Emergence 5
「私、まさか、こんなことになるなんて思ってもいなかったんです。私のせいで…… 私が達也さんを好きになったことで、達也さんの会社が潰されるかもしれないなんて。こんなに迷惑が掛かってしまうなんて……」
落ち着きなく両手を掏り合わせながら、唯が、謝罪とも自己弁護ともつかぬことを明子の前で延々としゃべり続けている。
その様子に唖然としながら、明子は、(こういう時って、なんて言うのだっけ?)と、考えていた。
テーブルから窓、窓から壁、壁から部屋の角に置かれている4枚扉のクローゼットへと、言葉を探しながらぼんやりと視線をさまよわせる。クローゼットの扉の縁に掘り込まれた模様を丹念に目で追っていたとき、彼女は、ようやく、今の状況にピッタリと当てはまりそうな言葉を思い出した。
(そうだ。『どの面下げて』だわ)
唯が恥を忍んで明子の所にやってきたのは、達也のことを想うあまりの行動であろうということは、想像に難くない。しかしながら、夫と浮気した女が許しを乞うだけならともかく、夫の妻に対して新たな要求を突きつけるとは図々しいにもほどがあると明子は思った。しおらしい態度とは裏腹に、香坂唯の面の皮は随分と厚いに違いない。もしかしたら、彼女の可愛らしい顔は、お面なのかもしれない。そうだ、きっと、お面だ。あの顔がゴムマスクのようにペロンと剥がれると、それはそれは恐ろしい顔をした醜女が現れて、こちらに向かってニタリと笑いかけてくるに違いない。
……と、明子は、ホラー映画さながらの恐ろしい光景を想像したものの、育ちの良さが邪魔をして、それをそのまま口に出すことはできなかった。 だが、少しぐらいの嫌味を言うのは構うまい。
「ずいぶんと想像力が乏しいのね」
我ながら驚くほど、明子の声は冷ややかな響きを帯びていた。
唯は、明子が言い返すとは思っていなかったのかもしれない。急に話すのを止めると、大きく目を見開いて明子を凝視した。その目は、『そんなこと言われるとは思ってもみなかった』とでも言いたげで、明子は更に気分を害した。
(今まで『自分が悪い』って、自分で言ってたくせに……)
では何か? 『こんなところまで謝りに来てくれてありがとう。あなたの言い分はわかったわ』とでも、明子は彼女に言ってやればよかったのか? そんなことを明子が言える訳がないことぐらい、なぜ、彼女はわからないのか? この女は、明子とどういう話がしたいのだ? それよりも、彼女には、そもそも明子と話そうという気持ちがあるのか?
先行き不安な唯の反応に、明子は既に彼女と話すのが嫌になってきていた。それでも、どうにかして彼女との話し合いの素地を作ろうと、明子は、まず、事の重大さを理解できていないらしい唯に現在の状況を正確にわかってもらおうと試みた。
「私と達也さんの結婚は、家同士の結びつきを強めるためのものですもの。それが、半年も経たないうちに壊れた。あなたと達也さんのせいでね。私の父でなくても、面子を潰されたと思うでしょう。喜多嶋に対して怒るのは、当然だと思いませんか?」
「でも!」
「『でも』、なんです?」
間髪を入れずに、たずね返す。
「結婚式の日に、わざわざ式をぶち壊しにいらして、『こういうことになるとは、思ってみなかった』って、そう、おっしゃりたいのかしら?」
だが、明子の解説も嫌味も、唯の前では無力だった。
「そうです! 思ってませんでした。結婚式に行ったのは、ただの偶然です!!」
嫌味であったはずの言葉を、唯は真正直に肯定してみせた。
「知り合いから達也さんが結婚するって聞いて…… だから、ひと目だけでも会いたかった。それだけなんです」
そういう行為を、人は『わざわざ』というのではなかろうか? 明子は思ったものの、指摘するのも馬鹿馬鹿しくなってきた。彼女は、軽く額を押さえると、カップの横に添えてあったスプーンを手に取り、紅茶しか入っていないカップを意味もなくかき回した。
「会いたかったから、会いに行った? そして、まだ好きだったから、達也さんを手に入れた? やりたい放題ね?」
渦を巻くカップの中身を眺めながら、明子が聞くでもなしに呟くと、唯が小さな声で反論を始めた。
「手に入れる……なんて、私は、そんなつもりありませんでした。私は、ただ達也さんに会いたかっただけです。あれきりにするつもりだったんです。でも、結婚式の後になって、達也さんが現れて…… 私は、こんな関係を続けるのはダメだって言ったんですけど、でも……」
言葉は濁しているものの、唯の言っていることは、『あたしのせいじゃない』『責任は全て達也にある』『達也が悪い』と言っているのと変らない。
「自分は悪くないって言いたいの? 勝手な人ね」
明子は、言葉を飾るのをやめた。下手な遠慮や、もって回った言い回しは、この女には通じないと思った。
だが、明子が強気に出た途端、「そんなことありません。悪いのは、私です」と、唯が、急にしおらしくなった。彼女は、今にも泣きださんばかりに両の眉をきゅっと引き寄せると、「私さえ彼を好きにならなければこんなことにならなかったんです。彼に会いにいかなければよかった。達也さんを愛さなければよかった」と、よりによって明子の前で後悔の涙を流し始めた。しかも、その涙が、なんとも嘘っぽい。明子が通っていた女子高でも、自分に都合が悪くなると、こんなふうに泣いてみせる女生徒がいたが、その娘の嘘泣きのほうが、目の前の香坂唯の涙よりも遥かに真に迫っていた。
(なるほど、これが、香坂唯の本性か)
明子は、ここにきて、紫乃の言葉に心から納得した。
紫乃は、きっと繭美から唯についての情報を事前に聞かされていたに違いない。昨日の夕食時の発言から察するに、おそらく森沢も、ある程度までは唯の正体を知っていると思われる。では、彼らが明子に唯のことを教えてくれなかったのは、なぜだろう?
(きっと、私が達也さんを愛していなくても、『こんな人に、達也さんをやるわけにはいかないから、離婚するわけにはいかない』と考えると思ったからだろうな)
明子は、紫乃たちの懸念を正確に推測した。実際、明子は、(こんな人と一緒になって、達也さんは本当に幸せなれるのかしら?)と不安に思い始めていた。
(達也さんは、唯さんが、こういう女性だと知っているのかしら?)
明子の反応を伺いながら泣き続ける唯を持て余しながら、明子は考えた。
思い込みが激しそうな達也の性格からして、彼が唯の本当の性格を知らないまま付き合っている可能性は充分にある。しかも、人の意見を聞けない男だから、皆の親切な忠告を無視した可能性も高い。それに、この手の女性は、好きな男性の前でだけ別人のように可愛らしい女性に変身したりするものだ。例えば、明子の美貌の兄を前にすると豹変する彼女の一部の友人たちのように。
もはや添い遂げる意思を持ち合わせてないとはいえ、達也は、明子が一度は夫と呼んだ人である。明子は、達也のために、あえて「じゃあ、彼と別れる?」と、突き放すような態度で彼女にたずねてみた。
「別れるのなら、パリ行きのチケットを、今度は私が準備してさしあげてもいいけど?」
「そんな…… 達也さんと別れるなんて、もう無理です」
明子の申し出を聞いた唯は、声を震わせて拒否した。そして、「お願いです。どうか、このままでいさせてください。達也さんと別れさせないでください」と、彼女の希望を伝えてきた。
「このままって……」
やはり、香坂唯は、人の迷惑を考えずに、自分の要求を通すためだけに来たようだ。
予想できたことではあるが、唯の言葉に、明子は心の中でガックリとうなだれた。一方、唯は、ようやく自分が言いたいことを言う機会が巡ってきたと思ったのか、急に勢いづいた。
「私、なるべく奥さまの邪魔はしないようにしますから。奥さまの地位を脅かしたり、奥さまのご機嫌を損じるような出すぎた真似は、今後いっさいしません。奥さまの前に姿を表わすようなことはしないし、止めろというならば《胡蝶》のオーディションも辞退してもいいです。奥さんの目に触れないところで地味に仕事しながら、なるべくひっそり暮らします。たとえ、私に先に子供ができたとしても、喜多嶋の跡継ぎにしようなんて大胆なことは考えませんから」
一気にまくし立てて息切れしたのか、唯は息を継いだ。そして、「だから、こっそりと達也さんとお付き合いすることだけは、見逃していただけないでしょうか?」と続け、最後に、「どうか、お願いします!」 と立ち上がって、大きく頭を下げた。
「お願いしますと言われても……」
明子は、あえて答えを留保した。
自分が悪い。でも達也とは別れたくない。だけど喜多嶋は潰さないでほしい。そういえば、達也の妻である明子への詫びもない。唯なりに考えて『譲歩』らしきことも提案していたが、それでも、彼女の要求が身勝手であることは変らない。
達也など唯にくれてやるつもりだった明子だが、唯の達也を想う気持ちに負けて離婚したと彼女に思われるのは癪だと思った。少しは唯にギャフンと言わせてやらねば明子の気が収まらないし、隣の部屋で聞き耳立てているはずの紫乃の気持ちも収まらないだろう。
では、どうしようかと明子が思案していると、ドカン! ……と、クローゼットの向こうから音がした。きっと、隣の部屋で紫乃が暴れているに違いない。その音で、ようやく我に返った明子は、「つまり、私を、達也さんの妻として立ててやるから、愛人のままでいさせてほしい。そして、達也さんに怒っている父を、私がなだめてほしい。あなたのお望みは、そういうこと?」と、努めて冷静に唯の意向を確認した。
唯は、小さく、だがはっきりとうなずいた。
「……。あなた、気は確か?」
嫌味ではなく、明子は本気で唯の正気を疑いかけていた。
「もちろん。こんな虫の良いお願いが通るなんて、私だって思っていません」
唯が、明子の疑いを否定するように大きく首を振った。
「でも、奥さまだって、本当は夫婦関係に波風なんて立てたくないと思っている。違いますか?」
「なにが言いたいのかしら?」
明子は、眉をひそめた。唯の探るような眼差しと思わせぶりな口調が気に障った。
「だって、奥さんだって、私たちのことを非難できないはずです。奥さまだって、達也さんの従弟って人と愛し合っているじゃないですか? 夫がいるくせに、よりによって、その従弟と不倫するなんて…… そんな噂が立ったら、奥さんのほうこそ困るんじゃないですか? 達也さんと私のより、ずっと面白いスキャンダルですもの」
「は? 私と森沢さんがなんですって?!」
明子の声が裏返った。この女、なんてことを言い出すのだ?
言われてみれば、自分と森沢とは、酔っ払った拍子にプロポーズらしきものをしあった挙句、抱き上げられて、こめかみにキスされたようなされないような仲ではある。ではあるが…… たぶん、きっと、唯が想像しているような関係ではないことだけは確かだ。
「違います。森沢さんと私は、そのような関係にありません」
明子は、きっぱりと唯の疑惑を否定した。唯は、明子に否定されても怯まなかった。
「あら、じゃあ、奥さまの片思いなんだ? 確かに、あの従兄さん、とってもモテそうだし、ひとりの女に落ち着くタイプにも見えないものね。パーティーで見た時は、とてもお似合いだと思ったのに、残念ね」
急に馴れ馴れしくなった唯が、哀れむような視線を明子に向けた。
「とはいえ、どっちにしろ、奥さんは達也さんの従弟の森沢さんって人のことが好きなんでしょう? だったら、よく考えなくちゃ。奥さんのお父さまが達也さんの会社を潰しちゃったら…… 同じ一族ですもの、森沢さんだって困るはずよ。もしかしたら、喜多嶋を潰したことで、あなたのことを恨むようになるかもしれない。森沢さんに嫌われちゃったら、奥さんだって、悲しいでしょう? それに、森沢さんって女に不自由してなさそうだもの。彼が優しいのは、奥さんが達也さんの奥さんだからってだけなのかもしれない。喜多嶋と縁が切れちゃったら、奥さんのことなんか見向きもしなくなるかもね」
ねっとりと耳にまとわりつくような甘い声を出しながら、唯が艶っぽい微笑を浮かべる。
「だから、私に、おとなしく達也さんの正妻でいろというの? 父に喜多嶋を潰さないように頼めというの?」
明子の声が怒りで擦れた。
「あなた…… なんて、卑劣で…… いやらしい人なの」
「それがなによ?」
足と腕を組んだ唯が、馬鹿にしたようにクスリと笑う。
「私は、達也さんを守るためならなんだってするだけよ。でも、キレイごと言っているお嬢さまのあんただって、所詮は愛人の娘なんでしょう? 達也さんのやっていることは、あんたの父親と同じ。そして、私は、あんたの母親と同じ。いいえ。多くの愛人を抱えているあんたのお父さんより、私だけを愛してくれる達也さんのほうが数倍ましだし、6人の愛人のうちのひとりでしかないあんたの母親よりも、私のほうがまだましよ! 自分の両親のこと棚に上げて、お上品ぶって、私のことを見下して一方的に責めるなんて、それこそ卑怯だわ! ふざけるなって言うのよ!!」
可愛らしい態度をかなぐり捨てた唯が、明子に向かって罵声をあびせた。
明子は、返す言葉もなく唯を睨みつけた。
返す言葉がないのではない。この女に言い返したいことがありすぎて、言葉が出てこなかった。
そうじゃない。違う。父も、母も、それから明子の他の母親たちも、それから姉や妹たちも、こんなふうに、この女に侮辱されていいはずがない。
明子の目の前が涙で霞んだ。
「黙りなさい」
唯を睨みつけたまま、明子は声を絞り出した。
「私の父や、母……たちを侮辱するのは許しません。何にも……何も知らないくせに」
「なにを、気取った……」
「あなたの言いなりにはなりません」
明子は、唯の要求をきっぱりと拒絶した。彼女は、いったん席を離れると、予め用意して棚の上に乗せておいた離婚届を取ってきた。そして、それを、唯の席の前に滑らせた。
「あなたから彼に渡して」
「離婚届けって…… あんた、さっきから何を聞いていたのよ? 離婚したら、達也さんの会社を潰す気なんでしょう? それだと困るから、私はこうして……」
「父は、喜多嶋を潰しません」
動揺する唯を、明子は冷ややかに見つめた。
「……え?」
「父との約束は取り付けてあるわ。私は、達也さんとさえ別れられれば、それでいいの。ああ、そうだ。これも、あげる」
明子は、紫乃がもらってくれた未記入の婚姻届も唯に押し付けた。
「そんなに達也さんと愛し合っているのなら、結婚でもなんでもすればいいわ。私はもう、あなたたちと係わり合いになるのは、うんざり。もっとも、あなたの本性を知ったら、達也さんも結婚を考え直すかもしれないけど」
「え? あの? だって…… 私と達也さんが結婚?」
先ほどまでの威勢の良さはどこへやら、書類を胸に抱きながら戸惑った顔をする唯に、「さようなら」 と、明子は告げた。メイドがしてくれたお盆の上に置かれた持ち手付きのベルを鳴らすと、待ち構えていたかのように黒のお仕着せを着た老執事が戸口に現れた。
「お帰りだそうよ。玄関まで送って差し上げて」
「かしこまりました。お嬢さま、どうぞこちらへ」
執事が、有無を言わさぬ慇懃さで唯を促す。唯は、何かを言いたげな顔をしながら、自分のバッグを手にした。
「あの……」
部屋から出て行く直前、唯がおずおずと振り返った。
「あの…… さっき、言ったことだけど、別に奥さまを傷つけたくて言ったんじゃないんですよ。私は、達也さんを守りたくて、それで、必死で……」
「そうなんでしょうね」
明子は、そっけなく答えると、彼女から目を逸らした。唯が『そんなつもりはなかった』というのは、彼女の勝手だ。だが、明子は充分傷ついたし怒ってもいる。唯が帰ったら、さっそく、今日の彼女の変貌ぶりを達也に言いつけてやろうと明子は決めた。明子の言ったことを彼が信じなくてもかまわない。忠告を無視して唯と結婚すれば、達也が後悔するだけのこと。悪妻に苦しめられて、泣きを見ればいいのだ。香坂唯も、喜多嶋家に嫁に行こうものなら、姑の多恵子から厳しく鍛え直されることになるだろう。嘘泣きと言い訳で自分を甘やかして世の中を渡ってきたような娘を、生まれ変わった多恵子が甘やかすとも思えない。嫁いびり(?)に耐えかねて唯が家を飛び出すことになっても、そんなことは明子の知ったことではない。
「ごきげんよう。唯さん」
逃げるようにして去っていく唯を、明子は精一杯の虚勢を張って微笑みで送り出した。
それから、約一分間。誰もいない空間に向かって、明子が強張った微笑みを顔に貼り付けたまま手を振り続けていると、戸口からひょっこりと顔を覗かせた紫乃が、「お疲れさま」と、彼女に笑いかけた。紫乃の後ろには、弘晃や華江や弘晃の母、それから、見知った顔の中村家の使用人がいた。彼らの顔を認めた途端、急に気が抜けた明子は、そのまま、へたりと床に座り込んだ。「あらあら」 と、紫乃が明子を見て顔をほころばせる。
「さっきまで、あんなに勇ましかったのに」
「だって……」
明子が、照れ笑いを浮かべながら立ち上がろうとした、その時である。ガタゴトと部屋の角に置かれていたクローゼットの中からくぐもった音が聞こえてきたかと思うと、大きな音を立てて、廊下に近い2枚扉が外側に向かって開いた。
転がるようにして明子の前に飛び出したきたのは、弘晃の運転手、兼、中村本家執事見習いの坂口と、
達也だった。




