Butterfly 6
「というわけで、達也は、明日、香坂唯……さんと結婚します。そして、私は今世紀最強の鬼姑になって、あの女を鍛え直すわ」
嫌悪している女の名前の後ろに嫌々『さん』を付けた多恵子は、おどけた顔で笑ってみせた。
「伯母さんには申し訳ないけど、『頑張ってください』としか言えない状況ですね。喜多嶋には大勢の従業員がいる。紘一伯父さんの言うとおり、達也ひとりの犠牲ですむのであれば、彼に我慢してもらうしかないでしょう」
森沢は達也に同情するまいと思っているようで、テーブルの上で組んだ両手の上に顔を押し付けたまま、苦渋に満ちた眼差しを多恵子に向けた。
喜多嶋グループ全体のことを考えれば、森沢や紘一が出した結論に落ち着くのが妥当なのだろうということは、明子でも理解できた。しかしながら、彼女は、多恵子の強がりを、「しかたがない」という言葉で受け入れたくはなかった。
なぜなら、明子は、達也がぎりぎりまで浮気をためらっていたことを知っている。少なくとも、彼は、明子の元に留まろうという努力だけはしようとしてくれたのだ。じんましんの辛さと、上っ面だけの愛情を妻に示す達也に耐えかねて彼が浮気をするようにしむけたのは、他ならぬ明子だった。
言い訳が許されるのであれば、その時の明子は、達也が本当に好きな女性と一緒になることこそが、最終的に彼の幸せにも繋がると信じていた。達也と同じく明子も、まさか唯があのような性格をしているとは思ってもみなかったのだ。
だが、今は事情が違う。唯の正体を知ってしまった達也が彼女と一緒に暮らしていくことは、苦痛でしかないだろう。明子は達也に幸せにしてもらえなかったとはいえ、そこまでの罰を彼に望んではいるわけではない。
「これから東京に戻って、達也さんの結婚を取り消してもらえるように、父を説得します」
「そんなことしなくてもいいわ。紘一じゃないけど、ここで許されちゃったら達也にとっても良くないと思うの。反省させるためにも、一度、思いっきり辛い目に合わせたほうがいいのよ」
多恵子が、きっぱりと首を振る。
「でも、一生だなんて……」
「でも、君が心配するほどのことには、ならないかもしれないよ」
気を揉む明子を森沢がなだめようとする。
「香坂唯は、達也に自分の本性を知られていることに気がついてないんだろう? もともとふたりは好きあっていたのだし、彼女は、これからも達也の前では猫を被って可愛い妻を演じ続けるだろうから、達也が騙されたフリをしてさえいれば、案外仲良くやっていけるかもしれない」
「森沢さんは、昨日の私と唯さんとの会話を聞いていないから、そんなことが言えるんです」
無責任なことを言い始めた恋人に、明子は恨めしげな視線を向けた。
「あれを聞いてしまったら、達也さんが今まで通りに唯さんに接するのは無理です。それに、騙されるフリなんて…… 達也さんに、そんな器用なことができると思いますか?」
これには、森沢も反論しなかった。
「無理だろうな。 あいつは、感情がそのまま顔にも声にも出るから」と苦笑いする。
「ところで、彼女、そんなに酷かったの?」
「ええ」「かなり」
多恵子と明子が、同時に大きくうなずいた。
「あんな人と一生一緒にいなくてはいけないなんて、いくら何でも達也さんが可哀想です。それに、達也さんは、始めから唯さんと浮気をするつもりはなかったと思うんですよ。それを、私が……」
『達也さんが浮気するように小細工を弄したんです』と、思い切って告白しようとした途端、彼女は、突然、向こうずねに強い痛みを覚えた。
「それは、そうかもしれないな。いつだったか、俺が注意した時には、達也は浮気なんか絶対にするつもりはないと言っていたからね」
痛みに驚いている明子に代わって、森沢が話し始める。
(もしかして、わざと蹴飛ばされた? 誰に?)
愕然としながら、明子は森沢を見た。だが、彼の席は、明子のすぐ右隣である。足を踏むことならできるが、すねを蹴るには位置的に無理がある。無理があるのは、左隣の多恵子も同じだった。
(このふたりではない ……とすると?)
明子は、彼女の真向かいに座って息子の話に熱心に耳を傾けている文緒を凝視した。
「それならば、どうして達也くんは浮気したのかしら? どうして気が変わったのかしら? なにかきっかけがあったのかしら?」
明子の視線になどまるで気がついていないかのように、多恵子に顔を向けて文緒がたずねる。
「ですから」
『それは私のせいです』と、再び明子が打ち明けようとしたところ、今度は先ほどよりも強く蹴飛ばされた。
(やっぱり、森沢さんのおかあさまの仕業?)
「ああ、それはね。 怪文書のせいよ」
痛みと驚きで明子が顔をしかめている間に、多恵子が答えた。
「怪文書というより、送り主不明で達也に送られてきた調査報告書ね」
(きた)
明子は緊張しながら多恵子に目を向けた。その怪文書とは、明子が父の秘書の葛笠に頼んで作ってもらい、達也の机の上に置いてきたものに他ならないはずなのだが……
「興信所というと、探偵さん?」
文緒が、身を乗り出しつつ、好奇心で一杯の眼差しを多恵子に向ける。
「そうだと思う。なんとか探偵事務所って印刷された封筒に入っていたから」
(え? 封筒?)
「その怪文書って、興信所が作って、郵送…… されてきた物なんですか?」
明子は、多恵子に確認した。
「そうよ。ちなみに、郵便受けから出して、なんにも考えずに達也に渡してしまった馬鹿は、この私」
「で? そこには、なにが書かれていたの?」
「3年前に達也と香坂唯を別れさせたのは、私だって」
「それ、本当のことなの?」
「まあ、そうね」
多恵子が肩をすくめる。
「差出人不明の報告書を、達也くんは信じてしまったというの?」
「笑い飛ばしてしまうには、内容が妙に具体的だったのよ」
多恵子が文緒にうなずいた。
「例えば、私が香坂唯にいくら渡したか……とか」
「金額まで書かれていたんですか? 具体的な?」
ますます困惑しながら明子が、多恵子に確認する。
「ええ。他にも、私が香坂唯に紹介した女の名前とか」
「女の人を紹介したんですか? ガロワさんじゃなかったんですか?」
「まさかあ」
明子の質問に、多恵子が笑いながら首を振った。
「ウォーキングもまともにできないモデルを、ポールが雇ってくれるわけがないじゃない。その場で梱包されて日本に送り返されるのがオチだわ。私が紹介したのは、カミーユって昔なじみよ。彼女なら顔が広いし、面倒見がいいから何とかしてくれるかな……と期待したのだけど」
だが、彼女も香坂唯を持て余し、とりあえずモデルの養成所のようなところに放り込んだらしい。報告書には、その養成所で唯がいわれのない差別やイジメを受けたことまで、実名入りで、かなり具体的に書かれていたという。
「でも、今回の胡蝶のオーディションには、唯さんも参加していますよね? ガロワさんは、怒ったりしないんですか?」
首を捻りたくなる気持ちを抑えながら、明子は話を続けた。
定権はポールにあるけれども、オーディションを催すのは、あくまでも喜多嶋化粧品。契約書にそう書いてあるから、彼もしかたなく我慢しているのよ。でも、よかった。あの報告書。明子ちゃんが達也に送ったのではなかったのね」
多恵子が明子の両手を強く握り締めた。
「テープの中で達也がそんなことを言っていたでしょう? 実は、ちょっとだけ疑っていたの。ごめんね」
「い……いえ、その……」
明子が返答に窮していると、使用人が文緒に、「奥さま、準備ができたそうです」と告げにきた。
「わかったわ。 ありがとう」
文緒は、使用人に微笑みを返すと、多恵子に声をかけた。
「1日に1回。書類やちょっとした荷物を乗せて、ここと喜多嶋の本社と川崎の工場とを巡回している車があるの。助手席でよければ、それに乗って先に帰る?」
「ええ、お願い。紘一がヤキモキしているみたいだから、早く帰ってあげなくちゃ」
多恵子は即座に立ち上がると、挨拶もそこそこに部屋を出て行こうとした。文緒が慌てて後を追う。
「準備が出来次第、私たちも、すぐに東京に向かうわ。私たちも結婚式に呼ばれているのでしょう?」
「……と、思うわ」
多恵子が自信なさげに文緒に答え、それから、申し訳なさそうな顔で明子と森沢に詫びた。
「ごめん。考えなしにここまで来てしまった私がいけないんだけど、あなたたちは、結婚式に来る必要はないからね。達也のことは、『いい気味』ぐらいに思ってなさい」
「それは、多恵子さんが命じることではなくて、ふたりが決めることだわ」
文緒が笑いながら多恵子をたしなめた。
「なにしろ、このふたりにも深く関係のあることですからね。他人事だと割り切るかそうしないかは、この子たちが考えて決めることよ。大丈夫。年寄りが余計な心配をしなくても、この子たちは、自分たちにとって一番良かったって思えることをするはずだから。だから、知らせに来てくれて、ありがとう。あなたも、達也くんのことで自分を責めたりしないようにね」
多恵子を励ます文緒の声が、廊下の向こうに遠ざかっていく。その声が聞こえなくなるのを待ちかねていたように、森沢が、「ごめん!」 と明子に頭を下げた。
「はい?」
戸惑う明子に、森沢が告白する。
「実は、俺も、達也が言っていた報告書というのが明子が用意したものではないかと疑っていたんだ。もっとも、初めは達也の言いがかりだと思っていた。だけど、君が達也のせいでじんましんに苦しめられていたことや、家同士の結婚という性質上、余程の落ち度がない限り達也が離婚を承諾しないだろうことを考えれば、君が達也を浮気させ、動かぬ証拠を手に入れた上で彼に離婚を迫るということも有り得ないことではないだろう? だけども違ったんだな。疑ったりした自分が恥ずかしいよ」
だが、恥ずかしいのは、むしろ明子のほうである。
「違うんです……じゃなくて、違わないんです。いえ、違わないんだけども、違うというか……」
明子はうつむくと、激しく頭を振った。
「調査報告書ならば、私も葛笠さんに頼んで作ってもらったんです。でも、お義母さまが話していらした報告書は、私の報告書とは別物だと思います。私の報告書には、お義母さまが渡したという手切れ金の金額までは書かれていません」
「フランスに渡った香坂唯が紹介されたという女性の名前も?」
「書かれてませんでした」
明子は断言した。唯の渡仏後の生活についての記載は、葛笠が作成した報告書にはなかった。
「他に書かれていたことといえば、唯さんが日本に戻ってきてからのことばかりです。モデルの仕事が少なくて金銭的に辛い生活をしていたとか、レストランで夜遅くまでアルバイトをしていたこととかです。その報告書は、封筒には入れずにホッチキスで留めて、達也さんの書斎にあった仕事の書類の中に紛れ込ませました。それで…… その、ごめんなさいっ!」
机に突っ伏すようにして、明子は、森沢に謝った。
「喜多嶋をピンチに陥れたのは、私です。理由は、森沢さんが想像した通りです。でも、こんなことをするべきではありませんでした。怒られても愛想を尽かされても、しかたがないと思ってます。本当に、ごめんなさい」
明子は、頭を下げた。
喜多嶋を陥れるような真似をした明子に、森沢は失望するかもしれない。彼女の顔も見たくないほど怒るかもしれない。もしかしたら、すっかり嫌われて、この場で『別れよう』 と言われてしまうかもしれない。
悲しいけれども、仕方がない。悪いことをしたのは、自分なのだから……と、そこまで覚悟していた明子の頭上に降ってきたのは、森沢の拳骨 ……ではなく、暖かくて大きな掌だった。それから、喉を鳴らすような笑い声。
「も、森沢さん?」
明子は、恐る恐る顔を上げた。彼女と目が合うと同時に、森沢は耐えかねたように笑い出した。
「あ、あの?」
「ご、ごめん。明子の悪事って可愛いなあ……と思ったら、つい」
謝りながらも、彼は楽しそうに笑うのをやめない。
「か、可愛い?」
「ああ。君の話を聞く限り、その報告書には、『ふたりを別れさせたのは、多恵子伯母さん』かもしれない……ということと、『帰国後の香坂唯が辛くて可哀想な生活を送っています』程度の事しか書かれていないんだろう? わざわざ君が教えてやらなくても、その程度のことなら、達也はとっくに知っていたよ」
「へ?」
驚いた明子は目を見開いて森沢を見つめた。知っている?
「な、なんで?」
「だって、『喜多嶋の誰かが香坂唯をパリに追いやったんだろう』程度のことなら、俺だって、直接、達也に言ったことがあるから。それに、香坂唯の現状ならば、久本さんに調べさせたとかで達也もかなり前から承知していた」
「そうなの? かなり前から……って、いつ頃ですか?」
「俺が達也の浮気を疑って、あいつに注意したことがあるって、さっき話しただろう? あの時だから、君と達也が結婚してから半月ぐらい経った頃かな。俺が夜中にかけた電話に君が応対した日があっただろう? あの翌日」
つまり、明子のじんましんが発症するきっかけとなった出来事があった次の日である。明子が達也の書類に報告書を紛れ込ませたのは、それよりもずっと後のことだ。
「じゃあ……」
「君が仕込んだ報告書に書かれていた程度のことでは、浮気はしないという達也の決意は揺るがなかったと思うよ」
苦笑交じりに言いながら、森沢が明子の鼻の頭を突っついた。
「そ、そうだったんですか」
明子は下を向いた。ホッとしたけれども残念でもあるような…… なんとも複雑な気分である。
「ひょっとして、そのことを、ずっと気に病んでいた? 達也を陥れてしまったって?」
しおれる明子を、森沢が笑いながら胸元に引き寄せた。
「かまうものか! あいつが君にしたことを考えれば、君にもそれぐらいの報復をする権利がある。でも、あまり効果がなかったみたいだから、俺が浮気した時には、もっとすごい報告書を作らなくちゃね」
「え?」
「まあ、そんな時は永遠に来ないと思うけど」
見上げる明子の額に、ニヤリと笑いながら森沢がキスを落とす。
「そんなこと、あったら困ります。嫌、ですよ」
明子が甘えるように森沢の胸を叩いた。
「だから、今のは絶対にありえない仮定の話だって」
森沢が、甘え返すように明子の髪に頬を摺り寄せた。
「それはさておき。君の言うとおりならば、達也に送られた調査報告書は、君のも含めて2通ということになるな」
「正確には、明子ちゃんの報告書以外にひとつ以上の報告書が存在する可能性があるということだ」
それまで、眠っているように静かだった森沢の父の信孝が、おもむろに口を開いた。彼の存在を忘れかけていた明子は、あたふたしながら森沢から離れた。
「それは、内容的には明子ちゃんが用意したものと似ているようだが、明子ちゃんのものよりも詳しい。だが、明子ちゃんと同じ意図で作られたものかどうかは、今のところ疑問だな。達也くんの浮気を阻止するために、香坂唯の悪口をふんだんに書き込んだ結果、似たような内容の報告書になった可能性だってないとはいえない」
「なるほど。それならば、一族の誰かが作った可能性もあるね」
森沢がうなずいた。
「心当たり、ある?」
「俺にわかるわけないじゃないか。そういうことは、ママに聞きなさい。ママは、何でも知っている。なあ?どう思う?」
信孝が部屋の入り口に目を向けた。
「思い当たるフシは、幾つかあるわね」
多恵子の見送りを終えて戻ってきた文緒が、途中で退席したとは思えないほど自然に3人の話の輪に加わった。
「3年前の事を調べていた人ならば、5人ほど心当たりがあるわ。まず、ひとり目は秀則大叔父さま、それから杉並の幸成さん。このふたりが香坂唯の過去を調べた目的は、いまお父さんが言ったように、香坂唯を貶めて達也くんから遠ざけるのが目的ね。ふたりが報告書を作らせたかどうかは知らない。でも、達也くんに意見してやるのだと本人たちが意気込んでいたという話ならば聞いてるわ」
話しながら、文緒が、食後のデザートのアップルパイを自分と明子の皿に取り分けていく。
「3人目は、達也くんの秘書の久本さん」
久本も、探偵を使って香坂唯を調べていたらしい。
「それは、報告書を受け取った後に、達也が裏を取ろうとしたってこと?」
「そうよ。おじさまたちが香坂唯さんのことで、達也くんや久本さんに探りを入れていたようだったから、達也くんだって、自分なりに唯さんのことを調べさせるだろうと思ってね。だから、久本さんに確認してみたの。そうしたら、すでに、差出人不明の報告書が達也くんのところに届いているっていうじゃないの」
文緒が楽しそうに微笑んだ。
「久本さんは、悩んでいたわ。報告書に書かれていることが真実だと知った時に達也くんが取るであろう行動を恐れてね」
「それで、母さんは、彼女になんて言ったの?」
「『握りつぶしちゃったら?』って、そそのかしてみた」
文緒が小さく舌を出す。
「……」
森沢が呆れたような眼差しを文緒に向けた。だが、怒る気にはなれなかったようだ。彼は、聞こえよがしなため息をつくと、文緒に続きを促した。
「その後、久本さんがどうしたのかは知らないわ。たぶん、都合の悪いところを適当に削って達也くんに報告したんじゃないかしら。心当たりの4つ目は、うちのライバル会社。とはいえ、これは憶測の粋を出ないわね」
「でも、充分ありうるね。達也が浮気して六条さんが暴れてくれたら、彼らにとってこんなに楽しいことはないだろうから」
森沢がうなずく。
「そして、心当たりの5人目は、明子ちゃん」
文緒が明子に微笑みかけた。
「実は、私、達也くんが浮気するように、あなたが裏で画策したに違いないって、ずっと疑っていたの」
「でも、明子は違う。彼女のせいじゃない!」
森沢が、かばうように明子の体に腕を回した。
「確かに、彼女も報告書を作ったそうだけど、でも違う。それより、なんで母さんは明子を怪しいと思ったわけ? 彼女を疑う根拠でもあるのかよ?」
「あったわよ。だって、私は、明子ちゃんが六条社長の秘書を使って香坂唯のことを調べていたことを知っていたもの」
文緒が、喧嘩腰の息子に平然と言い返し、ついで、明子に謝った。
「ごめんなさいね。私は私で、人を使ってあなたの周りを調べさせていたの」
「なんで、そんなことしたんだよ?」
森沢が眉を吊り上げる。
「なんでって、明子ちゃんの弱味を探るために決まっているじゃないの」
文緒は悪びれない。
「私ね。結婚式の日に、雨に濡れている香坂唯さんを見たの。達也くんも、きっと彼女を見たのだと思うわ。その結果が、あれよ。彼の心は、どうやら彼女のことで一杯になってしまったらしかった。明子ちゃんのことは目にも入らない」
結婚式での達也の様子に呆れた文緒は、この結婚は長く続かないだろうと確信した。彼女の予想通り、達也の浮気を疑う六条家は、結婚式の翌日から達也の行動を見張りはじめた。そのうえ、結婚式から1ヶ月ほどした頃には、じんましんを患った明子が長期で実家に帰ってしまった。本社勤めの喜多嶋一族の中にも達也と明子の不仲と彼の浮気を疑う者が現れ始めた。
「六条さんが喜多嶋を潰しにかかるのは、時間の問題でしかないと思ったわ。だから、その時のために、少しでもうちに有利になる材料が必要だと思ったの」
そんな折、文緒は、六条源一郎付きの若い秘書の葛笠が、明子に頼まれて香坂唯を探っていることに気がついた。文緒は、葛笠が唯の何を探っているのかを調べさせた。葛笠は、初対面の相手に対しても印象が残りやすい。彼の行動をトレースするのは容易だった。
「目や足の悪い人を差別するつもりはないのだけど、隠密行動をするには、あの若い秘書さんは目立ちすぎると思うわよ」
「たしかに、そうですね」
文緒から苦笑交じりに意見されて、明子は顔を赤らめた。
3年前に達也と香坂唯が別れた経緯と現在の唯の様子を葛笠が探っていると知った文緒は、明子がそんなことを知りたがる理由を考えた。真っ先に思いついたのは、明子も他の親戚たちと同じように、唯の卑しさをあげつらって達也を自分の元に引きとめようと思っているのだろうということだった。
だが、それは文緒の読み違いだった。明子が実家から戻った途端、今度は、達也が家を飛び出した。
「だから、私は、達也くんを引き止めるのではなく、達也くんを唯さんに返すために、もっとはっきり言ってしまえば達也くんと離婚するために、明子ちゃんが、なんらかの形で調べ上げた情報を利用したのだろうと思った」
文緒としては、この時点で、明子がしたであろうことを兄の紘一に話すなりして、達也が家に戻ってくるように働きかけるべきだったのかもしれない。喜多嶋全体にとっては、それが最善だっただろう。だが、ここで、彼女にとって困った事態が発生した。
達也が喜多嶋家からいなくなってから間もなく、彼女の息子の俊鷹が、明子に急接近し始めたのだ。しかも、どうやら俊鷹は明子に恋をしているらしい。そればかりか、明子も俊鷹を憎からず想っているようだった。「こんどこそ、両想いだ」「あのふたりは、絶対に、『ただの友達』という間柄じゃない」。そんな報告が、東京在勤の喜多嶋ケミカルの社員や、森沢と明子が一緒にいるところを見かけたリナから、次々に文緒にもたらされた。
明子がしたであろうこと明るみにし、達也の浮気を阻止して、喜多嶋を救うか?
それとも、息子の幸せを考えて、達也に浮気させておくか?
一時期、文緒は本気で悩んだ。だが、ほとんど情報を与えずに東京へ息子の様子を見に行かせた彼女の夫が血相変えて『俊鷹が明子ちゃんに恋している』と報告しに戻ってきたのを見て、文緒は、喜多嶋グループなどこの際どうなってもいいから、息子の恋を応援してやろうと決めた。
「おかあさまは、私がしたことに気がついていらしたのですね。それで、さっき、私に打ち明けさせまいとしたんですね?」
「だって、息子に失望したばかりか、大好きな嫁にまで裏切られていたと知ったら、多恵子さんが可哀想そうだと思ったのだもの。それに、あなたがしたことを察していたのに何も手を打とうとしなかった私も、あなたと同罪だわ。でも、多恵子さんの話にひどく驚いていたところを見ると、俊鷹が言うように、達也くんを唯さんのところに走らせたのは、明子ちゃんが作った報告書ではないようね。となると……」
文緒が森沢に目を向ける。
「ライバル会社?」
「馬鹿ねえ。ライバル会社が、探偵事務所の名前と住所が入った封筒なんぞに調査書を入れて達也くんに郵送するものですか。達也くんが調べようと思ったら、すぐに足がついちゃうじゃない。ねえ、明子ちゃん」
「は、はあ。そうですね」
明子は、曖昧な笑みを返した。ちなみに、明子が報告書を素のままで達也の書類に紛れ込ませたのは、葛笠が報告書を六条コーポレーションの社名入りの封筒に入れて明子に渡してくれたせいであった。
「でもさ、興信所の封筒に入っていれば、情報の信憑性が上がるような気がするというか、ちゃんと調査したことのように見えないかい?」
「普通の家庭の浮気調査なら、そうでしょうね」
文緒が夫にうなずいた。
「でもね。今回の場合、企みがバレたら、間違いなく六条さんの耳に入るのよ」
「六条源一郎の前に、興信所の守秘義務は無意味だろうな」
「誰の企みかを、父に知られたら……」
首謀者とその一味は、確実に源一郎の怒りを買う。そして潰される。
その時、その場にいた誰もが、そう思った。
「じゃあ、いったい誰が」
「ふふふ…… 私ね、犯人が、わかった気がするの」
明子と森沢に、文緒が嬉しげに打ち明けた。
「本当?」
「たぶんね。さっき、多恵子さんが話してくれたことを、よくよく思い出してみて。多恵子さんが香坂唯に渡した金額や、パリでの彼女の生活を ―― 例えば誰かから苛められたかとかね ―― そんなことまで、誰よりも詳しく知っているのは誰? 浮気をするまいと決意している達也さんが心変わりして、一番良い思いをするのは? そして、ちょっとばかり浅はかで、六条さんの恐ろしさを、いまひとつわかっていないだろう人は、誰?」
「まさか……」
明子は息を呑んだ。
「唯さん?」
「証拠は、今のところないけどね」
文緒が明子に微笑みかけた。
「でも、考えれば考えるほど、彼女以外の仕業とは思えなくなってくるの。結婚式で達也くんの気を引くことには成功したものの、達也くんは、彼女が期待していたほど簡単に自分になびかなかった。でも……」
「でも、達也という後ろ盾がなければ、香坂唯は、この先も一生売れないモデルのままだ」
森沢が文緒の言葉を引き継ぐ。
「達也が戻ってこないことに業を煮やした彼女は、興信所に行って自分の調査報告書を作成してもらうことにした」
「だけども、唯さんが作らせた報告書は、調査して作られたものではなくて、ただ彼女が話したことを調査員が聞き書きしただけの物だった。昔の恋人の気を引かずにはいられないような、3年前に彼女を追いかけなかった達也さんに罪悪感を抱かせるような、そんな、とびきり可哀想な自分の物語だった」
明子が森沢の後を続ける。最後に信孝が、「そして、単純な達也王子は、あっさりと彼女の罠に引っかかり、大魔王の計らいで彼女と結婚するしかなくなったのでした。めでたし、めでたし」 と、拍手で話を締めくくった。
「めでたくない」
森沢が、ムッとした顔で父親に文句を言った。
「そうね。こんなに後味の悪い話は、めったにないわね。じゃあ、どうする?」
文緒が明子たちに問いかけた。
「私たちは、夕方までには、ここを出発するけど」
「どうするって……」
森沢と明子は、顔を見合わせた。声に出さずとも、相手の表情だけで、自分の考えが相手のそれと同じだということはわかった。ふたりはうなずき合うと、「一緒に行きます」と、文緒と信孝に向かって告げた。
「このまま、あの女の思う壺っていうのは癪だからね。結婚式は止められないかもしれないけど、せめて、達也が『一生』彼女と添い遂げないですむようにしてやらないと、俺たちも後味が悪い」
「ええ、私たちも、安心して幸せになることができないと思うんです」
なにより、ふたりは、香坂唯が許せなかった。
東京に戻ると決めたふたりは、文緒たちが出かける支度に追われている間に、明日するべきことを念入りに話し合った。そして、その準備のために幾つかの先に連絡を入れた。
そして、翌日……




