Butterfly 4
おかずのような具を小麦粉の生地で包み込んで焼いたおやきに打ち立てのそば。ハムエッグ入りのそば粉のクレープやアップルパイと、ハーブで味付けされた肉料理。そして、深皿にてんこ盛りになった野沢菜の漬物等々。明子をもてなすために用意された昼食のテーブルは、5人どころか10人がかりでも食べ切れなさそうなほどの料理で一杯になっていた。
その量の多さに明子と多恵子は目をみはったが、「屋敷にも研究所にも、自分たちに代わって平らげてくれる人は、たんといるから大丈夫」 だと文緒は気にする様子もない。
「ええと…… パーティーがあった日のことまでは、お父さんやリナちゃんから聞いて知っているわ」
……という文緒の言葉を受けて、野沢菜入りのおやきを頬張りながら話し始めたのは、森沢だった。
喜多嶋紡績の社長室で文緒から届けられた結婚式の写真を受け取ったこと、中村家に滞在していた明子に達也の目の前でプロポーズしたこと、そして、彼女から『YES』の返事をもらうべく家から強引に連れ出れだしたことまで、森沢は、ほとんど主観を混じえずに、多くの言葉を省いて端的に説明した。
ぶっきら棒な森沢の説明に文緒は呆れた顔をしたが、明子は、かえって彼の優しさを感じた。細かく説明しようとすると、明子を侮辱した香坂唯の言葉や、醜態を晒した多恵子の息子のことまで皆に聞かせることになってしまう。それでは明子や多恵子に気の毒だと彼は思ってくれたに違いない。
そっけない説明とはいえ、普段は感情豊かな息子らしからぬ無表情と事務的な口調から、文緒にも伝わるべきところは伝わったようだった。彼女は、森沢に突っ込んだ質問をすることもなく、「なるほど、状況はわかったわ」と言っただけで、彼の話を止めた。
「え~~ ここから先が面白いんだけど」
「そこから先は、今までに、あなたがどれほど大勢の女の子から 『ただの友だち』扱いされてきたかということを、わざわざ街中を駆け巡って、明子ちゃんに念入りに証明してみせたっていう話なんでしょう? そんな今更な話を聞かされたところで、お母さんは面白くもなんともないわよ。それに、そのことについては、あなたたちがここに来る前に、縒子ちゃんやリナちゃんが電話で面白おかしく聞かせてくれたしね」
文緒が息子にしかめ面を向ける。姉紫乃の夫の弘晃と同様、文緒も、ひとつの場所に居ながらにして多くの情報を手に入れる術を持っているようである。
「それで? このふたりが連れ立って中村さんのお家を出て行ってしまった後、あなた……というより、達也くんたちには、何があったの?」
「8時頃、だったかしらね」
慌てて口の中のそばを飲み込むと、多恵子が話し始めた。
その時の多恵子は、自宅でガロワと夕食を食べ終えたところだった。
いよいよ避けようがなくなってきた息子夫婦の離婚を前に落ち込んでいる多恵子を元気付けるために、紘一が、自分のかつての恋敵であり彼女の無二の親友でもあるガロワを寄こしてくれたのだ。ガロワは、外に食べに行こうと熱心に多恵子を誘ったものの、彼女は首を縦に振らなかった。もしも、自分がいない間に明子が戻ってきたら…… そう思うと、家を空ける気にはなれなかったのだ。
「なにがいけなかったのかしら?」
食後のコーヒーを飲みながら、多恵子は、自分らしくもない弱音を漏らした。
「うん?」
「うちの子。そりゃあ、完璧なお母さんだったとは言いがたいけど、でも、私、もう少しまともな子に育てたつもりだった。というより、こんなことになるまで、いい子に育ったと思っていたのに……」
優秀だけれども、人としての成長はいまひとつ。達也がそんなふうに育ってしまったのは、多恵子のせいではなく彼女を蔑んでいた姑が甘やかしたせいだと皆は言ってくれる。だけども、多恵子だけは、そんな慰めで自分を甘やかす気にはなれなかった。
確かに、姑は、なにかにつけて達也の肩を持ち、多恵子が彼を注意すれば逆に彼女を叱責するような女だった。しかしながら、多恵子も姑と同じ家で同じ時間だけ達也に接しているのだ。ならば、彼の今回の不始末の原因を、姑ひとりに押し付けていいはずがない。
「子供は親の思うとおりには育たないものだよ」
うなだれる多恵子を、ガロワが笑う。
「5歳の頃の僕は、母から何度も叱られても、スケッチブックにドレスを着たお姫さまを描くことをやめなかった。8歳の頃には、色とりどりの布地やレースやリボンで溢れかえった近所の仕立て屋に入り浸って父親を嘆かせた。10歳で姉のよそ行きのドレスを分解し、12歳で部屋のカーテンを切り取ってドレスを作ろうとして食事を抜かれ、14歳で親が決めた進路に納得できずに家出同然にパリに出て、引退間近の大御所デザイナーを拝み倒してメゾンの一員に加えてもらった。そして、それきり家には10年間寄り付かなかった。今思えば、僕は、親の言うことを何ひとつきいたことがない。タエコだって、そうだったろう? 自分がしなかったことを子供に求めたって無理だよ」
「そうかもしれないけどさ」
多恵子は頬を膨らませた。
そうかもしれない。 それでも、「でも……」という不満を口にせずにはいられない。
「若者の多くは、自分が思っている以上に無分別で、誰よりも自分が正しいと思っているものだよ。そして、恋は盲目だ。タツヤは、たまたまこのふたつが重なってしまっただけ。たまたまといっても、それほど珍しいことでもないけどね。でも、無分別で盲目だからこそ、できることだってあるんだよ。例えば、タエコがコウイチの嫁になったこととかね」
ガロワが、茶目っ気たっぷりに多恵子に片目を瞑ってみせる。
「タツヤは、ある意味、君とコウイチの血を非常に濃く受け継いだ子供だと思うよ。自分が 『こう』 と思い込んだら引くことを知らない。想いのままに突っ走る。上手くいけば誰よりも早く素晴らしい結果を残すことができるだろう。だけど、進む方向が間違っていた場合は、崖に落ちるか壁にぶつかるまで止まれない。それで、人の何倍も痛い思いをすることになる」
「それ、わかる」
多恵子は苦笑いを浮かべた。彼女自身、何度もそんな経験があった。
「タツヤにとっての不幸は、彼が背負っているものが大きすぎたことと、それ以上に、アキコちゃんが、とてもよい子だったことかな。おかげで、母親を含めてタツヤの味方をするのもが誰もいなくなってしまった。これから、彼は、自分の愚かさゆえに何もかも失うことになるだろう。そして、何度も後悔することだろう。だけど、そうやって10年ばかり過ごせば、今の彼よりも少しは賢くなるよ」
「そうなれば、いいんだけどね」
「なるさ。今の多恵子や僕みたいにね。失う怖さを知って、当たり前にあると思っていたものの有り難さを知って、自分よりも大事なものが沢山できたらね」
ため息をつく多恵子を慰めるように、ガロワが彼女の頭を撫でた。
「そうね。でも」
顔を上げた多恵子は、鼻の付け根に思いっきりシワを寄せた。
「昔の私は、そんな分別臭い大人が大っ嫌いだったわ」
「僕もだよ。そんなつまらない大人になるぐらいなら、死んだほうがマシだと思っていた」
ふたりは顔を見合わせると、声を立てて笑った。
それから間もなく、紘一から電話があった。今すぐに喜多嶋紡績本社に来るようにとのこと。あと30分ほどしたら、明子の父親の六条源一郎が訪ねてくるという。
「でも、明子ちゃんが……」
出かけるのを渋る多恵子に、「明子ちゃんは、もう戻ってこない」と苦しげに紘一が告げた。
「そう、ね」
多恵子が嘆息する。だからこそ、六条源一郎は、多恵子たちに会いにくることに決めたのだろう。
「すぐ行く」
多恵子は電話を切ると、喜多嶋紡績本社に向かった。
ガロワは当たり前のような顔をして、彼女についてきた。
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本社の会議室には、紘一と達也以外にも、紘一の弟の伊織など、パーティーの夜の親族会議に出席した人々のうち取締役役以上にいる者たちと他数名が集まっていた。数で言うなら、前回の半分程度。多恵子以外の女性もいるものの、前回以上に出席者全体における男性の割合が大きいことに、彼女は一抹の不安を覚えた。自分もそうだが、喜多嶋一族の男どもは概して熱しやすい。もしも、六条との話し合いの最中に先日のような乱闘騒ぎになったら……と思っただけで、多恵子は頭が痛くなってきた。
不安な要素は他にもあった。 達也である。顎から頬にかけて、彼の顔に大きな痣が増えていた。どうやら、今朝会社に行った後に、正面から誰かに力一杯に殴られたようである。まだ腫れがかなり残っているのか、頬のラインがいささか崩れていた。
(誰に? どうして?)
それより、今度は何をやらかしたのか?
多恵子は気になったが、今は、達也から事情を聞き出すだけの時間的な余裕はないだろうし、すでに紘一が聞き出しているはずである。多恵子は、衝動的に息子を質問攻めにする代わりに、努めて気を落ち着かせながら、今ここ場にいて然るべきもうひとりの若者の行方をたずねた。
「ああ、俊鷹ならば、今は長野にいると思う」
「帰ったの? こんな時に?」
世話焼きな甥っ子らしからぬ行動に、多恵子は眉をひそめた。
「いや、帰ったというか、こんな時だからこそ、行かせたというか…… いろいろと考えた上で、こうするのがベストだと思ったんだ」
「だから、つまり、どういうことよ?」
イライラを募らせた多恵子が紘一を問い質す。
彼女の質問に答えてくれたのは、彼女の夫ではなく、息子とふたりの秘書を引き連れて颯爽と会議室に入ってきた六条源一郎、すなわち明子の実父だった。
「俊鷹くんならば、達也くんを殴り飛ばした挙句、明子を連れて逃げました」
源一郎の朗々とした声が、主役の登場を告げるファンファーレのように会議室の隅々にまで響き渡る。
本人が意図的にやっているかどうかは不明だが、入ってきたタイミングといい、よく響く声といい、六条源一郎の登場は、どこか芝居がかっていた。映画やテレビのスクリーン以外の場所で見かけるのは稀なほど整った彼の容姿と、彼に付き従う者たち……父親譲りの美貌を持つ息子や能面を思わせる静謐な風情をまとった秘書とその部下の隻眼の若い秘書……といった外見的にも個性的な面々が、その印象を更に強いものにしている。
『俊鷹と明子が逃げた』 と源一郎から聞かされた者たちの反応は、まちまちだった。
驚きと落胆。 戸惑いと安堵。 様々な感情が入り混じったざわめきが会議室を満たした。
そんな中、紘一と達也、そして伊織だけは無反応だった。どうやら、彼らにとっては既知の事実であるようだ。多恵子はといえば、自分でも驚くほど落ち着いていた。いつかはこんな日が来ることを、自分は心のどこかで既に覚悟していたような気がする。それでも、「まあ」という驚きに似た声が出た。
「そうなのです」
六条源一郎は、悲壮感さえ漂わせながら重々しくうなずくと、無反応な3人の男たちのほうに、ゆっくりと近づいていった。
「ふたりは、前々から密かに想い合っていたようです。私は、明子を、うちの娘たちの中で最も常識的で、おとなしいばかりの娘だと思っておりました。その娘が、まさか、皆さまのご迷惑を省みず、このように大それたことをするとは…… 誠に……」
源一郎は言葉を切ると、全員の注意が自分ひとりだけに向けられるまで、充分な間合いを取った。
それから、彼は、達也に向き直ると、「誠に、申し訳ない」と、静かに頭を下げた。




