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悪い女のつくりかた  作者: 風花てい(koharu)
悪い女のつくりかた
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Butterfly  11

 運命をつかさどる女神は機織の名手なのだと、昔、祖父が森沢に話してくれたことがあった。だけども、彼女が織に使う糸は、絹や綿ではなく時間なのだそうだ。過去から未来へと果てしなく流れていく時間を縦糸に、人の命という限られた長さの時間を横糸にして、彼女は歴史という布を織り続ける。

 命の糸は、人の命の数だけある。長さも色も質感も様々。ひとつとして同じ物はない。ちなみに……と、ここからは眉唾な話になるのだが、好い男の命の糸というのは、丈夫でしなやかで、かつ美しいのだそうだ。 そういう糸を見つけると、女神は嬉しくなって、その糸を使って、難しい織り方をしてみたくなるらしい。その結果、その男の人生は、平凡とはかけ離れた、困難と試練目白押しの山あり谷ありの人生となる。


 『だから、もしもお前が、困難にぶち当たった時には、運命を呪わずに胸を張るといい。 それを成すのにお前こそがふさわしいと、女神が見込んでくれたのだから』

 『それに、女神だって無慈悲じゃない。乗り越えられた試練に応じて、ちゃんとご褒美を用意してくれているさ、鬼を退治した桃太郎はお宝を手に入れたし、一寸法師はキレイなお姫さまと結婚しただろう?』

 『どうせ逃げられない試練なら、ぐちぐち言わずに笑ってたほうが、かっこいいじゃないか?』


 ずっと先の未来で、この日のことを何度となく思い返す度に、 森沢は、なぜか祖父のこの言葉と、自分の頭を撫でてくれた彼の掌の重みを思い出す。




-----------------------------------------------------------------------


 唯を捕まえることに成功した喜多嶋一族が宴会場に再集合してからまもなく、披露宴会場は、喜多嶋紡績の今後を話し合うための場所となった。だが、明子を傷つけた達也が含まれる喜多嶋一族に意見を言う権利はない。ただ、六条源一郎からの提案を黙って受け入れるのみである。


「喜多嶋紘一氏を始めとする役員の全てを、今年の末日を持って解任する」

 つい一時間ほど前まで花婿が座っていた席から、源一郎が発表した。


(やはりな) 

 森沢は、諦め顔で、その決定を受け入れた。予想通りといえば予想通り。娘を侮辱された源一郎が、すんなり許してくれるはずもない。一族も文句を言うつもりはないようだが、明子だけは、ひどく責任を感じているようだった。父に意見しようと立ち上がりかけた彼女の手に、森沢は自分の手を重ねた。

「最後まで聞いてからにしよう」

 今にも泣き出しそうな顔の明子の手を、森沢はしっかりと握り締めた。


 問題は、この後。源一郎がクビにした役員、つまり、喜多嶋一族をどうするかである。クビにした役員の代わりを務めるのは六条の社員ということになるのだろうが、喜多嶋を愛する森沢は、平社員でもいいから喜多嶋に残ることを望んでいる。だが、それが無理ならば、別の生活手段を考えなければならない。

 一生傍流だと信じて疑うことなく育った森沢は、葉月が言うところの自覚がない分だけ特別扱いや贅沢とも無縁だったから、非常に現実的な性格をしていた。働かざるもの食うべからず。無職になるなら、ふたり分の食い扶持を早急に確保する必要がある。

(俺ひとりなら、どうでもいいんだけど)

 そう。森沢がひとりであったなら、どうとでもなる。もしも彼がこの先も独り身であるのなら、彼は、次の職にありつく前に、宿代代わりに労働力を提供しながら世界中を旅するという兼ねてからの願望を実行していたことだろう。だが、今の彼には明子がいる。そして、明子は、生活の苦労をしたことがない六条家のお姫さまである。彼女ならば森沢がどんな苦境に陥ってもついてきてくれそうだと思うものの、無理はさせたくない。

(喜多嶋への復帰が無理ならば)

 彼は同じテーブルに座っている白い髭の老人……鶴川電器工業会長に目を向けた。かつて自分を社員に欲しいと思ってくれたこの老人は、今でも自分を彼の会社に入れてくれる気があるだろうか?

 しかしながら、まずは源一郎の心積もりを聞いておかなければ、この先の自分たちの身の振り方も決められない。森沢の手に包まれた明子の手から余計な力が抜けていくのを確認すると、彼は、再び源一郎の話に気持ちを集中させた。 


「尚、来年からの喜多嶋の主な3事業であります喜多嶋紡績と喜多嶋化粧品、そして喜多嶋ケミカルの代表者についてですが」

 源一郎が、読み上げていた書類から顔を上げ、聴衆の反応を楽しみにするようにあたりを見回した。



「喜多嶋達也氏に、やっていただきます」


(…………………………………… え?)



 源一郎が発表した名前が突飛すぎたのか、彼の発言を問い返す声さえ、誰の口からも出てこない。誰かが取り落としたグラスが割れる音が、やけに大きく響いた。誰からも反対の声が上がらないことに気を良くした源一郎が、社長をクビにされることが決まった父親の隣に座っている達也に着席を促した。 

 この発表に一番衝撃を受けているのが達也であることは、疑いようがなかった。達也は立ち上がったものの、源一郎が「人事権以外の権限を、全て達也に与える」と彼に伝えても、ぼんやりと源一郎を見つめ返すばかりである。


「あの…… 私、ひとりで、ですか?」

 十数秒の間を開けて、ようやく口がきけるようになった達也が、心もとなげにたずねた。

「そう、独りっきり。役員もなしにしてあげよう」

 満面の笑みを浮かべた源一郎が、首を大きく上下に動した。その凄まじく作為的な笑みに屈することなく、達也が「しかしですね」と抗う。鈍いのか、それとも必死なのか。たぶん両方なのだろうと森沢は思った。

「そんなの、無理です!」

 達也が悲鳴に近い声を上げたが、源一郎は気にする様子もない。

「なぜ? 君は、素晴らしく優秀なのだろう? 無能な他人を片っ端から見下すほどに」と、不気味なほど邪気のない笑顔で問い返す。

「君の会社の社員や取引先で君と関わりになった関係者の多くは、『喜多嶋達也は自分を一番偉いと思っている』という印象を持っているようだよ。私もまた、同じような印象を君に対して持った。君はきっと、『どいつもこいつも馬鹿ばっかり』 『自分だったら、もっと上手くやれる』『みんなが自分の邪魔ばかりする』って、常に、君以外の誰かを馬鹿にして生きてきたのではないのかね? だったら、誰もいないほうがいいじゃないか? 誰の邪魔もされずに、なんでも君の好きなようにやるがいい。きっと、君が望んだ通りの素晴らしい結果が出せることだろう。ああ、そうだ。やる気が出るように、条件付きのご褒美を提示してあげよう。株取引や不動産の売買で得られる利益に頼らずに、むこう3年以内に喜多嶋紡績グループが抱えている負債の全てを解消し、安定的な黒字経営に転じることができれば、10年で唯さんと離婚させてあげよう。更に、従業員の給料を物価上昇に伴う昇給プラス20パーセントアップさせることが出来たら、5年で離婚させてあげる」

 親切ごかしてはいるものの、源一郎の言っていることは無茶苦茶だった。


 達也は、確かに優秀かもしれない。そして、達也が邪魔にしてきた喜多嶋の役員たちの中には、彼に無能呼ばわりされても仕方がない者がいるのも事実である。だが、彼らのほとんどには、彼らが果たすべき役割があり、それなりに仕事をしてきたのだ。それを全て排除して、ただひとりの人間に肩代わりさせるなど、誰がやってもできるわけがない。しかも、今までの達也は、莫大な利益を手っ取り早く会社にもたらすために、本業とはかけ離れた株や不動産の取引に特化してきたようなものなのだ。喜多嶋紡績の事業そのものについては素人同然の達也が会社……しかも、これまで分業でやってきた3つの会社をいっぺんに背負うのは100パーセント無理だろう。ましてや、離婚のために源一郎が出した条件を彼がクリアすることなど、絶対に不可能である。

 何も知らない達也に全てを任せるぐらいなら自分がやったほうが遥かにマシだと、森沢でさえ冗談抜きで思える。他の者も、森沢と同様のことを考えたらしい。最初のショックからどうにか立ち直った一族から、源一郎に向けて一斉に抗議の声が上がった。


「六条さん」

 意を決したように立ち上がった伯父の紘一が、源一郎に意見を試みた。

「これでは喜多嶋が潰れてしまいます」

「それがどうした?」

 源一郎が言った。

「俺は、『潰さない』とは言ったが、『潰れない』とは言ってない」

「そんなっ!」

「もとより、あなた方には文句を言う権利はない。それにさ、株とか不動産って、そもそも金儲けの道具じゃねえだろうよ?」

 一族の抗議を突っぱねた源一郎が、達也に問いかけた。

「俺は、そういう他人様の努力の上前をはねるような儲け方は嫌ぇなんだよ。辞めさせた役員は平社員としておいといてやるから、わからねえことがあったら、プライドなんかかなぐり捨てて、社長自ら何度でも出向いて頭を下げて教えを請え。もっとも、何を訊いたらいいのかもわからないんじゃ話にならなねえがな。本当に潰れてしまう前に質問できるようになれたらいいな。会社が潰れたら、いろんなところに迷惑かかるからよ。寄ってたかって責められるし無能呼ばわりされるし泣かれるしで大変だぞぉ。プライドの高い君には堪えられないだろうな」

 源一郎が、情けない顔をした達也を見ながら、かかかと笑う。


 明子の父親なのだから、六条源一郎という男は、実は、とてもいい人なのかもしれないと森沢は思ってはいる。達也をこんな風に追い詰めるのは、何か深い考えがあってのことかもしれないと、思えないでもない。 だが、現在の森沢の目に映る源一郎は、どこからどう見ても残忍ないじめっ子。達也に嫌がらせできるのならば、会社のひとつやふたつ潰れようと構わないと思っている非道な悪役にしか見えなかった。

「お言葉ですが、六条さん」

 森沢は、怒りに任せて立ち上がった。だが、すぐさま、「意見は無用だと言わなかったか?」と、源一郎から睨まれた。射るような眼差しを向けられても着席しようとしない森沢に、「始めから、そういう約束だ」と、源一郎が冷たく言い放った。

「達也くんが唯さんと結婚すれば、うちは喜多嶋を潰さない。その代わりに、こちらの提案を飲んでもらうことを約束する。喜多嶋の人たちは、無条件にこの申し出を受け入れた。君もまた喜多嶋の一族に繋がる者だ。だから、君には私に意見する資格がない」

 馬鹿にしているのか、源一郎が噛んで含めるように森沢に説明する。 


「では、わたくしから、ご意見させていただきますわ」

 悔しさのあまり唇を噛んだ森沢の目の前で、弘晃の大叔母の葉月が手を挙げた。老いを感じさせない優雅さをもって葉月が立ち上がるのに合わせて、どこからともなく現れたホテルスタッフの梅宮が恭しい仕草で彼女の椅子を引いた。

「わたくしは、ご意見させていただいてもよろしいのでしょう? そのために呼ばれたのですものね?」

 渡されたマイクを手に、葉月が源一郎に確認する。

「六条さんのなさることにケチをつけるのは気が進みませんが、これは悪ふざけが過ぎると思いますよ。わたくしは、悪ふざけは嫌いです。喜多嶋が潰れるとわかっている計画に賛同するわけには参りません」

(葉月さま~、どうもありがとうございます~!)

 森沢は、浅紫の色留袖をまとった葉月の後姿を感謝を込めて見つめた。この先は彼女にどんな無理難題を押し付けられようと、二度と『妖怪ババア』などという悪態はつくまい。


 葉月に続いて、弘晃も発言してくれる。

「私も反対です。というより、せめて会社組織を維持するために最低限必要な役員を揃えていただかないことには、賛成のしようがありません。それから、3つに分けて運営されていた会社を、ひとつにまとめる理由がわかりません。私には、なんの必要もメリットもないように思うのですが」

 その後、弘晃の意見を援護するように、豊本自動車の社長と仁樹谷製薬の副社長も、喜多嶋を3社のままで残すようにと源一郎に勧めてくれた。 

「3つの会社のうち、喜多嶋紡績だけを達也くんに任せることにしてはどうでしょうか? 3分の1とはいえ、マネーゲームに現を抜かしていただけの自信過剰気味の無能…… 失礼、まだまだ未知数の若者に任せるのも充分に馬鹿げている……いえ、大変な冒険だと思いますが」

 物静かそうな風貌からは考えられぬほど、仁樹谷製薬の副社長は毒舌家であるようだった。


 六条源一郎は、特に言い争うこともなく、彼らの意見を受け入れた。その結果、喜多嶋紡績グループの主たる3つの会社を完全に分離独立させ、そのうちの一社である喜多嶋紡績を達也に預けることが決まった。 その上で、源一郎が、『これから先、喜多嶋紡績が多額の赤字を出して潰れることになったとしても、他の2つの会社に迷惑が及ぶことはなく、なにがあっても、全ての責任は達也に取らせる』と宣言する。

「最初に言った離婚の条件も有効にしておいてやるから、必死で頑張るといい。あ、それから、無理矢理利益を搾り出すようなこと……例えば大量解雇とか、社員と顧客の安全と健康を損なうような結果になるようなこととか、さっき言った株と不動産でぼろ儲けを企むことも原則禁止。達也くんが自分勝手にズルいことをしないように、うちからお目付け役を派遣することにしたから。英理子くん」

 源一郎が、壁際に控えていた達也の秘書の名を呼んだ。

「明日付けで、六条コーポレーションに移らせていただくことにしました。久本英理子です。これからは、専務……いえ、喜多嶋達也社長のお目付け役兼秘書として、存分に働かせていただく所存ですので、よろしくお願いします」

 緊張で顔を強張らせながら、事務的な口調で久本英理子が達也に挨拶した。



「さて、他の2社ですが、喜多嶋化粧品の経営は、引き続き喜多嶋伊織氏にお任せするとして、喜多嶋ケミカルは……」

 源一郎が森沢の父親に目を向けた。社長業よりも研究が好きな彼の父は、先生に指名されるのを恐れる小学生のように首をすくめていた。あまりにもわかりやすい反応に、源一郎が笑みを漏らす。


「お嫌みたいですね。じゃあ、そこの、お前」

 父を指名することを諦めた源一郎が、立ちっぱなしだった森沢を指さした。


「は?」

「おお、それはいい!」

 呆然としている森沢の横で、鶴川電器工業会長が快哉を上げた。白髭の会長に続いて、葉月や弘晃までもが、森沢を見上げながら拍手をし始める。

「え? ちょっと?」

 少し前にいきなり社長に指名された達也と同じく、森沢も、言われていることが全く飲み込めていなかった。

 自分を時期総帥に…… 数日前、一族からそう聞かされた時にも彼は驚いた。だが、それは、『いずれ』という猶予があった。少なくとも、彼の感覚では、20年以上先の話だった。

 それなのに、今度は源一郎が彼を社長にするという。しかも、あと半月足らずのうちにやってくる来年早々から、その任につけという。

「…………え? なんで?」

 森沢の口から、達也以上に間抜けな言葉が飛び出した。

「立ってたから」

 源一郎が答えた。

「『達也に社長なんか任せられない』 君は、そう思ったから、俺に文句を言うために立ち上がったんだろう? あいつにやらせるぐらいなら、俺のほうがマシ。そう思っていたんじゃないか? だったら、お前がやれ」

「……」

 源一郎が言い当てた通りのことを考えていた覚えがある森沢は、反論できない。

「いやなら、ケミカルも達也くんに任せるぞ」

「え……」

 それは、困る。『あいつにやらせるぐらいなら自分がやる』と思っている自分が確かにいる。


「では、こうしてあげればどうだろう?」

 黙ってしまった森沢の代わりに、白い髭を蓄えた鶴川電器の会長が源一郎と交渉を始めた。

「先ほど、達也くんが離婚するための条件を六条さんが提示しましたね。それを、俊鷹くんにも適応してあげてはいかがでしょう? 3年以内に条件をクリアできたら、その時には、六条さんが快く明子さんと彼との結婚を認めてあげるのです」


(……って、待てよっ)

 森沢は心の中で叫んだ。 

 源一郎に結婚を許してもらえるのは嬉しい。だが、その条件は、あまりにも厳しい。なにしろ、3社のうち、莫大な研究費を捻出しなければならない喜多嶋ケミカルが状況が最も厳しいのだ。ついでに、森沢は、達也とは違うから自分の能力に何の幻想も抱いていない。

(3年で黒字経営に転換し、しかも全従業員の給料20パーセント増しなんて……)

 彼の能力では到底成し遂げられないことを、彼は、わかりすぎるほどわかっている。

(しかも、結果を出すのが3年後ってことはだよ?)

 森沢が明子と結婚できるかどうかがわかるのも、3年後ということになる。3年も待たされるなんて、冗談ではない!


 そんな森沢の心情を察してか、それとも、紫乃との結婚を3年間待たされたことを思い出したのか、弘晃が、「でも、3年は長いと思うのですが」と、源一郎に言ってくれた。

 だが、その後の彼の台詞がとんでもなかった。

「例えば、3年で20パーセント増しのところを、1年で10パーセント増しにできたら、その時には、彼らの結婚を認めてあげたらどうでしょう?」

(さりげなく条件厳しくしてどうするんだよっ!)

 森沢は、潤んだ目で友人を睨みつけた。たが弘晃は、涼しい顔で彼に微笑み返しただけだった。そんな弘晃の横では、なにやら考え込んでいるらしい紫乃が、和臣に顔を寄せてささやいていた。

「ねえ? 条件次第で3年を1年に短縮できるってことは、1年を更に半年に縮めることも、条件によっては可能なのかしら?」

 明子の結婚が法的にも認められるのは、離婚が成立してから半年後である。1年を半年に縮めることができれば、森沢たちは当初の予定通りに結婚することができる。

 兄の隣で姉のささやきに耳を傾けていた明子の顔が一瞬だけだが期待に輝いたのを、森沢は見逃さなかった。だが、森沢が自分を見ていることに気が付いた途端に、彼女は急に申し訳なさそうな顔をしてうつむいてしまう。おそらく、森沢の苦渋を察してくれているからに違いない。本当に、自分にはもったいないぐらいのできた女性である。


 しかしながら、遠慮してくれる明子以外の誰ひとり、森沢には手加減してくれようとはしなかった。豊本自動車の社長が、手にした資料を調べながら、とても楽しそうに話に参加する。

「この資料によれば、ほとんどグループ全ての製品開発に関わる費用であるとはいえ、現在の喜多嶋ケミカルが抱えている負債は相当なものですよね。まずは半年以内に、これらの負債を0にする。それが達成できた時点で私たちが話し合い、1年後の目標が達成できそうだと判断した場合には結婚を認めてさしあげる……ということでいかがでしょう?」

(あの莫大な借金を、半年以内に返せ、ですと?!)

 森沢は、ムンクの《叫び》よろしく、両手で頬を挟んだ。森沢が結婚できるように、あれこれと源一郎に提案してくださる皆さまのご好意は嬉しい。だが、これらの条件をクリアするには森沢の能力が足りなすぎる。


 できることなら、このまま白目をむいて気を失いたい気分になっていた森沢に止めをさしたのは、こともあろうに彼の母親だった。

「お待ちくださいな。これでは、あまりにも不公平です」

 達也は嫌いな女と離婚するため、かたや、森沢は愛する女と結婚するため。今だって、うちの息子のほうが達也くんよりもずっと幸せである。そのうえ、なるべく早めに息子と明子が結婚できるようにと、多くの皆さまが知恵を絞ってくださっている。これでは、あまりにも愚息が恵まれすぎている。だから達也くんに申し訳ないと、文緒は主張した。 

「ですから、公平を期するために、閉鎖を検討していた喜多嶋紡績管轄の工場ふたつ、喜多嶋ケミカルが引き受けましょう」

(母さんの馬鹿ぁ~~っっ!)

 森沢は心の中で絶叫した。森沢が大人じゃなったら、母親の胸に拳を打ち付けて泣き喚いていたことだろう。


「できない」と言いたい。「こんなことやってられるか!」と、この場を辞してしまいたい。だけども、そんなことをしたら、明子との結婚を諦めたと源一郎に思われかねない。達也に喜多嶋ケミカルを渡すもの嫌だ。

 ジレンマに陥り、何も言えないまま目を白黒させている森沢に、「条件は出揃ったようだな」 と源一郎が声をかけた。

「で? どうする?」

「そう、ですねぇ」

 留保した答えを探すように、森沢は明子を見た。起立したままの彼を縋るように見上げている明子が、小さく首を振った。

「父の許しなんかいりません」

 明子は、小さいけれどもきっぱりとした声で森沢に自分の決意を告げ、彼に微笑んでくれた。

(そうは言ってくれても……ね)

 優しい彼女は、父親の許しを得ずに結婚したことを、森沢に気づかれないように気を使いながら、きっとずっと気に病むに違いない。そして、森沢は、そんな彼女を見るたびに、後ろめたい思いをするに決まっている。


(ここで彼女の言葉に甘えて逃げ出したら、男じゃない。『逃げられないなら、胸を張れ』ってか)


 森沢は覚悟を決めると、「条件をクリアすることができたら、本当に明子さんをいただけますか?」と、源一郎にたずねた。



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