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悪い女のつくりかた  作者: 風花てい(koharu)
悪い女のつくりかた
56/88

Emergence 2

 朝っぱらから話し込んでいたせいで少し遅めになった朝食の席で、 紫乃が「これから明子と区役所に行ってくる」と言ったら、弘晃に羨ましがられた。


 弘晃のように外出を制限されていないにもかかわらず、 人に何かをされ慣れている明子や紫乃にとっても、役所という場所は未体験の場所だった。結婚届でさえ代理人に頼んだ弘晃同様、この手の場所に行くのは初めてである。


 念のため、ふたりは喜多嶋家の戸籍を管理する役所を訪ねた。入り口に掲げられていた大きな案内板を頼りに2階の窓口へと向かい、要領がわからないまま順番を守って30分ほど待った後、受付の女性に離婚届の用紙が欲しいと告げる。丁寧だが無愛想な受付の女性は、眉ひとつ動かすことなく書類をカウンターの上に乗せると、書類の書き方や、その他に必要となりそうな書類のことなどを細かく説明してくれた。


「せっかくだから、婚姻届もいただけますか?」

 ひと通りの説明を聞き終えると、紫乃が、カウンターの中を覗き込むようにして受付の女性に頼んだ。

「お姉さま?」

「だって、すぐに必要とならないとも限らないでしょう?」

 怪訝な顔をする明子に、紫乃が茶目っ気たっぷりの笑顔を向ける。 

「やっと、あの身勝手で勘違いな浮気男から自由になれるのですもの。あなただって、新しい恋をしなくちゃ。ねえ? そう思いません?」

「はあ、そうですね」

 これまで無表情だった受付の女性の顔に、可愛らしい笑顔が浮かんだ。


 離婚届用紙を手に入れた明子たちは、ついで戸籍謄本も手に入れてから、役所を後にした。


 中村家に戻った姉妹を、弘晃が出迎えてくれた。

「おかえり。ついさっき、森沢さんから電話があったよ」

 森沢への想いを意識し始めたゆえだろうか? 『森沢』という名前を聞いただけで、明子は訳もなく緊張した。


「森沢さん、どうかしたんですの」

「なんでも、お父さんに用事ができてしまったとかで、今日は来られないそうなんだ」

 弘晃が紫乃に答えた。 

「まあ、そうなんですか?」

「でも、森沢さんは来るそうだから」

 がっかりしかけた明子を、弘晃の一言が救う。しかも、彼は、「『俺だけじゃ弘晃さんは不足かもしれないけど、何があっても絶対に行くから! よろしく!』って、電話の向こうで力一杯主張していたから大丈夫。絶対に彼は来るよ」と、森沢の口調を真似て、明子を元気づけてくれた。


「森沢さんには、明子ちゃんは元気にしているって言っておいたよ。とても心配していたみたいだから」

「そうですか。森沢さんが……」

 森沢さん、私のことを気にかけていてくれたんだ。そう思っただけで、明子の頬が自然に緩んだ。

 嬉しげな妹を見て、紫乃が、「やっぱり、もらってきて正解だったわ」と、満足げに呟いた。



------------------------------------------------------------------------


 それから数時間後。


 重役室フロア全体に漂う重苦しい空気と、仕事中だというのに喜多嶋紡績グループの未来を悲観する一部重役の愚痴を聞かされるのに飽き飽きしてきた森沢は、『取引先との重要な打ち合わせ』という大義名分を掲げて、日が暮れ切らないうちに本社を逃げ出した。


「本当は、あれをどうにかしなくちゃいけないんだよな」

 車を運転しながら、森沢は苦々しい思いをかみ締めた。 

 六条家はまだ何もしていないというのに、一部の親戚たちは、仕事を放り出して脅え騒ぐことしかできない。もちろん、親戚全体に比べれば、ほんの一部でしかないが、それでも日頃からロクに働きもせず、血縁というだけで喜多嶋に厚遇され、その恩恵を当然のように日々受け取っている者は、他の企業に比べたら格段に数が多いに違いない。六条の脅威は、喜多嶋が抱える最大の問題を、図らずも浮き彫りにしたようである。

「取締役の中だけでも、とりあえず3人……か」

 3人も、だ。役職クラスやコネでの採用まで含めたら、きっと膨大な数になる。そういった者たちを解雇まではしなくとも能力に見合った役職と給料にするだけでも、喜多嶋の内情は、きっと随分助かるに違いない。 

「どうするかな」

 『どうするか?』 などといっても、六条に喜多嶋が潰されてしまったら、そんなことを考える必要もないし、本来は森沢ごときが口出しするような問題でもないはずだった。これは社長である紘一伯父や伊織叔父、あるいは喜多嶋の次期総領たる達也が頭を悩ませるべきこと。昨日の親族会議以前の森沢だったら、深く考えることなく、そう割り切っていたはずだ。

「困ったな」

 森沢は、ため息をつくと、車を止めて、中村家のインターホンを押した。



 誰にでもすぐに打ち解ける森沢は、中村家では既に客と見なされていないらしく、彼が約束の時間よりもずっと早くに現れても、誰ひとり慌てたりはしなかったし、必要以上に構いもしない。明子の姿は見当たらなかった。もしかしたら、紫乃と一緒に出かけているのかもしれない。

「お夕食の支度ができたら呼ぶから、弘晃の部屋にでもいてね」という中村夫人の言葉に従って、彼は、屋敷の最奥にある弘晃の書斎まで案内なしに歩いていった。部屋の主は、本日はかなり具合が良いようで、いつものベッドの上ではなく本棚近くの机に向かって仕事中であった。森沢が入ってきたのを見て書類を片付けようとする弘晃を「勝手に早く来ただけだから」と制し、彼は、本棚から適当に1冊を抜き出すと、窓際にある腰高の棚に寄りかかって読み始めた。

 外は随分と寒いが、この部屋は心地よく暖められている。静かな部屋に、時計の音と、弘晃が早いペースで書類のページを捲る音だけが響く。


「達也さんは、彼女さんと一緒に無事に逃避行できそうですか?」

 森沢が手にした本を一章ほど読み終えた頃、出し抜けに弘晃が訊いてきた。ここで言う『彼女』というのが明子でないことは、文脈から明らかである。


「ふたりで手に手をとって、南極でなくてもいいから国外逃亡して二度と日本に帰ってこないのなら、架空の事故でもでっち上げて、達也さんを死んだことにしてしまえばいい。3ヶ月で捨てられた花嫁よりも、3ヶ月で夫と死別した花嫁のほうが、外聞はずっといいですからね。死別ということにしておけば、六条さんも大っぴらに喜多嶋に対して怒りを表わせないでしょう。喜多嶋は、安心して、六条と中村という後ろ盾を利用しながら事業を立て直せばいい。喜多嶋紡績と化粧品のふたりの社長と、それから、次期総帥のあなたとでね」

 書類から顔を上げた弘晃が、森沢をそそのかすような微笑みを浮かべた。 


「ひ、弘晃さん?」

 本を閉じた森沢は、まじまじと弘晃を見た。

「今の、なに? 弘晃さんが考えたこと?」

「いいえ。うちの奥さんが今朝がた早くに僕に話してくれた考えです。彼女は、他にも様々な計画を温めていましたが、聞きたいですか?」

 いつも通りの温和な表情に戻った弘晃がたずねる。

「いや、全然」

 森沢は遠慮した。これ以上聞かされたら、胃に穴が開くかもしれない。


「でも、どうして、そこまで? 紫乃さん、どこまで、知っているの?」

「繭美さんですよ。昨夜、明子ちゃんが寝付いた夜中に、ここの電話で、紫乃さんが長いこと話してました」

 弘晃が手元の電話を指で突いた。

「あいつは、何でもペラペラと……」

 森沢は繭美を罵ったものの、彼女を責める気にもなれなかった。繭美にしても、親友と家との板挟みになって辛いのだろう。しかも、どう考えても自分の家のほうが分が悪いとなれば、先に紫乃に全てを打ち明けて、赦しを請いたくもなるだろう。

「紫乃さんの計画には少々の難はあるものの、達也さんが駆け落ちさえしてくれれば、僕は協力を惜しまないつもりだったんですけどね。でも、繭美さんの話によれば、達也さんの恋人は、かなり打算的な人で、愛だの恋だのだけで動く人ではないそうですね。やはり、駆け落ちは無理そうですか?」

「無理」

 森沢は肩をすくめた。達也のあの落胆振りでは、100パーセント駆け落ちはないだろう。


「でも、達也さんが、いまさらどれだけ謝ったところで、夫婦関係の修復は無理だと思いますよ」

 書類を置いて机に頬杖をついた弘晃が、上目遣いに森沢を見つめる。

「やっぱり、だめかな?」

「ええ。紫乃さんが朝から明子ちゃんに付きっ切りなので、僕も詳しいことは聞かされてませんが、あの紫乃さんですら、計画を変更したようですから」

 明子と紫乃が弘晃夫妻の部屋に籠もって離婚届を作成中だと聞かされた森沢は、愕然とした。

「……。紫乃さん、やることが早すぎる」

 よろよろと数歩後ろに下がった森沢は、弘晃のベッドの隅に腰を下ろしてうなだれた。


「がっかりですか?」

「まあね」

 確かに、喜多嶋一族の一員としての森沢は、がっかりしている。  

「森沢さん個人としても?」

 頭を抱えたまま無言でいる森沢に、弘晃が、一番たずねられたくない質問を追加する。


「明子ちゃん。早々にフリーになりますけど?」

「……」

「いや、この流れは、むしろ森沢さん的には残念ですかね? 紫乃さんが計画したとおりに達也さんが駆け落ちして死んだことになってくれれば、いつか…… それほど待つ必要はないと思いますが、未亡人となった明子ちゃんと森沢さんが愛し合うようになるのは、ある意味自然なことです。森沢さんが何もしなくても、時間がふたりを結びつけることになったでしょう」

「え? なんで、そこまで……」

 森沢は驚いて顔を上げた。ばつの悪そうな顔をした弘晃と目が合った。

「すみません。カマかけました。今の質問は、特に根拠となる証拠はなく、単なる紫乃さんの憶測に基づくものです。では、本当に明子ちゃんのことを?」

 森沢は返事をする代わりに頭を抱えた。やはり、彼の明子への想いは、誰彼かまわず筒抜けらしい。彼は、本気で自分が情けなく思えてきた。


「そういうことなら、ひとつだけ、どうしても答えてほしいことがあるんですけどいいですか?」

 頭を抱えたままの森沢に、弘晃が真剣な眼差しを向ける。

「森沢さんの周りには、女性の噂が絶えませんよね? あれは、どこまで本当…… いえ、過去は、この際どうでもいいです。問題は、これからのことです。明子ちゃんと一緒になりたいというのであれば、この先一生、彼女以外の女性に心を向けないでいられる自信はありますか? もう一度結婚して、森沢さんにまで裏切られたら、それこそ明子ちゃんは……」

「そんなことは、絶対にしない」

 森沢は、きっぱりと、弘晃の気がかりを否定した。

「俺は、世間で言われているほど女にだらしのない性格はしていない。俺の周りにある噂だって、ほとんど誤解と偏見に基づくものだ。もしも手に入れられるのならば、明子ちゃんを泣かすようなことは、一生、絶対にしない。誓ってもいい。ただ……」

「ただ? なんですか?」

 急に勢いのなくなった森沢に、弘晃が続きを促す。

「ただ。どうしたらいいかわからなくて、本気で迷っている。第一に、達也と明子ちゃんの問題が片付いてもいないうちに、俺が彼女にアプローチしても彼女を混乱させるだけだって気がする。かといって、離婚が本決まりになってからじゃ、彼女を傷つけそうで怖い」

「傷つける? ああ、そうか。離婚が決定的になってからだと、達也さんのせいで六条さんの怒りを買った喜多嶋を守るために、森沢さんがプレイボーイの名にかけて、自らを犠牲にして明子ちゃんを篭絡する……という図になりますね。そこまで気にする必要はないと思うけど、明子ちゃんは、紫乃さん以上に繊細なところがありますからね。あなたの懸念通りに、余計なことまで考えて傷つくかもしれません」

「だから、俺は、プレイボーイじゃないんだってば……」

 森沢の苦悩を理解して笑顔を見せた弘晃に、彼は恨みを込めた視線を向けた。それから、深く息を吐ききってうなだれる。


「昨日までなら、たぶん簡単だったんだ。深く考えずに、俺が喜多嶋を捨てるつもりで、明子ちゃんに駆け落ちを申し込んだと思う」

「今、そうしないのは? 野心ですか? 喜多嶋の次期総帥の地位が惜しくなりましたか?」

 弘晃が遠慮のない質問をぶつけてくる。とはいえ、彼の声には、森沢を責める響きが微塵も感じられなかった。むしろ、彼は、全てを察した上で森沢に同情を示してくれているようでもある。

 この男になら、なにを話しても大丈夫。ふと、そんな気分になって、森沢は自分から話し始めた。

「野心っていうのとは、ちょっと違うと思う。ただ…… 俺は、全然、誰にも期待されていないと思っていたから、実は頼りにされていたとか、ちゃんと自分を見ていてもらえたとかいうことを昨日聞かされて、我ながら単純だと思うけど、うっかり感動してしまった」

 森沢は苦笑いを浮かべた。

「祖父さんから託されたのは、ちっぽけで誰にも必要とされなくなった綿畑1枚だと思っていたんだ。綿畑なら、種さえあれば、どこでだって作れる。だから、俺は自由だと思っていた。けれども、俺が本当に託されていたのは、祖父さんが守ろうとしていたもの…… 会社とか、そこで働く人たちの生活とか、理念とか……うまく言えないけど、そういうもの全てだと思ったら、俺の気持ちひとつで、無責任に『捨てる』なんて言えなくなってしまった。俺は、祖父さんの苦労を知っている。喜多嶋は、そんなに軽くて簡単なものじゃない。なにより、俺は喜多嶋が好きだから。だから、こんな大変なときに、俺だけ逃げるわけにはいかない」

「その気持ちは、わかります」

 病弱でありながら、中村物産と旧中村財閥を陰ながら支えている弘晃が、深くうなずいてくれた。 

「頼りにされている限り、託されたものがある限り、逃げるわけにはいかないし逃げたくない。自分の心のままに自由に生きる人も素敵だけれども、僕としては、そういう人のほうが好ましく思えますよ。明子ちゃんも、そうじゃないかな? あの子も、真面目というか責任感の塊みたいな子ですから」

「しかも、けっこう頑固だしね」

 森沢が苦笑する。


「だから、どうしたらいいものかと迷っていてね」

「いっそ、今、森沢さんが僕に言ったことを、全て明子ちゃんに話したらどうでしょう?」

 弘晃が提案した。 

「彼女なら、きっとわかってくれますよ。とりあえず、今のうちに森沢さんの気持ちを伝えるだけ伝えておく。明子ちゃんは混乱するかもしれませんし、六条さんとの兼ね合いで、あなたの本気を疑うかもしれない。でも、今の状況では、ある程度は仕方がないですよ。先に言うだけ言ってしまって、返事は、いつでもいいってことにしておけば、どうでしょう? 善は急げといいますし……」

「え? まさか?!今日?! これから?!」

 弘晃の表情から彼の意図をするところを読み取った森沢は、うろたえた。 

 彼は立ち上がると、手元の本を閉じたり開いたりしながら部屋の中を2周し、本を元の棚に戻そうとして手を滑らせて足元に落っことした。弘晃は、落ち着きのない森沢を面白そうに眺めながら、「こうなった以上、早ければ早いほど良いと思いますけど」と、ひどく楽しそうに発破をかける。


「確かに早いほうがいいのかもしれないけど……でも……」

「ここで怖気づいてどうするんですか? プレイボーイならプレイボーイらしく、ここはひとつ、腹をくくってみてはいかかでしょう?」

「だから、それは噂だけだって言っているだろう!!」

 森沢は真っ赤になって言い返した。森沢に女性の友達は多い。だが、彼が女性と交際した経験は、一般的な男性の平均、または、それよりも少し多いぐらいでしかない。基本的にもてるので、交際の申し込みすら彼はしたことがなかった。


「もうこうなったら、男は度胸ですよ。思い切って、明子ちゃんに愛を告白してしまいましょう!」

 ひと事だと思って、弘晃は言いたい放題だった。

 動揺する森沢を追い詰めるように、「皆さん。そろそろ、お夕食ですよ。 食堂に集まってくださいな」という弘晃の母の朗らかな声と、それに応える、明子や紫乃たちの「は~い」という若々しくも楽しげな声が、部屋の外から聞こえてきた。



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