Emergence +1(side YUI)
達也さんから駆け落ちを持ちかけられた翌朝、私は、彼の奥さんの明子さんに会いに行こうと決めた。
明子さんのお父さんの六条という人は、いくつもの会社を持っている社長さんで、喜多嶋グループにも沢山の出資をしてくれているそうだ。だから、達也さんや彼の一族は、六条さんに頭が上がらない。達也さんが私と浮気していることを知った途端に、一族の人たちが大慌てしているのも、そのせい。浮気したことが知られると、怒った六条さんが喜多嶋を潰してしまうに違いないと、彼らは脅えている。だから、私と別れられない達也さんは、自分から家を捨てようとまで思いつめてしまったのだ。
「馬鹿みたい」
朝食の食パンをかじりながら、私は呟いた。達也さんも、他の人たちも無駄に大騒ぎしすぎだ。
いくら娘が可愛いからって、どこの世界に浮気した夫の会社まで潰してしまう親がいるかしら? そんな人がいるとしたら、親馬鹿というよりも、気が狂っているとしか思えない。それに、喜多嶋グループといったら大企業だ。あれだけ大きな会社が、そう簡単に潰れるわけがない。
「でも、本当に潰されてしまったら大変よね?」
ならば、明子さんを説得するしかない。詳しいことはわからないけれども、六条さんを怒らせてはいけないことと、六条さんが明子さんを溺愛していることだけは、間違いないのだろう。そういうことなら、仮に六条さんが達也さんの浮気に気がついたとしても、明子さんが父親をなだめてくれさえすれば、なんとかなるんじゃないかと私は思った。
私と明子さんは、いわば恋のライバル。そんな人に頭を下げに行くなんて、私としては死ぬほど屈辱的なことだった。だけど、彼女の他に話せる先なんか思いつかないから、嫌だなんて言っていられない。
だって、私の未来……じゃなかった、達也さんの未来がかかっているのだ。
そうよ! 達也さんは、ずっと家を継ぐために頑張ってきたのだもの。こんなことで、彼の未来を捨てさせるわけにはいかない。
「会ってしまえばなんとかなるわよ。うん」
私は、自分に言い聞かせた。明子さんは私の顔を見るのも嫌かもしれない。けれども、私には、明子さんを説得できるという自信があった。実は、私には、彼女を説得するための、ちょっとした『ネタ』があるのだ。
電話を使って方々に探りを入れた結果。明子さんは、彼女のお姉さんの所に滞在していることがわかった。私としては、明子さんを外に呼び出したかったのだが、私を明子さんの友達だと信じているお姉さんから熱心に誘われて、私のほうから明子さんを訪ねていかなくてはならなくなった。
もしかしたら、あの森沢って人が話したのかもしれない。
明子さんは私と達也さんとの関係を既に知っているようだった。ならば……と、私は、単刀直入に用件を切り出した。
「お願いです。 達也さんの会社を潰さないでほしいんです!」
愛人のままで構わない。正妻の地位は決して脅かさないから、このまま達也さんとの交際を続けさせてほしいという私の控えめ過ぎる望みを、明子さんは認めるつもりはないようだった。それどころか、彼女は、私を散々馬鹿にし、私が計画的に達也さんを奪ったのだと言い掛かりをつけてきた。
計画的だなんて…… そんなこと考えてみたこともない。
だいたい、なんで、私のせいなの? 見合い結婚だとはいえ、結婚式までに数ヶ月はあったと聞いている。それだけの時間があったというのに、彼の心を手に入れることができなかった明子さんだっていけないんじゃないの? 家柄が良ければ、それだけで男が自分を好きになってくれるとでも思っていたのかしら? そんな甘いことを考えているから、結婚式の日に久しぶりに現れた元恋人の私なんかに、あっさり奪われたりするのよ。っていうか、今回は、私から達也さんに言い寄ったわけじゃないわ。達也さんのほうから、私に寄って来たのよ。明子さんが彼のこと放っておくから。だから、あの人、寂しかったんだわ。
それに、自分だって達也さんのことを好きじゃないくせに。それなのに、自分の夫の浮気は許せないなんて、わがままにも程があるんじゃないかしら? 彼女は、きっと、他人に厳しく自分に甘い人なのだろう。だから、お嬢さまって嫌いなのよ。
この人とは話が通じない。だんだんイライラしてきた私は、誠意で明子さんを説得することを諦めた。
「でも、奥さまだって、本当は夫婦関係に波風なんて立てたくないと思っている。違いますか?」
私は、思い切って『取引』を切り出した。
明子さんは、しらばっくれたが、私には確信があった。明子さんは恋をしている。しかも、達也さんではなく、彼の従弟の森沢って人にだ。
真性のお嬢さまで、しかも気が弱そうな明子さんは、自分がスキャンダルの的になるのは耐えられないだろう。私たちの恋も見逃してもらうかわりに明子さんの恋にも目を瞑ってあげるのだから、明子さんにとっても悪い話ではないはずだ。
だが、私の予想に反して、パーティーであれほど仲が良さそうに見えた森沢さんと明子さんは相思相愛ではなく、単なる彼女の片思いでしかなかったようだ。森沢という人は沢山のモデルと浮名を流している遊び人らしいから、明子さんのほうから彼との距離を近づける勇気がないのだろう。
(ということは、明子さんが森沢さんへの秘めやかな片恋を続けるためには、今の立ち位置がベストってことよね?)
それは、ますます、私…… と達也さんにとって都合がいいかもしれない。『これはいける!』と私は思った。だけど、後から思えば、ここで調子に乗りすぎた私が馬鹿だった。明子さんは、私が思っていた以上に世間知らず、つまり、うんざりするほど清くて正しくて美しいお嬢さまだったのだ。
「だから、私に、おとなしく達也さんの正妻でいろというの? あなたは なんて、卑劣で、いやらしい人なの」
私の申し出を聞いた明子さんは怒り出し、酷い言葉で私を罵った。
馬鹿じゃないの? お高くとまってるけど、あんただって愛人の娘じゃない。あんたのお母さんは、あたしみたいに、他の女を泣かせて、あんたを産んだのよ。そんなあんたが、あたしを責める資格がある?
キレイ事、言ってるんじゃないわよ。
私は、怒りに任せて彼女に言い返してやった。そして、それは、彼女が一番触れてもらいたくない話題だったらしい。おかげで、私は、彼女を完全に怒らせてしまった。
「あなたの言いなりにはなりません。これは、あなたから達也さんに渡して」
明子さんは、私に彼女の名前入りの離婚届を突きつけた。どうやら、私は、達也さんを救うために来たはずなのに、逆に離婚を決定的にし、達也さんの会社の危機を自分から招いてしまったようである。
(ど、どうしよう……)
どうしよう。こんな離婚届をもって、達也さんに、なんて言って説明したらいいんだろう?
もらった離婚届けを手に私がうろたえていると、明子さんが「父は、喜多嶋を潰したりしません」と言った。
「は?」
「私は、達也さんと離婚できれば、それでいいの」
どうやら彼女は、そのために自分なりに準備していたようだ。自分と離婚した後は私が達也さんと結婚すればいいと、彼女は、まだ何も書かれていない婚姻届まで私にくれた。
(そ、そっか、潰さないんだ。それならそれで先に言ってくれればいいのに)
私は、少しばかり拍子抜けした気分で、年寄りの執事さんに見送られて、明子さんのお姉さんの家を後にした。
(でも、達也さんと結婚、ねぇ)
明子さんと別れても喜多嶋クループは無事で、勘当されなくてもよくなったとしたら、達也さんは今度こそ私にプロポーズしてくるかもしれない。いや、してくるだろう。でも、喜多嶋の家は、私を受け入れてくれないに違いない。私は、明子さんのようなお嬢さまではないし、達也さんのお母さんも私を嫌っている。きっと、『育ちの悪い娘だ』と見下されていじめられて蔑まれて……
「なんか、面倒くさいことになっちゃったなぁ」
麻布の坂道をヒールを鳴らして歩きながら、私が空に向かってため息をついていると、誰かが、『香坂唯さまでいらっしゃいますか?』 と声をかけてきた。
(やばいっ! きっ! 聞かれた??)
私は慌てて口を塞ぐと、声の主を探した。路肩に止まっていた胴体の長い黒い車 (たぶんリムジンというやつだ)の横に立っていた男が、私に向かって頭を下げた。 その男の顔には右目を縦に切り裂くような醜い傷があった。
(な、なに、この変な人? ひょっとしてヤクザ?)
警戒する私に男は、「わたくしは、六条コーポレーションで六条社長の秘書をしております葛笠と申します」と自己紹介した。
「社長が是非ともあなたにお会いして話をしたいと申しておりまして…… 急なことで大変申し訳ございませんが、ご同行をお願いできますでしょうか?」
(あの女っ!)
私は、心の中で明子さんを罵った。
私には、『喜多嶋には手出しさせない』なんて偉そうなことをほざいていたくせに、お父さんとこんな凶悪そうな人を使って、さっそく私に復讐をしかけてくるなんて…… なんて、えげつないこと考える女なのっ! ちょっとでも良い人だと思った私が馬鹿だったわ。やっぱり、お嬢さまよ! 嫌がらせが陰湿すぎるっ!
(に、逃げなきゃ)
逃げないと何をされるかわからない。社長さんとやらの所に連れて行かれる前に、あのリムジンの中に連れ込まれて乱暴されるか、もしかしたら殺されて東京湾に沈められてしまうかもしれない。
私は男から離れるように後ずさった。だが、恐怖で足が震えて上手く動かない。数歩下がったところで、片方のヒールが地面に引っかり、私は無様に尻餅をついた。動けない私に向かって、男が片足を軽く引きずりながら私に近づいてくる。
「た、助けて」
私は叫んだ……つもりだったが、大きな声が出なかった。腰が抜けたまま、後ろにいざるのが精一杯である。
(もうダメだ。殺されるっ!)
観念した私は、我が身を少しでも身を守るべく、とっさに両手で頭を覆った。
その時である。
男の背後から、「ダメだなあ、葛笠は」という、別の男の声がした。
「怖がらせてどうするんだよ。可哀想に。彼女、すっかり脅えてしまっているじゃないか?」
「ですが、和臣さま」
微かな不平を口の端に乗せて葛笠と呼ばれた男が呼びかけた。軽い足音がこちらに近づいてくる。
「大丈夫ですか? 怪我はありませんでしたか?」
和臣と呼ばれた人は、私の前に跪くと手を差し伸べた。優しい声の響きに少しだけ気を許した私は、おずおずと顔を上げ、差し出された手の先を目で追った。そして、彼の顔を見て息を止めた。達也さんも森沢って人もハンサムだけれども、この人とは比べ物にならない。彼は、一言で言い表すならば『王子さま』だった。
「葛笠が驚かせてしまったようで、申し訳ありません。この男は、女性に対する免疫がなくてね。特に、素敵な女の人の前に出ると上がってしまって、無口で無表情になってしまうようなんですよ。どうか許してやってくださいね
「は…… はい」
説明の半分以上は耳に入ってこなかったが、私は、夢見心地のままコクコクとうなずいた。
和臣と呼ばれていたその人は、明子さんの兄だと名乗った。
「君にしてみれば、僕たちに警戒するのは当然だよね? でも、危害を加えるつもりは全くないんだ。父は、だた君と話したいだけ。父との面談中は、けっして嫌な思いはさせないと僕が約束するから、僕を信じて父と会ってやってくれないかな」
和臣さんの微笑みに釣られるように私はうなずき、彼が差し出した手に捕まってリムジンに乗り込んだ。向かった先は、六条さんの会社ではなく茅蜩館ホテルだった。案内されたのはスイートルームであるようだ。
「父は、どうしても抜けられない用事があってね。悪いんだけど、夕方までここで待っていてくれるかな?」
和臣さんも用事があるとかで、私は、そこで数時間独りで待たされた。
日が落ちて心細くなってきた頃、六条さんが和臣さんと片目の秘書を伴ってやってきた。
「なんて愛らしいお嬢さんなんだ! まるで絵本の中から抜け出してきたプリンセスのように可憐で美しいじゃないか!」
部屋に入ってくるなり、六条さんが私を見て声を上げた。
「なるほど、こんなに愛らしいお嬢さんならば、達也くんが忘れられないのも無理はない。あなたの姿が脳裏に焼きついているのでは、どれほど価値がある女を手中にしたとしても、達也くんには物足りないと感じたことでしょう。ましてや、うちの明子ごときでは、彼の心に入り込むどころか視界にすら入らなかったのでしょうな」
「は、はあ」
大げさすぎるお世辞は頭から信じる気にはなれなかったけれど、自然に私の頬が緩んでいく。怖い人だとばかり思っていたのに、六条さんが変に陽気で可笑しなオジサンであったことで、私は、少しだけ安心していた。とはいえ、彼は明子さんのお父さんなのだから、油断は禁物である。
「あの、怒ってないんですか?」
「怒る? いやいや、怒られなければいけないのは、むしろ私のほうですよ」
おそるおそるたずねる私に、六条さんが首を振る。
「達也くんも先に言ってくれればよかったんだ。そうすれば、私も無理に縁談を進めることもなく、君や達也くん、そして明子にも辛い思いをさせずにすんだものを。いや、本当に、すまないことをした。申し訳なかった」
六条さんは、私に深く頭を下げた。そして、「償いをさせてもらいたい」と、私に言った。
「償い、ですか?」
「ああ。すべてをリセットし、本来あるべき姿でやり直すべきだと思うのだよ。つまり、君と……」
六条さんが私の鼻先を指差した。
「私?」
「そう! 君と達也くんだ」
六条さんがニッコリと笑った。
「まったく愛されない妻の地位にしがみつくよりも、別れてしまったほうが明子にとっても幸せだと思うのだよ。だから、ふたりが離婚したあと、君と達也くんに正式な夫婦として再出発してもらいたいんだ。明子には、すでに私から話してある。彼女も納得しているよ。すぐにでも離婚届を書くようにと言ってあるのだが……」
「あ、それなら、ここに」
私は、バッグの中から、明子さんに押し付けられた離婚届と婚姻届を取り出した。
「ありがとう! 明子から預かってきてくれたのだね。あの子は、なんて手回しがいいのだろう! 婚姻届まであるじゃないか!」
六条さんは大喜びで、私からひったくるようにして2枚の書類を受け取った。
「あとは達也くんのサインさえもらえば、離婚は成立だ! そして、この婚姻届に君と達也くんの名を書き込めば、君たちは晴れて夫婦になれる。そうそう、結婚式もしなくてはね。招待客には、最初の達也くんの結婚が私の間違いであったことを、私の口から詫びる必要がある。私が君を達也くんの妻と認めていることを知らしめなければ、世間が余計な気を回して、各々が勝手に喜多嶋に嫌がらせを始めないとは限らないからね。そのためにも、お披露目は大事だよ。おや? どうしたのかね?」
浮かない顔をしている私を、六条さんが不思議そうに見つめた。
「達也さんと結婚なんて…… 私は、そんなことをしてもいいのでしょうか?」
「もしかして、明子が、君を傷つけるようなことを言ったのかね?」
六条さんが、心配そうに私の顔を覗き込む。
「すまなかったねえ。あの子は、ちやほやされて育ったせいか、自分が男にフラれるなんて思ったこともなかったみたいなのだよ。プライドの高い子だから、自分から達也くんを奪っていく君に嫌味のひとつも言わずにおられなかったのだろう」
「いいえ。そういうことではなくてですね」
明子さんとは少しの言い争いはあったが、この陽気なお父さんに悲しい思いをさせるのも気の毒なので私は首を横に振った。
「でも、喜多嶋のお家の人は私を認めてくれないでしょうし、達也さんだって、明子さんを裏切っておいて、私と幸せになるわけにはいかないと思うのではないでしょうか?」
「なんだ。 そんなことか」
六条さんは、私の心配を朗らかに笑い飛ばした。
「大丈夫。 達也くんも喜多嶋の人たちも、私が説得してあげましょう。明子の父親の私が『かまわない』と言っているのだ。あなたと結婚しても私が喜多嶋を潰さないとわかれば彼らも文句はあるまい。いや、むしろ、あなたと達也くんがやり直すことに反対することこそ、私の望むところではない。そこのところを、彼らや達也くんに、私からきっちりと説明してあげましょう。そうすれば、君も安心して、彼のお嫁さんになれる。ね?」
「は、はあ」
六条さんの勢いに気圧されるまま、私はうなずいた。あまりにも急な展開に戸惑うばかりの私の背後から、和臣さんが、「そういうことならば、お父さん。善は急げといいます。今から喜多嶋さんたちに会いに行ってきたらどうでしょう?」と提案する。
「そうだな。ついでだから、結婚式の段取りもつけてくるよ。葛笠! 宴会を担当している支配人の梅宮さんを呼んでくれ。一番早くに大宴会場を使えるのはいつなのか、彼に聞きたいんだ」
やがてやってきた若い支配人は、愛想の良い口調で、「年内中をご希望でしたら、明後日であれ、大宴会場をご用意できます」と言った。
六条さんは、その場で、その日を私と達也さんの結婚式の日にすることに決めた。
「あ、あさって?」
「時間を置くと、ゴチャゴチャと煩わしいことを言ってくる者もいるからね。こういうことは、誰も文句が言えないうちに勢いで進めてしまったほうがいいのだよ」
何もかも心得たような顔で、六条さんが私に説明する。私は、結婚式の日まで、このスイートルームに滞在することを許された。
「式の日に備えて、その子を念入りに磨き上げておいておくれ」
慌しくコートを羽織ながら、六条さんが支配人に命じた。このホテルには、宿泊客やここで結婚式を挙げる女性を対象としたエステサロンがあるという。支配人は自信たっぷりに、「承知しました。これほどお美しい方ですから、担当の者も腕の振るいがいがあることでしょう」と微笑んだ。
「では、行ってくるよ。必ず、君を皆に認めさせてあげるから、安心して待っておいで。あ、そうそう。肝心なものを忘れていた」
六条さんは、葛笠さんに預けた鞄から婚姻届を取り出すと、それをテーブルの上に置き、私をその前に座らせた。
「達也くんがサインだけすればいいように、婚姻届には、先に君の名前を書いておかなくちゃね。ああ、そこは拇印でいいよ」
(なんか、バタバタしているけど…… まあ、いいか)
どちらにせよ。 達也さんの側でなければ、モデルとしての私の未来もない。それは、3年前に達也さんから離れた時に証明済み。彼の側でしか、私の生きる道はないのだ。
せっかち過ぎる六条さんに促されるまま、私は婚姻届に自分の名前を書き、拇印を押した。
そのことを、この先何年間も後悔することになるなど、思いもよらずに……




