Emergence 4
明子が受話器の前にたどり着いた時には、紫乃の話は終わりかけていた。
「2時にお待ちしておりますわ。道は、お分かりになりますかしら?」
両手で受話器を支えた紫乃が、微笑みながら小首を傾げる。そんな彼女の上品な仕草は、いかにも旧中村財閥本家の若奥さまらしいものだった。だが、この電話の向こうにいるのは、達也の浮気相手である香坂唯であるはずだ。好戦的な姉のこと。ここは、受話器に向かって怒鳴っているほうが、むしろ自然ではないのだろうか?
「それでは、ごめんくださいませ」
明子が戸惑う暇もなく、紫乃が受話器を置いた。それと同時に彼女の顔から笑顔が消えた。
「来るわよ」
厳しい顔で、紫乃が明子に告げる。
「来るって…… 今の電話は、やっぱり香坂さんからだったの?」
「たぶんね」
紫乃はうなずくと、不快そうに口を真一文字に引き結んだ。
「たぶん?」
「この電話の前にね。うちのお母さまから電話がかかってきたのよ」
紫乃の言うところの『うちのお母さま』とは、彼女の生母である綾女のことである。
綾女によれば、いまからおよそ30分ほど前に、ひとりの女性が六条家に電話を掛けてきたのだそうだ。電話に出たのは、新人の若いメイドであった。彼女が言うには、電話の相手は女で、『明子さんの友人』だと名乗ったそうだ。
「明子は、嫁に行ったのでここにはいない」とメイドが説明すると、女は、「そのことは知っている」と言った。 女は、明子と連絡がとりたくて、最初に喜多嶋家に電話したのだそうだ。喜多嶋家では、「明子は、しばらく戻ってこない」というようなことを言われた。だから、女は、明子が里帰りしているのだと思った。それで、彼女は六条家に電話したのだと言った。
明子が実家にもいないことをメイドが告げると、女は、途方にくれたようだった。のっぴきならない事情があって、今日明日中に、どうしても明子と連絡を取る必要があるという。気を利かせたメイドは、明子は姉の嫁ぎ先にいるのではないかと女に教えてやった。「知らない」 と女が言うので、中村家の電話番号も教えた。
ところで、六条家の使用人の決まりでは、電話を受けたメイドが取り次ぐべき相手が不在のまま電話を切った場合には、用件の重要度にかかわらず―― たとえ、互助会や墓石のセールスの電話であっても――執事かメイド頭に知らせることになっている。
メイドは、手にしていたハタキを持ったまま、すぐにメイド頭に知らせに走った。
メイドからの報告を受けたメイド頭は、もちろん彼女を厳しく叱りつけた。『明子さんの友人』 という名前の友人はいない。名前も知らない相手にホイホイと紫乃さまの嫁ぎ先の電話番号を教えてしまうとは、とんでもない失態である。「メイドの不始末は、メイド頭の不始末。このミスは、自分の監督不行き届きが原因であり、お詫びのしようがございません」と、メイドの報告を受けたメイド頭は、すぐさま、六条家の内政を担当している綾女のところに詫びにきた。
綾女は、鷹揚に若いメイドのミスを許してやった。だが、名乗りもしない『明子の友人』というのが気になった。紫乃や明子の友人ならば、自分の名前を名乗るぐらいの礼儀は心得ているはすである。「取り越し苦労だとは思うのだけど、気持ちが悪いから」と、綾女は紫乃に電話した。香坂唯らしき人物から中村家に電話が掛かってきたのは、その直後であった。「その電話も、最初に『私は、明子さんの高校の時の友人なんですけど、明子さんはいますか?』と言ったわけよ」と、紫乃が憤慨する。
上品にだけは育てられている明子の学校の友人ならば、そのようなぞんざいな話し方を決してしない。不審に思った紫乃は、電話の女に名前をたずねた。少しの間があったあと、電話の女は、「鈴木です」と名乗った。女の苗字は、本当に鈴木なのかもしれない。だが、鈴木といえば、確か、日本人に多い苗字の1位か2位だったはずである。ますます怪しんだ紫乃は、「明子の友達の鈴木さんというと…… 橘乃さんかしら?」と、たずねてみた。電話の相手は、「そうです。 そのキツノです!」 と嬉しそうに返事をしたそうだ。
「鈴木橘乃って……」
明子に、そのような氏名の友人はいない。だが、橘乃という名前の妹ならば、ひとりいる。珍しい名前なので、橘乃と同じ名前の友人がいたら、明子は必ず紫乃にも話していたはずである。ゆえに、自称橘乃は香坂唯に違いない……と、紫乃は確信を込めて明子に話した。
「近くに出てきたから、あなたに会いたいそうよ。本当は、あなたと電話を代わってもらうか、外に誘い出したかったみたい。だけど、明子と話があるのなら、家に来たらいいって言ってやったわ。もちろん、優しく丁寧にお誘いしたのだけど」
手の甲で口元を隠しながら、紫乃が品の良い笑い声を上げた。おそらく、自称橘乃は、紫乃の善意に満ち溢れた誘いを断りたくても断りきれなかったに違いない。明子の耳には、紫乃の笑い声が、勝利の雄叫びのように聞こえた。
「でも、お姉さま。もしも、自称橘乃さんが、唯さんじゃなかったら、どうなさるおつもり?」
「香坂唯じゃなかったら誰だか知らないけど、その時には追い返すか、3人で仲良くお茶を飲めばいいだけじゃないの」
明子の心配を、事も無げに紫乃が笑い飛ばす。
「でも……」
反論しかけた明子は、口を閉じて電話を見た。ベルが鳴っている。
「怖じ気づいたのかしら? もしもし? まあ! お父さま!」
唯からの訪問キャンセルの電話だと思い込み、勇んで受話器を耳に当てた紫乃が、驚いたように声を上げた。電話は、ふたりの父親の六条源一郎からだった。紫乃の母親は、彼にまで連絡したようである。源一郎もまた、明子の行方をたずねて電話を掛けまくっている謎の女性が香坂唯でないかと疑っていたようだった。
「ええ。たぶん、そうよ。心配なさらなくても、わたくしがいるから大丈夫よ。明子? ここにいるわ」
紫乃が、受話器を明子に差し出した。明子は、おそるおそる受話器を耳に当てた。
達也とのことで、あれこれ言われるに違いないと明子がビクビクしていたにもかかわらず、父の話は、『君は、なぜ実家ではなく、紫乃の家にいるのか?』という詰問から始まった。
「お父さんがどれだけ君を愛しているか、君だって、よく知っているはずだろう! それなのに、君は、ここのところ電話ひとつ寄越しやしない。薄情にもほどがある! 悲しみのあまり、うちの庭には、お父さんの涙で池ができてしまったよ。せっかくだから、今度、その池で白鳥を飼おうと思うのだよ。体長10メートルぐらいの」
「お父さまったら、嘘ばっかり!」
あまりの馬鹿馬鹿しさに、明子は笑った。すると、彼女の気が緩むのを待ち構えていたかのように、「達也くんと別れることに決めたんだね?」と、源一郎が、いきなり本題に切り込んできた。
「自分が手に入れたものの価値さえわからない達也くんには、完全に失望したよ。まったく私の眼鏡違いだった。そんな男を娘の夫に選んでしまった私の過ちも許されるものでもないが、せめてもの君への償いとして、まずは、喜多嶋紡績をこの世から抹消し……」
「やめて、お父さま! そんなことしないで!」
明子は受話器に向かって叫んだ。
「お願いよ、お父さま。喜多嶋を潰したりしないで!」
「わかった。しない」
父が答えた。
「……え?」
聞き違えたのかと思った明子は、念のため、問い直した。答えは同じだった。
「お父さま、今、『わかった』っておっしゃったの? 本当に、喜多嶋を潰したりなさらない? 本当に本当?」
「ひどいな。私を疑うのかい?」
何度も明子から念を押された父は、傷付いたようだ。
「本当だよ。他ならぬ君の『お願い』を、どうして私が退けられると思うんだね? そんなことをするぐらいなら、憎い達也を総理大臣にでもしてやるほうが、まだマシだ。まあ、本当にそんなことしたら、喜多嶋どころか日本が潰れちまうだろうがね。だから、君が望むなら、お父さんは喜多嶋グループを潰さない。喜多嶋紡績など達也にくれてやるよ。約束する」
「お父さま……」
「だから、君は、誰にも気兼ねせずに、君のしたいようにしなさい。いいね?」
「うん。ありがとう」
明子は、感謝の言葉を述べると、受話器を紫乃に返した。
電話を代わった紫乃は、父から幾つか指示めいたものを受けていた。彼女の顔つきからして、父からの指示は、彼女の意に沿うものではないようだ。「でも、お父さま」と、紫乃は電話口でしばらく父と揉めていたが、やがて、諦めたかのように、「わかりました。お父さまのおっしゃる通りにいたします。でも、どうなっても、わたくしは知りませんからね」という捨て台詞めいた言葉を最後に電話を切った。
「お父さまは、なんて?」
電話を終えた紫乃に明子がたずねると、紫乃が、「『面白そうだから、明子に任せろ。お前は出しゃばりすぎるな』ですって」 と、不満そうに頬を膨らませた。
「え?」
面白そうだから、明子に任せる? それは、どういう意味だろう?
明子が困惑していると、紫乃が、とんでもないことを言い出した。
「そういう訳だから、お姉さまは出しゃばれません。香坂唯さんのお相手は、明子が独りでしてね」
「ええっ? 私が、唯さんとふたりきりで会うの?!」
姉がいてくれるとばかり思って安心していたのに…… 想定外の成り行きに、明子は愕然とする。
「お父さまの意地悪。ひどすぎる」
「でも、まあ。お父さまの言い分もわかるのよね」
うなだれる明子の頭を撫でながら、紫乃が父の肩を持った。
「明子ならば、わかるだろうと思うし、明子ひとりのほうが、相手も油断するでしょうからね」
「なにが、わかるの?」
「あの女の本性」
恨めしげな顔でたずねる明子に、紫乃が楽しそうに微笑んだ。
「本……?」
「さて、と、わたくしは、お客さまをお迎えする準備をしなくっちゃっ! 念入りにね」
困惑している明子を残して、紫乃は、来客があることを知らせるために、台所へ向かって廊下をスキップしながら去っていった。
明子の敵だからといって、否、敵だからこそ、紫乃が唯を迎える準備に手抜きをするはずがない。
香坂唯を迎えるにあたって、紫乃は、中村家の女たちが主に女性客をもてなす時に使う部屋の使用を明子に許可した。そこは、日の差し込む大きな窓と5、6人が座れる円形のテーブルがある部屋で、深刻な話をする気持ちにはなれない柔らかな雰囲気をもった部屋なのだが、そういう部屋のほうが、明子も唯も話が萎縮せずに話がしやすいだろうと紫乃が判断したのである。
茶菓子や茶器は、人をもてなす天才だと姉妹が尊敬してやまない弘晃の弟の嫁、華江からも助言をもらって、この季節に応じた良い物を用意した。その後、電話では埒が明かぬと駆けつけた華江が、茶器の色に合わせてファブリックや調度類のいくつかを他の部屋にあった物と交換。明子が着替えている間に、紫乃が花を準備し、約束の時間を迎える頃には、どんな賓客を迎えても恥ずかしくないような部屋ができあがった。
「しっかりね」「言われっぱなしになるんじゃないわよ」
約束の時間の10分前になると、明子を残して、みんなが部屋から出て行ってしまった。『隣の部屋で、みんなで聞き耳を立てていてあげるから』『なにかあったら、すぐに呼びなさい』と言われても、明子の不安が収まるわけではない。1分、また1分と過ぎるうちに、彼女の緊張が高まっていく。
そして、約束の2時。
紫乃に案内されて、明子が待つ部屋にやってきたのは、やはり香坂唯だった。
明子は彼女の顔を知っているのだから変装の必要はないと思うのだが、唯は大きく濃い色のサングラスをかけて顔の大部分を隠していた。紫乃も唯の顔を知っていたが、唯のほうは、昨日のパーティーの出席者の中に紫乃がいたことに気がついていないか、気がついていないふりをするつもりのようである。唯がなにも言わないのをいいことに、紫乃は、唯のことを明子の友人だと信じているかのように振舞っている。
「ようこそ。鈴木橘乃さん」
明子は、香坂唯に呼びかけた。それから、紫乃と入れ替わりに華江が(達也の浮気相手を間近で見たかったらしい)使用人を伴って運んできた茶と菓子を置いて出て行くのを待って、「それとも香坂唯さんとお呼びしたほうがよろしいかしら?」と付け足す。声が震えているのが自分でもわかった。
(情けない。しっかりしなくちゃ)
動揺してないことを相手に悟られぬためには、努めて余裕を示すこと。明子は、姉の教えを守って、頑張って唯に微笑みかけてみた。すると、顔をうつむけたまま、唯が無言でサングラスを外した。表情の見えない相手とは話しづらい。サングラスを外してくれたことで、とりあえずホッとした明子は、一対一で話すことなど決してないだろうと思っていた相手の顔を見つめた。
(可愛い子……)
明子は素直に、そう思った。可愛らしくて、頼りなさげで、まるで砂糖菓子みたいな女の子。香坂唯は、明子には持ち得ない外見的印象の持ち主だった。
(こういう女の人が達也さん好みのタイプなら、私は、『ハズレ』よねえ)
唯を眺めながら、他人事のように明子は自分を評した。もっとも、女の子らしい外見の香坂唯を前に、明子が達観しているのかといえば、そうでもなかった。
(でも、頼りなさげで美人で愛らしいという点なら、うちの夕紀のほうが絶対に勝っているわ)
少しでも香坂唯よりも優位に立ちたくて、ついつい、大人げない比較をしてしまう。外見的な雰囲気が妹の夕紀に似ているだけあって、香坂唯も、おとなしくて無口であるようだった。明子に用事があって来たらしいのに、彼女は、最初に挨拶らしき言葉を発したきり、うつむいているだけである。
どうしたものかと思案しかけた明子は、いまだに唯が立っていることに気が付いて、慌てて唯に座るように勧めた。 うつむいたまま、唯は小さく頭を下げると椅子に腰を下ろした。
そして、再び沈黙が訪れた。
(私から、なにか話したほうがいいのかしら。そうでないと、この人も本題に入りづらいのよね、きっと)
言葉もないまま夫の愛人という立場にある女性と向き合うことになってしまった明子は、話の取っ掛かりを探して忙しく頭を働かせた。だが、ようやく思いついた話題は、受け取る側によっては、嫌味としか思えないようなことだった。
「ええと…… 私の記憶違いだったら、ごめんなさいね。いくら考えてもみても、鈴木橘乃さんという方とも香坂唯さんという方とも同じクラスだった覚えはないのだけど……」
これではいけないと、明子は言葉を足した。
「あ、でも、もしかして。鈴木橘乃というのが本名だったりするんですか?」
「いいえ。香坂唯のほうが本名です」
小さな声で、唯が訂正を入れた。
「香坂唯と名乗ったら取り次いでもらえないと思ったんです。私、きっと皆さんに憎まれているでしょうから」
「そうね」
明子はうなずいた。ようやく言葉を交わしたことで、少し冷静になれた。
「それで、私に用事というのは?」
「達也さんの会社を潰さないでほしいんです!」
唯が、潤んだ大きな目を明子に向ける。
「お願いです。奥さまから、奥さまのお父さまにお願いしてもらないでしょうか?」
「私が? あなたからのお願いで、喜多嶋紡績グループを潰さないようにと、父に頼めというんですか?」
明子は、香坂唯からの要望を、ゆっくりと復唱した。
『どうして?』 という疑問が、頭に湧いた。
もちろん、明子は、喜多嶋グループを守りたいと思っている。すでに父からの約束も取り付けているし、今だって、喜多嶋を大事に思う気持ちに変わりはない。そういう意味では、達也を大事に想う唯と明子が望む方向は一緒であるかもしれない。
(だけど、だからといって、どうして、よりによって、この人から、お願いされなくてはいけないの?)




