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悪い女のつくりかた  作者: 風花てい(koharu)
悪い女のつくりかた
78/88

Butterfly  12

 明子は、森沢から目を離せずにいた。


「わかりました。喜多嶋ケミカルは私に任せてもらいましょう」


 ついさっきまで青ざめた顔をしていたというのに、今の彼は、臆することなく彼女の父親と真正面から向き合っている。その眼差しや声からは、いささかの気持ちの揺らぎも感じ取ることができない。

 本当は不安だろうに、それを表に見せない彼の強さに、明子は、今さらながら驚いていた。もしかしたら、自分は、自分が考えていた以上にすごい人に想われているのかもしれない。その彼が、明子を望むがゆえに、無謀としか思えない決心をしてくれた。そのことが嬉しくて、彼女は胸が苦しくなるほどの幸福を覚えた。

 だが、暢気に感動している場合ではないことも、大きな喜び以上に不安が勝っているから胸苦しいのだということにも、明子は、ちゃんと気がついている。明子との結婚を認めてもらう代わりに、父が森沢に受け入れさせた課題は、それほど厳しかった。


「社長をお引き受けするにあたって、条件を整理させていただきます。まず、ひとつめ」

 不安げに見守る明子の傍らで、森沢が父に向かって指を一本立ててみせた。


「現時点において、喜多嶋ケミカルが背負っているとされる負債…… つまり借金を、半年以内に完済可能な状態にする」

 その負債とやらがどれほどのものか、明子は知らない。それでも、この条件が付加された時に気を失いそうな顔をしていた彼を見れば、とんでもない額なのだろうということは、明子でも想像がつく。

「しかもこの借金、喜多嶋グループが新商品を市場に提供する為に、ケミカルが代表して背負った類ものなんだよね」

 兄の和臣が明子のほうに体を傾けながら小声で言った。 

「それなのに、『だから、3社で等しく負債を分担しよう』って言い出さない森沢さんは、馬鹿かもしれないけどカッコイイ……と、僕は思う」

 珍しく他人をほめている兄を、明子は恨めしげに見つめた。格好なんて良くなくてもいいから、少しでも自分の負担が軽くなるように利口に立ち回ってほしい。


「ふたつめは、安定的な黒字経営に転換すること」

「これは、問題ないよ」

 泣きそうな顔になっている明子を慰めるように、兄が微笑んだ。なんでも、喜多嶋ケミカルは、莫大な研究費を除けば今でも収支は黒字なのだそうだ。

「今までは、なあなあで済ましていたみたいだけど、3社それぞれが独立するこれからは、研究開発費を他の2社からもらえばいい」

 しかしながら、喜多嶋ケミカルの研究所という所は、全く売り物にならないような研究にも一生懸命になっているのではなかったか? そういう費用は、やはり自分たちで出すことになるのだろうと思うと、明子の気持ちは重たくなる一方である。


「3つめ。3年で20パーセントアップを目標に、まずは1年以内に、従業員の給料を10パーセントアップさせる」

「これが一番やっかいだな」

 ピンとこないものの兄の言うとおりなのだろうな、と、明子も思う。

 会社で働いている人の給料を一律に値上げするということは、その分だけの利益を確保しなければならないということだ。しかも、昇給後の給料は払われ続けなければいけない。要するに、宝くじを当てるように一時的に莫大な利益を上げればいいということではなく、安定的に大きな利益を上げ続けなければいけないということなのだろう。


「条件はこの3つでしたね?」

「そうだ」

 源一郎が厳しい顔で森沢にうなずいた。

「その3つが達成できたら、その時には明子を……」

「わかりました」

 森沢は、源一郎に最後まで言わせなかった。 


「半年後、この3つの条件を3年以内に達成するのは無理だと、こちらに集まっていらっしゃる皆さまがご判断された場合には、明子さんをいったんそちらにお返しします」


「あ?」

 源一郎が、虚を突かれたように口をあんぐりと開けた。

(は? ……って、つまり?)

「そうきましたか」

 森沢の言っていることを理解し遅れている明子の近くで、弘晃が忍び笑いを漏らす。

「おやまあ。この期に及んで、六条さんと、そういう取引をしちゃいますか」

 自動車会社の社長も呆れながら笑っていた。電器メーカーの会長は、「怖いもの知らずというかなんというか、いや、実にいい!」と、白い髭を指で弄りながら満足げに微笑んでいる。喜多嶋の親族席の方からも、「いかにも、うちの血筋が言い出しそうなことだよねぇ」と、諦めにも似た嘆息と乾いた笑い声が聞こえてくる。


「当然でしょう?」

 周りの反応と呆気にとられている源一郎の顔を確認した森沢が、「してやったり」といわんばかりの笑顔を浮かべた。 

「明子さんは、私が従兄のところから必死の思いで奪い取ってきたんです。お父さんといえども、簡単に明子さんをお返しするわけにはいきません」


「お、おまえなあ!」

「お父さま! あの! わ、わたし!」

 父親が激昂する直前、遅ればせながら森沢の言っていることをようやく理解した明子は、その場で立ち上がった。

「私! 俊鷹さんと一緒にいます!」

 張り上げた声は、みっともないぐらい調子っぱずれに聞こえた。でも、恥ずかしいからといって、ここで、やめるわけにはいかない。


「だって、結婚は俊鷹さんひとりがすることではなくて、私たちふたりですることだもの」

 ドレスのスカートをきつく握りしめながら、明子は父親に自分の意思を伝えようと気持ちを振り絞った。 

「だから、俊鷹さんにだけ苦労させておいて、私だけが結果が出るまで実家でのうのう過ごすなんてことはしたくありません。もちろん、私がいたところで、なにができるわけでもないのはわかっています。でも、傍にいられれば、彼を支えるとか励ますとか、なにかしらできることがあると思うんです」

「彼女は、私の大きな支えになってくれると思います」

 森沢が、明子の言葉に言い添えながら、彼女を引き寄せた。

「だから、この人の傍にいさせてください。一緒に頑張らせてください」と、明子は源一郎に頼み込んだ。 


 明子が父親に向けて深く低頭すると同時に、「わあっ」とも「きゃあ」ともつかぬ女性たちの華やいだ歓声が上がった。リナたち胡蝶候補のモデルや、会場内にいる女性たちの声だった。 

 明子の隣でも、紫乃が妹を応援するように手を叩きながら、「恋する娘さんって、いいわねえ! 素敵ねえ!」と、若やいだ声を上げている大叔母葉月に同意するように、笑顔で何度もうなずいている。


 森沢よりも喜多嶋一族よりも女性に弱い明子の父親は、女たちの歓声に込められた期待を裏切ることができなかったようだ。

「半年後。ダメだった時には、明子を返してくれるんだな?」

 ムッツリとした顔で、源一郎が念を押す。

「私の力が足りず、そうなりました時には、必ず」

 森沢が力強く答えた。

「しかしながら、あくまでも一時的に六条家にお預けするだけです。なるべく早く、何年かかろうと、私は明子さんを迎えに行きます」

「明子?」

 源一郎が明子に声をかけた。明子は迷わなかった。彼女は微笑むと、「私は、彼を信じています」と、父親に答えた。


 源一郎は、しばらくの間渋い顔をしていたが、やがて、ふたりの気持ちの強さに根負けしたかのように肩を落とすと、「好きにしなさい」と言ってくれた。明子と森沢は、手を取り合い顔を見合わせて喜びを分かち合った。

「ちょっと異色ではあるけれども、今のやり取りも、結婚式の誓いみたいね」

「もしかしたら、神さまに誓うよりも強力かもしれませんわ。特に、守れなかった時の報復が怖いところが」

 ふたりのすぐ傍で、娘のように頬を染めながら葉月と紫乃が、そんなことを言っているのが聞こえた。

(そうなのよね)

 姉が言うとおり、本当に大変なのは、半年後。父との約束が守れなかった時、実家に帰された明子がどうなるか、そして、明子を手放した森沢が父にどうされるか……だ。

(だったら、今のうちに……)

 喜びにくれる一方で、明子は、ある決心をした。


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 コース料理の締めくくりとして、デザートとコーヒーをゆっくりと味わった後、途中から結婚式だかなんだかわからなくなってしまった宴会は、弘晃が紫乃に予告していた通り、2時間足らずという短さで、お開きとなった。

 新年から新体制に移行するための事務的な打ち合わせがあるため、森沢も彼の両親も、会場にそのまま残ったが、明子は、一足先に宿泊中の部屋に戻らせてもらった。 


 部屋に入るとすぐに、明子は、水色のドレスを脱いだ。 

 美術品のようなドレスを慎重な手つきでハンガーにかけると、彼女は浴室で宴席の主役仕様のメークを落とし ウェーブさせた後にスプレーで固められた髪をシャンプーと暖まった湯で丁寧に洗い流し、ついでも体も清めた。できることならば、浴槽に湯を張り、疲れた体をゆっくりと湯につけて温まりたかったが、それは断念して、淡いミントグリーンのセーターとスカートを身につける。

「先に荷物を詰めておいたほうがいいわよね?」

 髪をタオルで拭いながら誰にでもなくつぶやいた明子が旅行鞄のフタを開けたところで、思いのほか早く森沢が戻ってきた。 


 森沢は、宿泊名簿上は彼の両親と同じ部屋に宿泊していることになっている。だが、彼の両親がふたりに対して理解がありすぎることもあり、昨夜の森沢は、当たり前のようにこの部屋で明子と一緒に過ごした。 もっとも、一昨日のこともあるので、同じ寝床の中にいても、 森沢は、明子が脅えない範囲内で彼女を愛することしかできないのではあるが、それでも、最初の日に比べれば、少しは進展したと思う。

「あれ? もう着替えちゃったの?」

 湯上りの明子を見て、森沢が笑う。

「紫乃さんが探してたよ。それより、この後ドレスを脱がす楽しみが待っていると思ったのに、残念だな」

「また、そんなこと言って……」

 森沢の余裕のある態度に少しばかり呆れながら、明子は彼を急かした。

「森沢さんも早く着替えてくださいな。そのままじゃ目立ってしまいますもの」

「は? 目立つって?」

 森沢が自分の衣装を確認するように、首を左右に動かした。

「逃げるんです!」

 旅行鞄を胸の高さまで持ち上げながら、明子は言った。 

「逃げる?」

「だって、このままじゃ、半年後には絶対に別れさせられてしまうもの。だから、お父さまが油断している今のうちに逃げちゃいましょう!」

 『条件をクリアできれば娘をやる』と、父は約束してくれた。だけども、明子には、その約束そのものが胡散臭いものに思えた。森沢と彼女を別れさせるために父が考えた陰険な罠であるとしか思えないのだ。

 だから、ここは逃げるに限る。それが、明子が出した結論である。


 部屋に戻ってくるなり恋人から逃避行に誘われた森沢は、さすがに面食らった顔をした。だけども、彼は、明子の提案に乗る気はないらしい。驚きから立ち直った途端、「君は。普段は慎重すぎるぐらいなのに、追い詰められた時に限って、いきなり面白い行動に出るよね」と笑いながら、明子の手から旅行鞄を取り上げた。

「やだ。返してください」

「やだよ」

 鞄を取り返そうとする明子を腕の中に捕えた森沢が、笑ながら彼女の額や目蓋にキスを落とす。

「俊鷹さん、今は、こんなことしている場合ではなくてですね」

 甘い接触に誘惑されまいと明子は身を捩った。だが、もがけばもがくほど彼女への拘束は強まるばかり。そればかりか、抗議しようと口を開こうとした途端、彼女の口は森沢のそれによって優しく塞がれた。不本意なキスを受けるうちに、明子の全身からとろけるように力が抜けていく。 

 明子が抵抗する気力をなくしたとみるや、森沢は彼女を軽々を抱え上げて、ソファーに連れていった。中途半端に明子を下ろした状態で森沢が腰を下ろしたため、彼の膝の上に座るような格好になってしまったのが恥ずかしくて、明子は、上気した顔を隠すようにして背を丸めてうつむいた。


「それで? どこに逃げるつもり?」

 ピクニックの相談でもするような口ぶりで、森沢がたずねた。

「どこだって、かまいません」

 危機感が欠如している森沢にムッとしながら、明子は答えた。

「そうだ。以前に話してくださったアメリカの綿畑はどうでしょう? それとも、アンとメアリっていう羊さんがいるイギリスは? 伯爵さまなら、私たちを匿ってくださるかもしれない」

 要するに、父親の目が届かない、あるいは父の力の及ばない所ならば、自分はどこでもいいのだ。森沢と一緒にい続けることができるのであれば、南極でも北極でも、世界中のどこであろうと自分は生きていける。生きていこうと思う。 

「今さら、父の力で無理矢理別れさせられるのなんて、嫌です」

 明子は森沢の首に手を回すと、彼にしがみついた。森沢が、明子の背中に腕を回す。

「うん。今さら離れ離れは、俺も嫌だな」

 明子をあやすように撫でながら、森沢が言った。

「ね? だから……」

「でも、俺は逃げるつもりはないよ」

 顔を上げた明子に、森沢が、優しく、だけどもはっきりと告げる。

「でも、あんな厳しいばかりの条件……」 

「そうだね。あんな高い目標を半年でクリアするのは無理かもしれない。でも、俺、やらないうちから『できない』って諦めるのは苦手なんだ」

 森沢が、気まずそうに打ち明ける。

「それに、正直、喜多嶋ケミカルを放り投げて逃げるのも、ちょっとね」

「あ……」

 今度は、明子が気まずい気分になった。 


「ごめんなさい。私、自分の勝手ばかり言いましたね」

「勝手というのとは、ちょっと違うと思うよ。不可能としか思えないことをやろうとしているわけだから」

 うなだれる明子を森沢が慰める。

「でも、もしかしたら、なんとかなるかもしれないという気もしてきたんだ。さしあたって、喜多嶋ケミカルが有している特許の中から、うちは無理でもどこかの企業の役に立ちそうな技術を売って売って売りまくろうと思ってている。さっき、ちょっとだけ弘晃さんに相談したら、『そう言ってくれるのを待っていました』って言ってくれたしさ」

 中村物産が売り込みに協力してくれたら借金の半分ぐらいは返せるかもしれないと、森沢は期待しているようである。弘晃とは、明後日に話し合う手はずになっているそうだ。

「だから、やらせてみてくれないかな?」

 森沢が明子に頼んだ。口調は遠慮がちであるものの、彼女を見つめる彼の眼差しは、怖いくらいに真剣だった。残念なことに、こういう状況で自分の希望を押し通せるほど、明子は我の強い性格をしていない。だが、それ以前に、こんな顔をしている森沢が本気で頑張る姿を彼の間近で見ていたいと、明子は思ってしまった。

「『信じる』って、さっき皆さんの前で言ってしまいましたものね」

 明子は、微笑んだ。彼の要求を呑む代わりにと、ちょっとだけ我侭も言ってみる。

「もしも、私が半年後に実家に帰されてしまったら、その時は、ちゃんと会いに来てくれる?」

「毎日押しかけるよ」

 森沢は目を輝かせると、嬉しそうに明子を抱きしめた。

「六条さんがふたりまとめて追い出したくなるぐらい、毎日、目の前でイチャイチャしてやろう」

「俊鷹さんったら」

 はしゃぐ森沢につられるように、明子は笑った。 

「本気だよ」

 笑顔になった明子と目を合わせた森沢が、顔を近づける。明子は慎ましげに目を伏せると、彼の唇を迎えた。時には啄ばむように、時には貪るように、会話よりも深く互いを知り合おうとするように、何度も何度も、ふたりはキスを重ねた。

「もう、寝ちゃおうか?」

 キスの合い間に、森沢が明子の耳元で誘う。

「まだ、明るいですよ?」

「でも、宴会場で夕食も食べちゃったし、君は風呂にも入っちゃったみたいだし、もう他にすることがない」

 甘えるように森沢が明子の首筋に顔を寄せた。 


「でも……」と、明子が抵抗しかけたところで、電話が鳴った。 

 この部屋は、明子が宿泊していることになっているので、取り次がれるのは彼女宛の電話に相違ない。電話は、寝室に置かれたベッドの脇のサイドテーブルの上にある。腰を浮かせかけた明子を、森沢が引き止めた。

「放っておけば、部屋にいないと思って切るよ」

 だが、呼び出し音は一向に鳴り止まず、執念深く明子を呼び続けた。他人はもちろん、姉や兄でも、こういう電話の鳴らし方はしない。それよりも、この部屋に電話を取り次いでいるであろう茅蜩館ホテルのスタッフが、こんな無作法な電話の鳴らし方をするとは思えない。 

 ……ということは、明子が電話に出るまで鳴らし続けるようにと、誰かがスタッフに強制しているのかもしれない。

「まさか、お父さま?」

 または、『父がそちらに乱入するから気をつけろ』という姉からの警告の電話である可能性もある。明子は、森沢を押しのけると、電話を取りに走った。



 電話は、やはり源一郎からだった。


「お父さま、どうしたの? え? 森沢さん?」

 明子は、寝室の入り口で様子をうかがっている彼にも聞こえるように声を張り上げた。森沢が、腕を交差させ、明子にバツ印を示した。

「こ、ここにはいませんよ。どうして、なかなか電話に出なかったのかって? ごめんなさい。シャワーを浴びていたものだから、ベルの音に気が付かなかったの。あら、いやだ。急いでいたから、お湯を出しっぱなしにしてきちゃった」

 早く電話を切りたいばかりに口走った彼女の言い訳を本当にするべく、森沢が慌てて浴室に向かう。電話の向こうの源一郎の耳は届かないかもしれないが、遠くで水音が聞こえ始めた。明子は、なんとか平静を保とうと心がけつつ、「ええと、それで、なんの御用、ですか?」と、受話器に向かってたずねた。


『さっきは、悪かったな』

 バツの悪そうな源一郎の声が、電話の向こうから聞こえた。


「え?」

『森沢くんの、なんというか…… 本当に君が欲しいのか、幸せにする気があるのか……とか、だな、そういう彼の覚悟のようなものを聞きたくて、ついつい余計に苛めてしまった。明子から謝っておいてくれ』

「は、はあ」

 明子は、戸惑いながら、森沢がいなくなった方向に顔を向けた。彼と電話を代わるべきなのかもしれないが、居留守を使ってしまった以上、それはできない。彼女は、しおらしく「わかりました。彼に伝えておきます」と、父に約束するだけにとどめた。


『そういう訳だから、君は、そんなに心配しなくてもいいから』

「それは、つまり、半年後に私を実家に連れ戻すようなことはなさらないということ?」

 明子は、期待を込めてたずねた。だが、源一郎の返事は、『いいや。約束は約束だ』だった。


『だけど、大丈夫だよ。今は信じられないかもしれないけれども、彼に約束させたことは、奴が本気を出せば充分に達成できる。そういう条件にしてある』

「本当?」

『お父さんを信じられないか?』

 そうたずねた源一郎の声は、とても寂しそうだった。

『お父さんが、君が悲しむことを、わざわざすると思っている?』

 その質問の答えは、考えるまでもなく「いいえ」だ。父はいつだって、時にはうっとうしくなるほど、娘たちにありったけの愛情を注ぎ込んできた。

 明子は微笑むと、「お父さまを信じます」と答えた。


「それから、俊鷹さんが本気を出してくれることも、私は疑っていないわ。だから、彼がお父さまとの約束を果たしてくれることも、信じることにする」

『そうだな』

 電話の向こうで父が微笑んだ気がした。

『君が、森沢くんに惹かれていると気がついてから、あらためて彼のことを調べ直してみた。あいつは、なかなかいい。君は、お父さんよりもずっと、人を見る目があるようだ』

「そう? ありがとう」

 明子は心から源一郎に礼を言った。

 源一郎は、妹や妻たちが森沢に会いたがっているので、クリスマスでも新年でもかまわないから彼と共に六条家に遊びに来るように明子に何度も言い聞かせると、電話を切った。



「はあ~ びっくりした」

 受話器を置くなり、明子は大きく息を吐いた。

「……。でも、そうか。大丈夫なのね」

 今しがた交わしたばかりの父との会話を思い出しているうちに、彼女の中から、じわじわと喜びがこみ上げてくる。 

 詳しいことは話してくれなかったものの、どうやら彼と引き離される心配はないようだとわかって、明子はホッとした。だが、それよりなにより、父が森沢を評価してくれたことが嬉しい。嬉しくて嬉しくて、明子はいったん立ち上がると、小さな子供がやるように大きなベッドに向かって飛び込んだ。フカフカの柔らかい寝具が、バスンというくぐもった音をたてながら彼女の体を柔らかく受け止める。

 その音を聞きつけた森沢が、心配して部屋に飛び込んできた。彼は、浴室に向かったついでにシャワーを浴びていたらしい。辛うじてバスローブだけは羽織っているものの紐は結ばれていなかったし、髪からは水か滴っていた。

「明子? どうした? 大丈夫?」 

「ええ! 大丈夫なんですって!」

 明子はベッドから身を起こすと、彼女を心配して身を屈めた森沢に、自分から抱きついた。









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