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悪い女のつくりかた  作者: 風花てい(koharu)
悪い女のつくりかた
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Emergence 6



「達也、さん?」

 床に座り込んだまま、明子は、クローゼットの中から飛び出してきた達也を見上げた。


 なぜ、彼はこんな所に入っていたのだろう? 

 いつから? どうやって? それに、なぜ、坂口さんまで???


 全体的にホコリっぽい感じがする達也を眺めているうちに次々に浮かんできた疑問で、明子の頭の中が一杯になっていく。そのうちの『なぜ』と『いつから』については、明子でも想像がついた。達也は、明子が着替えに行っている間に、クローゼットの中に入ったのだろう(ということは、少なくとも1時間以上は隠れていたことになる)。理由は、おそらく香坂唯と明子の会話を聞くため。入れたのは、紫乃に間違いない。 

(だけど、あのクローゼット……)

 明子は、達也からクローゼットへ視線を向けた。部屋の雰囲気に合っているので気にならなかったが、あのクローゼットは、以前から、この部屋にあったものだろうか?

「ごめんなさいね」

 明子の疑問に答えるように、紫乃が達也に愛想良く笑いかけた。

「この部屋には隠れる場所がございませんでしょう? それで、このクローゼットを慌てて物置からこちらに運び込んだものですから、ホコリを払う時間もなくて……」

 詫びながら紫乃が達也の背中のホコリを払う。というよりも、力一杯に達也を叩くついでにホコリが払われていると言ったほうが妥当だろう。バシバシと紫乃が達也を叩くたびに、白っぽいホコリが煙のように揺らめき、達也を咳き込ませた。


 唯と明子のやり取りを傍観することしかできなかった紫乃が鬱憤を溜め込んでいることを知っている弘晃は、妻が少々乱暴な行動に出ても咎めなかった。彼は、紫乃に好きなようにさせたまま、「ご苦労だったね。坂口」と、忠実な使用人をねぎらった。 

「何度も飛び出そうとなさるので、押さえるのが大変でした」

 坂口が左手を振りながら弘晃に不平を言った。どうやら、坂口は、達也を押さえ込むためだけに一緒にクローゼットに押し込められたようである。

「僕も紫乃さんを抑えるのが大変だったよ。でも、あれでは飛び出したくなるよね。しかし、ああいう人が世の中にはいるんだねぇ」

 弘晃は、苦笑いを浮かべながら唯が去っていった方向に目をやった後、表情と口調を改めて達也に向き直った。

「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。はじめまして、喜多嶋さん。私は、紫乃の夫の中村と申します。本日は、突然お呼びだてしたうえに、このような場所に押し込めてしまって申し訳ありませんでした。ですが、真実を知っていただくためには、ご自身の目で確かめるのが一番だという妻の主張ももっともだと思いましたのでね。それで、あの……」

 弘晃が、言うのをためらうように唇を舐めた。

「あなたは、その…… 彼女がああいう女性だと、ご存知だったのですか?」

「いえ! とんでもない」

 達也が叫んだ。

「私は、唯が、あんな、あんな……」

 情けない気分になりすぎて言葉が続かなくなったらしい達也が、力なく明子の前に膝をついた。そのまま、崩れるように床に額をなすりつける。


「達也さん?」

「ごめん! 本当にすまなかった!」

 わずかにためらった後、床に向かって達也が声を張り上げた。

「そうですね」

 明子は疲れた声で返事をした。誰かから謝られたりすれば、『いえいえ謝ることないですよ』と恐縮するのが普段の明子であるが、今回ばかりは、さすがにそんな気になれない。達也にせよ、明子が簡単に許してくれるとは思うほど楽観的ではなかったようだ。彼は、土下座したまま、ひたすら詫びの言葉を繰り返した。

「申し訳ありません。これからは、絶対に浮気はしない。これからは君だけを大切にする。君だけを愛していく。だから、どうか許してほしい」

 繰り返すうちに、謝罪の言葉に含まれる未来への約束が増えていく。達也が言っている『これから』というのも、謝罪のひとつの形ではあるには違いない。だが、彼との別れを決めている明子にとっては、そんな言葉は負担でしかない。


「やめてください」

 明子は、達也の言葉を遮った。

「『これから』なんて、いまさら無理です」

「そうよ!無理よ」と、紫乃が明子に加勢しかけたが、それ以上は弘晃に遮られた。どうやら、この場も、明子独りで乗り切らなければならないようだ。明子は、息を整えると、静かに達也に語りかけた。

「香坂唯さんのことで達也さんが反省なさっているということは、今のお詫びで伝わりました。今は許せないけど、いつかは許せるようになると思います。だけど、やり直すのは勘弁してください」


「どうしても無理なのか?」

 床に手をついたまま、達也が縋るような目を明子に向けた。

「でも、その…… こんなことを言ってはなんだけど、今回の浮気は最初の過ちじゃないか? それに、浮気といってもだね。香坂唯とああいう仲になってから、まだ3週間しか経ってない。君も、もう少し冷静になってくれてもいいと思うんだが」

「違うわ。最初から……」

「違う。3週間だ」

 達也が、必死になって的はずれな弁解を始めた。

「確かに彼女とは昔つきあっていた。だけど、ずっと音沙汰がなかったんだ。それが、3週間前に偶然、過去に僕と彼女の仲を引き裂いたのが母だとわかったんだ。それで気が動転して、気がついたら……」

「気が付いたら、唯さんの所に走って浮気していたというの?」

 明子が達也の言葉を質問の形で続けると、彼が大きくうなずいた。


「つまり、達也さんは、始めから唯さんとヨリを戻したくてしかたがなかったということなのね?」

 とうとう堪忍袋の緒が切れたらしい紫乃に先んじて、それまで黙って話を聞くばかりだった彼女の年上の義妹の華江が静かな口調で指摘した。

「え?」

「だって、3年前に終わった恋なのでしょう? 『たまたま知った』だけなら、いくらでも無視することはできたと思いません? それを、『待ってました』とばかりに浮気するなんて、達也さんが、唯さんに対して未練たっぷりだったとしか思えないんですけど」

 「違うんですか?」と、華江が無邪気を装いつつ嫌味たっぷりに達也にたずねた。


「で、でも! 僕たちは、夫婦とはいえ、まだまだ名ばかりでして!!」

 旗色が悪くなった達也が、華江のほうを向いて抗弁した。

「結婚したものの、彼女は一向に僕に心を開いてくれようとしないし、いつまでたっても、脅えたような顔で僕を見るんです。親が決めた結婚だからといってしまえばそれまでですけど、こんなのが一生続くのかと思ったら、なんだかもう嫌になってしまってですね……」

「あらあら、そんなふうに相手を一方的に責めるものではありませんよ」

 穏やかな笑みを浮かべながら、弘晃の母の静江がやんわりと達也を諌めた。

「夫婦の問題なのですもの。どちらか一方だけが悪いなんてことは、めったにないものです。どんなに自分のほうが正しいと思っていても、傍目から見れば、どちらにも、それなりに非があるものですよ。私の言いたいこと、わかっていただけますかしら?」

 静江は、達也だけではなく周囲の者たちにも笑みを向けた。つまり、彼女は、達也を叱ると見せかけて、『達也が悪いには違いないだろうけれども、明子の味方ばかりが怒りに任せて一方的に達也を吊るし上げるものよくないことだ』と、この場にいる全員に牽制をかけているのである。そんな優しい姑の言葉に、紫乃でさえ冷静さを取り戻しかけた。だが、残念なことに、達也にだけは、静江の好意が伝わっていないようだった。


「そうはおっしゃいますけどね。彼女は、私が触れることさえ嫌がるわけですよ」

 彼は、弘晃の母に食ってかかると、明子を睨みつけた。

「じんましんだって、どうせ、僕のせいだと思っているんだろう? 僕が無理矢理に君を抱こうとしたからいけないんだとね。もっとも、君は途中で気を失ってしまったけど」

 嘲るような、でも泣き出しそうな顔で、達也が明子にたずねる。 

「ねえ、そんなに僕が怖い? 避けられて嫌われて、それでも僕は君の夫といえるのか? 君は、僕がどうしたらよかった? こんな状態に、いつまで耐えればいい?」


「明子がそんなふうだから、あなたが浮気するのも仕方がないっておっしゃりたいの?」

 紫乃がようやく発言した。怒鳴りこそしないものの、その声は殺気を帯びていた。

「そうは言っていません。だけども、先に僕を裏切ったのは、明子です」

「違うわ。あなたは結婚式の日から明子を裏切っていたのよ」

「それは、勘違いです。たしかに、僕は式場で唯の姿を見ました。でも、それだけです。ふたりの間には、ずっと何もなかった。僕を唯のところへと追い詰めたのは、他ならぬ明子自身です。そうだ。俊鷹との浮気を始めたのだって、君のほうが先なんじゃないか?」

 一瞬ではあるが、達也の目が勝ち誇ったように輝いた。

「だったら、君には…… いや、六条家には僕や喜多嶋を責める資格なんてない」

「あなた、言うに事欠いてなんてことを!」

 紫乃が叫んだ。こうなってくると紫乃は誰にも止められないが、それよりも、ここにいる全員が達也の言い分に呆れていたので、誰も彼女を止めようとはしなかった。むしろ 『もっと、どんどん言ってやれ』と、紫乃をけしかけたい心境だっただろう。だが、ひとりだけ、紫乃の怒りに水を注した者がいた。明子である。


「お姉さま。 もういいわ」

 明子は紫乃に首を振ってみせた。

「この人は、いつだって自分が正しいと思っているの。人の話なんか初めから聞く気がない。相手をやり込めることしか考えてない。私たちが何を言っても、言い逃れて、逆にこちらの落ち度を探そうとするばかり。どれだけ言い争っても、不毛なだけよ」

「そんなことを言いながら、本当は僕に探られたら困る事があるんだろう? やはり、俊鷹とは以前からの付き合いなんだな?」

「違うわ」

 急に勢いづいた達也に向かって、明子は首を振った。

「でも、あいつを好きなんだろう?」

 達也が食い下がる。

「昨日今日の話ではないはずだ。もっとずっと前から、僕と唯が付き合い始める以前から、君は俊鷹を想っていたんじゃないのか?」

「だから、森沢さんとは、あなたや唯さんが考えているような関係ではないの! だけど、私は……」

 明子の視線が、達也から外れて彼の背後に移る。その目が、少し前に入ってきて、明子と達也のやり取りを見守っていた森沢の姿を捕らえた。 


「私は……」

 ずっと、明子のことを心配して見守ってくれていた森沢に、彼女は嘘をつきたくなかった。


「私は…… ええ、そうよ。私は、ずっと、森沢さんのことが好きだったの」

 明子は、森沢に向かって、正直な自分の気持ちを伝えた。




「やっぱりそうだ。 あの報告書! どこから紛れたんだろうって不思議に思っていたんだよ。あれは、君たちの仕業だったんだな? 君たちが一緒になるために、君たちは僕が邪魔だった。それで、僕が浮気をするように罠を仕掛けたんだ。そうだ、そうに違いない」

 合点したように何度もうなずきながら、達也が明子の罪を暴き立てる。だが、彼の言っていることの半分は言い掛かりであったし、報告書を達也の書類の山に紛れ込ませたのは、『君たち』ではなく『私』こと明子である。

 明子は訂正を入れようとした。だが、つかつかと部屋に入ってきた森沢が彼女と達也の間に割って入ってきたために、発言を阻まれた。


 広い背中。そして、明子をかばうように広げられた腕。 

 ごく自然に、明子は森沢の背後で身を縮ませた。


「大丈夫?」

 明子を気遣う森沢の言葉に、明子は「はい」とうなずいた。その親密なやり取りが達也の怒りを煽ったようで、彼が更に喚き立てる。その内容は、いつの間にやら浮気問題から離れて、もっと昔の達也と森沢のことに及んでいた。達也は、どうやら森沢に対して、相当なコンプレックスを抱えていたようだ。

「僕がどれだけ頑張っても、お祖父さまは俊鷹ばかり評価していた。なんだって僕のほうが上だったのに、何をやっても、あの人だけは僕を認めようとしない! いつだってヘラヘラ笑っているだけのくせに、要領ばっかりいいくせに! お前は皆から可愛がられて、一番良い所だけさらっていく! それどころか、今度は僕から妻まで奪おうとする! 今度は僕から喜多嶋グループまで奪おうとする!」


 森沢は、達也の言うことを遮ろうとはしなかった。後から紫乃に聞いた話によると、この時の森沢は、達也以上に悲しげな顔をしていたそうである。そんな森沢が発している気迫のようなものに押されて、周りの者たちも誰ひとりとして達也の話を止めようとしなかった。森沢と一緒に、息を潜めるようにして逆上している達也を見つめている。

 とうとう達也に言う事がなくなってきた時、森沢は、「言いたいことは、それで終わりか?」と、静かにたずねた。数秒待ち、達也からの沈黙以外の返事がないことを確認すると、森沢は、おもむろに達也を殴りつけた。 

 女たちの悲鳴が上がり、バランスを失った達也が尻餅をつくようにして床に転がった。


「なにすんだよっ!」

 口の端から血を滲ませながら達也が叫んだ。

「奇遇だな。俺も、お前に対して似たような事考えて、お前を羨んでいた。だけどな」

 森沢は、体を起こしかけた達也の上に馬乗りになると、彼の襟首を掴んで引っ張り上げた。そして、「そうやって、自分ばかり被害者みたいなことばかり考えて拗ねてるから、あんな幼稚な女に付け込まれるんだよ」と、言うなり、また殴った。 


 さすがに、このままやらせておくと森沢が犯罪者になりかねないと思ったのか、「坂口っ!」という弘晃の声に反応して、坂口が背後から森沢を押さえつけた。

「ちなみに、明子ちゃんも否定していた通り、俺と彼女の間には残念なことに今のところ何もない。悲しいぐらいに純然たるプラトニックだ」

 坂口の手を払いのけ、荒い息を吐きながら、森沢が言う。

「そんな白々しい」

「嘘じゃない。だけど、俺も彼女を愛している。でも、こうなったのは偶然じゃない。お前の言い方を借りれば、俺を明子ちゃんに引き寄せたのは、お前自身に他ならない」

「……え?」

「すみません。それを」

 明子が驚くようなことをサラリと言いながら、森沢が老執事のほうに手を伸ばす。老執事は、達也を殴る前に森沢が一時的に預けたらしい紙袋のような小包のような物を彼に返した。

「ほら」

 彼がその紙袋を達也の前に突きつけると、殴られるのを警戒した達也が一瞬身を竦ませた。その後、危険がないとわかると、達也はノロノロと手を伸ばして紙袋を受け取った。


 袋の中味は、写真の束だった。その厚みからして、100枚以上はあると思われた。 

「これは、結婚式の?」

「そうだよ。今日、たまたま……っていうか、うちの母親が俺に寄こしてきた。俺が撮った写真だ」


 


 



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