を執り行う神官に見えた。彼が神官ならば、もうひとりの初老の男は牧師だろうか? 目を細めると、彼の胸元に十字架のようなものが見えた。この場にいるだけで違和感たっぷりの神官とは違い、彼はチャペルという空間に実にしっくりと馴染んでいた。
見るからに取り込み中であるにもかかわらず、森沢たちが速やかに立ち去れなかったのは、3人の会話のせいだった。正確にいえば、梅宮は話してはおらず、牧師と神官から一方的に怒られていた。
「結婚式を人を陥れるための企みに利用するとは何事ですか! 神さまに対する冒涜ですよ。そんな企みに、このホテルぐるみで荷担するなんて、あなたは恥ずかしいとは思わないのですか?」
普段から話し慣れている牧師の声がチャペルに反響する。
「教会式と神前式という違いはあっても、私たちはどちらも、新しく夫婦になる皆さまが幸せになれるように、神さまからの祝福をいただけますようにと、心を込めてお勤めしているんだよ。君は、そのことをわかっているはずだと思っていたけどね?」
毎日祝詞で喉を鍛えている神官の声は、さらに大きかった。
要するに、彼らは、昨日の達也たちの結婚式のことで、梅宮に腹を立てているのである。しかしながら、あの結婚式を仕組んだ首謀者は明子の父親であり、香坂唯を陥れたことで溜飲を下げたのは他ならぬ自分たちであった。
梅宮が叱られているというのに、自分たちだけがこっそり逃げ出すものも気が引ける。ふたりが扉の前で立ちすくんでいるうちに、「罰として、今日最初の式が始まるまでに、チャペルを掃除すること」と、神官が厳しい口調で梅宮に申し渡した。
「掃除も結構ですけれども、まずは謝ってもらえますか?」
穏やかな声に戻った牧師が、梅宮にたずねる。
「申し訳ありませんでした!」
梅宮が頭を下げるのと同時に、森沢と明子も、その場で謝った。思わぬところから聞こえてきた声に驚いたように、牧師と梅宮が、こちらに目を向けた。
「あなたがたは?」
森沢に向けられた牧師の問いには、梅宮が答えてくれた。
「なるほど、あなたたちが、みんなが噂していた昨日の結婚披露宴の裏の主役でしたか?」
神官が明子に向ける眼差しが暖かくなる。彼の顔を見る限り、悪い噂ではなさそうだ。
「なにか勘違いしているようですが、私は、私に謝ってもらいたいわけではありませんよ」
牧師は、ばつが悪そうな顔で咳払いをひとつすると、森沢たちを招き入れた。
「どれだけ酷い目に合わされたかは存じませんが、人の姑息な企みに神さままで巻き込んでしまったことは感心しません。だから、そのことを、まず神さまにお詫びしましょうと言っているのです。もちろん、私も謝ります。昨日の新郎の屈託を見逃した私にも、責任がありますからね」
「牧師さんの言うとおりだよ。みんな、わりと安易に神さまに『幸せにしてください』ってお願いするけどね。幸せにする力があるってことは、幸せにしないでおくってことも、もっと言えば不幸せにする力も持っているかもしれないってことだからね。怒らせたら、怖いよぉ。ちゃんと謝っておいたほうがいい。でないと……」
神官が、季節はずれの怪談よろしく、声音まで変えて森沢たちを脅かす。牧師は、とても真面目な方であるらしい。「そういう茶化すような言い方はやめてください」と、神官まで怒られた。
「はい、すみません。では、私も皆さんと一緒に謝まります。それから、昨日のカップルが……ふたりでは幸せになれないかもしれないけど、いつか幸せになれますようにと、こちらの神様に力一杯祈らせてもらいましょう」
神官は、着ている袴の折り目が崩れぬよう膝裏にスッと手を入れてベンチに座ると、手を組んで祈りの姿勢をとった。それから、まだ突っ立ったままでいる梅宮や森沢たちを見上げて、「ほら、君たちも」と促す。
「厭な相手に一泡吹かせてやって、『ざまあみろ』って思えたのなら、復讐はもういいでしょう?」
おそらく一番やりたくなさそうに見えたのだろう。神官が森沢に微笑みかけた。
「だったら、いつまでも相手の不幸を望むものではありませんよ。『人を呪わば穴二つ』っていうでしょう? 憎んだ相手がいつまでも不幸せなままでは、彼らを不幸にしたあなたたちも、いつまでも彼らから恨まれることになりますよ。そういう気持ちは、直接ではないにせよ形を変えて届くものです。あなた方のためにも、彼らは救われたほうがいいと、私は思いますよ」
「そうですよ。自分たちが幸せになりたかったら、どこかで赦すことも覚えなければいけません」
牧師にも諭され、3人は、おとなしく神官と並んで座ると、手を組み合わせた。
牧師は、祭壇に向かって頭を垂れながら、ごくごく平易な言葉で、昨日、自分が牧師として達也と香坂唯を愛情ではなく憎しみから結び付けてしまったことを詫びた。続けて、しかしながら、本人たちが望まなかったとはいえ、結婚という形で結びついてしまったからには、それもまた運命……というよりも人知の及ばない神の御意思があるのだろうと言った。
「彼らには、不幸な関係から学び取るべき何かがあるということなのでしょう。どうぞ、彼らが、できるだけ早くに気づきを得られますように。そして、不幸な時代に学び取ったものを糧として、新しい幸せに向かうことができますように」
柔らかな声で、牧師の祈りは続く。
「そして、どうか神さま。こちらにいるふたりにも、たくさんの祝福をお与えください。ふたりが籍を入れることができるのは、まだ先のことになりそうですが、このふたりは既に互いを一生の伴侶と認め合い、ふたりで人生を作り上げていく決心を固めています。このふたりが誰からも夫婦と認められるその日まで、そして、その後も。どうか、神さま。このふたりを末永く見守ってくださいますように……」
いつの間にか、牧師の祈りは、森沢たちを慈しむものに変っていた。
森沢が薄目を開けて隣を見ると、明子が静かに涙を流していた。




