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悪い女のつくりかた  作者: 風花てい(koharu)
悪い女のつくりかた
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Butterfly  +2(side YUI)

 披露宴会場に入った私を迎えたのは、申し訳程度の拍手だった。 


 拍手に混じる失望のため息。向けられる視線は、結婚式の時以上に冷たい。みんな、宇宙人でもみるような……興味はあるけれども仲間として受け入れる気は全くない……そんな目で私を見ていた。 


 祝辞を求められてマイクの前に立った人々は、ひとり残らず達也さんに同情するようなスピーチをしていった。彼らが何に同情しているかといえば、それは、私という嫁をもらうことに他ならない。腹が立つことに、達也さんは、彼らの話を大真面目な顔で聞いていた。私が悪く言われているのに、怒るそぶりさえみせてくれなかった。


 達也さん側の来賓や達也さんがそんな調子だったので、私のために祝辞を用意してくれていた事務所の社長も、私に仕事を回してくれていた広告会社や雑誌社の人も、私を弁護するようなことを言ってくれなかった。彼らにとって、達也さんの関係者は上得意先だ。だから、彼らは、私に関わることで自分たちにまで類が及ぶことを恐れた。彼らの中には、理由も告げずに会場から逃げ出した人もいた。


 その後も、私への嫌がらせはエスカレートするばかりだった。なかでも屈辱的だったのは、胡蝶のオーディションに参加しているモデルたちが、親友(私のことらしい)のために歌を歌ってくれたことだった。歌はともかく、彼女たちの装いや振る舞いは息を飲むほど美しかった。披露宴の主役は私のはずなのに、私の存在は完全に彼女たちに食われていた。




(でも、なんで?)

 私は、背を丸めてうつむいた。


 なんで、こんなに惨めな思いをしなくてはいけないの?

 なんで、私を悪く言うの?

 なんで、私を認めてくれないの?

 なんで、あの女たちは、花嫁よりも目立っているの?


 なんで、みんなして、私をいじめるの?




 打ちひしがれる私の頭の中に、ふと、入場間際にすれ違った明子さんの顔が浮かんだ。



(あの女だ)

 私は確信した。


 あの女の差し金に違いない。あの女が達也さんを取られた腹いせに、父親に頼んで、こんな大掛かりな嫌がらせしくんだんだ。結婚式まで私をいい気にさせておいたのは、私に企みを気づかせないためだったのだろう。そうやっておいて、あの女は、私の知らないところで、私がとんでもなく悪い女であると言い触らしたに違いない。ここにいる人たちが、私を嫌ったり蔑まずにはいられなくなるような、そんなでたらめをみんなの耳に吹き込んだんだ。 


 私に復讐するために。


(そうよ。そうに違いない!)

「あの女ね! あの女が、あの女が、あることないことを、ここに集まった人に言いつけたんでしょう! そうに決まっている!」


 私は、叫んだ。だけども、私の言葉に、ひとりとして心を動かされた様子はなかった。

「あることないことじゃないだろう? 唯」

 達也さんが、悲しそうな顔で私に告げた。私が偽の報告書を書かせた証拠。それが、明子さんが披露宴の直前に持ってきたものであるらしい。

「母は、君を僕から引き離すつもりはなかった。僕に事情を話さずに消えたのは、なぜ? パリに行ってから、すぐに行方をくらましたのは?」

 達也さんが矢継ぎ早に問いかける。

「あたしより、お母さんの言うことを信じるの?!」 

 私は、叫んだ。確かに、報告書には、ある程度の嘘は含まれていたかもしれない。でも、私は、私があなたを想い続けていることを知ってほしかった。伝えたことには、多少の嘘や誇張はあったかもしれないけど、要は私の気持ちが伝わればいいのであって、正確には何て言ったかなんて、そんなこと大した問題じゃないじゃないの!

 だいたい、なんで私よりもお母さんを信じるのよ? この男、やっぱりマザコンだったんわ! 結婚式の時でさえ、花嫁よりもお母さんを取る男なんて信じられないっ!

 でも、達也さんは、もう私の話を聞く気もないようだった。冷たい目で私を断罪するばかりである。


「達也くんは本当にダメな子だなあ」

 だんだんエスカレートしていく言い争いを、場違いなほどのんびりとした六条さんの声が中断させた。

「女の嘘には。騙されておいてやらなくちゃ」

 「だから、嘘をついているわけじゃない」と言おうとした私に、六条さんは新しい証拠を突きつけた。それは、明子さんが用意したような言い逃れしようと思えばできる類の証拠ではなく、私が達也さんを愛していないこと具体的に証明するものだった。彼は、私が交際したことのある男たちを近くに連れてきていると言った。困ったことに、私が達也さんとつき合っていた頃と同時期につきあっていた男たちや、達也さんと別れてから私が彼を忘れられずに長い間苦しんでいたとされる時期に交際していた男たちも多数含まれているようである。

「お望みならば、この場に連れてきてやるよ。誰がいい?」

 六条さんは、もう優しいおじさんの顔をしていなかった。獲物を前に舌なめずりしている狼のように、冷淡で残酷な微笑みを浮かべながら、確実に私を追いつめようとしていた。

「なんだったら、全員ここに整列させようか? 彼らとベッドを共にしながら君が喜多嶋の御曹司についてどんな陰口を叩いていたのか、ひとりひとりに発表させてもいいな」

(冗談じゃない!)

 そんなことをされたら、間違いなく身の破滅だ。 


 ええ、そうよ! 六条さんの言う通りよ! 

 3年前、達也さんとつき合っていた時には、翼と二股かけてました! 

 達也さんと別れてパリに行った次の日に知り合ったハインリッヒとも、その日のうちに寝ました!

 日本に戻ってからつき合った男たちとも、昔つき合っていた女の扱い方を知らないウブな御曹司を話題にベッドの中で盛り上がりもしました!


 だって、その頃の達也さんは、「中学生かよ?」って突っ込みを入れたくなるぐらい女に免疫がなくて、おもしろかったのよ!

 そんな男を笑い者にして、なにが悪いって言うのよ?


 私は…… わたしは…… そうだ! そうよ! 私は、初めから、こんな男好きじゃなかったわ!! 

 結婚する気だってなかったんだからっ!


「だけど、あの女が結婚させてやるっていうから! でも、結局、全てが罠だったのね? こんな大掛かりな仕掛けまで用意して、浮かれる私を見て笑おうって魂胆だったんでしょう? これだから、お金持ちなんて大嫌い! こんな茶番に、これ以上付き合っていられるものですか!」

 気がつけば、私は、そんな言葉を口走っていた。だけども、さすがの私も自分の言い分に無理があることを悟らずにはいられなかった。自分に向けられる冷えた視線から逃れるように後ずさりながらスカートをたくしあげると、私は、出口に向かって駆けだした。私を追いかけて、達也さんや達也さんの親戚が披露宴会場から飛び出してくる。

「嘘でしょう?!」

 振り返った私は、地響きを立てて追いかけてくる一団を見つけて息を呑んだ。追いかけてまで私を捕まえる必要が、どこにあるの?! 私への復讐は、この披露宴だけで充分でしょう?! これ以上、私になんの用があるっていうのよ! もう勘弁してくれてもいいじゃないのよ~っ!!

 とにかく、あんな怖い顔で追いかけてくる人たちに捕まったら、何をされるかわからない。逃げ場を探して顔を巡らすと、今まさにエレベータか乗り込もうとしていた親子連れが見えた。私は、ふたりを突き飛ばすと、その中に逃げ込んだ。

(何階? 何階で降りれば、逃げられる?)

 一瞬迷ったものの、思い切って1階のボタンを押す。どこに行こうと、このドレス姿は目立ちすぎる。だったら、とにかく外に出てタクシーを捕まえて、遠く逃げてしまったほうがいい。


 焦っている私には、エレベーターの動きが、ひどく遅く感じられた。扉が開くのも遅い。ゆっくりと左右に開き始めたエレベーターの扉を両側に押し広げるようにして、私は一階フロアに飛び出した。正面出口目指してロビーを全力疾走する花嫁に、居合わせた人々が目を丸くする。そのなかのひとりに、なぜか、私のアルバイト先の店長がいた。珍しくスーツでめかし込んで、私の逃走予定経路である出口の真ん前に立っている。

「おまえ、どうしたんだ? その格好?」

「店長こそ、なんで? ……っていうか、邪魔よ! どいて!」

 走りながら、私は喚いた。ここで店長と悠長に立ち話をしている暇はない。だが、店長は鈍いのか、「まあ、待て」と、こちらの事情などおかまいなしに、すれ違いざまに私の腕を捕まえる。

「俺がなぜここにいるか? それは、敬愛してやまない俺の師匠である茅蜩館ホテルの名料理長が精魂込めて作り上げたクリスマス特別メニューを、是非とも堪能させてもらおうと思ったからだ。だが……」

 私の腕を掴んだままグダグダと語りながら、店長が恨めしげな顔を私に向ける。

「だが、そんなことよりさ。おまえ、結婚するなら、日頃から世話をしてやっている俺を招待しようと思わなかったのか? そうしたら、俺が敬愛してやまない料理長渾身のウェディングメニューを食べられたのに……」

「離してよ! 私、急いでるの! わかんないの?!」

 私は、店長から逃れようともがいた。しかし、毎日重たいフライパンを振り回しているだけあって、私がどれだけ手を振り回しても、店長はビクともしなかった。


「おまえが急いでいることぐらい、わかっているさ」

 店長が楽しげに目を細める。

「着替えする暇もないほど急いでいるんだろう? だったら尚更、逃がすわけにはいかないな」

「ちょ、ちょっと、店長っ?!」

「細かい説明は省くが、俺の経験から言って、都合のいい言い訳こさえて逃げ続ければ、逃げた分だけ後からまとめて痛い目をみることになるぞ。ここらで一回観念して、今までの悪行を精算しておいたほうがお前のためだ……と、俺は思う」

「余計なお世話よっ!」

「そういうと思った」

 店長が突然手を離した。だが、時すでに遅し。喜多嶋一族が前後左右から私に迫ってきていた。

「ご協力感謝します」

 私の背後から私の近づいてきた男が店長に礼を言った。その男の顔を見て、私は青くなった。私が達也さん宛の調査書の作成を依頼した探偵が、ほとんど真上から私を見下ろしている。明子さんが持ってきた証拠とは、どうやら、この人のことであったらしい。

「さてと、お嬢さん、一緒に来てもらいましょうか?」

 探偵は、そう言うなり、私を肩にかつぎ上げた。

「降ろしてよ!人さらいっ!変態!」

「俺が人さらいの変態なら、あんたは、さしずめ、業突く張りの結婚詐欺師だろうが?」

 探偵の声が、ロビーの端から端まで聞こえるんじゃないかって思うぐらいに大きく響く。 

「あんたのおかげで、俺の信用は丸つぶれだ。どうしてくれるんだよ?」

「知らないわよっ!」

「じゃあ、俺も、あんたが困ってようがどうしようが関係ないね。俺のしたいようにする」

 探偵は、足をバタバタさせている私を担いだまま回れ右をした。エレべーターに向かって悠然と歩いていく彼の後を、喜多嶋一族が、ロビーで騒ぎを起こしたことを集まった野次馬にヘコヘコ謝りながらついてきた。連れて行かれた所は、私が逃げ出した披露宴会場……ではなく、私が泊まっている部屋だった。体が埋もれていってしまいそうなほどフカフカの椅子に座らされた私と、達也さんが向かい合う。


「えーと……とりあえず、すみません」

 首をすくめながら、一応謝ってみる。だが、達也さんが求めたのは、私からの謝罪よりも、むしろ協力だった。

「形だけでいいから、結婚生活を続けてほしい」

 それが彼の望みだった。彼の話によると、六条さんは、私たちが離婚や別居をしたら、即、喜多嶋グループを潰すつもりでいるのだそうだ。 それが、明子さんを裏切った達也さんへの復讐であるらしい。

「いやよ」

 私は即答した。明子さんを裏切ったのは達也さんであって、私じゃない。喜多嶋が潰されようがどうしようが、私には関係ない。たいだい、私と暮らし続けることが罰って、どういうことよ? 失礼にもほどがあるわ! それに、披露宴であれだけ恥をかかされた私が、このまま喜多嶋家の奥さまとして収まれるわけないじゃない。笑い者にされるのなんて、ごめんだわ。

 だけど、それ以上に、もっと深刻な問題がある。誰かが結婚式の祝辞の中で、達也さんも達也さんのお父さんも経営者を辞めさせられるようなことと言っていた。クビになった御曹司なんて、なんの役に立つの? 愛してもいない男の転落人生につき合わされるなんて冗談じゃないわ。このまま離婚して、人生やりなおしたほうが、ずっとマシじゃないの。

「それに、あなたは、もう、私を愛していないんでしょう? それなのに、会社を守るために私と結婚するなんて最低よ! 私は、あなたに利用されるための道具じゃないわ! 私をなんだと思っているのよ!」

「……。君が、それを言うかな」

 物憂げな達也さんのため息に、「恐ろしいほど自分中心だな」「自分勝手も、ここまでくると才能だよな」という周囲の陰口が重なる。

「ちょっと黙ってなさいよ!」

 かっとなった私は、達也さんの味方に向かって叫んだ。


「この結婚はナシよ。 おしまい! ジ・エンド! 終了!」

 弾みをつけて椅子から立ち上がると、私は宣言した。考え直すつもりはない。 

「離婚届けは後で書いて送るから、あなたから提出しておいて。ほら! 着替えるんだから出ていってよ」

 私は、集まった人々を追い立てるように、出口に向けて手を振り回した。だけども、誰ひとり動かない。

「誰も出ていかないなら、いいわ」

「話は終わっていない」

 出ていきかけた私を達也さんが呼び止めた。彼の声に応じるように、喜多嶋の怖いおじさんたちが私の前に人垣を作った。

「協力してくれないのなら、それでもいい。その代わり、君には慰謝料と賠償金を払ってもらう」

「はあ?」

 達也さんの言葉に、私は呆れた。何を言っているの、この男?

「当然の権利だよ」

 人垣の先頭に立っていた男が、私に言った。

「君さえいなければ、達也と明子さんは、それなりに、いい夫婦関係を築けていたはずだった。それを、君が無茶苦茶にしたせいで、ふたりの間に亀裂が入り、喜多嶋グループ全体が危機に陥るほどの事態に陥ったんだ。これだけ周りに迷惑をかけておいて、君こそ、今頃になって『本当は好きじゃなかったから、離婚する』はないと思わないかね?」

 それではあまりにも花婿に対して不誠実だと、そのオジサンは言った。


「だって本当のことだもの! この人が勝手に熱を上げて、私とよりを戻したがっただけ。それだけの……」

「彼の罪悪感を刺激してヨリを戻さなくちゃいけない気分にさせるような調査書を送りつけておいて、よくもそんなことが言えるわね」

 探偵の横にいた小柄なオバサンが呆れたような顔で私を見る。

「それに、あんたの発言、口を開く度に矛盾が大きくなっていて、いまや全く整合性がないわよ。あんた、この御曹司さんが好きなの? それとも嫌いなの? 私には、そこからわからないんだけど?」

「す、好きよ! でも、結婚したいなんて思わなかった!」

「だからなんだ? 略奪婚だろうが愛人だろうが、人の旦那を寝取るという点では同じだ」

 達也さんの代わりに話していたオジサンが再び口を開いた。

「いずれにせよ、明子さんを悲しませ六条さんを怒らせる結果になっただろう。むろん達也も悪い。だが、ここまで無節操に達也を翻弄したあなたにも大きな責任があると思う。故に、君たちが別れたことが原因で喜多嶋グループが潰れた場合、喜多嶋には、潰れたために生じる損害を君たちに賠償してもらう権利がある。……という訳だから、達也」

「はい」

 オジサンの呼びかけに応えて、達也さんは上着の内ポケットから紙を取り出すと、私に渡した。


「なにこれ?」

 私は、細かい文字と数字が書かれた胡散臭げな書類を眺め回した。

「僕たちが離婚して喜多嶋が潰れた場合に掛かる費用の大まかな内訳と、その半額の請求書だ」

「は?」

 私は、2枚目の『請求書』と書かれた紙に目を近づけると、書いてある数字を目で追った。一、十、百、千、万、十万、百万…… いやああっ! ゼロが多すぎて数が読みとれない~~っ!

「ちなみに、残りの半額は僕が負担することになっているけど」

 達也さんが、自分用の請求書を私の請求書に重ねた。

「君がどうしても離婚したいというのなら、結婚の契約不履行ということで、慰謝料として僕の分を君に請求するつもりだ。払わないと言うのなら、君を訴える」

 つまり、離婚したら請求書に書かれている倍の金額を私に払わせるぞ……ということらしい。

「でも、私が望んで結婚届けを出したわけじゃないわ」

「でも、君の同意なしに結婚届けを出したわけでもない」

 食い下がる私の目の前に、達也さんが一枚の写真をぶら下げた。その写真は、昨日、結婚届けを提出した役所の窓口の前で撮られたものだった。まぬけなことに、写真の中の私は、達也さんと腕を組んでVサインまでしていた。

「でも、無茶苦茶だわ! こんなのあり得ない!」

 追いつめられて開き直った私は、請求書をまっぷたつに引き裂くと、彼に向かって顎を突き出した。 


「裁判ですって? やれるもんならやってみなさいよ」

 裁判なんか、できるわけない。裁判所の人だって、こんな高額のお金を、私みたいな女の子がひとりで払えるなんて思わないだろうし、払えとも言えないだろう。裁判なんかしたら、喜多嶋グループが大恥をかくことになるだけだ。

「確かに、額が多すぎて現実味がない話だよね」

 達也さんが肩をすくめる。

「じゃあ……」

「じゃあ、もう少し現実味のある話をしよう。入ってもらってください」

 達也さんが、部屋の出入り口の方に向かって声を上げ、呼ばれた者たちを通すために、喜多嶋一族が道を開けた。人いきれの中から現れた男たちを見て、私はハッとなった。恭二に浩平に翼に知治にハインリッヒ。 私が過去に付き合った男たちだ。


「久しぶりだな。 唯」

 瞳には凶悪な光を口元には微笑みを湛えた恭二が、威圧するように私の前に立った。 

「今さら、なんの用?」

 震える声で私は彼にたずねた。彼とつき合ったのは2年ほど前までだ。

「もうつき合わないって言ったのは、あんたでしょう?」

「つき合いきれなかったからな。でも、その腹いせに、あんた、俺になにをした? 会社に押しかけたり、たまたま通りがかった役員にデタラメを吹き込みやがって…… おかげで、俺は会社に居場所がなくなった挙げ句、転職を余儀なくされたんだ」


「僕も、君とかかわったことを後悔しているよ」

 穏やかな声で恭二と話し手を交代したのは、浩平だった。浩平は年中海外を飛び回っているような大手企業のエリート社員で、4年ほど前につき合っていた……のではなくて、もう少しでつき合うところだった。

「あの時の君も、僕を手に入れたいばかりに、僕の知らないところで僕の彼女――今は妻だけど――彼女に相当酷いことをしてくれたそうだね。彼女は気にしていないと言ってくれるけど、後で話を聞かされた僕は、君のことは一生許すまいと思っていたよ。喜多嶋さんが、こういう機会をくれて、本当にありがたいと思っている。僕は喜んで彼に協力するつもりだ」


「き、機会?」

「俺の金を取り返す機会だよ!」

 浩平を押し退けるようにして、私の前に立ったのは翼だった。翼は、達也さんとほぼ並行してつき合っていた男だ。 

「あの時は、よくも、俺のクレジットカードを勝手に使ってくれやがったな。請求書が届いた時は別れた後だったし、やっと居所を突き止めたと思ったら、パリに逃げた後だったし……」

「に、逃げたなんて、そんな人聞きの悪い」

 私は、翼の顔を直視できなかった。実は、そうなのだ。3年前、パリに行ったのは、達也さんの妻になるのが面倒だったり、もしかしたらパリで成功できるかもしれないという夢のためでもあったけど、一番の理由は、彼が私の行方を探していることを知ったからでもあった。

「喜多嶋さんとの結婚を続ければ、喜多嶋さんが、あんたに取られた金を俺に返してくれるってさ。でも、あんたが離婚するなら、被害届けも出すし、警察があんたを捕まえてくれないなら民事裁判で争う。その手続きも費用も、喜多嶋さんが全部引き受けてくれるそうだ。っていうか、あんたを反省させられさえすれば、金なんか二の次だ。俺たち、みんな、あんたに無茶苦茶怒っているんだ」

 翼が、自分の背後に控える『俺たち』を振り返った。自分がメンクイであることを認めないわけにはいかないほど整った顔だちの男たちが、憎々しげに私を見つめている。特に、私に直接発言していない二人の目が険しい。無理もない。知治とは、結婚式場の予約までしたのだ。それを、あと2ヶ月を切ったところで、もっと好きな人(実は達也さんなのだが)ができたからという理由で、私がほとんど一方的にキャンセルした。それから、パリでつき合っていたハインリッヒは…… ええと? 私、なにか彼に悪いことしたっけ?

「あなた、彼がサロンで入賞した作品を勝手に売っちゃったんですって? その絵、既に売り手が決まっていたそうよ。せっかくパトロンにもなってくれそうだったのに、それも断られてしまったのですって」

 達也さんのお母さんが、気の毒そうにハインリッヒを見た。

「あ、そうだったんですか?」

 あはははは……と、私は乾いた笑い声をあげた。あの絵を買う人が決まっていたとは知らなかった。だって、フランス語がわからなかったんだもん。それに日本に帰る費用が必要だったし……


「程度の差こそあれ、これだけ被害者がいるわけだから、被害届けを出せば、警察も裁判所も、さすがに君に同情してくれないだろう。君が二度と悪さをしないように牢屋に入れてくれるかもしれないし、僕の分は無理でも、彼らに迷惑かけた分の責任は自分で取らせるような判決を出してくれるかもしれない。いずれにせよ。こんなに素行の悪いモデルを雇うクライアントはいない。君のモデルとしての人生は、今日で完全に終わりだ。で、どうする?」

 達也さんが冷たく私に選択を迫る。

「モデルもできず、誰かもチヤホヤされることがないかわりに、借金取りにだけは追いかけ回されながら年老いていくのと、僕の妻として衣食住の心配だけはしなくてもいい生活を続けるのと」

「ど、どうするって、決まっているじゃない」

 私は、立ち上がると、達也さんに向かって腕を振りあげた。 

 私の掌が彼の頬に当たって大きな音を響かせる。続いて、もう一発。今度はマニキュアで補強した爪を立てて、彼の頬を思いっきり引っ掻いてやった。 

「あんたの妻でいてやるわよっ! でも、あんたのことは、一生嫌い抜いてやる! 愛してほしいなんて思わないで!」

「それで、結構だ」

 達也さんが、頬に滲む血を手の甲で拭った。

「君を愛したことを後悔しながら生きていくのが、僕にはお似合いだろう。そうでなければ申し訳なくて生きていけない。 全てを失ってしまうことになる喜多嶋の家にも、彼女……あれだけ傷つけてしまったのに、まだ僕を庇ってくれた明子にも」


 

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 それから数ヶ月。

 私は、今でも達也さんの妻を続けている。


 本当は逃げ出したいのだけど、逃げられない。どこに出かけるのも自由だけど、出かけようとすると、お供と称して、あの探偵夫婦のどちらかがついてくる。彼らに気づかれずに抜け出そうと思っても、セキュリティーの厳重なマンションなので、ひとつしかない出口は常に警備員によって見張られているし、窓やベランダから抜け出すには10階という高さは危険すぎた。


 達也さんは、出張でもない限り、毎日家に帰ってくる。でも、彼と食卓を一緒にすることはないし、お風呂もトイレも寝室も、それぞれ別のを使っている。会話は、たまにするけど連絡事項のみだ。

 彼は、もう、まともに私を見ることもない。私もそう。同じ家で暮らしているのに、私たちの関係は、街でたまたますれ違うだけの全く面識のない他人以上に遠い。


 それに、私は知っている。達也さんは、久本とかいう彼の秘書に恋している。本人は否定しているし、全く自覚もないみたいだけど、私にはわかる。もっとも、彼が彼女を好きになるのも無理はない。だって、あれだけ彼のために親身になってくれる秘書はいないもの。御曹司でプライドばかり高いヒヨっ子の達也さんを、あの秘書がなだめたり彼の代わりに叱られたり、一緒に頭下げてくれたりしているから、彼の会社は(そうそう、どういう訳だかは聞かされてないけど、彼はクビになるどころか喜多嶋紡績の社長に昇格してしまったのだ)、なんとか潰れずにいられるのだ。

 あの秘書が私の後釜を狙っているのは、間違いない。そう思うと、良い気味だと思う。私がこんなに惨めな思いをしているのに、あのふたりだけが幸せになるなんて許せない。……なんて。 それしか楽しみがないなんて、私って、つくづく不幸だわ。


 なんで、こんなことになっちゃったのかしら?

 喜多嶋家なんて大きな家、かかわるんじゃなかった。


 こんな生活、もうイヤ。

 誰かなんとかして。

 私を、ここから救い出して。


 誰か、おねがい。

 誰か、助けて。


 誰か……

 誰か


 ……

 ……



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