Emergence 9
「あのね。やっぱり、潔白なんて証明してくれなくても、いいですから」
靴を履き一足先に中村家から出て行く森沢を慌てて追いかけながら、明子は、彼を引きとめようと虚しい努力を続けていた。だが、気分が高揚しているらしい森沢の耳に、彼女の言葉はロクに届いていないようだった。明子が何を言っても、森沢は、足取り軽く前進を続けている。
「森沢さん! 少しは、人の話を聞いてください!」
「止まってくださいってば! ひとまず落ち着いて話し合いましょう!」
「ねえ。本当は、聞こえているんでしょう?!」
「無視するなんて、ひどいですっ! 森沢さんの意地悪っ!」
明子の口から、達也に対しては遠慮して言えなかったはずの言葉がポンポンと飛び出した。
一方の森沢はといえば、明子の暴言に気を悪くするどころか、彼女が悪態をつけばつくほど、むしろ喜んでいるようだった。それどころか、後ろを振り返って、彼女を更に挑発することまでしてのけた。
「証明しなくてもいいって、どういうこと? 俺への疑いは晴れたの?」
「ええ、そうです。すっきりきっぱり晴れました」
「ふ~ん。じゃあ、結婚してくれる?」
「そ、それは……」
「ほ~ら、まだまだ俺への疑いの根は深そうだ。やはり、このままにはしておけない」
口ごもる明子を見て、森沢が楽しそうに笑った。
森沢の車は、中村家の来客用の駐車場に止めてあった。色はメタリックな感じがする銀色である。彼は、助手席の扉を開けると、半ば押し込むようにして彼女を乗り込ませた。
車の中は、女性を乗せて移動するにしては少しばかり散らかっていた。もっとも、荷物置き場と化している後部座席に置かれているもののほとんどは仕事関係のものであるらしい。雪崩を起こしていたファイルや資料の山、それから、薔薇の模様が描かれた真ん中が大きく膨らんだデパートの紙袋を、彼がトランクに放り込んだだけで、車内はスッキリと片付いた。飾り気のない車内に残ったのは、助手席に座る明子の目の前にぶら下がっている交通安全のお守りと、手作り感たっぷりのクマとウサギのマスコットぐらいである。
「これも女の子からもらったんだけど、気になる?」
フェルトで作られたクマを突ついて揺らすと、森沢がニヤニヤしながら明子にたずねた。
「べ、別に、気になりません」
明子は森沢から顔を背けた。
「本当?」
「本当です」
「じゃあ、教えてあげない」
「え?」
明子が慌てて顔を戻すと、森沢が思わせぶりな顔で笑っていた。
「素直じゃない子には、お仕置が必要なようだからね。『教えてください』って、自分から素直に言えるようになったら教えてあげよう」
意地の悪いことを言いながら、森沢がエンジンを始動させた。
「……。意地悪」
「なんとでも」
拗ねる明子を横目で見ながら、森沢が笑う。
「君はね、よけいなことまで考えて気を遣い過ぎるんだよ。俺には何を言っても大丈夫だよ。だから、練習。これから一生一緒にいることになるんだから、言いたいことが言えるようにね」
「私、まだ結婚のこと、OKしていません」
「させてみせるよ」
仏頂面で訂正を入れる明子に、森沢が勝ち誇ったように宣言する。自信たっぷりな彼の物言いに、明子は反論するどころか、赤くなってうつむくことしかできなかった。なんというか、彼に負けっぱなしの押されっぱなしである。しかも、ここには、言葉足らずの明子を助けてくれる姉もいない。普段から紫乃に頼り切っているから、肝心な時に、自分の意思を通し切れずに振り回されることになるのだろう。
(これからは、もっと自発的に行動しよう)
森沢も言っているように、それができるようにならなければ、これからの明子の人生は彼に振り回されるばかりの人生になるに違いない。……などと、プロポーズにOKしていないうちからこんなことを考えてしまうこと自体、明子は既に森沢のペースで動かされているのかもしれない。
明子が悩んでいる間に、車は住宅街を抜けて大きな道路に出ていた。
「どこへ行くんですか?」
「まずは、ローラとメアリの問題を片付けよう」
つまり、ガロワの作品の追っかけカメラマンのジョージに会いにいくらしい。
「どこにいらっしゃるか、ご存知なんですか?」
「滞在しているホテルがすぐそこだから、フロントで聞いてみればわかると思う」
運の良いことに、ジョージはホテルの中で仕事中だった。
「まさか、僕が取材の対象になるとはね」
日本のファッション雑誌の取材スタッフから解放されたジョージは、ロビーで待っていた森沢と明子を見つけると、大仰に肩をすくめてみせた。
「では、最後に、もうひとつ質問してもいいですか?」
森沢がマイクに模した左手をジョージに向けた。
「私こと森沢俊鷹さんと、ローラさんとのご関係は?」
「森沢さんっ!」
単刀直入すぎる質問に、明子は慌てた。
「トシと僕の奥さん? うーん、そうだなあ」
ジョージは太い腕を組むと難しい顔をして天井を仰いだ。
「同志、かな」
「同志ですか?」
「うん。『オーガニック・コットン礼賛友の会』みたいな?」
「オーガニック・コットンって、森沢さんが大好きな?」
「そう。うちの奥さんも大好きなの。ふたり揃うと、騒がしいのなんのって」
ジョージの妻はジャーナリストで、今はナチュラリストを対象とした雑誌の編集をしているそうだ。仕事柄、彼女も森沢と同様に無農薬の綿づくりに関心がある。いや、関心というよりも信念とか信仰といったほうがいいのかもしれない。森沢とローラの間に愛とか恋などという甘ったるいものが存在する可能性は皆無であるとジョージは断言した。このふたりが会って話すことといったら、綿を絡めた環境問題や持続可能な社会のあり方、そして地球の未来についてなど、熱くて堅苦しい話ばかり。ジョージとメアリが止めなければ、一晩どころか一週間ぐらいは時間を忘れて話し続けていられるかもしれない。
「あ、メアリっていうのは、僕たちの娘ね」
ジョージが注釈を入れた。ちなみに、メアリは5歳だそうだ。
「でも、なんでそんなことを僕に聞きにきたの? もしかして……」
気が抜けた顔をする明子を見て、ジョージは何かを察したらしい。彼は、ニヤニヤしながら、『やったな』というように森沢を肘で小突いた。
「ウェディングドレスはガロワに作ってもらってよ。そうしたら、仕事の名目で、また日本に来られる。その時にはローラとメアリも連れてくるよ」
そう言って、ジョージが笑った。
ジョージの元を辞した明子たちは、『アンとベス』についての疑いを晴らすために、伯爵に会いに行くことにした。だが、伯爵の滞在先のホテルのフロントに電話で確認したところ、彼は部屋におらず、現在の居所もつかめない。
「誰かと食事にでも行ったかな」
「急に押しかけようとする私たちが悪いんですよ。お留守ならば仕方がないですね。残念ですけど、伯爵にお会いするのは諦めましょう」
明子が積極的に提案したが、森沢は諦めない。
「伯爵に直接確認するのが無理なら…… そうだ、葛笠くんに聞いてみよう!」
「え? なんで葛笠さん? それより、まさか……」
明子は青くなった。
彼女が危惧した通り、次のふたりの行き先は、まさかの六条コーポレーション本社であった。
明子の父親の六条源一郎は、多くの秘書を抱えている。彼らは秘書というより、源一郎の手下といったほうが正しいのかもしれない。それゆえ、六条コーポレーションの社長秘書室というのは、本社の2フロアのほとんどを占拠する大所帯となっている。
秘書たちの中で一番若い葛笠は、父や兄の命令で自席を暖める暇もないほど忙しくしているのが常であるが、こんな時に限って自席にいた。もう少し正確にいえば、葛笠の席に座っていたのは彼女の兄の和臣で、葛笠は兄の脇に控えていた。
「そろそろ来るかと思っていたよ」
和臣が、妹たちにしか見せることのない優しい微笑みで明子を迎えた。
「紫乃さまから、ご連絡をいただきましたので」
不思議そうな顔をする明子に葛笠が説明する。
「3年前のものだけど、森沢さんの詳しい身辺調査の結果ならば、ここにあるよ」
和臣が、机の上に置かれたファイルの上に手を置いた。
「姉さんが弘晃さんにふられて自棄になって森沢さんと見合いしようとした時に、父さんが人を雇って森沢さんについて調べさせ、葛笠が裏をとったという実に完成度の高いものだ。調べによれば、これまでに森沢さんと『つきあっていた』とまことしやかに噂された女性は20人以上。そのうちで、本当に森沢さんと交際したことがあった女性は、たったの3人。華やかな評判に似合わず、交際女性の数は普通の男性と比べても多すぎず少なすぎずといったところかな。3人とも、今のところ森沢さんとのつきあいは途絶えているようだ。仮に未練がましく結婚式に押し掛けてきたとしても……」
和臣がたずねるような視線を森沢に向けると、彼は、「俺は彼女たちに未練はないし、彼女たちも、それぞれの場所で充実した人生を送っているらしいから、俺に未練はないと思うよ」と、はっきりと答えた。
「……ということだから安心していいんじゃないかな」
和臣が明子に言った。
「それから、森沢さんの数多い友達のモデルさんのことだけどね」
「ああ、彼女たちには、これから会いに行くからいいよ」
森沢が、先回りする和臣の言葉を遮った。
「それより、アンとベスとのことを、葛笠さんなら伯爵の代わりに説明してもらえるかもしれないと思ったんだ。城に問い合わせがあったと聞いていたからね」
「やっぱり、そちらにも連絡がいってしまいましたか。その節は、大変失礼なことをして申し訳ありませんでした」
葛笠が頭を下げた。
「それで、アンとベスというのは?」
「羊です」
葛笠が和臣に答えた。
「羊?」
「はい。ええと、確か、このあたりに……」
葛笠が、ファイルをめくって新聞の切り抜きをコピーしたようなものを探し出した。小さな写真入りの記事の文字は英語で、写真には、2頭の仔羊と中学生ぐらいの少年が写っていた。小さいうえにコピーで印刷が潰れてわかりづらいが、写真の少年は森沢のようである。
「あの伯爵さまは、高級スーツなどの生地に使用される毛織物を扱う商人であると同時に―――ミルというのでしたっけ?――― 実際に毛織物を織りあげる工房も、毛織物の原料となる羊を飼う牧場も保有してらっしゃいます」
森沢は、学校の休みごとに城にホームステイをしては、育てた羊の毛が服地となり実際に商品として店頭に並ぶまでを実地で学ばせてもらった経験がある。伯爵の城がある場所は、いわゆる田舎。この記事は、イギリスの伝統的な商売を学ぶために極東からやってきた少年を珍しがって、地元の新聞社が書いたものだという。
「森沢さんが帰国なさった後、しばらく食事を取れなくなったほど悲しんだ娘がいた……と、あちらの執事さんがご親切に送ってくださったのが、この記事のコピーでした」
苦々しげな顔で葛笠が説明する。彼は、その執事にからかわれたと思っているようだった。兄もそう感じているらしい。記事を手に「なるほど、そうだったんですか」と、すんなり納得した明子を見て、「そんなに、あっさりと信じてしまっていいのかい?」と、兄が呆れ顔で聞いてきた。
「ええ。だって、クローバーが大好きな羊さんって、この子たちのことでしょう? 」
明子は、写真の中で森沢に鼻をすり寄せている仔羊たちから、本物の森沢に笑顔を向けた。
「そうだけど。そんな話したっけ?」
「していましたよ。『4つ葉と3つ葉で味が変わるわけでもない。珍しい4つ葉よりも、どこにでもある3つ葉のほうが、羊は、お腹一杯食べられて幸せだ』って」
そのように明子に語ったときの森沢の様子を思い出しながら明子は微笑んだ。この羊たちは、きっと森沢に非常に可愛がられて、沢山クローバを食べさせてもらっていたに違いない。お城の執事さんという人は、たぶん冗談抜きで、この記事を葛笠に送ってくれたのだろう。
「明子が信じるのならば、それでもよいけど」
釈然としない表情を変えぬまま、和臣が頬杖をついた。
「他に聞きたいことは?」
「そうだなあ。ああ、そうだ。蘭子さんの名前が挙がっていたね?」
「ええ」
明子はうなずいた。誕生祝いに来てくれなかったので『らんこ』という女性が拗ねていたと、パーティーで誰かが話していたのだ。
「蘭子というと、もしかして『らん』のママですか? その若さで?」
心当たりがあるのか、和臣が驚いたように目を見開いた。
「その若さでというか、俺は子供の頃からのつき合いだけど」
事も無げに森沢が言い、クリームソーダなるものを初めて自分に馳走してくれたのも彼女だったと述懐した。
「はあ、そうなんですか」
「お兄さま、ご存知なの? 『らん』?」
「『らん』は、銀座にある店の名前だよ。僕は会ったことはないけれど、『らん』の蘭子というのは……」
何を思ったのか、和臣が説明の途中で天井に顔を向けた。
「そういえば、僕よりも、ずっと彼女に詳しい人がいたな」
「え? 上に?」
明子も、兄につられて上を向いた。この上の階にあるものといえば、社長室である。
「ああ、そうだね。六条さんは、蘭子さんのお気に入りだものね」
森沢が微笑んだ。
「ご挨拶ついでに、ちょっと行ってくるよ」
「え?! お父さまにも会うの?!」
今度こそ、明子は怯えた。 こんな…… こんなに説明しがたい状況で予告もなく父に会うなんて、そんなの絶対にまずいだろう。なによりも森沢の身が危ない。『ちょっと行ってくる』なんて軽いノリで社長室に入ったが最後、出てこられない可能性だってある。
「森沢さん、いけません! 父に会うのだけは、今度にしましょう!」
明子は、森沢の腕にぶら下がるようにして、全身で彼の暴挙を阻止しようとした。だが、森沢は明子の重さなどものともせずに、「ここまで来たんだから、素通りもできないだろう?」 と笑い、「ありがとう、邪魔したね」と、和臣と葛笠に詫びると、社長室のほうに向かってスタスタと歩き始めた。
「いやああああっ! 森沢さん、お願いだから思いとどまってぇ!!」
森沢に引きずられながら、明子は懇願した。姉と同じく、兄も、そして葛笠も、もう明子に手を貸してくれなかった。「森沢さんって怖いもの知らずだなあ。臆病な明子と足して2で割ったら、ぴったりじゃないか?」 「そうですね。 おとなしめな明子お嬢さまと並ぶと、とても頼もしげに見えますね」などと、勝手な感想を言い合って、呑気に笑っている。
「森沢さん帰りましょう? ね?」
「この後に及んでジタバタしてもしょうがないだろう。喜多嶋は、もう充分に六条に失礼なことをしているんだ。六条さんが怖いからって、これ以上の失礼を重ねるのもどうかと思うよ」
「それは、そうかもしれませんけど、でも、けど……」
そんなことを言っている間に、ふたりは、社長室に続く階段を上りきってしまった。
社長室に入る前には、さすがの森沢も緊張したようだ。彼は扉の前で立ち止まると大きく深呼吸をした。明子も、彼にならって、大きく息を吸ってから吐き出した。
「よし、行くぞ」
「は、はい」
明子がうなずくのを確認した森沢が、ノックしようと腕を上げる。だが、彼の指が扉に当たる前に、部屋の中から六条源一郎が出てきた。




