Butterfly 2
翌朝。
森沢が目を覚ますと明子は傍らにはおらず、寝室と続き部屋となっている彼の居室で、ぼんやりと雪を眺めていた。森沢が強引に連れてきてしまったせいで荷物を持たない明子は、彼の母親が用意してくれていたアラン模様が編みこまれた白いセーターを着ていた。サイズが大きかったのか、手の甲の半分が袖で隠れている。彼は、そっと明子に近づくと、覆いかぶさるようにして背中から明子を抱きしめた。考え事に没頭していたらしい明子は、驚いたように身を固くした。それに構わず、森沢は、花の香を含んだシャンプーの香が残る彼女の髪に自分の顔を押し付けた。
「おはよう。風呂、入ったの?」
「お、おはようございます。その……地図があったので」
言い訳するように明子の声がうわずる。
「地図って、これ?」
森沢は、手を伸ばすと、明子の膝の上に乗っていた4つ折りの紙を摘み上げた。そこには、この屋敷の簡単な見取り図が描かれていた。その手跡から、文緒自らが描いたものであろうと思われる。広い上に増改築を繰り返した屋敷の中で明子が迷うことのないようにとの、母の心遣いであろう。
「そのメモを見たら、お風呂場のひとつが近くだったので…… 着替えもいただいていますし、お母さまたちにお目にかかる前にシャワーだけでも使わせてもらいたいと思って、勝手にお借りしてしまいました。それと、洗面所にあったドライヤーも」
遠慮がちに明子が森沢に報告する。
明子と両親は、昼食の席で、再び顔を合わせることになっている。森沢たちの到着を待ちわびて夜更かしをしたため、本日の森沢家は使用人も含めて昼始まりにすると、昨晩文緒が宣言したからだ。
「なんでも好きなだけ使ってかまわないよ」
気兼ねしているらしい明子を安心させるように森沢は微笑みかけた。だが、彼と目があった途端に明子の表情が暗く沈んだ。
「昨日は、ごめんなさい」
「明子ちゃ…… いや、明子」
うつむいてしまった明子の頭に手を置くと、森沢は近くにある椅子を足で引き寄せて座った。
「謝らないでほしいって、もう何度も言ったよね?」
泣く子を諭すように森沢が静かにたずねると、明子はコクリとうなずいたものの、「でも……」と、続ける。
「『でも』じゃない。夕べは、俺も悪かったんだ。君を手に入れて、調子に乗りすぎていた」
森沢も、反省の言葉を口にする。
結論だけを先に言ってしまえば、昨夜、大胆にも森沢をベッドに誘ったように見えた明子は、やはり、彼が良く知っている『良い子』で他人に気を使いがちな明子だった……というだけのことである。だからこそ、彼女は、真夜中に自分の我がままで別の部屋を用意させるなど申し訳ないと思ってしまったのだし、ましてや、部屋の主である森沢を追い出したりソファーで寝かせたりということもできなかった。なにより、周りに囃し立てられて明子と同室となった森沢に肘鉄を食らわすような行為は、彼の面子を潰すことになるだろうからするべきではないと、彼女は咄嗟に考えてしまったらしい。
もちろん、明子が彼に対する愛情から同じ部屋で一緒にいたいと言ってくれたことは嘘ではないだろうし、それを疑うつもりもない。だけども、昨夜の明子は、自分が考えているほど気持ちの準備ができていなかった……というよりも、達也によってつけられた心の傷が癒え切っていなかったようだ。
昨夜、愛情を深め合う行為が深まってきた頃。明子は、突然脅えた様子を見せたかと思ったら、発作的な動作で森沢を激しく拒絶した。森沢も驚いたが、明子のほうが彼を拒んだ自分に驚いていたようだった。その後の明子はすぐに落ち着きを取り戻したものの、森沢は、彼女に我慢を強いてまで彼女が脅えるような行為を続ける気にはならなかった。彼は明子に夜着を着せると、謝り続ける彼女を彼の腕の中であやし続け、彼女が眠るのを見届けてから眠りについた。
拙速だった…… と、森沢は大いに反省している。
明子が達也の愛人と対決し、達也とも争った挙句に、その争いの最中に乱入してきた森沢のプロポーズを受けたのは、昨日のことでしかない。一日の間にいろいろありすぎて、明子の精神状態も常とは違って高揚していただろう。だからこそ、ふたりとも、いったん冷静になるべきだった。特に森沢は、その場の勢いに流されるべきではなかったのだ。
(それを、皆に囃されて、明子に誘われて、好い気になって……)
昨日の達也の発言を聞いているので、彼女がどれほど達也に傷つけられていたかを森沢は充分に理解していたつもりだった。ならば、達也と別れて森沢とやり直すと決めたからといって、明子の中ですべてがリセットされ、なにもかもが新しく始まるわけではないということも、彼は理解しておくべきだったのだ。明子は、依然として心に大きな傷を抱えている。じんましんが出なければ大丈夫とか、そういう話ではないのだ。
(ちょっと考えればわかることなのに……)
どれだけ愚かなことをしたと思い知れば、人は賢く振舞えるようになれるのだろう? 森沢は、数時間前の自分の横っ面を張り倒してやりたい気分だった。
「怖がらせて悪かったね」
明子をそっと抱き寄せながら、森沢は心から謝った。しかしながら、明子は森沢の謝罪を受け入れる気はないらしい。昨夜、泣きながら彼の腕の中で眠りにつく前と同じように「森沢さんは、ちっとも悪くありません」と頑固に繰り返した。
「じゃあ、もう謝りっこはなしだ」
「でも……」
「『でも』もなし」
森沢は、明子の唇を人差し指で押さえた。
「でも…… 嫌いになったり、しない?」
ようやく顔を上げた明子が、消え入るような声でたずねた。森沢を見つめるその顔は、むしゃぶりつきたくなるほど愛らしい。
「ありえない」
森沢は断言すると、『彼女を傷つけない』 と誓ったばかりの理性を一瞬で侵食した欲望の命じるまま、彼女を強く引き寄せた。明子は、何の抵抗もなく森沢に体を預けてきた。唇を重ねれば、むしろ積極的に彼を受け入れようとする。ここまでなら、明子も恐怖を感じないらしい。できることなら、今からもう一度、昨日できなかったことを試してみたいところだが、森沢は残った理性をかき集めると、自分に言い聞かせるように宣言した。
「今日は、ここまで」
「でも……」
「いいんだ」
少し物足りなさげな明子の表情に満足しつつ、森沢は笑った。
「もっと、ゆっくりでいいよ。ゆっくりと時間をかけてお互いを受け入れていこう? なに、時間はたっぷりあるんだ。結婚式だって、どんなに早くても半年先だし、今、俺たちの間に子供が出来ても、法的にややこしくなるだけだしね。焦ることないって」
冗談めかして森沢が提案すると、明子は少しホッとしたような顔でうなずいた。
「それじゃあ、俺も、シャワーをあびてくるよ」
森沢は、少しはれぼったい明子のまぶたに口付けると、着替えを手に風呂場へと向かった。 寒さに身を縮めながら手早く服を脱ぎ、蛇口を捻る。
「そんな情けない顔するなよ。明子が心配するだろ」
鏡に映る自分に話しかける森沢の呟きを、シャワーから迸る水音をかき消していく。
「『いい女は待たせるもんだ』って、祖父ちゃんだって言ってたじゃないか? それに、空腹は最大のスパイスっていうだろう? 少しぐらいお預け食らわされたぐらいで凹むんじゃない。彼女のほうが辛いんだ。でも……」
森沢は、湯気で曇りはじめた鏡の中の自分めがけて拳を打ちつけた。
「達也の奴…… あと5発ぐらい殴っておけば良かった」
---------------------------------------------------------------------
シャワーを浴びるために森沢が部屋からいなくなるやいなや、明子は深くため息をついた。息が抜けると同時に、肩と首が、がっくりと前に落ちる。どうしようもなく、彼女は自分が情けなかった。
(誘ったのは、私のほうなのに……)
ややこしい事情を幾つも抱え込んでしまった明子を、それでも望んでくれている森沢。自分が与えられるものならば全てを彼に捧げたい。昨夜の明子は、本当にそう思っていた。森沢が明子にとってかけがえのない存在であることを、この身をもって彼に伝えたかった。そして、彼にとっての自分がそういう存在であることを、彼から感じさせてほしかった。お互いに離れがたい存在だという想いを、彼と分かち合いたかった。
それなのに、森沢から与えられる快楽に身をゆだねる瞬間になって、明子は急に恐ろしくなってしまった。 そして、あろうことか彼女は発作的に彼を突き飛ばしてしまった。そのうえ、昨晩の彼が『続き』をしないでくれたことにも、今朝になって『ゆっくりでいい』と言ってくれたことにも、正直ホッとしていた。
(前回は、それで失敗したっていうのに……)
前回は……達也との結婚の時には、『ゆっくりでいい』という彼の言葉を信じてぼんやりしていたばかりに、彼に浮気されてしまった。だから今回こそは間違えまいと、彼女は無意識に意気込んでいたのかもしれない。そうしたら、今度は、森沢に『ゆっくりでいい』と言わせてしまうことになってしまった。
(今度は失敗したくないだけなのに、好きになった人と、一生笑いあって穏やかに暮らしていきたいだけなのに……)
「それだけのことなのに、なんで上手くいかないんだろう」
腕を組んだまま森沢が座っていた椅子に頭がくっつくほど体を傾げながら、明子はうめいた。明子以外の女性たちは、誰でも難なく男女交際を楽しんでいるように見えるのに、自分は、2回目になっても、オタオタするばかり。いつまでたっても、恋愛下手なままである。
空気が抜けた風船のように萎れていた明子の顔を上げさせたのは、控えめなノックの音だった。
入ってきたのは、森沢の母親の文緒だった。
「不自由はない?」
「はい。ありがとうございます」
明子は慌てて立ち上がると、文緒に挨拶と着替えや屋敷の見取り図の礼を言った。
「どういたしまして」
文緒が嬉しそうに微笑む。
「窓辺でひとりで暇そうにしている明子ちゃんが見えたって、真佐子さんが―― あ、真佐子さんっていうのは、うちで働いてくれている人なのだけれども―― 真佐子さんが言っていたから。それなら、お昼にはちょっと早いけれども、お茶でも一緒にいかがかしらと思ってお誘いにきたの。俊鷹は? まだ寝ているの?」
「いいえ。 今、シャワーを浴びてます」
「なら、行きましょ」
「え、でも……」
「いいの、いいの。ここに戻ってきた時に明子ちゃんがいなければ、俊鷹のほうから、こちらに飛んで来るわよ」
ためらう明子をおいて、文緒が、さっさと部屋を出て行く。森沢の強引なところは、あのマイペースな父親からではなく、この母親から受けついたものだったようだと思いながら、明子は慌てて文緒の後を追った。
廊下の角を何度か曲がるうちに、どちらの方向を向いて歩いているのかさえわからなくなってしまったものの、文緒からもらった地図によれば、居間というのは屋敷の1階の東南に位置する部屋のことであろう。そこは洋間で、一方の壁には暖炉が切られていた。だが部屋を暖めているのは薪の炎ではなく、炉の中に置かれた四角いストーブだった。とはいえ、ストーブの小窓から見える炎は暖炉で燃える火のような温かみがあり、室内には微かだが木を燻したような匂いが漂っている。
「薪ストーブですか?」
「いいえ。ペレットストーブっていうのよ」
薪ストーブに似ているが、ペレットという木屑を加工したようなものを燃料とするのだと文緒が説明してくれる。ちなみにペレットは、森沢家の裏山から出る間伐材で作られているのだそうだ。
「間伐材以外でもペレットを作れないかと思って、今、いろいろと試してみているのよ。例えば、もみ殻とかそば殻とか、とうもろこしの茎とか、綿を収穫した残りとか、バナナの木とかね」
どうやら、このストーブも、研究所の実験の一部であるらしい。
見慣れない物は、他にもあった。
「これ、糸車ですね?」
竹でできた小さめの自転車の車輪のようなものに、明子の目が止まった。
「やってみる?」
興味を示した明子に、文緒が誘いかける。彼女は、明子を糸車の前の床に座らせると、手を添えながら丁寧に使い方を教えてくれた。筋がいいと、文緒が明子を誉めそやす。
「この綿もね。うちで作ったものなの」
「ということは、これは和綿ですか?」
明子はたずねた。
「俊鷹から聞いたの? あの子、話し始めると長いから、うるさかったでしょう? 迷惑じゃなかった?」
「いいえ。ちっとも」
「本当に? ありがとう」
文緒が嬉しそうに微笑んだ。
糸車の操り方のコツを明子がつかみかけてきた頃、森沢が血相を変えて居間に飛び込んできた。
「ああ、よかった。ここにいた。部屋にいなかったから、独りでどこに行ったのかと……」
森沢がホッとしたように顔を和ませた。どうやら、勝手に出歩いたせいで、彼にいらぬ心配をかけてしまったようだ。
「すみません」
明子は謝った。だが、森沢が謝罪を求めている相手は、彼女ではなく文緒だったようだ。
「母さん。勝手に彼女を連れていくなよ」
「いいじゃない。あんまり束縛すると、明子ちゃんに嫌われるわよ」
森沢の過保護ぶりを文緒がからかう。
「わかっているよ。ただ、ちょっと心配なことがあったから慌ててしまっただけで……」
「心配?」
「たいした事じゃないけどね」
母親の追及を逃れるように、森沢が仏頂面でそっぽを向いた。
「ところで親父は?」
「研究所よ。呼んできてくれる? 電話で呼び出しても埒が明かないでしょうから」
「俺が?」
森沢が心底嫌そうな顔をした。だが、断る気はないようだ。
「ま、いいか。どうせ研究所にお土産を届けるつもりだったから」と言いながら、部屋を出て行こうとする。
「お土産?」
「うん。ルミ子さんから」
森沢は文緒に答え、明子には、「ちなみに、ルミ子さんっていうのは、君が焼き餅を焼いてくれていた、俺の留守中にケミカルの分室をたずねてきた花柄のワンピースを着た人のことだよ」と、思い出させてくれた。 文緒は、ルミ子に心当たりがあるようで、息子の返事を聞くと、「ああ、あれね」と合点がいったようにうなずいた。その後の森沢親子の会話から、明子は、ルミ子という女性が、昨日明子の父が話してくれた『らん』という銀座の高級クラブの次期ママ候補であることを知った。
「念のために言っておくけど、彼女も『ただの友達』だからね。なんだったら、一緒に研究所に行く? 昨日の証明の続きをしよう」
今さら証明してもらう必要を感じてはいないものの、明子は、森沢と一緒に外に出た。すると、なぜか、『行ってこい』と森沢に命じたはずの文緒も明子についてきた。
空は晴れ、陽光に照らされた雪が眩しいほどに白く輝いている。森沢家の背後にある山も雪に覆われ、その稜線を東西に長く伸ばしていた。裏山ほど近くはないが、森沢家の正面側にも山が見える。なるほど、ここは山の国なのだと明子は思った。どこに顔を向けても、必ず山が視界いっぱいに入ってくる。
だが、この地が閉ざされているかといえば、そうでもなさそうだ。
昨夜の宴会で明子に話しかけてくれた誰かの説明によれば、この家の近くには旧街道が通っているし、その街道を使えば、左右のどちらに進んでも、すぐに他の主要街道に入ることができる。昔からの交通の要所でもあり、夏の避暑地として多くの要人が訪れる軽井沢にも近い。
才覚のある人物ならば、この地の利を生かさないはずがない。つまり、喜多嶋一族は、栄えるべくしてこの地で栄えたのだ。
さて、山と比べれば小さいが人が住むには大きすぎるほどの森沢邸……旧喜多嶋邸を陽の光の下であらためて見てみれば、それは、純和風の玄関以外は洋風という、実に不思議な外観を持つ建物だった。
この統一感のなさは、その後の建て増しにたずさわった建築家にも引き継がれたようだ。もともと立方体に近かった建築物は、明子の目から見ても、どこをどう継ぎ足していったのか想像がつくほど、部分ごとにコンセプトがバラバラだった。そのうえ、屋敷の屋根や周辺には、黒っぽいパネルやら大きな風車やら、なにに使うのかわからないものが、あれこれと取り付けられていた。しかしながら、悪趣味な建物かといえば、そうとも思えない。全体として眺めれば、この屋敷には、なんとも言いがたい趣がある……ような気がする。
「その時々で新しい建築を取り入れた結果、こうなってしまったらしいんだよ」
言葉もなく屋敷を見つめている明子に、森沢が言い訳めいた口調で説明した。
家の敷地内にあるという喜多嶋ケミカル研究所に向かう前に、玄関を出た3人は、まず森沢の車に立ち寄った。車のトランクから森沢が引っ張り出したのは、薔薇の模様の描かれたデパートの紙袋だった。土産だと森沢は言っていたが、贈答品は入っている紙袋にしては、変な形に……まるで、中に綿でも詰めたかのように歪に膨らんでいる。
「何が入っているんですか?」と明子がたずねたが、森沢は「あっちについたら説明するよ」と、思わせぶりに微笑むばかりで教えてくれない。
「意地悪ねえ。とはいえ、恋人に見せづらいものではあるわよね」
恋人たちの後から歩いてくる文緒も袋の中味を教えてくれるつもりはないようだった。その代わりに、「あそこにあるのが、研究所よ」 と文緒が指を差して教えてくれた。
「あれですか、でも、研究所は、このお家の敷地内にあるとおっしゃってませんでしたか?」
道の彼方にある白っぽい建物に目を凝らしながら、明子が首を傾げると、「ええ、そうよ」と、文緒が答えた。
「もう少し家の近くに建てておいてくれたら、吹雪の日でも行き来が楽だったのにねえ」
「つまり、ここからあそこまで、全部こちらのお家の敷地内だということでしょうか?」
「そうよ。あれが囲っている内側が、うちの敷地なの」
文緒が、進行方向の左手側にある雪がこんもりと盛り上がったように見える土手のようなものを指差す。土手は、人の身長ほどの高さを持ち、森沢家と森沢家の背後にある山の裾を大きく囲むようにして研究所の向こうまで続いていた。昨夜は遠くにあるように見えたクリスマスツリーも土手の内側にある。クリスマスツリーのすぐ脇には森沢家の玄関に続く道があり、その道が抜ける所だけは土手が切れていたが、その代わりに、そこには木でできた屋根つきの門があった。「まるで、城か寺の入り口のようですね」と、言いかけた明子の目の前で、土手から雪の塊が滑り落ち、埋もれていた石垣の一部を露にした。
「まさか、本当に、お城?」
「元はね。昔の豪族の砦の石垣を、修復しながら利用させていただいておりまして……」
唖然とする明子に、森沢が苦笑しながらうなずく。なんでも、この石垣は、喜多嶋家がこの地で栄える以前から、ここにあったものらしい。地元の郷土史家によると、安土桃山時代よりも古い時代……武田信玄のひいお祖父さんが活躍した頃に作られたものだろうということである。この石垣と同時期に作られたとされる城の遺構や崩れた石垣も、裏山にあるという。
「その裏山も?」
「うん。うちの。……というか、紘一伯父さんの」
管理しているのは、もちろん森沢家である。
「ちなみに、この裏山って、どれぐらい奥まで続いているんですか?」
「う~ん」
森沢と文緒が同時に腕を組んだ。よくわかっていないらしい。
「農地改革の前は、もっとずっと広かったけどねえ」
無頓着な口調で、文緒が笑う。
東京では考えられないスケール感覚に明子が戸惑っている間に、3人は研究所に着いた。
-----------------------------------------------------------------------
森沢の父親の信孝は、化学繊維を主に扱う喜多嶋ケミカルの社長である。だが、彼は、社長に就任した最初から、社長業の3分の2を彼の義父であった故喜多嶋英輔に、英輔の死後は義兄と息子と妻に任せきりにし、自分は残りの3分の1……すなわち開発研究業務の統括者としての仕事に特化しているそうだ。
明子たちが喜多嶋ケミカル研究所兼本社訪れた時、白衣に身を包んだ信孝とその配下の者たちは、立ったまま輪になって熱い議論に熱中していた。森沢や文緒が呼びかけても、返事もしない。
「親父! 土産だよ!!」
業を煮やした森沢が叫ぶ。
「お待ちかねの、銀座のおねえさんたちが履き潰したストッキング!」
「は?」
驚いた明子は、穴が開くほど恋人を凝視した。
ストッキング?




