Emergence 3
その日、中村家で明子と夕食を共にした森沢は、なんとなく様子がおかしかった。
「こんばんは」
午後6時半過ぎ。 弘晃と共に食堂に入ってきた森沢に、明子は、はにかみながら挨拶した。
昨日までは普通に微笑めていた明子だが、今日は彼のことを意識しすぎているせいか、ぎこちない笑い方しかできなかった。そういう『ぎこちなさ』は、相手に伝染してしまうらしい。森沢が、わざとらしいほどの明るさで、「やあ! 久しぶり!」と、明子に向かって片手を高く挙げてみせた。彼のすぐ後ろにいた弘晃が、それを見て笑い出しそうな顔をしたが、彼は全く気がついていなかった。だが、変なことをしている自覚は、森沢にもあったようだ。「……なんて、久しぶりのわけないか。明子ちゃんとは、昨日のパーティーで会ったばかりだものね。俺、なにを言っているんだろう。はははは…… 馬鹿だなあ、俺」と、頭を掻いた。
「そうですね。 昨日会ったばかりですものね」
無理して陽気に笑っているように見える森沢に合わせて、明子も笑う。だが、どちらの笑いも、カピカピに乾いている。ふたりは、目を合わせると同時に、笑顔を引っ込めた。互いに押し黙ったまま、しばらくの間、見つめ合う。どういう訳だか明子にもわからないのだが、彼女は彼の顔から目が離せなかった。森沢も明子と同じ状態であるらしく、彼もまた、恐いぐらいに真剣な表情を浮かべて彼女を見ている。
「あ、あの……さ」
明子と見詰め合ったまま、森沢が何かを言いかけた。
「なんでしょう?」
気まずい沈黙に耐えかねた明子は、背筋をピンと伸ばすと、彼の話を聞く意思を積極的に態度で示した。しかし、その聞く気満々の態度が、かえって良くなかったのかもしれない。
「その…… 座ろうか?」
彼は、視線を逸らすと、明子のために椅子を引いてくれた。そして、当たり前のように彼女の隣に腰を下ろした。
本日の中村家の夕食は、鍋料理である。
人を招いての晩餐に鍋を供するのはいかがなものかと悩んでみたものの、東京に来ると外食続きで野菜不足になるとこぼしていた森沢のために、弘晃の母が決めたメニューだ。
コンロに乗せられた土鍋の蓋が湯気に押されてコトコトと言い始める。森沢は、真剣な眼差しで土鍋を見つめていた。土鍋に恨みなどないだろうが、睨んでいるようでもある。
「お鍋…… 嫌いでしたか?」
弘晃の母に気づかれぬように森沢のほうに体を傾けると、明子は小声でたずねた。
「嫌い? いや、好きだよ。うん。大好きです」
『嫌い』と思われたことが余程心外だったのか、森沢が、明子のほうに体を向けて力強く主張した。森沢がそれほど鍋物が好きだったとは…… 明子にとっては新しい発見であった。
(すると、お鍋を睨んでいたのは、お腹が空いているからかしら? それとも鍋奉行?)
「森沢さん、お腹すいたわよね? 主人の帰りは、いつになるかわからないし、繭美ちゃんは、じきに来るでしょうから、先に始めてましょうか?」
人知れず悩んでいる明子よりも先に、気を利かせた弘晃の母が森沢にたずねてくれた。
「遅れた奴のことなど、放っておけばいいんです。あいつが来る前に食べ尽くしてしまいましょう」
従妹の遅参を詫びつつ、森沢が率先して箸を取った。やはり、空腹だったようだ。鍋料理なのだから給仕の者を煩わせることもないと思い、明子は、器を手に取ると、鍋の横に添えられていた小振りのお玉を手に鍋に向かった。さて森沢の好物はなんだろうと、美味しそうに煮あがっている鍋を前に考える。
(考えるよりも訊いたほうが、早いわね)
「欲しいもの、あります?」
明子は森沢にたずねた。
「え? 欲しいもの? そうだな…… 君が欲しい」
鍋から明子に視線を移して、森沢が答えた。
「相変わらず、お口が上手いですね」
一瞬面食らった後、明子は笑って聞き流した。
森沢の女性にマメなところは、明子の父親の源一郎のようだった。しかも、冗談を言っているとは思えないほど無駄に声が良いところまで、父と似ている。しかしながら、いつもよりも、彼の軽口に精彩が欠けているような気がしないでもない。疲れているのだろうかと、明子は少し気になった。
「……。好き嫌いはないよ。適当によそってください」
狙ったような反応が明子から返ってこなかったことが不満だったのか、疲れきったようにため息をつくと、森沢が言った。やはり、いつもよりも元気がない。
(今日は忙しかったのかしら? 悩み事がいっぱいあるみたいなことを、リナさんも言っていたから、そのせいかしら。そうそう。仕事といえば……)
「森沢さん、言わなくていいんですか?」
「えっ?! 言う?!」
森沢の前に器を置いてやりながら明子が耳打ちすると、彼が、ひどく驚いた顔をした。
「明子ちゃん? 君、なんて積極的な……」
「ここで積極的にならなくてどうするんですか?」
明子はじれったくなってきた。
「研究所を存続させたいのでしょう? お父さまの代理として、頑張って、弘晃お義兄さまを説得しないと……」
弘晃は、喜多嶋ケミカル研究所に好印象を持っているようだった。彼ならば、きっと研究所の存続に力や知恵を貸してくれるだろう。
「あ…… ああ、そのことね」
「頑張ってください」
気の抜けたような顔をする森沢を、明子は笑顔で励ました。
「…… そうだな。話すか」
ため息混じりに森沢が言った。こんな調子で弘晃を説得などできるのかと明子は訝しく思ったものの、そこは、彼女の取り越し苦労だったようである。森沢は、キッと顔を上げると、思わず見惚れてしまいそうになるほど精悍な横顔を明子に晒しながら、「弘晃さん、うちの研究所のことなんだけど」と、向かいに座る弘晃に話しかけた。
「え? 仕事の話をしたいんですか? 今?」
明子と森沢のやり取りを面白そうに眺めていた弘晃が、虚を衝かれたように眉を上げる。
「そう、今すぐ、しよう」
鬼気迫る勢いで拳でテーブルを押さえながら、森沢が弘晃のほうに身を乗り出す。
『そう、その意気! 森沢さん、頑張れ!』と、心の中で明子が森沢に声援を送れば、「仕方がありませんね。お話って、研究所のことですよね?」と、弘晃が気のない素振りで話に応じてくれた。
やる気がなさそうに見えた弘晃だが、話し始めた途端、食事の後にしたほうが消化のために良かったのかも……と明子が心配するほど、森沢と活発なやりとりを始めた。繭美が到着したのは、ちょうどその頃である。 繭美は、挨拶もそこそこに一直線に明子の前までやってくると、跪いて彼女の手を取った。
「達也くんのこと、本当にごめんなさいね。達也くんはもちろん、私たちみんな、心から、あなたに申し訳なく思っているの。それでね。 あの…… やっぱり、達也くんのことは許せない? 達也くんね。とっても反省しているのよ。浮気も二度としないと思う。なにせ、あの女は……」
「繭美」
紫乃が、静かな声で親友の注意を引いた。
「お願い。昨日も電話で言ったけれども、 明子には、周りの事情や説得に流されることなく、自分の気持ちと正直に向き合ったうえで、自分がどうしたいのかを決めさせてあげたいの。もちろん、あなたの気持ちもわかるわ。だけど……」
「そうだよ、繭美。昨日、みんなで話し合ったばかりだろう? こちらの都合で明子ちゃんを引き留めることはやめよう。明子ちゃんのしたいようにさせようって。今は、よけいな雑音を彼女の耳に入れるんじゃない」
森沢が厳しい口調で繭美を諌めながら、彼女を励ますように肩に手を置いた。
「皆さん。もうご存知なんですか?」
明子は、集まった人々を見回した。弘晃の母を含めた全員が、静かにうなずいた。
つまり、昨日のパーティーで達也の浮気に気がついたのは紫乃だけではなかったということだ。これまでは明子と彼の両親しか知らなかった達也の浮気は、もはや周知の事実となってしまった。そして、喜多嶋一族は、達也の裏切りを知った明子の父・六条源一郎がどのような報復に出るか、彼女以上に戦々恐々としているようだ。明子が中村家で過ごすことを森沢や喜多嶋の両親が勧めたのは、昨夜のうちに一族で集まって事実の確認と善後策を話し合うためだったのだとも、繭美が彼女に教えてくれた。
「ごめんなさい」
明子は、繭美と森沢に深く頭を下げた。自分が離婚を望んだせいで、こんなにも大勢に迷惑をかけることになる。頭では前から覚悟していたことだが、実際に不安に慄きながら目を潤ませる繭美を前にして、明子の心は痛んだ。
「本当に、ごめんなさい」
「いやだ、明子ちゃん。謝ったりしないで」
うつむいてしまった明子を見て、繭美が慌てた。
「明子ちゃんを責めるつもりはないの。悪いのは達也くんだもの。じゃあ、もう、決めたのね?」
明子は、下を向いたままうなずいた。
「そうよね。離婚に決まっているわよね。私だったら、結婚式当日に即離婚だわ。今まで我慢させて、ごめんね。ありがとう」
明子の頭を何度も撫でながら、寂しげに繭美が微笑んだ。繭美の後ろで、森沢も明子を見ながら静かに微笑んでいる。
「喜多嶋に迷惑をかけることになるとか? どうやったら丸く収まるかとか? 明子ちゃんは、そういうことは考えなくていいよ。自分が幸せになることだけを考えてほしい。六条さんが何かしてきたって、大丈夫。俺たちで、なんとかするから」
森沢が明子に向ける表情は、たまらなく優しく、そして、疲れてみえた。
(ああ、そうか)
今日の森沢の様子がおかしかったのも、明子に、なにかを言いたげだったもの、このせいだったのだと、ようやく明子は思い至った。
森沢は、喜多嶋グループ内で、繭美よりも、ずっと責任の重い立場にある。彼は、昨日の達也の浮気発覚以来ずっと、喜多嶋グループ存続のために頭を悩ませ続けていたに違いない。それで、研究所のことを考える余裕もなかったのかもしれない。森沢の父親がこの場にいないことも、何かの対応に追われているせいかもしれない。
(全部、私のせいだ。私が、達也さんを罠にはめたりしたから)
「ごめんなさい。私がいけないんです。私が……」
「明子」
全てを曝け出して、ふたりに謝ろうとしていた明子に、紫乃が小さく首を振る。『そのことは、決して言うな』と、姉の眼差しが明子に言っていた。
「でも」
「大丈夫よ」
明子が躊躇している間に、紫乃が、しっかりとした口調で繭美に話しかけた。
「明子は達也さんと別れたいだけ。喜多嶋のお家に迷惑をかけることなんて、この子は、これっぽっちも望んでいないわ。父のことは、私と明子で押さえてみせる。絶対に喜多嶋を潰させなんかしないから。だから、どうか、そんなに心配しないでちょうだい」
「そうですよ」
泰然とした表情を崩すことなく、弘晃も妻に助勢する。
「僕と紫乃さんの時に家同士の関係があれほどこじれたのは、六条さんのほうにもやむを得ない理由があったからです。六条さんは、確かに突拍子のないところがあります。でも、今回は、うちの時ほどの無体はしないと思いますよ」
弘晃の言葉は、説得力があった。そして、「そうね。あの時とは違うわね」と、息子の言葉にうなずく弘晃の母の微笑みは、ここに集っている者たちに安心感を与えてくれた。
「喜多嶋の皆さまに迷惑のかからないように、絶対に、なんとかしてみせますから。だから、どうか安心してくださるよう、お義父さまや一族のみなさんにお伝えください」
明子も、繭美と森沢に向けて約束した。
「……。うん。ありがとう」
目元に溜まった涙を拭いながら、繭美が微笑んだ。
「ごめんなさい。来るなり、みなさんに不快な思いをさせてしまって」
冷静さを取り戻した繭美が詫びた。彼女は立ち上がると、目に付いたグラスを手に取った。
「心配するだけしたら、お腹がすいちゃった。お食事の続きをしましょう。今日は、沢山食べて、そして、今日は…… ちょっとだけ酔っ払ってもいいですか?」
「どうぞ。 嫌なことを忘れるぐらいに、いっぱい飲んでね」
弘晃の母が笑顔で繭美にうなずいた。
それから2時間ほど後。
遅れて帰宅した弘晃の父親と談笑していた森沢が気が付いた時には、もう遅かった。繭美は、弘晃の母親の言葉を鵜呑みにして完全に酔っぱらい、紫乃の隣の席でへらへら笑っていた。
「おまえ、いつの間に……」
「すみません」
明子は、心から反省しながら森沢に謝った。主に繭美に酒を注いでいたのは、彼女だった。現在の繭美の醜態は、せめてものお詫びの印にと、明子が今できることを全力でやった結果である。言い訳が許されるのならば、明子は、繭美がたったワイングラス3杯ほどのワインで、ここまで酔っ払うとは思っていなかった。
「謝ることはない。自分の限界も知らずに飲んだ、こいつが悪い」
森沢が繭美に厳しい視線を向ければ、「どうせ、私が悪いんですよ~~~」と、繭美が森沢に舌を出す。次の瞬間には、おもむろに泣き崩れた。
「達也のバカヤロ~!! 達也くんには、もう、がっかりよ! 私、小さい頃から達也君に憧れていたのに…… 自慢の従兄だったのに…… それなのに、浮気なんて、浮気なんて、浮気なんて、浮気なんて、浮気なんて……」
同じ言葉を繰り返しながら、繭美がテーブルに突っ伏していく。きっと、そのまま寝潰れるだろうと明子が安堵したのもつかの間、繭美はガバリと起き上がると、達也のことを罵り始めた。
「もう、本当に最低っ!! あんな最低男、喜多嶋を代表して、六条のおじさまの餌食になってしまえばいいのよ! ね、ね? そう思うよね。俊くん?」
繭美が、すがるような目で森沢に訴えた。森沢は面倒くさそうな顔をしながら、「ああ。そうだな。あれなら煮るなり焼くなり、六条さんの好きにしていいよ」と、繭美ではなく紫乃に言った。
「父に、そう言っておくわね」
紫乃がニコニコしながら森沢に応じた。
「そんな……」
「あんなの庇うことないの!」
達也を一応庇いかけた明子を、繭美がキッと睨んだ。
「達也くんは、六条さんが焼くの! それでね。明子ちゃんは、恋をしなさい! あんな馬鹿は忘れて、今度こそ、素敵な男性と恋をするの。これから半年間かけて、じっくり吟味なさい」
繭美は、明子の席まで遠征してくると、先ほどまでレモネードが入っていた明子の大きめの空のグラスにドボドボと白ワインを注ぎこんだ。
「半年も待つことないわよ。好きな人がいたら、すぐにでも結婚すればいいわ。実はねぇ、婚姻届をねぇ、もう、もらってきてあるの」
両手でグラスを大事そうに抱えつつ、紫乃が幸せそうに笑った。親友に付き合って飲んでいたせいで、どうやら彼女も酔っているようだ。
「『本当? さすが、紫乃ね! なんて偉いの!!』 ……と、言いたいところだけど、女性の場合はね、再婚は、離婚後半年間後にしかできないのよ」
繭美が、意地悪な表情を浮かべて、立てた人さし指と首を同時に振った。
「え? 女性だけ?」
「そうよ。女の人だけ。ずるいでしょう?」
「でも、なんで? どうしていけないの?」
驚いた紫乃が、弘晃に顔を向けた。
「離婚した女性が妊娠していた場合、その子の父親を法律的に確定するためということらしいです」
「そんなの、女の人が『父親は、こっちだ』って言うほうでいいじゃない。本人が、一番良く知っているんだから!」
紫乃が弘晃に抗議する。
「僕に言われても、困りますけど……」
「でも、再婚できないのは女性だけなんて、そんなの不公平よ! それに、明子は妊娠してないわ!」
「お姉さま……」
『恥ずかしいので、そういうことを大きな声で言わないでください』という気持ちを込めて、明子が抗議の眼差しを姉に向ける。すると、今度は、明子にとばっちりが回ってきた。
「明子。ひょっとして、あなたも知っていたの?」
「はあ、まあ」
達也との離婚を考え始めた時にいろいろ調べたので、女性のみに適用される離婚後の日数的な縛りについては、明子も知っていた。
「じゃあ、なんで、昼間、教えてくれなかったのよ? 隠しておくなんて、ひどいじゃない」
アルコールの影響で目の据わった紫乃が、明子を責める。
「それは、なんとなく、言いそびれたというか……」
『役場で教えたら、お姉さまが役場で暴れるに違いないからです』という言葉を飲み込みつつ、明子は曖昧な笑みを姉に返した。紫乃の怒りは収まらない。「理不尽だ」「不公平だ」「役所に抗議してくれる」と、酔いに任せて騒ぎ立てる。その騒ぎのさなか、森沢までもが、「じゃあ、俺、半年後に明子ちゃんの夫に立候補しようかな」と、おかしな冗談を言い出した。
「もう! 森沢さんまで酔っ払っているんですか?」
呆れた明子が文句を言えば、彼は、「俺は、大真面目だよ」と、真顔で返してきた。
「え?」
「喜多嶋を救うためとかじゃなく、本当に君が好きだ。だから、考えておいてくれる?」
「はい?」
明子はビックリして黙り込んだ。森沢を見つめたまま、瞬きを繰り返すことしかできない。
一方、酔っ払いのふたりの女性は、森沢の発言を機に、更に盛り上がっていた。
「きゃあ! 俊くんってば、なんて手が早いの! 速攻にも、ほどがあるわ! やっぱりプレイボーイね! 女ったらしの異名は伊達じゃないわ! でも、嬉しい~!俊くんと明子ちゃんが結婚したら、また、紫乃と明子ちゃんと親戚になれるわね!」と、繭美がけたたましく騒げば、紫乃は紫乃で、「森沢さん、素敵!! 明子! さっさと森沢さんと結婚しちゃいなさいよ。きっと大切にしてくれるわよぉ」と、囃し立てる。
「君たち、ちょっと黙っていてくれないか」
森沢が、外野で無節操に盛り上がっている従妹とその友人を煩げに睨んだ。だが、ふたりとも聞いていない。黄色い声を上げながら、楽しそうに笑うばかりだ。めったなことでは動じない弘晃とその両親はといえば、和やかな微笑を浮かべながら女たちを見つめている。
(やっぱり、今のは冗談……よね?)
赤くなった頬を押さえつつ、明子は首を振った。いくら森沢でも、この状況で本気で明子にプロポーズしたりはしないだろう。
(そうよね。森沢さんが、私なんか相手にするはずないものね)
なにせ、彼の周りには、春瀬リナを始めとした美貌にも才能にも恵まれた素敵な女性が大勢いる。家のためでもないのなら、わざわざ好き好んで、彼が明子を選ぶ理由はない。
(それに、傷つくのは、もうたくさん)
そうだ、そうだ。先ほどの森沢の言葉は、プレイボーイな彼ならではの冗談だったのだ。彼は、ただ、明子を元気付けようとして、この場の陽気な雰囲気に任せて言っているだけなのだ。
本気にしてはいけない。いい気になってはいけない。勘違いしてはいけない。
明子は、自分に言い聞かせた。
(でも、冗談でも、やっぱり嬉しかった……かな)
明子は小さく微笑むと、手にしたグラスを口につけた。グラスの中身は、繭美が注いでくれた白ワインである。成人してから間もない明子は、アルコールには慣れていない。舌の先に触れた液体は、まだまだ苦くて辛いものにしか感じられなかった。
(でも、もしも、よ?)
明子は、紫乃たちに手を焼いている森沢を盗み見た。
(今ならば、私も、お酒の力を借りて、言いたいことを言っても許されるかしら?)
明子は、グラスに並々と注がれた液体をじっと見つめた。それから、息を止めると、グラスの中味を一気に喉に流し込んだ。
たいした量ではないとはいえ、急激に体内に摂取されたアルコールは明子の喉を焼き、彼女の体全体を急速に暖めた……ような気がした。そんなに早く酔いが回ることはないだろうから気のせいだとは思うが、なんとなく、体もフワフワしていた。しかも、気持ちも…… なんだか、ウキウキしてきた。
今ならば、きっと、普段は言えないようなことでも、やすやすと言える。そう思った。ものは試しにと、明子は、森沢に向かって、「じゃあ、半年経ったら、お嫁さんにもらってくださいね」と、言ってみた。照れ臭さは消えなかったが、本当の気持ちが比較的すんなりと喉の奥から出てきた。アルコールの威力とは絶大である。
(言っちゃった言っちゃった言っちゃった!!)
自分の大胆な発言に気を良くした明子は、両手で口元を覆うと、クスクスと笑った。
そんな明子を、森沢が目を見開いて見つめている。
「明子ちゃん、今なんて?」
「ですから、もらってくださいね」
明子は、森沢に笑いかけると、同じ台詞を繰り返した。しかしながら、その直後からの記憶が、なぜか、ふっつりと途切れている。
翌日に姉が話してくれたことを信じるとするならば、森沢がとっさに支えてくれなかったら、明子は椅子ごと後ろにひっくり返って頭を強打していたそうである。その後、森沢は、具合は悪くなさそうだが幸せそうに眠ったまま一向に目覚める気配のない明子を彼女を抱え上げて、寝床まで運んでくれたという。
「うそ……」
明子は青くなった。記憶にないとはいえ、自分がそれほどの醜態を晒していたことが情けない。しかも、昨日、酔いに任せて森沢に「半年後に、自分をもらってくれ」と言ったことだけは、忘れ果てたいというのに、しっかりと記憶に残っている。
(それに)
明子は右の手でこめかみを押さえた。
昨夜、誰かが眠る明子に、『覚えていないだろうけど、半年後に予約したからね』とささやきつつ、まさに、明子が今指で押さえている所に軽く口付けていった…… ような気がしてならないのは、それが実際にあったことだからであろうか? それとも夢だったのだろうか? または、明子の願望が作り上げた妄想に過ぎないのだろうか?
「私…… もう、森沢さんに合わせる顔がない」
恥ずかしさに耐えられなくなった明子は、両手で顔を抑えてうずくまった。そして、これからは絶対に無茶な飲酒はしないと、固く心に誓った。
香坂唯と名乗る女性から中村家に電話がかかってきたと使用人が知らせにきたのは、その直後。庭に出た明子が、顔を覆ってしゃがみこんでいた時である。
知らせを受けて電話口に駆けつけた明子よりも先に受話器を取ったのは、紫乃だった。




