表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪い女のつくりかた  作者: 風花てい(koharu)
悪い女のつくりかた
69/88

Butterfly  3

 森沢の父親は、息子が発した『ストッキング』という単語に即座に反応した。それどころか、彼と熱い議論を戦わせていた研究所の職員たちまでもが、森沢の呼びかけに目の色を変え、まるで餌に群がる池の鯉のように、彼が持つ紙袋の周りに殺到した。 

「はいはい、沢山あるから、押さないでね」

 森沢が紙袋の中身を鷲掴みにしては、方々から伸ばされた手の中に押し込んでいく。手から手へと渡っていくそれは、誰の目から見ても明らかに女性もののストッキング…… いわゆる『パンスト』と呼ばれている爪先から腰までを覆うタイプの薄手の靴下であった。


「おおっ! この透け感! 素晴らしいなぁ! スッケスケだ!」

「しかも、良く伸びますねえ。 強度もありそうだ」

「それに、肌触りがいいわね」

 眺めたり引っ張ったり、それどころか手や足に履いてみたり…… と、職員たちは、森沢から受け取ったストッキングを受け取るなり、思い思いの方法で楽しみ始めた。 これがむさ苦しい男たちばかりの集まりならば変態の集団にしか見えないが、ストッキングに頬ずりしている職員の中には女性もいた。


「これは、いったい……」

「こんなことになるんじゃないかと思った」

 呆然と立ちすくんでいる明子の横で、「やれやれ」というように文緒が腰に手を当てた。

「誤解しないであげてね。 あれは、研究の一環だから」

 ストッキングに夢中になっている彼らに代わって、文緒が苦笑交じりに弁明を始めた。

 文緒によれば、森沢が持ってきたのは外国製のストッキングなのだそうだ。化繊を扱う喜多嶋ケミカルは、ストッキングに適した糸の生産販売も手がけている。そのため、他社の製品に遅れをとらぬよう、あるいは他社を出し抜けるようにと、日頃から研究に余念がない。他社から新しい製品が出れば、それらを買い漁って徹底的に分析し、研究に役立てている。

「でもね。国内の製品ならばともかく、他所の国のものとなると、あらゆるメーカーの新製品を漏れなく買い求めるというのは、現実的には無理な訳よ」

 今回森沢が持って来たのは、喜多嶋ケミカルが特にライバル視していなかった、アメリカに本社がある下着メーカーの製品だという。評判を聞きつけた研究所が新品を手に入れようとした時には、品薄状態で店頭から姿を消していたそうだ。

「それで、ホステスさんから?」

「お土産として、お店の女の子に満遍なく配ったお客さんがいたのですって」

 おかしな土産物のように思えるが、ストッキングはホステスにとって必需品でもあるので、店の子には評判がいいらしい。買ってくるほうにしても、センスの良し悪しを問われることのない品物なので配りやすいという。

「昔、父が、そうやって手に入れていたことを俊鷹が思い出してね。それで、ルミ子さんに頼んで、使い終わったのを集めてもらったって訳」

「森沢さんの、お祖父さま?」

 喜多嶋紡績前会長であり、達也の祖父でもある喜多嶋英輔のことである。

「ええ、昔は、気軽に外国に行けるわけでもなかったでしょう? それに、海の向こうの品のほうが、この国で作られるものよりも、ずっと進んでいたのね。だから、父が、彼女たちから使い古した舶来物のストッキングや化粧品なんかを譲ってもらって、それをお手本にして、できるだけ近いものを自分たちで作ろうと、この研究所で熱心に研究していたの」 

「なるほど、研究の為なんですね」

「いかがわしい目的に使うわけではないって、わかっていただけた? でも、明子ちゃん、本当にあんなのでいいの?」

 文緒が、すんなりと納得した明子に不安げな眼差しを向け、ついで、職員たちに混じってストッキングを手にはしゃいでいる息子を見て、しんみりとため息をついた。

「『あんなの』?」

「だから、俊鷹みたいなのが、あなたの旦那さんでもかまわないのって訊いているの」

 周囲の喧騒に負けぬよう、文緒が声を張り上げる。 

「使い古しのストッキングを嬉々としてもらってくる男なんて、本当は嫌なのではないの? 『プレーボーイ』とか『遊び人』とか、浮名だけは派手に流れているけど、本当はオクテで、女の子に気の利いた台詞ひとつ言えずに綿とか糸の話ばかりしてる変人だから、仕事がらみの女の子の友達は増えるけど、恋人にはふられてばかり。我が子ながら、見た目はそこそこのハンサムだと思うのよ。でも、俊鷹と付き合った女の子は全員、『その見た目に騙されたって』って言って去っていくみたいなのよねぇ。だから……」

 『本当に、あんな子を選んで良いの?』と、文緒の目が明子に問いかけている。

「確かに、第一印象と違っていたところは沢山ありますけど」

 明子の顔に思い出し笑いが浮かんだ。

「でも、私は、森沢さんが、『あんなの』でよかったと思ってます。彼が見た目どおりの人だったら、私は、むしろ森沢さんを嫌っていたのではないかと思うんです。私は、綿のことを楽しそうに話す森沢さんや、女性のお友達がたくさんいるのに実は照れ屋の森沢さんのほうが、ずっと好き……」

 明子は、口をつぐむと、周囲に目を向けた。

 いつの間にか自分ひとりだけが話しており、他の人々は頬を緩めながら彼女の話に聞き入っていた。森沢だけが、照れたように明後日のほうを向いている。


「わ、私こそ! 私なんかで、よろしいのでしょうか?」

 恥ずかしさのあまり、明子の声が上ずった。 

「私こそ、森沢さんには、もったいないです。 ……というより、 私、森沢さんの傍にいたくて、ここまでくっついて来てしまいましたけど、本当は、ご迷惑なのではないでしょうか? 私は、喜多嶋家の一族の皆さまの和を乱すようなことをしてしまいました。その上、父は傍若無人で、怒らせると何をするかわからないところがあります。『喜多嶋を潰さない』とは言ってくれたものの、父の言葉がどこまで本当なのか、情けないことに私にはわかりません。この先、どのようなご迷惑を喜多嶋にかけることになるか……」

 思いつめた明子の言葉に、文緒と信孝が顔を見合わせた。

「いやだ。 そんなふうに思ってほしくないから、あれだけ頑張って歓迎したっていうのに……」

「だから、花火の数は、もっと多めにしたほうがいいって、僕が言ったじゃないか」

 夫婦間で軽くもめた後、森沢の両親は明子に向かって、「迷惑だなんて思っていませんよ」と口を揃えた。 自分たちは、息子の変なところまで丸ごと受け入れてくれる人が嫁に来てくれること望んでいたのだと、彼らは明子に打ち明けた。 

「もちろん、俊鷹が選んだ人であれば誰であろうと反対しないでおこうとも思っていたわ。だけど、今あなたが言ってくれたことを聞いて、私は俊鷹があなたを選んでくれて良かったと心から思ったわ。ね、あなた?」

「うん。ママ」

 信孝が幸せそうに妻に同意する。

「君の言ったとおりだったね。ふたりが一緒になるのは運命だったに違いないよ」

「『運命』??」

 愛する妻の話の受け売りらしいとはいえ信孝の口から飛び出した非科学的な言葉に、明子のみならず一同が怪訝な顔をする。

「本当よ。あなたのお祖父さまは、そのつもりだったんだから」

 一番呆れた顔をしている息子に向かって、文緒がムキになって主張した。


 森沢の祖父の英輔は、亡くなる1年ほど前から長野の病院で療養生活を送っていた。毎日のように病院に通い、彼の世話を焼いていたのは娘の文緒だった。 

「ちょうど去年の今ごろ。 明子さんのお姉さまの結婚衣装のことで、俊鷹が父を巻き込んで、なにやらやっていたでしょう?」

「ウェディングドレスのコンテストのこと? 確かに発案者は俺だけど、じいちゃんに巻き込まれたのは俺のほうだよ」

 森沢がすかさず訂正を入れた。 

 些細な違いだと文緒は一笑に付した。だが、彼の言うとおり、彼の比較的小さな提案を、首都圏のアパレルメーカーやマスコミその他を巻き込んだ大イベントにまで格上げしてしまったのは、紫乃の夫の弘晃の大叔母で中村一族の女性の頂点に立つ葉月という老女であり、『手伝ってほしい』という彼女の要請に応じた英輔だった。 おかげで、森沢は、病床にいる英輔の代わりに、葉月から顎でこき使われることになったのだ。

 調整や折衝などの対外的な活動に回された森沢との接点はほとんどなかったが、姉の大事なので、明子も妹たちと共に率先して葉月を手伝った。その折、葉月は、遊び人だとばかり思っていたのに実は誠実で骨惜しみなく働く森沢と 華やかな姉の陰で霞みがちではあるものの紫乃の足りないところを補って姉妹を堅実にまとめている気配り上手の明子に目をつけたらしい。紫乃の結婚式から数週間後。 礼を言いがてら英輔の見舞いに訪れた葉月が、『ふたりを一緒にしてはどうか?』と、彼に熱心に勧めていったという。

「明子ちゃんみたいに優しくてしっかりした娘さんならば、俊鷹みたいなお調子者を落ち着かせるのにピッタリだろう ……というわけよ」

「さすが葉月さま。あのドタバタの中で、そんなことまで画策していたとは……」

 森沢が、感じ入ったように唸る。

 

 以前から、六条家の娘のひとりと自分の孫のひとりが結婚したら楽しそうだと思っていたこともあり、葉月の話を聞いた英輔は、結構その気になっていたそうだ。長女を嫁に出した悲しみから源一郎が抜け出せたら、葉月に頼んでふたりを引き合わせる席を設けてもらおうか、あるいは若い中村夫妻に頼んで、さりげなくふたりを会わせてみようか……と、英輔は文緒に楽しげな計画を打ち明けていたという。  

 その矢先、英輔の病状が悪化し、とうとう帰らぬ人となった。看病で忙しくしていた文緒が、父親の思惑など全く知らない紘一から達也と明子の婚約が成立したことを聞かされたのは、英輔の臨終の場であった。  紘一は、紫乃の結婚式で明子を見初めたのだという。

「戦争が終わった途端にフランスにタエコを探しに行ってしまった時にも驚いたけど、あの人、時々とてつもない行動力を発揮するのよねぇ」

 『トンビに油揚げをさらわれるとは、まさにこのことだ』と、文緒がため息混じりに述懐する。


 明子を息子の嫁にしそこねたことは残念ではあるものの、所詮は実行に移されなかった計画である。文緒は、英輔の思惑を紘一に聞かせることなく、明子と達也の結婚を祝福することにした。

「そうしたら、あの結婚式でしょう?」

 文緒が、不愉快そうに顔をしかめた。

「達也くんは、明子ちゃんに目もくれないし、俊鷹は俊鷹で、花婿さんよりも明子ちゃんと親しそうだし……」

 後日出来上がってきた明子と森沢が並んで写った写真と達也と明子が写った写真を見比べながら、文緒は、紘一と争ってでも明子を俊鷹の嫁にほしいと談判すべきだったと激しく後悔した。

 「だから。私は……」 と、続けて何かを言いかけた文緒が、彼女を呼ぶ声に応じて明子たちから視線を外す。『紡績の社長から、奥さまにお電話です』という知らせに、文緒のこめかみが軽く痙攣した。

 紡績の社長とは、現在話題に上がっていた紘一のことに他ならない。


「明子ちゃんは返さないからね」

 受話器を手にした文緒は、開口一番、兄に対して宣言した。だが、すぐに、気が削がれたように「多恵子さん?」と問い返す。

「いいえ、ここには来ていないわ。でも、彼女が、力ずくで明子ちゃんを取り返すつもりだというのなら、こちらにも、それなりに考えがありますからね。え? 違う? 家出? でも、なんで家出なんか……」

 受話器のコードを限界まで引っ張りながら、文緒が窓のほうに近づいた。「あ、いた」という文緒の声に、彼女の話に耳をそばだてていた者たちが、一斉に窓際に移動する。

 多恵子は、少し前に明子たちが歩いてきた道を走っていた。よほど急いでいるようで、慣れない雪道に足を取られて転んでも、すぐに起き上がって全速力で向かってくる。そんな彼女の後ろを、多恵子のコートらしきものを持った森沢家の使用人らしき女性が必死で追いかけている。どうやら、多恵子も、森沢家の敷地内にあるという研究所までの距離を甘く考えていたようだ。

「お義母さま、怒っているみたいですね」

「大丈夫だよ。きちんと話せば、わかってくれる」

 窓から下を見下ろしながら呟く明子を守るように、森沢が彼女の肩に手を回した。


「多恵子さん、いました。こちらに……研究所に向かっているわ。あ、また転んだ。あ~あ、ドロドロになっちゃって……しかも、どうしてヒールの高い靴なんか履いているの? 危ないったらありゃしない」

 受話器を手にしたまま、文緒が兄に実況報告する。

「それで? 彼女を、どうしたらいいの? 『とりあえず、すぐに帰るように言え』? 『拒否したら、首に縄つけてでも連れてきてくれ』 ……って、お兄さま。それは乱暴というものでしょう? 多恵子さんが家出するなんて、よほどの事だと思うのよ。たぶん、明子ちゃんのことで意見の相違があって、それで夫婦喧嘩になったのでしょうけど…… え? 『違う』の? 『俺と多恵子は永遠に仲良しこよし』だ? はいはい、ご馳走様。  じゃあ、なんで? ……………… は? 『結婚式に出席するのが嫌で逃げた』? ちょっと待って! 結婚式ってなに? 達也くんが結婚するの?」


「達也が?」「達也さんが?」

 明子と森沢は顔を見合わせると、お互いに問いかけた。 


「誰と?」






「もちろん、あの女とよっ!!」

 髪を振り乱し、全身泥と雪まみれになって研究所に入ってきた多恵子は、寒さで歯を鳴らしながら喚いた。

「あの女って、達也くんが浮気していたっていう人のこと?」

「そうよっ! でも、そんなことは、この際、どうでもいいわ!」

 多恵子は、泊り込みの職員用に常備してある毛布を着せ掛けようとした文緒の手を払いのけると、もうじき他人になる予定の彼女の嫁にまっすぐに近づいていった。 

「ごめんなさいっ!」

 前置きもなく達也を捨てて家を出て行ったのだから責められて当たり前だと、叱られる覚悟を決めた明子の目の前で、多恵子がおもむろに床に這いつくばった。

「お義母さま?」

「達也のせいで、あなたがどれだけ辛い思いをしていたのか、私、ちっともわかってなかった。私と紘一は、あなたを手元においておきたくて、あなたの気持ちなんて考えずに、達也との仲を戻そうとしたり、少しでも長く家に引きとめようとした。自分勝手なことをして、本当にごめんなさい。申し訳ありません」

 面食らっている明子に向かって、多恵子が涙ながらに謝罪を繰り返す。


「お義母さま。 謝ったりしないでくださいな」

 明子は、多恵子の前に膝をつくと、土下座している彼女の両肩を掴んで、無理矢理起こそうと試みた。それでも、多恵子は、どうしても頭を上げようとしない。 

「お義母さま。お願いですから。やめてください」

 明子は必死になって頼んだ。

「私のほうこそ、お詫びしなくちゃいけないんです。お義父さまにもお義母さまにも、とても可愛がっていただいたのに、急に家を飛び出したりして……」

「そんなことない!」

 怒りにかられた多恵子が、ようやく顔を上げた。 

「あれで飛び出さないほうが、どうかしているわよっ! むしろ遅すぎるぐらい! でも……」

 多恵子の声が震えた。

「私たちのこと、許してくれるの?」

「許すもなにも……」

 明子は、大好きな姑に微笑みかけた。多恵子のことを恨んだことはない。

「本当? 本当に?」

「はい」

「じゃあ、達也と別れちゃっても、明子ちゃんのこと、ずっと娘だと思っててもいい?」

「私も、おかあさまって呼び続けてもいいですか? おとうさまのことも?」

「うん! 嬉しいっ! ありがとう! 紘一も、絶対に喜ぶわっ!」

 喜色に顔を輝かせた多恵子が、両手を一杯に広げて明子に飛びついた。後ろにひっくり返りそうになりながらも、明子はなんとか多恵子を受け止めた。

 

 しばらくの間、ふたりは、泣き笑いしながら、互いを労わりあった。やがて、多恵子は、全てを吹っ切るかのように、すくっと立ち上がると、「それじゃあ、私、帰るね」と文緒に告げた。

「あら? もう帰るの? 一晩ぐらい泊まっていけばいいのに」

「そうですよ、伯母さん。せっかく家出してきたんでしょう?」

「家出? そんな話になっているの?」

 多恵子は怪訝な顔をし、「紘一ったら、早とちりねぇ」と、夫に悪態をついた。

「明日の結婚式には、なにがあっても出るわよ。そりゃあ、あの女を嫁にするのは気に入らないけど、こうなった以上は腹を括るわ。勘当したとはいえ達也を育てた責任は私たちにあるんだから、列席してくださる方には誠心誠意謝るつもりよ。でも、他人さまに頭を下げる前に、どうしても明子ちゃんに謝っておきたかったのよ。せめてものケジメをつけておかないと、気持ちの収まりがつかないじゃない」

「その明日の結婚式というのが解せないんですけど」

 森沢が困惑したように眉間にシワを寄せた。

「本当に達也が結婚するんですか? でも、あいつなら、昨日、香坂唯の正体を目の当たりにして、完全に彼女に愛想を尽かしたとばかり思っていたんですけど…… なあ?」

「ええ。達也さんが、今さら唯さんと結婚したがるとは思えないのですけど」

 森沢に水を向けられた明子も熱心にうなずいた。 

「結婚したがってないわ。だから、結婚させるのよ」

 面白くなさそうに多恵子が言った。 

「これだけ、周りを不幸にした責任取るためにね。もともと自分が悪いのだし、喜多嶋を救うためならと、あの子も納得しているわ」

「え? ちょっと待ってくださいよ? 『喜多嶋を救うため』ってなんですか?」

「お義母さま。いったい『誰』が達也さんを『結婚させる』って言っているんですか? それに、よくよく考えたら、おかしいです。達也さんに私が何をされたかなんて、お義母さまは、どうやって知ったんです?」

 明子と森沢が多恵子に詰め寄った。 

「そんなこと、どうだっていいじゃない」

 しゃべりすぎたと思ったのだろう。多恵子は急にそっけなくなり、一刻も早く、この場から立ち去りたいような素振りをみせた。

「じゃあね。後は私たちでどうにかするから、あなたたちは、ここで幸せに暮らしてらっしゃい」

「そういう訳にはいきません!」

「ストップ」

 多恵子と、森沢と明子の間に割って入った文緒が、この場の雰囲気に似合わぬほどのんびりとした笑顔で提案した。


「ともかく、お昼にしましょう」

「ご飯なんて食べている暇はないのよ。時間が押しているの。急いで帰らなくちゃ」

「いいえ。是非とも食べていってもらわなくっちゃ。今日はね、明子ちゃんに食べさせようと思って、沢山用意したのよ」

 文緒が有無を言わさぬ笑顔で多恵子に勧める。

「そして、食べながらでいいから、私にもわかるように始めから順を追って話してちょうだい。どうやら喜多嶋グループ全体に関わることだし、この子たちも、このままじゃ気持ち悪いでしょうから。それから、俊鷹」

 文緒が息子を振り返る。

「ここに連れてくるのが思っていた以上に早いと思ったら…… あなた、昨日、明子さんを、どうやって家から連れ出したの?」

「話せば長くなりますが……」

「長くても結構よ」

 鼻の頭をかきながらボソボソ言っている森沢に、文緒が微笑む。 


「それから、明子ちゃん」

「はいっ」

「あなたは、話したくないことまで話さなくてもいいですからね」

 緊張しきっている明子に、文緒が柔らかく微笑んだ。


「じゃあ、ともかく場所を移しましょうね。あなたもよ」

 文緒が夫の信孝に声をかける。

「ストッキングは、とりあえず他の人に預けて、一緒に来て話を聞いてくださいね」

「……ちぇ」

 信孝は、つまらなそうに舌打ちすると、手にした細長い布の切れ端を同僚に託して、従順に妻の言いつけに従った。 


(森沢さんのおかあさまって……)

 明子は自分の考え違いを改めた。

 昨日から今朝に至るまでの明子の印象では、文緒は、森沢が評したとおりの、『普通の主婦』だった。

 少しばかり浮世離れした感じはあるものの、人並み以上に才気ばしったところがあるわけでもなく、先頭に立って皆をまとめているようにもみえない。今だって、それほどのリーダーシップを発揮しているとも思えない。だけども、皆が、ごく自然に彼女の柔らかい言葉に従っていく。 

(さりげなく、すごい人なのかも?)

 明子は、彼女の中に、普通とは思えない何かを感じ取っていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ