Emergence 10
「お父さ……」
「なにしにきた?」
非友好的な言葉で森沢を出迎えた六条源一郎が、顎をしゃくって、ふたりを社長室の中に招き入れた。
明子たちに少し遅れて、源一郎の懐刀と呼ばれている佐々木秘書室長が、応接室に繋がる扉から入ってきた。佐々木室長の姿を目にした明子は、少しだけ安堵した。彼は、常に氷のように冷静であるだけでなく、父に意見できる数少ない男である。彼がいてくれれば、たとえ森沢と父が大揉めに揉めることになったとしても、どうにかして収めてくれるに違いない。
そんな算段を明子がしている間、 源一郎と対峙した森沢は、まずは従兄の不始末を丁寧に詫びていた。
「君に詫びてもらったところで……」
「もちろん、私が詫びたぐらいで六条さんの気持ちが収まるとは思っておりません」
不満を隠そうとしない源一郎に、森沢が言う。
「後日、伯父と従兄が改めてお詫びに伺うと思います。本日は、六条さんにお願いしたいことがありまして、無礼を承知でまかり越しました」
「お願いだと? この俺に?」
眉間にきつくシワを寄せながら、源一郎が森沢を睨みつけた。見たこともないような凶悪な父の顔に脅えた明子は、森沢の後ろに逃げ込んだ。いつの間にやら、森沢の背中は彼女にとっての『安全地帯』と化していた。事実、父に睨まれているにもかかわらず、森沢は怯んだ様子を見せずに父と話を続けており、頼もしいことこの上ない。しかしながら、明子のそういう行為こそが父親の気持ちを逆なでしているのだということに、彼女は気がついていなかった。
「『らん』の蘭子のことを、明子さんに教えてあげてほしいのです」
「ああ、そういえば、紫乃が、そんなことを言っていたな」
もしかしたら、いきなり『お嬢さんを僕にください』と請われるかもしれないと思って身構えていたのかもしれない。森沢の頼みごとの内容を聞かされた源一郎は、拍子抜けしたような顔をした。
彼は、森沢の背中から恐々と顔を覗かせている明子に視線を向けると、「『らん』っていうのは、銀座にある高級クラブの名前だ。今の蘭子は、そこのオーナーだな」と、ムッツリとした顔で説明を始めた。
かつての蘭子は、その店のナンバーワンであった。だが、戦争が始まると、『贅沢は敵』だという風潮の中、『らん』もまた、表向きは店を閉めざるを得なかった。
「だが、裏では、『らん』は、蘭子を中心にしっかり営業していた」
軍人や政治家や官僚、そして戦争で羽振りのよくなった商人を客に、『らん』は、一種の秘密クラブとして生き延び、戦後もいち早く復活した。その後の蘭子は、店の運営を自分の眼鏡にかなったホステスに任せて引退し、『らん』のオーナーとして悠々自適の生活を送っている。今の店長は、蘭子が選んだ4人目の店長である。
「4人も?」
「つまり、それだけ引退してから時間が経っているということだ。蘭子っていうのは、今年で88歳になるバァさんのことだよ」
「え?」
明子は恐怖を忘れて、父に問い返した。
「ということは、米寿のお祝い?」
「そういうことだ」
不機嫌そうに源一郎がうなずいた。源一郎の隣で佐々木室長もうなずいている。間違いなく本当のことであるらしい。
(……と、いうことは)
明子は森沢に目を向けた。その蘭子という女性にとって、森沢は息子というよりも孫のようなものか?
(そんな人にまで、やきもち焼いていたなんて)
それどころか、羊や5歳児にまでやきもちを焼いていたことも、先ほど明らかになったばかりである。
「納得してくれたようだね」
恥ずかしさのあまり泣きそうな顔になった明子に、森沢が微笑みかけた。
「ところで」
源一郎が、親密な雰囲気を漂わせている明子と森沢の注意を自分へと向けさせた。
「ところで、蘭子が目をつけた男は大物になるというジンクスがある」
「そうなの?」
「眉唾物の話だよ。銀座の高級クラブに金を落とし続けられるだけの力があった者が、結果的に88歳の婆ちゃんと昔話をしたり誕生日を祝うことになったってだけだ。だが、そうそうたる人物が彼女の周りに残ったことは事実だ。喜多嶋英輔も、そのひとりだった」
森沢の祖父の名を、源一郎が懐かしそうに口にした。
「他人の意見に流されない、飄々とした楽しいおっさんだったな」
「ありがとうございます」
森沢が嬉しそうに礼を言った。
「だからさ……」
森沢を見る源一郎の顔が急に情けなくなったと思ったら、彼は、いきなり背を丸めて伝法な口調でブツブツと文句を言い始めた。
「だから、あのオッサンの孫なら、どっちも間違いねぇだろうって思ったんだよ。おっさんだって、どっちでも問題なさそうなこと言ってたしよ。だから、明子に向きそうな真面目そうな奴を選んだってぇのに、片一方だけ大丈夫っていうのは、一種の詐欺じゃねえのか? こんなことなら、初めに蘭子に確認しておけばよかった。大きい葛篭と小さい葛篭の昔話じゃないけどさ、見た目が立派そうなほうが『ハズレ』で、女たらしで評判の坊主のほうが『アタリ』だったなんて。こんなの、あんまりじゃねえかよ? なあ?」
「……。俺たち、そろそろお暇させてもらおうか?」
いつ果てるとも知れない源一郎の独り言めいた愚痴に居た堪れなくなってきたらしい森沢が、明子にささやきかけた。つまり、『逃げるなら今だ』ということなのだろう。明子は森沢にうなずき返すと、ふたりで、「お仕事中にすみませんでした」と、こちらに注意を向けている佐々木室長に向かって静かに頭を下げながら後ずさりし、部屋の出口近くで回れ右をした。
「こら待て、小僧!!」
部屋を飛び出すばかりだった森沢を、すかさず源一郎が呼び止める。退却に失敗した森沢は、「ちっ」と舌打ちすると、「なんでしょう?」と、平静を装いながら源一郎を振り返った。
「他にもまだ、俺に言わなきゃならない事があるんじゃないのか?」
どすの利いた声で源一郎が森沢に問いかける。
「俺に無断で明子を奪っていくつもりか? 喜多嶋っていうのは、揃いも揃って無礼者なのか?」
「そんなつもりはありません」
森沢が答えた。
「ですが、ものには順番というものがあります。明子さんからプロポーズの返事をいただいていないうちから、彼女の頭越しに、お父さんから結婚のお許しをいただくわけには参りません」
「そ、それはそうかもしれないが……」
源一郎が、悔しそうに唸った。森沢が言っていることは間違っていない。それに、明子と達也の結婚の場合は、本人たちの気持ちが定まらないうちに親同士で勝手に決めたせいで失敗したようなものだから、源一郎に返す言葉があろうはずがない。
「だ、だがな。その子を手に入れて、喜多嶋への報復の手を緩めさせようと考えているのなら、それは大間違いだぞ!!」
「お父さま。それは、あんまりです!!」
森沢が口を開くよりも早く、明子は、源一郎の悔し紛れの脅し文句に口答えしていた。
「お父さまは思い違いをしていらっしゃいます。森沢さんは、そういう姑息なことをする人じゃありません」
「明子?」
普段から従順だった娘の思わぬ反撃に、父が驚いたように目を見開いた。森沢も驚いていたようだった。 だが、こちらは嬉しい驚きである。彼は、強い力で明子を引き寄せると、「もとより、明子さんを人質に喜多嶋を救ってもらおうなんていいう狭い了見はもってません」と、元気よく源一郎に告げた。
「喜多嶋が、どうなってもいいと言うんだな?」
「いいえ。喜多嶋は喜多嶋。明子さんは明子さん。私にとっては、どちらも失うわけにはいかないほど大切だと言っているだけです。六条さんが喜多嶋を潰す気ならば、私は喜多嶋の一員として精一杯抵抗します。だけど、喜多嶋のために彼女を傷つけるようなことも絶対にしません」
豪胆なのか鈍感なのか、森沢が、源一郎に怯むことなく、明子への想いを堂々と語った。
「格好のいいことを言っているが、口だけじゃないのか? お前の従兄のように」
「それは、これからの自分を見てもらうしか信じてもらう術がありません。明子さんに結婚を承知してもらい次第、お許しをいただくために、もう一度、ふたりで伺わせてもらいます」
森沢は、源一郎に向かって一礼すると、明子を連れて部屋を出て行こうとした。
「あの、ちょっとだけ待っててもらえますか?」
明子は、一時だけ森沢から離れると、源一郎の側まで戻った。
「ごめんなさい、お父さま。また来ますね」
彼女は父の手を取ると心から詫びた。それから、森沢のところへ駆け戻ると、彼が差し出してくれた腕に自分の手を絡めた。
「今度来るときは、明子ひとりだけでいいぞ! そんな男のプロポーズなんぞ、絶対に受けるなっ! 森沢も、覚えていろ! 喜多嶋なんか、メッタメタにしてやる! 後悔したって知らないからなっ!」
去っていく明子に向かって、源一郎が吼える。その声から我が身を守るように、明子は、森沢の腕にきつくしがみついた。
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一方。 六条源一郎は、明子たちの姿が見えなくなった後も、まだ叫んでいた。
「明子! そいつと結婚だなんて、お父さんは承知しないぞ! そんなことになったら、か、か、かんっ!」
「『勘当』ですか?」
背後から、源一郎の腹心の佐々木が助け舟を出した。
「およしになったほうがよろしいと思いますよ。そんなことをして後悔するのは、社長でしょうから」
「そうそう。一番ダメージを受けるのは父さんですよ。勘当されてもされなくても、明子は森沢さんの所に行くだけです。姉さんの時と同じにね」
葛笠を連れて、明子たちと入れ替わりに近づいてきた和臣が、楽しげに父を戒めた。
「それに、僕としては、ふたりを応援したい気分なのですが」
「実を言えば、私もです。あそこまで、真正面から社長にぶつかっていく若者は希少ですよ」
「ふんっ! あれは単に、怖いもの知らずの馬鹿ってだけだ」
源一郎が吐き捨てるように言った。それから、わずかに顔を和ませる。
「まったく…… 喜多嶋のおっさんに、そっくりじゃねえかよ」
「つまり、社長も、お気に召したわけですね?」
笑いを堪えながら、佐々木が確認した。実際その通りなのだろうが、娘を連れ去られたばかりの源一郎に、そのことを認める潔さはない。
「葛笠っ!」
源一郎が、その場にいる者の中で一番立場が弱く、これまで一言も発していない下っ端秘書を怒鳴りつけた。
「例の計画を、今すぐに実行するぞ!」
「今すぐって、いくらなんでも無茶ですよ……」
葛笠が、助けを求めるように直属の上司である佐々木を見た。社長の剣幕など慣れっこになっている秘書室長は、落ち着き払った声で、「とりあえず、できるかどうかを茅蜩館に聞いてみてくれるか?」と、葛笠に指図した。
葛笠が電話で、紫乃の結婚式の時にも大変世話になった茅蜩館ホテルの宴会支配人の梅宮と掛け合ったところ、明日は結婚式の予定が4件入っているので無理であるとの返答があった。
「その予定とやらをキャンセルさせろ!」
「『結婚式は、普通は誰にとっても一生に一度の大事なことです。たとえ潰されても、ご要望には応じかねます』とのことです」
源一郎のわがままに対する茅蜩館ホテルからのにべもない返答を、葛笠が正直に伝えた。
「なら、直近で、いつならば大丈夫なんだ?」
「年内中ということであれば、明後日の仏滅でよければ、大宴会場が空いているとのことですが」
「仏滅? 上等じゃないか?」
急に機嫌を直した源一郎が、底意地の悪い笑みを浮かべた。
「『その日で頼む』と、梅宮くんに伝えてくれ。人数も段取りも変更なしだ。『先に伝えておいた通りに豪華に、最高のもてなしを頼む』とな」
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同じ頃。
明子と共に車に戻った森沢は、それまでの緊張が一気に解けたのか、見るからにグッタリしていた。
「ごめんなさい、父が……」
運転席に身を沈めながら大きく息を吐いた森沢に、明子は小さくなって詫びた。
「あのね。私のことならば気にしなくてもいいですよ。喜多嶋を救うために使えるというのならば、父との取引材料でもなんでも使ってくださってかまいませんから」
「心配しなくても、大丈夫だよ」
森沢はクスリと笑うと、運転席から腰を浮かすようにして、明子に腕を伸ばした。
「さっきも言っただろう? 君を利用するために、俺は結婚を申し込んでいるわけじゃない」
あやすように髪を撫でながら、森沢が明子の肌の滑らかさを楽しむように頬を寄せる。
「でも」
「大丈夫だよ。それに、これは俺の思い過ごしかもしれないけれども、六条さんは、口で言うほど俺に対して怒っていない ……と見た」
「うん」
それは、明子も気がついていた。源一郎が本気なら、謝りながらも森沢に付いていこうとする娘を力ずくで止めようとするはずだ。
ふたりは、顔を見合わせると微笑み合った。それから、ごく自然に、どちらともなく唇を合わせた。触れ合う程度の優しいキスの後に照れていたのは、むしろ森沢のほうだった。
「ええと…… 次はリナのところへ行こうか? ちょっと、電話してみるよ」
視線を泳がせながら、そそくさと車を降りた森沢が、近くの公衆電話に向かって走っていく。その途中、彼は、自分の足に引っかかって転びかけた。
(プレーボーイって思われているけれども、私も、そうだとばかり思っていたけど)
彼の後姿を見守る明子から、笑みが漏れる。彼が本当に女性と遊び慣れているのならば、 キスぐらいのことで、あれほど、うろたえたりしないのではないだろうか?
「リナは家にいるってさ。樹里とティナも呼んでおくから、一緒にご飯でも食べようって」
電話から戻ってきた森沢が、明子に告げた。
「はい」
明子は笑顔でうなずいた。彼に潔白を証明してもらう必要など、もう感じてはいなかった。それでも、リナに会うのは楽しみだと思った。
そうして連れて行かれたリナの家というのは、森沢が東京暮らしをしている時に使用しているマンションと同じ場所にあった。しかも、玄関に掲げられている表札は、『春瀬』ではなく、『森沢』である。
「森沢って苗字が多いんだ。俺の田舎」
表札を指差す明子に説明すると、森沢が、呼び鈴を鳴らすと同時に、「小次郎、いるか?」 と言いながら、ドアを開けた。すると、廊下の奥から「おう」と言う低い声がして、森沢よりも一回り大きくがっしりとした体つきをした男性が、可愛らしいエプロン姿を身につけたまま出てきた。
その男の後ろから、おそろいのエプロンをつけたリナが、「いらっしゃい」と、明子に笑顔を向けた




