Emergence 7
森沢が明子に惹かれたのが必然であるならば、こんな時間に彼が中村家を訪れたことも偶然とは言いがたかった。なにしろ、今は午後3時過ぎ。まだ就業時間中である。
少し前までの森沢は、自分にあてがわれた部屋の中で真面目に仕事をしていた。とはいえ、厳密には仕事にはなっていなかった。
彼の部屋を訪れる親戚の数は、昨日にも増して多くなっていた。喜多嶋の将来について新しい情報を求めてやってくる者。ただ雑談していくだけの者。一方的に六条グループをこき下ろしていく者。喜多嶋に未来があることを信じて、自分なりの改革案を恥ずかしげに打ち明けにくる者。喜多嶋に未来があるのならば、能力のない自分は降格されてしかるべきであると自分から申請にくる者、等々…… 訪問の目的は人によって様々だったが、彼の部屋は、朝からずっと臨時のカウンセリングルームのような賑わいをみせている。
「……で、なんで、それを俺に言いにくるわけ?」
昼食後に最初にやってきた年の近いまた従兄に、森沢は、げんなりしながら訊いてみた。電算部門で働くまた従兄は、将来に備えて新しい在庫管理システムを構築すべきだと、これまでで最も具体的で前向きで、しかも最も金のかかりそうな提案を持ち込んできていた。
「話しやすいから」
彼の答えは、コンピューターがはじき出す答えのごとく明確だった。
「考えたんだけど、今回のことは、喜多嶋にとって結果的に良かった。まだまだキツイことが待っていると思うけど、近い将来には、そう言えるようになると思う」
「六条さんが暴力的に介入することで?」
渋面でたずねる森沢に、また従兄が、銀縁眼鏡をきらめかせながら無表情にコクリとうなずいた。
「俊鷹の頑張りは想定以上だ。僕は、かなり評価している。でも、外から圧力かけられないと、この会社は変れない。なぜなら、先代のじいさんだって紘一おじさんだって、ずっと変えようとしていたけれども変わらなかった」
「たしかに、そうかもしれないね」
森沢は、素直に認めた。自分だけの力で喜多嶋を変えられると思えるほど、彼は自惚れてはいなかった。
「達也にとっても良かった。かもしれない」
幾分自信なさげに、また従兄が続ける。
「そうかぁ?」
「僕は、学校が同じだったし、家も歳も近かったから、小さい頃から達也を身近で観察してきた。喜多嶋の跡取りとして、あれは相当無理していたと思う。俊鷹のせいだ」
無遠慮に、だが責めるでもなく彼が言う。
「俺?」
「そう。馬鹿やっているように見えて、こういう時になると、誰もがあたり前のように俊鷹のところに集まる。あれは羨ましかったと思う。しかも、俊鷹は、昔から糸やら綿やらといった、普通の子供は面白がらないけれども喜多嶋一族の子供ならば興味を持って欲しいと思うものが大好きで、じいさんのお気に入りだった。ゆえに、ばあさんは、俊鷹とじいさんに張り合って、闇雲にあれを頑張らせることになった。頑張る方向が間違っているのではないかと僕は疑ったし、達也も彼の両親も薄々感じていたと思う。でも、どう間違っているのか本当は何をすべきなのか、誰もハッキリわからなかった。俊鷹のようにすればよかったのかもしれないが、それこそ達也には無理だろう。結果として、あれは、自分で自分を追い詰めることになった」
普段は寡黙なまた従兄は、彼が必要だと思えば、いくらでも饒舌になれるようだった。
「あれがあんな女に引っかかったことを、 僕は意外だと思っていない。 あれは引っかかるべくして引っかかった。現実を見られない女が、あれには必要だったんだ。喜多嶋のことも、跡継ぎの重圧も考えなくていい女、自分を喜多嶋から逃がしてくれそうな女、全てを壊してくれそうな女がね」
「達也が逃げたかった……と?」
「そう考えなければ説明がつかない。あれは、基本的に頭でしか考えられない男だ。理性的に考えれば、あれにとって香坂唯のような女ほど危険な女はいない」
つまり、達也の浮気は自傷行為に他ならないと、また従兄は解説する。
「言いたいことはわかった。けど……」
また従兄の言葉をしっかりと胸に収めた後、森沢は一度はうなずいた。
「だけど、俺は、達也がしたことは赦せない」
達也は可哀想な奴なのかもしれない。それでも彼が明子を不幸にしていいわけではないし、喜多嶋グループを混乱に陥れていいわけでもない。
「あたりまえだ。あれが馬鹿なのだから許す必要はない。喜多嶋の長となるなら、俊鷹があれを許していいのは、他の者全てがあれを許した後。すなわち、紘一おじさんのひとつ前の最後から2番目でなければならない。それに、俊鷹だって、あれがいたせいで苦労してきたのだから、おあいこだ。僕は、ただ、僕以外の誰かが、こういうことを知っておいてもいいかと思っただけだ」
「それが、俺?」
「話しやすいからな」
また従兄が、初めて笑顔らしきものを見せた。
「それと、言っておかないと、お人好しの俊鷹は、簡単にあれを許してしまいそうだから。実を言えば、僕の目下の心配はそれだ。過ぎた過ちを悔やんでも仕方がない。だが、これ以上の無用の混乱は避けたい」
言うべきことを言い終えたと判断したらしいまた従兄は、自分用の資料を机から回収すると、部屋を出て行った。
彼と入れ代わりで部屋に入ってきたのは、紘一と伊織だった。
「大盛況だな。あの人間コンピューターまでもが、こんなところにやってくるとは」
本気で感心しているのか嫌味なのか判断の付きかねることを言いながら、紘一たちがソファーに腰を下ろす。
「あいつでも、会社が潰れるとなると不安なのか?」
「不安なのかもしれませんが、そうは言ってませんでしたね。今回のことは、むしろチャンスだそうです」
自分のデスクから伊織の隣に席を移動しながら森沢が答えた。
「奴らしいね」と、伊織は笑ったものの、「あいつらには、言ってないだろうな」と、急に真顔になって、声を潜めた。
「六条さんがうちに手を出さないってこと? まだ言える段階じゃないでしょう」
森沢は肩をすくめた。『父親には喜多嶋を潰させない』 と明子と紫乃は言ってくれたものの、それは、ただの口約束どころか六条姉妹の意気込みにしかすぎない。とっくの昔に達也の浮気に気が付いているであろうに、いまだに不気味な沈黙を続けている六条氏の真意は不明。ぬか喜びに終わるかもしれない希望なら、持たないほうが幸せということもある。
「それもそうだ。ところで、諸悪の根源はどうした? ここにいるとばかり思ったんだが……」
「ここには来てませんよ。久本さんなら知っていると思うけど」
「それが、彼女もいないんだよ」
森沢たちは、いるはずのない達也と彼の秘書を探すように部屋の中を見回した。森沢と顔見知りで長野在勤の喜多嶋ケミカルの社員が部屋に飛び込んできたのは、そんな時である。
「これを、奥さまが、できるかぎり急いで俊鷹さんに届けるようにとおっしゃいまして」
挨拶もそこそこに社員が森沢に差し出したのは、やけに四角張った物を入れた書類用の茶封筒だった。
「姉さんが?」「文緒が?」「なんだろう?」
伊織と紘一が見守るなか、森沢は封筒に手を突っ込んだ。中から出てきたのは、写真の束だった。一番上に、母から息子宛のメモが添えられていた。メモには、『お父さんから話は聞きました。これを見て、したいようにしなさい。母』とだけ書かれていた。
「なんだ? 思わせぶりな」
紘一がムッとしながら手を伸ばして、写真の束から数枚を引っこ抜く。そして、「これは……」と言ったきり黙り込んだ。伊織も、何気なく森沢から受け取った写真を見るなり、同じように言葉を無くした。
森沢もまた、母からのメモのすぐ下に重ねられていた写真を見た途端に黙り込んでしまった。
彼が見ている写真には、達也と明子が写っていた。撮影場所はホテル内のチャペル。牧師を前に、達也が結婚の誓約に応えようとしている。写真は、そんな一場面を写したものであったが、写真に写る達也の顔は、花嫁を迎える喜びに輝いていなければ緊張で強張ってもいなかった。彼は、虚ろで無気力な表情を浮かべながらも口だけは固く閉ざしたまま、明子の横にだらしなく突っ立っていた。一方、達也よりも手前に写っている花嫁の明子は、凍りついたような表情を浮かべていた。写真は動きはしないが、あの時、明子が手にしていたブーケが細かく震えていたことを、森沢は思い出した。
他の写真も似たようなものだった。心細げに達也をうかがう明子。無理して笑っている明子。笑うのに失敗して泣いているように見える明子。新婚夫婦を祝福するために撮られたにもかかわらず、どの写真に写る明子も全く幸せそうに見えない。それもそのはずで、これらの写真は、表情が悪すぎるという理由から、アルバムに収めて明子たちに渡したものとは別に、森沢が取り分けておいたものだった。取り除かれた写真は、写真屋の袋の中に突っ込まれたまま、森沢の部屋の隅に放置されていたはずだ。母は、それを見つけて森沢に送って寄こしたのだろう。
「達也の挙動不審と六条さんの機嫌ばかりが気になって気が付かなかったけど、明子ちゃん、こんな顔してたんだな。可哀想に」
「私なんか、中村さんからの電報に浮かれて、明子ちゃんのことなんか気にしてさえやらなかった」
伊織と紘一が、写真を手に落ち込み始めた。
「だけど、なんで、こんなものを今ごろ?」
森沢は呟いたものの、母の意図は誰に聞かなくてもわかっていた。
始まりから破綻を予感させるばかりだった結婚式の写真の1枚1枚が、森沢に問いかけている。
このままでいいのか?
このまま、彼女を放っておくのか?
達也が謝れば、もしかしたら、彼女は、これから彼と幸せになれるかもしれない。
達也と離婚して、あらためて誰かと結婚しても、明子は幸せになれるかもしれない。
だけど、お前は、それでいいのか?
達也にせよ、他の誰かにせよ、彼女の未来を他の者の手に委ねてもいいのか?
また、いつか、彼女は、こんなに悲しげな顔をするかもしれないのに、それでもいいのか?
照れたり迷ってたりしている場合か?
「伯父さん!」
気が付けば、森沢は紘一に頭を下げていた。
「明子ちゃんを俺にください!」
「はい?」
状況を全然わかっていない紘一が、写真から顔を上げて森沢の顔を見つめた。それから、説明を求めるように、「え?」と呆けた顔を伊織に向けた。
「後で説明してあげますよ。今朝、繭美から聞かされた最新情報を含めてね」
伊織が微笑んだ。
「いや、説明してくれなくても、だいたいわかったような気がする。多恵子が、そんなこと言ってたしな」
落ち着きを取り戻したらしい紘一が、ため息をついた。
「そうだな。 明子ちゃんのことをずっと気にかけていた俊鷹のほうが、達也よりも数段マシだろう。明子ちゃんが、それでいいなら、俺は…… 俺と多恵子には、反対する資格はない。今から彼女の所に行ってくるといい。だが」
紘一が、森沢に厳命する。
「だが、必ず明子ちゃんを幸せにしてくれ。なにがなんでもだ。いいな?」
「ありがとうございます!」
森沢は深く頭を下げるなり、部屋を飛び出した。駆け足で非常階段を降り、ロビーを駆け抜ける。ガラス張りのドアを開け、寒風の吹きすさぶ戸外へ飛び出し、駐車場に止めてある自分の車に向かって走り出してすぐに、彼は派手な身なりの女とすれ違った。
「俊さん! 森沢さん!」
女が森沢を呼び止めた。
「え? ルミ子さん?」
なんで、今、こんな所に? 怪訝に思いながら森沢は足を止めて振り返った。
「そうよ。やっと会えた。はい、これ、頼まれていたもの」
ルミ子と呼ばれた女性は、森沢に駆け寄ると、薔薇の模様の付いたデパートの紙袋を森沢に差し出した。
「ありがとう。覚えていてくれたんだ」
気が急いているにもかかわらず、森沢は笑顔を見せた。
「このお礼は……」
「今度お店に来てくれればいいわよ。急いでいるようなのに引き止めて悪かったわね。どこかに行くの?」
「ああ。ちょっとプロポーズに」
照れる気持ちを隠して堂々と申告すると、ルミ子が「あら、素敵」と手を叩いた。
「でも、あなたを狙っていた女の子は多かったから、皆、がっかりするわね。特に蘭子さん」
「馬鹿言うなよ」
「馬鹿なんか言ってないわよ。あの人、俊さんが誕生日のお祝いを言いにきてくれなかったって、まだ拗ねてるもの。ところで、プロポーズの相手って、ひょっとして、この間、私が見たお嬢さんかしら?」
「この間? もしかして、この間、ケミカルの分室に来たのってルミ子さん? 花柄の服、着てた?」
「どうだったかしら。でも、たぶんそうよ。それより、質問に答えてないわよ。あの子がそうなの?」
ルミ子は、はぐらかされてはくれなかった。
「そう。 彼女」
「ふふふ…… 可愛い子じゃない」
ルミ子は、森沢の胸の辺りを指で突っついた。そして、「おじいさまが生きていらしたら、きっと、とっても喜んでくださったのにね」と寂しそうに微笑んだ。
「それは、どうだろうな」
孫のひとりが、もうひとりの孫の嫁を奪いにいくなんて…… さすがの祖父も、墓の中で腰を抜かしているかもしれない。
「絶対に喜んだわよ」
ルミ子は断言すると、森沢が行こうとしていた方向に彼を方向転換させた。そして、「ほらっ! 頑張っておいで! 一度ぐらい断られたって諦めるんじゃないわよ!」と、勢いよく彼の背中を押した。
喜多嶋の本社と中村家のある麻布は、車で行けば、目と鼻の先といっていいほどの距離である。
まもなくたどり着いた中村家の門前では、かつては弘晃の教育係だったという老いた執事が、飴色の壷から鷲掴みにした塩を路面を白くせんばかりの勢いで道路に向かってぶちまけていた。どうやら、彼にとって気持ちの良くない客を送り出した直後のようである。
「しっかりと清めておかねば、弘晃さまのお体に障ります」
その客を家に入れたことは一生の不覚だったと言わんばかりに鼻息を荒くして、老執事が言った。
「しかしながら、明子さまがおひとりでお会いにならなかったのは、正解でございました。まさか、あのように恐ろしい女だったとは……」
「え? 会いにきたのって?」
「香坂唯さまと申す方でございます」
森沢を家の中に案内しがてら、老執事が、逆さに立てかけたホウキを玄関先から回収しようとする。だが、「いや、まだ、おひとり残っているのだった」と言いながら、伸ばした手を引っ込めた。
「もうひとり?」
「ええ、喜多嶋さまが」
「達也が?! どこ?」
「ご婦人用の客間でございます」
森沢は、脱ぎかけていた靴を蹴り飛ばして先へ急いだ。婦人用の客間というのがどこにあるのか彼ははっきり知らなかったが、ありそうな方向に進んだら、遠くで達也の声がした。
『そうはおっしゃいますけどね。彼女は私が触れることさえ嫌がるわけですよ』
達也が明子の至らなさをあげつらう声が、廊下まではっきりと聞こえてくる。
『じんましんだって、どうせ、僕のせいだと思っているんだろう? 僕が無理矢理に君を抱こうとしたからいけないんだとね。 もっとも、君は途中で気を失ってしまったけど』
(無理矢理抱こうとして、気絶させただと?!)
達也の声を追いかけながら、森沢は憤慨した。脳裏に、いつだったか森沢から隠れようとして死んだフリをした明子の姿が浮かんだ。だが、あの時は、あくまでもフリだった。それを、気絶するまで彼女を怖がらせるとは! しかも、夫婦の秘め事に関わる話題を大声で、明子ばかりか周りにいる者たちにまで聞こえるような大声でまくし立てるとは! あの馬鹿! 無神経にも程がある!
(誰がなんと言おうと許さん! 今度こそ殴る!)
……と、勇んで達也たちのいる部屋に突入したものの、またしても、森沢は余人に阻まれた。今度は、紫乃である。紫乃も、達也に対して相当な怒りを溜め込んでいたようだ。「あなた、言うに事欠いてなんてことを!」と彼女が上げた声は、ほどんど金切り声に近かった。
あと少しで達也に飛び掛るところだった紫乃を止めたのは、明子だった。姉を制止し達也と話をする明子に、これまでの遠慮がちでおどおどした態度は見られなかった。彼女は、達也から責任転嫁としか思えない言い掛かりをつけられても、怯むことなく彼をしっかりと見据えて話していた。その堂々とした姿に、森沢は思わず見とれた。うっかり明子に惚れ直しているうちに、「好きです」と告白することさえ、彼女に先を越されてしまった。我ながら、後手後手である。
森沢は落ち込みたくなったが、達也が騒ぎ始めたので、そんなことをしている暇もなかった。森沢は、自身の浮気さえ明子と森沢の陰謀だと騒ぎ立てる達也の前に割って入ると、後ろ手に明子をかばった。それが、達也の怒りに更に火をつけたようだった。怒り狂った達也が、自分の浮気を棚に上げて、今まで森沢に対して溜めていた鬱憤をぶつけ始めた。
「いつだってヘラヘラ笑っているだけのくせに、要領ばっかりいいくせに! お前は皆から可愛がられて、一番良い所だけさらっていく! それどころか、今度は僕から妻まで奪おうとする!」
ずっと敵わないと思っていた同年の従兄の言葉は、また従兄が指摘したとおりに、森沢への羨望と劣等感と、それから、森沢のようになれない自分自身への怨嗟に満ち溢れていた。
いつにない達也の醜態は、見ていて辛いものがあった。だが、達也に対して劣等感を感じていたのは、むしろ森沢のほうだったはずだ。誰も彼もが達也を誉めるのが、子供の頃から本当は悔しかった。いつだって、自分を認めてほしかった。だけど、達也には敵わないと思ったから、いつの間にか、始めから諦める癖がついていた。始めから手に入れる努力さえしてこなかった。ならば、いつか、こんなふうに達也への嫉妬にかられて醜態を晒していたのは、森沢のほうだったかもしれないのだ。幼稚さの程度では、自分も達也と変らない。そう思ったら、森沢は、無性に情けなくなってきた。
達也に言いたいだけ言わせると、森沢は彼を殴りつけた。
「そうやって、 自分ばかり被害者みたいなことばかり考えて拗ねてるから、あんな幼稚な女に付け込まれるんだよ!」
殴りながら森沢は叫んだ。彼は腹を立てていた。彼に自分を重ねてしまうから、なおのこと許せない。 達也も森沢も、もう子供ではない。いつまでも、ドングリの背比べよろしく隣に並んだお互いを見て相対的な優劣を競っていてはいけないのだ。横ではなく前を向いて、ひとりの男として、自分の行くべき道を自分で選ぶべきなのだ。こんな子供じみたライバル関係は、とっくに卒業しなければいけなかったのだ。このままでは、自分も達也もダメになる。
特に森沢は、このままでは、いつか達也と同じ過ちを犯すかもしれない。達也と同じように、明子を不幸せにしてしまうかもしれない。それだけは、明子のためにも絶対にあってはならないことだ。自分は、決して今の達也のようになってはいけないのだ。
「馬鹿野郎っ! いい加減に目を覚ませ!」
森沢は、ひっくり返った達也に馬乗りになると、更に彼を殴りつけた。見かねた弘晃が、坂口に命じて森沢を押さえつけた。
「おやめください。これ以上は危険です」
坂口に耳元で厳しく諭されて手を引っ込めたものの、森沢の怒りは、まだ収まらなかった。達也を殴り足らない。なにより、明子が受けた侮辱への返礼がまだである。だが、森沢がどれだけ達也を殴ったところで、明子が森沢と浮気していないことを証明することにはならない。かといって、『自分は明子を好きだが、彼女とは今のところ清い仲だ』と森沢が説明しても、達也が信じるはずもない。
そこで役に立ったのが、母が送ってきた写真であった。
結婚式の始まりから披露宴の終わりまで百枚近く。それだけの数があるのに、心細げな花嫁を気遣う花婿の写真は1枚もない。気遣うどころか、どの写真に写る花婿も花嫁のほうを見ようとさえしていない。 そんな写真ばかりを見せられた達也は、今度ばかりは屁理屈を捏ねてまで自分を正当化しようとする気力をなくしたようだった。
「あの日のお前が、どんな顔して教会で愛を誓っていたのか。どんな顔をして、花婿として明子ちゃんの横に並んでいたのか。そんなお前を見て、明子ちゃんがどんなふうに感じていたのか。それ以来、彼女がお前のことを、どう思ってきたのか。あんな結婚式を見せられた俺たちが、どんな想いで明子ちゃんを見守ってきたのか。なぜ、今回のことで、両親も含めてお前の味方をする者がひとりもいないのか。その写真を見て、じっくり考えてみるといい」
背を丸めて食い入るように写真を見つめている達也に、森沢は言った。
「でもな、今さらどれだけ反省しても、明子ちゃんは、もう、お前には返さない。彼女は俺がもらう。喜多嶋のことも、恋を理由に捨てられる程度の思い入れしかないのなら、俺が後を引き受けるから、お前は勝手にすればいい」
言うだけのことを言い切った森沢は、達也に背を向けた。あとは、達也本人が考えて決めることである。彼が決断するまで森沢が根気よく彼に寄り添ってやる義理はない。
それに、森沢の関心は、既に達也から明子へと移っていた。一刻も早く、森沢に『好きだ』と言ってくれた彼女の気持ちを確かめたい。彼女に背中を向けたまま、達也に向かって『明子を愛している』と伝えてしまった自分の気持ちも、あたらめて彼女の目を見て伝えたい。
それなのに、森沢が振り返った時、彼の後ろにいたはずの明子の姿はなかった。
「あれ?」
森沢は、明子を探して顔を巡らせた。先ほどまでの毅然とした態度はどこへやら、いつも通りの臆病で控えめすぎる性格に戻ってしまったらしい明子は、あろうことか、森沢が気が付かないうちに、こっそりと部屋から逃げ出そうとしているところだった。
「こら、逃げるんじゃない」
森沢は、苦笑交じりに明子を呼び止めた。彼の声に驚いて身を竦ませた明子は、立ち止まってこちらを向くかと思いきや、彼に背を向けたまま進行方向にあったクローゼット(しかも、なぜか扉が開け放しになっていた)の中に駆け込もうとした。あいかわらず切羽詰ると面白い行動に出る女である。森沢の視界の端っこに、妹の愚行に頭を抱えている紫乃の姿が見えた。
「そこに隠れて、どうするつもり?」
笑いを堪えながら森沢がたずねると、右手を扉にかけた状態で明子が止まった。彼女は、名残惜しそうにゆっくりとクローゼットの扉を閉めると、拗ねたような顔で森沢を振り返った。
「逃げるなんて、ひどいな」
森沢は、ゆったりとした歩調で明子に近づくと、赤くなった彼女の頬の熱を確かめるように両手を添えて、顔をこちらに向けさせた。
「それとも、俺から逃げなきゃならない理由があるのかな? さっき『好きだ』 と言ってくれたのは、嘘だったとか?」
「違います!」
明子がムキになって言い返し、森沢と目を合わせた途端に更に真っ赤になってうつむいた。
「さっき言ったことは、嘘じゃありません。嘘じゃないんですけど、その……」
「俺も、君が好きだよ」
森沢は微笑むと、照れる明子の顔を下から覗き込むようにひざまずいた。
「君を愛している。だから、どうか結婚してください」
気の利いた台詞など思いつかなかったから、結婚の申し込みは、究めてシンプルで率直な言葉となった。
そして、このプロポーズに対して、明子はどうしたかといえば……
彼女は、下を向いたまま、「ごめんなさい! できません!」と、返事をしたのである。




