Butterfly 1
雪の中。再び動き始めた車が森沢の家に近づくにつれ、明子の緊張は高まっていった。
明子が森沢の母親の文緒の顔を見るのは、達也との結婚式以来初めてとなる。文緒は、喜多嶋グループの先代会長で森沢の祖父でもある喜多嶋英輔の娘であり、達也の父親である紘一の妹でもある。文緒にしてみれば、明子など、息子を惑わしたことで一族間のいざこざを引き起こし、彼女の実家を危機に陥れるやっかい者でしかないかもしれない。
(実際、そのとおりなのだから、仕方がないわよね)
明子は、膝の上においた両手をきつく握り締めた。こうなった以上、文緒に認めてもらえるように精一杯頑張るしかない。時間はかかるかもしれないけれども、明子ができることといったら、それぐらいしかないだろう。
(お義母さまも、そんなふうに思ったのかしら?)
モデルを辞めて喜多嶋の家に入った多恵子は、姑に気を使うあまり自分らしさを捨ててしまった。明子は、多恵子と同じ轍を踏んではいけない。それが、明子を可愛がってくれた彼女に報いる唯一の道であるようにも思える。
「心配しなくても大丈夫だよ」
急に無口になってしまった明子に気が付いた森沢が、陽気な声で彼女励ました。
「俺が達也に叩きつけた写真を送ってくれたのは母だからね。あの人は、喜びこそすれ反対なんかしないさ」
前方を見据え片手でハンドルを握ったまま、森沢が、手を伸ばして明子の頬に手をのばす。
「母さえ俺たちを祝福してくれれば、こっちのもの。こっちの人間全員を味方につけたも同じだから、君は気楽に構えていればいい」
「全員が味方?」
どうやら、文緒は、地元で大変な力を持った女性であるようだ。明子は、姉の紫乃をパワーアップさせたような女傑を思い浮かべた。
「森沢さんのお母さまって、すごい人なんですね」
明子が素直に感心すると、「すごいというのとは、ちょっと違うと思う」と、森沢が首を捻りながら苦笑いを浮かべた。
「君の言うとおり、あの変人親父とあえて結婚するような女だから、ただ者ではないのかもしれないし、政略結婚を蹴飛ばして地元民と結婚したせいで、近所では人気者だけどね。でも、母は、どこからどう見ても、ごくごく普通の主婦だと思うよ。さあ、着いたよ」
唐突に、森沢が車を止めた。
「え? ここですか?」
「そう。そこが俺んち」
森沢が前方を指差す。車のヘッドライトが建物の壁らしきものを照らしていた。しかしながら、森沢がエンジンを切った途端に、車内を照らす小さな灯りを残して、あたりは闇と静寂の中に沈んだ。
「本当に、ここなんですか?」
心細くなってきた明子が念を押す。森沢は、「確かにそうなんだけど、なんでこんなに暗いんだろう?」といぶかりながら、小物入れの中にあった小さな懐中電灯を手に車から降り、外側から明子のために扉を開けてくれた。明子は、森沢の手に捕まりながら、そろそろと車を降りた。手を引いてもらわなければ彼の姿さえ見失ってしまいそうなほど、外は真っ暗だった。常夜灯も、窓から漏れる灯りのひとつも見えない。
「小次郎の家を出るときに、『これから行く』って言っておいたのに…… みんな、薄情だな」
「仕方ないですよ。 真夜中ですもの」
ぼやく森沢を明子がなぐさめる。もしかしたら自分が歓迎されていないせいなのかもしれないと思ったが、彼には言わないでおいた。
「とにかく中に入って温まろう」
森沢が明子を支えながら前に進み始めた。家の周りは念入りに雪かきされているようで、視界が悪いことを除けば、雪に慣れない明子でも歩きづらいということはない。
普段は鍵など掛けないそうなのだが、ようやくたどり着いた玄関の戸は開かなかった。
「夜遅いですから。起こさないほうがいいですよ」
呼び鈴を押そうとした森沢を、明子の手が止める。
「そうだな。しかし、本当に真っ暗だなぁ。どうなっているんだろう?」
森沢が懐中電灯の灯りを上に向け、点灯していない玄関の常夜灯を照らした。
「停電でしょうか?」
「いいや、ここに限ってそんなことはないはずなんだ。それにこの時期には、決まって……」
ヒュ~~
突然聞こえた気の抜けたような音と光に、森沢が口をつぐんだ。音の出所を追って、ふたりが空を見上げる。それとほぼ同時に、 『ドーン』という大きな破裂音を伴って夜空に明るい花が咲いた。
「は? 花火!?」
目を瞠る明子たちの前で、更に2発の花火が上がった。一瞬で明るくなった空が、この家の門前に植えられているらしい大きな樅の木のシルエットを浮かび上がらせる。花火の火の粉は、しだれ柳のように地上に向かってゆっくりと降り落ちていきながら、徐々に明るさを失っていった。だが、再び闇が支配するその前に、今度は、樅の木がキラキラと輝き始めた。
「まあ!」
突然出現したクリスマスツリーの大きさと美しさに、明子は歓声を上げた。驚きはそこで終わらなかった。
「いらっしゃい!」 という声と共に、玄関の戸が勢いよく開いたかと思うと、家の中から飛び出してきた10人ほどの人間が明子たちを取り囲み、「おめでとう」と言いながら、ふたりに向かって一斉にクラッカーを打ち鳴らした。
「…………。いったい何の騒ぎだよ」
ひと通りの騒ぎが収まると、細長い紙テープの束や紙吹雪を頭に貼り付けたまま、びっくりしすぎて硬直している明子をしっかりと抱きしめた森沢が、土間と上がり口に集まっている30人ばかりの人々に非難の眼差しを向けた。
「いやあ。すまん、すまん。ちょっとやりすぎたかな」
「驚かせすぎちゃったわね」
コロコロとした笑い声を上げながら、森沢の父の信孝と一緒に、暖かそうなショールを羽織った女性が集団の中から抜け出してきた。顔はうろ覚えながら、たぶんこの人が文緒に違いないと、明子は思った。
「これ、母さんの仕業?」
「どうしても明子ちゃんを歓迎したかったのですもの」
森沢に詰問された文緒は、息子に申し訳なさそうな顔をしてみせながらも笑っていた。
「だけど、まさか、昨日の今日で、あなたが明子さんをうちまで連れてくるとは思わないでしょう? しかも、知らせてくれたのが遅かったから、歓迎したくても準備をする暇もないじゃない。それで困っていたら、皆さんがいろいろと知恵を絞ってくださってね」
文緒が集まった人々に感謝の眼差しを向ける。それを合図としていたかのように、「このたびは、おめでとうございます!」と、一同が、明子と森沢に向かって元気一杯に頭を下げた。満面の笑みを浮かべる彼らの頭上では、『祝! 俊鷹くん花嫁強奪! 歓迎! 明子さま』 と書かれた横断幕がひらめいている。
「ありがとう」
こういった展開をある程度予想していたのだろう。戸惑うばかりの明子とは反対に、森沢が礼の言葉と共に余裕たっぷりの笑顔を一同に返した。
「ありがとうございます。このたびは、お世話おかけします」
明子も、森沢の腕の中からペコリと頭を下げた。
「本当によく来てくれたわね」
恐縮する明子の手を文緒の温かい手が包み込む。
「とにかく中に入ってちょうだいな。こんな所で、いつまでも立ち話してたら、冷えきってしまうわ」
「そうだ。そうだ。寒かったでしょう? さあさあ、中へ、どうぞ」
集まっている人々がふたりを家の中に招き入れるように道を開けた。
「お腹すいてない? お風呂も沸いているけど、入る? 本当に、こんなのによくついてきてくれたわねえ」
森沢の腕の中から明子を奪い取った文緒が、あれこれと明子の世話を焼いてくれようとする。
「『こんなの』って、なんだよ? 『こんなの』って」
ふたりの後ろから、森沢が、文句を言いながらついてきた。
もともと喜多嶋一族本家の屋敷であった森沢の家は、基本的な作りは洋館であるようだが和洋折衷であるらしかった。
文緒に背中を押されるまま明子が連れて行かれたのは、建具を全て取り払って幾つかの部屋を繋げた畳敷きの広間である。2列にならんだ背の低いテーブルの上には、酒や料理が所狭しと並べられており、見たところ、ふたりが来る前から、かなり盛り上がっていたようだ。
「では、ようやく主役が来たことだしね」という森沢の父親の言葉で宴会が再開したものの、なにぶん、今は真夜中である。時間は遅いし、明日も仕事が待っている。なにより、駆け落ち同然で長野までやってきたふたりを、早いところ寛げる場所でふたりきりにしてあげようという思いやりから、宴は1時間足らずでお開きになった。
明子は、当然のように森沢の部屋で休むように指示され、森沢は、大勢の冷やかしと激励を受けて自分の部屋に押し込まれた。始めから、そのつもりで準備されていたのだろう。森沢の部屋は、当人が驚くほど片付いていたし、着の身着のままで転がりこんだ明子のために、彼女の着替えや洗面道具まで用意されていた。
「ちょっとっ!? みんな、調子に乗りすぎだってばっ!!」
森沢が、外側から抑えられた扉を壊しかねない勢いで叩く。彼は、見ている明子が可哀想になるほどうろたえていた。
「ごめんっ! すぐに別の部屋を用意させるから。でなければ、俺が、どこか他所で寝るから、君は安心して休んで……」
「森沢さん。待って」
明子は、恥ずかしさを押し殺して、窓から出て行きかけた森沢の腕を掴んだ。
「私は、ここで森沢さんと一緒でも構いませんから」
「本当に? ここで?」
「ええ」
驚く森沢から視線を逸らしつつ、明子はうなずいた。
「俺と、ふたりきりでも?」
「ええ」
うなずく彼女の耳元で森沢が息を呑む。
「怖くない? 俺、なにもしない自信はないけど」
「森沢さんとなら、怖いと思いません。 ……と、思います」
明子は、思い切って顔を上げると、森沢に微笑みかけた。
「本当に、本当にいいの?」
「くどいです。本当は、とっても恥ずかしいんですから、何度も念を押さないでください」
「あ、ごめん」
顔を赤らめながら文句を言う明子に森沢が詫びた。彼は、咳払いをひとつすると、明子の前髪をそっとかきあげた。そして、じんましんのためにかきむしった痕が微かに残っている彼女の額にキスを落とした。
「じんましんが出そうになったら、そう言っていいからね」
「…… はい、わかりました」
「じゃあ、その……遠慮なく」
明子が恥じらいながらうなずくのを確認すると、森沢は、すくいあげるように軽がると彼女を抱き上げ、寝室へと運んでいった。




