A bride in the rain 5
部屋を出る間際、森沢が明子に向けて、ブロックサインを送って寄こした。
両手の人差し指で口角を押さえて上に引き上げてみせるのは、『笑え』ということらしい。
(『笑って』、『そして、達也を悩殺しろ』ですか?)
先刻の森沢とのやりとりを思い出した明子は、『頑張ってみます』という気持ちを込めて森沢に笑顔を見せた。すると、彼は、彼女の笑顔を見て安心したように微笑み、『成功を祈る』とでもいうように親指を立てた。
(森沢さんったら、また、可笑しなことばっかり……)
明子が声を出して笑うと、森沢は、ますます嬉しそうな顔をして部屋を出ていった。部屋の中は、今度こそ、明子独りきりになった。だが、ついさっきまでの胸を締め付けるような心細さは、嘘のように消えていた。森沢の真似をして、白い手袋をはめた両手の人差し指を頬に当ててみる。今は無理して口の端を上に持ち上げる必要はなかった。彼女の口元には、もう笑みが浮かんでいた。
「そうよね。 無闇に不安がっていたってしかたがないもの。それに、私が沈んだ顔をしていたら、お婿さんになる達也さんがだって面白くないだろうし。それどころか、嫌われてしまうかもしれないものね」
不安な顔や悩んだ顔をするのは、実際にそういう事態が起こってからでも間に合うだろう。それまでは、できるかぎり明るく笑顔でいることにしよう。明子は決心すると、元気よく椅子から立ち上がり、窓辺へ向かった。
雨は、ますますひどくなっていた。晴れた日ならばともかく、この土砂降りだ。外には誰もいないはずだし、いたとしても、明子がいる二階の窓から見えるのは、その人が開いている傘ぐらいなものである……はずだった。
(あら?)
窓から庭を見下ろした明子は、驚いた。隣接する建物と植え込みの間に身を隠すようにして若い女が立っている。しかも、こんな雨降りだというのに、傘をさしていない。彼女が身につけている白い服も髪の毛も、体の線がハッキリとわかるぐらいにぐっしょりと濡れていた。
その女が明子を見ていた。
明子が驚いているように、ずぶ濡れの女のほうも、窓辺に出てきた花嫁といきなり目が合ってしまったことに驚いているようだった。しばらくの間、ふたりは、お互いの視線に囚われたかのように、見つめあったまま身動きできずにいた。
そのまま、30秒ほどが経過しだろうか。金縛りにも似た状態を破ったのは、明子の背後で聞こえたノックの音であった。
「はい、どうぞ!」
明子は、振り返ってノックに答えると、すぐに窓のほうに顔を戻した。だが、白い服の女はもう、いなくなっていた。
(建物の中に入ったのかしら?)
明子は、窓を開けると、身を乗り出すようにして下を覗いた。だが、誰もいない。窓の縁につかまるようにして更に身を乗り出しても、やはり誰も見当たらなかった。
「おかしいわね……」
首をひねりながら明子がつぶやいたその時である。
「明子? あ、こら! 早まるんじゃないっ!!」
叫び声と共に飛び込んできた明子の父親の源一郎が、彼女を、いきなり背後から抱きかかえた。
「は?」
「お父さんが悪かった! そんなに結婚が嫌なら、今からやめてもいいからっ!」
窓から明子を引き剥がしながら、源一郎が叫ぶ。
「お父さま、誤解です!」
明子は、父の腕から抜け出だそうと、身をよじった。
「誤解?」
源一郎が力を緩める。その途端に、ふたりはバランスを失って、床に座り込んだ。
「本当かい? 結婚が嫌で、そこから逃げだそうとか、身を投げようとか……」
「していません」
床を這うようにして再び明子にすがりついてきた源一郎に、彼女は、きっぱりと首を振ってみせた。
「本当に、本当?」
「ええ。 雨を見ようと思っていただけです」
明子は言った。雨の中に女が立っていたことは、なぜだか、彼には言わないほうがいいような気がした。
「なんだ、そうだったのか。よかった」
源一郎が安心したように大きく息を吐いた。
「実は、ずっと心配していたんだよ。明子は、紫乃と違って聞き分けが良すぎるところがあるからね。本当は嫌で嫌でしかたがないのに、私にそれを言えないんじゃないかってね」
源一郎は両手で明子の顔を包むと、彼のほうに向けた。
「明子が嫌ならば、結婚式は、やめにしたって、かまわないんだよ」
「そういうわけにはいかないでしょう? 相手の方にも失礼ですもの」
「相手のことなんて、この際、どうでもいい」
はぐらかすように微笑む明子に、源一郎が厳しい顔を向ける。
「私にとって、なによりも大事なのは、君だ。土壇場で結婚式がキャンセルになって、相手の男が傷つこうが、人間不信に陥ろうが、そんなのは関係ない。そのせいで、喜多嶋グループとの仲が険悪になったってかまわない。向こうが報復するっていうのなら、こっちだって受けて立ってやろうじゃないか!」
「お父さま。お願いだから、そういうことはなさらないでね。紫乃お姉さまのときに、懲りたはずでしょう?」
明子は苦笑しながら、いきなり戦闘態勢に入ってしまった父をなだめ、姉の紫乃と弘晃が婚約する以前のことを彼に思い出させた。今から3年ほど前のこと。ふたりの仲がこじれたことを弘晃のせいだと思い込んだ父が無茶苦茶なことをしたせいで、弘晃の会社は潰れかけ、弘晃も無理が祟って危うく死ぬところだったのだ。
「ああいった騒動は、もう二度と引き起こしてほしくありません。あの時も、皆が迷惑するばっかりだったでしょう?」
「はい。そうでした。ごめんなさい」
厳しい顔で明子に諌められて、父が小さくなった。
「でもね、明子。本当に嫌だと思ったら、いつ帰ってきたって構わないからね。まったく、いくら相手に懇願されたからって、たった半年の間に娘をふたりも嫁に出すなんて馬鹿な真似をするんじゃなかった」
源一郎が涙ぐんだ。要するに、誰よりもこの人が、この結婚式をキャンセルしたいのだろう。妻も子供も人並み以上に沢山もっているにもかかわらず、寂しがり屋のこの父は、姉の紫乃が嫁に行ったときにも、しばらくの間は、すっかり元気をなくしていた。
「大丈夫ですよ。結婚した後も、そちらにはちょくちょく帰るようにしますから。お姉さまだって、そうしていらっしゃるし、そうすれば、お父さまだって、お寂しくないでしょう?」
明子は、父の前に小指を立ててみせた。
「約束だよ」
父が鼻をすすり上げながら、明子の小指に自分のそれを絡めた。源一郎と指きりをした明子は、おそらく花嫁のために控え室に常備されているティッシュの箱を取り出した。いまだに6人の美女を虜にし続けている男前の源一郎の顔は、涙と鼻水で台無しになっている。明子がティッシュを使って父親の顔をキレイにぬぐってやったころを見計らって、「あの、そろそろよろしいでしょうか?」と、ホテルの女性係員が戸口から遠慮がちに声を掛けてきた。
「あ、すみません。お待たせしました」
明子は時計を見上げながら謝った。予定時間より、既に15分ほど遅れている。
「さあ、お父さま、行きましょう」
「ええ? もう?」
「ええ。皆さまをお待たせしては悪いでしょう?」
グズグスしている父を急きたてて、明子は式場へと向かった。
係員の後に続いて階段を降り、渡り廊下を抜けていく。式場が近づくにつれ、父は泣きやむどころか、ますますメソメソしはじめた。普段の源一郎は人の何十倍も働いてしまうようなエネルギッシュで有能な人物ではあるが、泣き虫の彼は、全くアテにならない。この式の成功は紫乃の結婚式の時と同様に花嫁の自分の頑張りに掛かっているようだと、明子は自覚した。兎にも角にも、まずは、この結婚式を無事にやりおおせる。責任感が人一倍強い彼女の頭の中は、ひとまずは、そのことだけで一杯になった。
だが、時間が押しているにもかかわらず、明子たちは、式場の閉じた扉の前で待たされることになった。
花婿が遅れているというのだ。
「男のくせに支度に時間がかかりすぎて女を待たせるとは、けしからんな」
源一郎が、ここぞとばかりに、娘を奪っていく男にケチをつけた。更に10分ほど待たされた後、係員が準備が整ったことを告げた。
「ほらほら、しっかりしてくださいな、お父さま」
またもやメソメソしはじめた源一郎を、明子は励ました。
「あともう少し。祭壇のところまで頑張ってください。歩き方は覚えていますよね?」
「う、うん」
父がうなずくのを合図にしたかのように、オルガンの演奏が始まり、式場の扉がゆっくりと開かれた。明子と源一郎は、ワーグナーの結婚行進曲に歩調を合わせて、バージンロードを進んだ。赤いじゅうたんの上を半分ほど進んだとき、明子の右手側で、カメラのシャッター音が聞こえた。式場にまでカメラを持ち込んで撮影しているのは、森沢ではなく、ホテルが許したプロのカメラマンのようだ。だけども、その音は、森沢からのアドヴァイスを彼女に思い出させた。
(そうだった。笑わなきゃ。笑顔、笑顔)
ベールを被りうつむいたまま、明子は、顔をしかめたり口をすぼめたりしてみた。自覚している以上に緊張していたようで、顔の筋肉が、かなり強張っている。
(大丈夫なのかしら、私? ちゃんと笑える?)
明子は急に不安になった。だが、そんな心配をしている暇は、もう残っていなかった。父娘はもう、祭壇のすぐ前まで来ていた。源一郎が明子の腕を解くと、花婿である達也がゆっくりとした歩調で、明子に近づいてきた。達也の手で、ベールが目の前を覆うベールが上げられた。明子は、口元を引きつらせながらも、なんとか微笑らしきものを浮かべながら顔を上げた。
だが、明子がやっと浮かべた微笑は、達也の前に凍りついた。
達也の眼差しは、明子など目に入っていないかのように、空ろに冷え切っていた。
(この人……本当に達也さん?)
達也の印象は、明子が以前に会ったときと比べると、随分違っているような気がした。もしかしたら、あの時に会ったのは別の人だったのかもしれない。そんな疑いさえ頭をかすめた。
呆然としている明子に、達也が手を差し伸べる。明子は、戸惑いながらも彼の腕に手を絡めた。
雨に濡れたのだろうか? 達也の袖は、なんとなく湿っぽかった。