Missing heart 1
3ヶ月前に明子と見合いをした時、達也は、可愛らしいカフスボタンをつけていた。
『それ、クローバーですよね?』
ふたりきりにされて話題に事欠いていた明子がそれに気がつくと、彼は、たちまち顔を赤くした。
『これは、その……、こんな玩具みたいなもの着けていたら、あなたに笑われてしまうかな……とは思ったんだが……』
達也が、袖からはずしたボタンを明子の掌に乗せてくれた。カフスボタンの土台は銀製で、小さな正方形のタイルを3つ合わせたような『くの字』形をしていた。雫の形をした淡くて透明な緑色をした3つの石が土台に合わせてクローバーの葉を形作るように並べられていた。
『それ。 本当は四つ葉なんです』
達也はそう言いながら、明子に袖から外していないほうのカフスボタンを示した。そちらのカフスボタンは、『くの字』型ではなく、四角い土台に4つの葉をあしらったボタンになっていた。
『ああ、なるほど。葉っぱの一枚が欠けているから、こんな形をしているんですね』
明子は、カフスボタンの『くの字』の凹みを指でなぞった。
『それで、ここにあるはずの欠けた葉っぱは、どこかにあるんですか?』
欠けていることを前提に作られているアクセサリーならば、欠けた部分を補って1つの形を作るアクセサリーがもう1つ別にあるに違いない。そう思った明子がたずねたところ、達也は、ちょっと困ったような顔をした。
『あるんですけど、ずっと昔に失くしてしまいました』
『あら、それは残念ですね』
『ええ、とても。でも、もういいんです。失くしたことで、いっそスッキリしましたから』
どこか吹っ切れたような顔で達也が笑った。それから、彼は、昔を懐かしむような遠い目をしながら、明子に打ち明け話をしてくれた。
『昔の僕は、喜多嶋の家が大嫌いだったんです。いや、家が嫌いだというよりも、何もかもに恵まれたまま、親や一族が決めたレールの上を何の不自由もなく何の疑いも持たずに歩いて行く……そんな人生を歩むことになるであろう自分の未来が無性に嫌だった。喜多嶋の家は、とても恵まれているのだけれども、この葉っぱが一枚欠けた4つ葉のクローバーのように、決定的な何かが欠けている。その欠けた何かを手に入れない限り、自分は絶対に幸せになれない。そう思い込んでいた。今にして思えば、かなり青臭い考えです。でも、当時の僕は、喜多嶋の柵に囚われない外の世界ばかりを夢見ていました。そして、一度は、本当の幸せを手に入れたと思ったこともありました』
『欠けた一枚の葉っぱを?』
『ええ、手に入れたと思ったんです。結局は、僕の独りよがりな勘違いだったんですけどね』
達也が自嘲気味に笑った。
『でもね、その幸せを失って、やっとわかったんですよ。僕の生きる場所はここしかない。喜多嶋の跡を跡取ってグループの要として生きることが、僕に与えられた運命なんだってね。それは僕の願っていた人生ではないけれど、それでも構わないと思った。クローバーの4つ葉が幸運の印だと思っているのは人間だけです。ひとつの幸せを失っても、それで人生が終わるわけじゃない。 4つ葉じゃないから幸せになれないんじゃない。葉っぱが1枚欠けているだけで幸せになれないと思い込むことこそが不幸なんだ。葉っぱが3枚きりでも、無いものねだりをやめて現実に目を向ければ、ちゃんと幸せになれる。そう努力するべきだと思い直しました』
『それは、暗に、私との縁談のことを言っているのでしょうか?』
明子は思い切って達也にたずねてみた。
『意外だな。明子さんって、お淑やかなだけの人かと思ったら、ハッキリとものを言う人だったんだね』
達也は、ひどく驚いた顔をしたあと、それまでよりもずっと打ち解けたようすをみせた。
『そう。喜多嶋グループの現状を考えると、僕が将来喜多嶋グループを率いていくためには、六条家のバックアップは是非とも必要だ。六条にとっても、喜多嶋と組むことのメリットは大きいと思う。ゆえに、自分たちの気持ちなんてお構いなしに、僕たちは近いうちに結婚することになるだろう。でも政略結婚だから幸せになれないと始めから決め付けてたら、僕たちは不幸にしかなれない。前回の僕は、決め付けていたから、婚約者とは全くそりが合わなくて、最後にとうとう逃げられた』
達也が肩をすくめた。彼は、つい最近、親同士が決めた婚約を解消したばかりであった。
『だからね。今日は、お守りにするために、このカフスボタンを着けてきたんだ』
達也が、照れたように打ち明けた。
『お守り……ですか?』
『そう。今度こそ、失くした幸せばかり惜しんでないで、現実とちゃんと向き合おう。そう思ってね』
達也はうなずくと、居住まいを正して、明子に向かい合った。
『なんの信頼関係も愛情もなく結婚することになる僕たちは、いわば、この3つの葉っぱしかない元4つ葉のクローバーと同じで、幸せになれる確信みたいなものが欠けている。でも、お互いに相手を受け入れ理解し、幸せになれるように努力していけば、いつかは、愛し合って結ばれたカップルよりも互いを思いやり愛し合えるような関係を築けるんじゃないかと思うんだ』
『そうすれば、わざわざ4つ葉のクローバーを探しに行かなくても幸せになれますか?』
『きっとね。明子さん、あなたとならば、それも難しくはなさそうだ』
はにかみながら明子がたずねると、達也は照れた顔をしながらも、しっかりとうなずいてくれた。
結婚してから、ゆっくりとお互いに歩み寄りながら良い関係を築いていく。それならば難しくはなさそうだと明子も思った。自分はきっと、この男性と、穏やかで幸せな家庭を築くことができるだろう。達也の話を聞いたこのとき、明子は、確かに、そう思っていた。
(それなのに)
何かがおかしい。
達也と共に牧師の話に頭を垂れながら、明子は困惑していた。
達也が怖い顔をしていたからとか、明子に対して冷たい素振りをしてみせたからというだけのことではない。うまくは言えないが、今の達也は、もっと根本的なところから、明子の知っていた彼とは違っているような気がするのだ。しかしながら、明子の知っている達也といえば、お見合いと結婚式の打ち合わせの数回分の達也でしかない。だから、これまでの達也が猫を被っていただけだと言われてしまえば、その通りなのかもしれない。
(でも……)
明子は、下を向いたまま、隣に立つ達也を盗み見た。
(ただの気のせい?)
(そっくりな双子のお兄さん……ってことは、ないわよね?)
(わたし、何か悪いことをしたかしら? それで達也さんは怒っているのかしら?)
(それとも、こういった式典そのものに憤りを感じているのかしら? 家同士の結婚だから、主役であるはずの新郎新婦はお飾りみたいなものだものね)
明子が悩んでいる間にも、結婚式は粛々と進行していく。
賛美歌が終わると、牧師が温かみのある声で結婚式の誓約のための質問を始めた。
「あなたは、この女を妻とすることを誓いますか?」
牧師が達也に問いかけた。
だが、達也は答えない。返事の代わりに返ってくるのは、沈黙ばかり。会場内のざわめきが徐々に大きくなっていく。
明子は、心臓を締め付けられるような心細さを味わった。
牧師は、軽く咳払いをすると、もう一度同じ質問を達也に対して繰り返した。
それでも達也は答えない。
明子は、達也の様子を伺うように、わずかに顔を上げた。バージンロードから歩いてきた明子の手をとったときと同じ。達也は、明子のことなど全く目に入っていないかのように、思いつめたような顔で床の一点を見つめていた。
「達也さん?」
明子は彼の注意を引くように軽く腕を引きながら、小さな声で彼に呼びかけた。
「……え? あ、明子さん?」
達也がびっくりしたように身を震わせ、夢から醒めたばかりみたいな顔で明子をまじまじと見つめる。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ。うん」
達也は、何度か瞬きすると、自分の居場所を再確認するかのように、せわしなく周囲に視線を動かした。なぜ自分が今ここにいるのか理解できていない。今の彼は、そんなふうに見えた。
「達也さん?」
牧師が達也に呼びかけた。
「あ、はい、すみません」
どうやら自分が置かれた状況を把握したらしい。彼は牧師に詫びると「誓います」と、早口で答えた。
返答を受けた牧師は、安堵したように微笑むと、式を続行した。指輪の交換がなされ、賛美歌が歌われ、牧師がふたりが晴れて夫婦になったことを会衆に宣言して、結婚式は終わった。
結婚式のあとは、記念撮影となった。
花嫁である明子も、親族と共に式場からスタジオに引率されることになった。
引率者の指示に淡々と従う人々の顔に笑みはなく、口数も少なかった。結婚の誓いの時の達也の様子が変だったことを気にしているのは、どうやら明子だけではないようだ。晴れやかな席であるはずなのに、空気が重く感じられた。
達也も、自分が原因であることはわかっているようではあるが、どう対処したらよいかまではわからないようだった。これ以上皆のひんしゅくを買わぬように、花嫁の明子に対して、ひたすら愛想良く振舞うのが精一杯のようである。
重苦しくなるばかりの場の空気を変えてくれたのは、森沢だった。
スタジオに到着した一同が階段状の台の上に行儀良く並ばされようとしていたとき、森沢が達也に近づいてきた。
「お前なあ、花嫁さんを不安にさせるようなことをしちゃダメだろう!」
森沢は、後ろから達也の肩を掴んで振り向かせると、大きな声で彼を叱りつけた。
「す、すまない。ちょっと考え事していて、ボーっとしていて……」
「考え事? いいや、違うな。花嫁さんが美し過ぎポーっとしていたに違いない。喜多嶋の一族は、きれいなもんに弱くて困るよな。おかげで、六条家の皆さんを驚かせてしまったじゃないか」
森沢が達也の言い訳を笑い飛ばしながら、じゃれるように彼の首に腕を回す。そんなふたりの様子を見ていた親族たちも顔を和ませた。
「そうだな。 こんなにキレイな嫁さんじゃ、さすがの達也も、ボーっともするだろうな」
「でも、さっきは驚いたな。『誓いますか?』って言われているのに、達ちゃんは黙りこくっているし」
「ああ、ビックリした」
「驚いたよなあ」
喜多嶋の親戚たちは、まるで厄払いでもするかのように『ビックリした』とか『驚いた』という言葉を何度も繰り返し、笑い合った。笑いが起こるたびに、重苦しかった空気が、徐々に軽く柔らかなものに変わっていく。
その後の結婚披露宴は、つつがなく進んだ。
中でも、社長である父親に代わって中村物産を影で支えていると噂される男……紫乃の夫の弘晃からの祝電は、電報としてはありえない長さと祝辞の格調の高さで披露宴の出席者の多くを感心させた。
それだけではない。弘晃が手を回したのだろう。旧中村財閥から分かれて発展した中村の3つの分家の長からも、同様の仰々しい祝電が送られてきていた。それらの祝電が読み上げられるたびに、姉の紫乃は、恥ずかしすぎて身の置き所がないとでもいうようにひたすら身を縮ませていたが、達也の父親は、嬉し涙を流しながら得意げに鼻を膨らませていた。
森沢は、そんな伯父の様子を写真に収めたり、ビールを片手に他のテーブルを回ったりと、なにかと忙しそうにしていた。達也はというと、祝辞や祝電を笑顔で受けながらも、ふとした拍子に酷く思いつめた表情を浮かべていた。
明子は、達也の様子が気になって、身を入れて披露宴を楽しむ気にはなれなかった。そんな花婿と花嫁の気持ちなど斟酌することなく、披露宴は、盛況のうちにお開きとなった。