Metamorphoses 12
六条からの報復を恐れる喜多嶋一族が大騒ぎをしていた頃、明子は、姉の紫乃に連れられて、彼女の嫁ぎ先である中村家の門を潜っていた。
「弘晃さん。 お土産を連れてきたわ。ほらほら、見てっ!」
明子よりも先に居間に飛び込んだ紫乃が夫に誇らしげに報告し、明子を居間に引っ張り込む。
「うわあ! 明子ちゃん、すごくきれいですね」
椅子から立ち上がった弘晃が、よろよろと部屋に入ってきた明子に賞賛の眼差しを向けた。
「そうでしょう? 素敵でしょう? お気に召しまして?」
「ええ。 ありがとう、紫乃さん。今までで一番素晴らしいお土産ですよ」
特別誂えのドレスとはいえ、妻が着の身着のままの明子を連れ帰ってきても、弘晃は全く不審に思っていないようだった。そればかりか、「もしかしたら、しばらく家にいてもらうかもしれないのだけれども」と、紫乃が気が咎めたような顔で打ち明けても気にするふうでもない。驚いていたのは、むしろ明子のほうだった。明日には帰るとばかり思っていたのだが、いつの間に、そんな話になっていたのだろう?
(でも、しばらく、ここに置いてもらえたほうがありがたい、かな)
ようやく達也との離婚話に漕ぎ着けそうだと思った途端、明子は、なんとなく及び腰になっていた。家に帰ったら、達也と昨夜のような会話を繰り返すことになるかと思うと、気が重い。達也との話し合いなしに自由にはなれないということも、明子はわかってはいる。わかっていはいるものの、今は、できるだけ先延ばしにしたい気分だった。
「それは嬉しいね。どうぞ、好きなだけ、ゆっくりしていってください」
この家の居心地の良さを保証するように、弘晃が優しい笑みを明子に向けた。
「ありがとうございます。お世話になります」
体が弱くて家からほとんど出られない義兄が外の世界の情報から取り残され何も知らずに気楽に生きているかといえば、全く逆。もしかしたら紫乃以上に全ての事情に通じているかもしれない弘晃が何も聞かずに快く受け入れてくれることにホッとしながら、明子は頭を下げた。
明子のドレス姿は、弘晃の両親や使用人たちも喜ばせた。
せっかくだから近所に住む弘晃の弟の正弘夫妻にも見せてやろうと、弘晃の母が電話で彼らを呼び寄せた。妊娠7ヶ月めに入った正弘の妻の華江は、明子のドレスをしきりに羨ましがった。だが、大きなお腹を抱え、いかにも頼りになりそうな夫の横で幸せそうに微笑んでいる華江のほうこそ、明子には羨ましく思えた。
「そうそう。パーティーで、森沢さんのお父さまとお会いできましたわ」
明子のドレスを話題にひとしきり盛り上がった後、紫乃が言った。
「本当? どんな方でした?」
弘晃が顔を輝かせる。どうやら彼は喜多嶋ケミカルの研究所に興味があるようだ。
「おもしろい方でしたわ。ちょっと突拍子がないところとか、お仕事と趣味の区別がついているのかいないのかわからないところが森沢さんと似ていると思いました」
紫乃の感想を聞いた明子は吹き出した。姉が評したとおり、あの親子は性格的にそっくりだと思う。
(もっとも、森沢さんがこれを聞いたら、気を悪くするでしょうけど)
不機嫌そうな森沢の顔が目に見えるようで、明子は更に楽しくなった。
「つまり、とても弘晃さん好みの人物だということです。研究所のお話も、聞かせていただきましたわ。とても興味深い話だとは思いましたけど……」
紫乃が言葉を濁す。
「どうか?」
「やりすぎのような気がするんですけど」
「やりすぎ、ですか?」
「ええ。『やりすぎ』よりも『凝りすぎ』と言ったほうがいいかしら? お話をうかがった限り、喜多嶋ケミカルの持っている技術というのは、他の追随を許さない素晴らしいものだということは、わたくしにもわかります。でも、どんな高温でも燃えない繊維とか、どんなに引っ張っても切れない糸とか、薬品や油につけっぱなしにしても溶けない根性のある糸とか、1ミリの何百分の1の細さの糸とか、あとは、絶対に水を通さない布とか静電気が大発生する布とか、そんな物ばかり作り出したところで、果たして会社の利益に繋がるものなのでしょうか? 少なくともお洋服には、それほど必要のない性能だと思うのですけど……」
「確かに。何百度もの高温に耐える服が必要なのは、消防士か宇宙飛行士ぐらいなものですよね」
弘晃が苦笑交じりに相槌を打つ。自分の感想を夫に頭から否定されなかったことに気を良くした紫乃の舌が滑らかになった。
「他にも、太陽の熱やゴミから電気を作るとか、肥料の研究とか、美味しいお水ができる機械とか、事業内容とは関係のないことにまで研究の幅を広げているみたいじゃないですか。あの研究所が無駄なことばかりに膨大なエネルギーとお金をつぎ込んでいるような気がしてならないのは、きっと、わたくしだけではないと思います。森沢さんには悪いけど、達也さんがあの研究所を潰したがる気持ちを、わたしくは理解できますわ」
ねえ? と、紫乃が同意を求めるように明子に呼びかける。
明子は、うなずく代わりに、『で、でもね』 と、研究所の弁護を試みた。
「森沢さんのお父さまが話してくださったのは、研究所の失敗談みたいなものばかりだったじゃないですか。 『本当は、別の機能を持たせた糸を作りたかったのに、全然違うものができちゃった』みたいな」
「だから、そんなふうにして役に立たないものばかりを作っているってことでしょう?」
紫乃も負けずに言い返す。
「でも……」
明子は更に言い返そうとして、言葉に詰まった。実を言えば、明子も紫乃と同じような感想を持っていた。森沢の父親の話に笑いながら、正直、「そんなことをして、なんの得になるのかわからない」と不思議に思わずにはいられなかったのだ。達也の肩を持つわけではないが、彼も、そう感じたからこそ研究所の縮小を求めたのだろう。
(でも……)
諦めきれない明子は、弘晃に目を向けた。
「なんとか救う手立てはないのでしょうか?」
「研究所を、ですか?」
弘晃が、明子の言葉に興味を示したかのように、心持ち体をこちらに向けた。これまで彼とは天気の話題程度の話しかしたことのない明子は、それだけで緊張した。それでも、彼女は、弘晃から目を逸らさずに、こっくりとうなずいた。
「森沢さんも、研究所に無駄が多いことはわかっていらっしゃるようで、見直す必要があるとおっしゃっていました。でも、達也さんのように、お金が足りないからというだけで、帳尻あわせのように研究費を削ればいいというものではないような気がするんです」
森沢や彼の父親が、思い入れている研究所なのだ。全てがただの無駄でしかないなんてことはないと、明子としては信じたかった。
「私にはよくわかりませんけれども、あの研究所には、きっと簡単に捨ててはいけない、諦めてはいけない何かがあると思うんです」
体の前で両手の指を組むと、明子は弘晃に訴えた。
「今まで通りに近い存続は難しいのでしょうか? 喜多嶋だけでは資金が足りないというのならば、中村グループや六条グループからの協力をいただくことはできないのでしょうか?」
「おやめなさい、明子」
明子の出すぎた態度に、すかさず紫乃の叱責が飛ぶ。
「ごめんなさい。でも」
でも、明子は、なにかしたかった。森沢があれほど頑張っているのだから、自分にできることを探したかった。明子は、うるんだ目を姉に向けた。珍しく口答えする妹に、紫乃が鼻白む。
「かまいませんよ。紫乃さん」
睨み合っている姉妹の気持ちを弘晃の穏やかな声が和らげた。
「実を言えばね。あの研究所に頑張ってほしいという気持ちは、僕にもあるのですよ」
いたずらを見咎められた子供のような笑顔で、弘晃が打ち明けた。
「まあ。本気でおっしゃっているの?」
「本当ですか?!」
呆れ顔の紫乃と喜びに顔を輝かせた明子が弘晃を見つめる。
「本当ですよ。あの研究所は素晴らしいです。大幅縮小なんて、非常にもったいないと思います」
弘晃が笑顔でうなずく。弘晃だけではなく、彼の弟も大きくうなずいた。
「ところで、紫乃さんたちは、あの研究所が何をしているのか、本当のところをわかっていますか」
「本当のところ?」
姉妹は顔を見合わせた。
「ええと…… 喜多嶋ケミカルは化学繊維を作る会社ですよね? だから、『化学繊維』を研究しているのですよね?」
紫乃が心もとなげな顔で弘晃に問う。
「ええ、その通りです。喜多嶋は、そもそも紡績会社です。ですから、彼らが本気で研究しているのは糸であり化学繊維です。では、化学繊維の原料として有名なものはなんでしょう?」
「石油……ですか?」
「その通り」
弘晃がうなずく。
「輸入された原油を精製すると、重油や灯油、ナフサなどが作られます。そして、ナフサを更に精製してガソリンを取り出します。そして、ガソリンとならなかった部分が、プラスチックや化学繊維の原料になります。喜多嶋は、自社が販売しているシャンプーなどのプラスチック容器も自分たちで手がけています。ちなみに、シャンプーも、石油とは限りませんが油からできています。技術面でそれらを支えているのも喜多嶋ケミカルです」
彼らは石油製品のエキスパートなのだと、弘晃は言う。
「あんなに黒くてドロドロした臭い石油を、彼らは、自分たちの意のままに、白くて細い糸や平たくて硬いプラスチックや、汚れを落とす石鹸に変えてしまうんです。 まるで魔法みたいだと思いませんか?」
「言われてみればそうですね。糸も、プラスチックも、ビニール袋も、身近に安く沢山あるからって当たり前だと思うのが申し訳ないぐらい、実は、すごい発明品なんですね」
紫乃がひどく真面目な顔でうなずく。
そんな紫乃に包み込むような優しい眼差しを向けると、弘晃は話を続けた。
「さて、石油製品のエキスパートである喜多嶋ケミカルは化学繊維の会社であり、喜多嶋ケミカルの母体である喜多嶋紡績は『糸屋』であるわけですが、糸って、面白いですよね?」
糸は、他の材料にはない素晴らしい特性を持っていると弘晃は言う。
それは、しなやかさ。細長い形状を保ったまま、真っ直ぐに伸ばすことも曲げることも巻くこともできる。引っ張っただけではなかなか切れないが鋏で切れば比較的容易に切断できるし、作ろうと思えば、どこまでも長さを伸ばす事ができる。そして軽い。誠に勝手の利く物である。
「糸は線、布は面。喜多嶋紡績が長年培ってきた技術と喜多嶋ケミカルが生み出した最新技術を合わせれば、彼らは、重さも強さも堅さも大きさも自由自在に、様々な状況に耐えることができる。あらゆる形を『糸』を使って作り出すことが可能でしょう」
「は……あ……」
『それが、どうかしたの?』と、言うように、紫乃と明子は、困惑しながら顔を見合わせた。弘晃の言っていることはすごいことなのだろうということは、明子にもわかる。だが、弘晃ひとりが盛り上がっているような気がしないでもない。話が漠然と大きすぎて、いまひとつピンとこないのだ。
そんなふたりに構わず、「でもね」と弘晃が話を続ける。
「喜多嶋ケミカルの研究所のすごいところは、それだけではないのです。そこまで石油製品の加工技術に精通しておきながら、あそこは、あえて石油を捨てようとしているのです」
「は?」
今度こそ話が見えなくなった。なぜ石油を捨てる必要があるのだろう?
「石油ショック?」
なんとなく頭に浮かんだ言葉を明子がつぶやくと、弘晃が、生徒を誉める先生のような笑顔を彼女に向けた。
「石油という資源は、時期には諸説ありますが、いつかは枯渇する運命にあります。限りある資源を巡って激しい争奪戦が行われることになる」
その前哨戦ともいえるのが、数年前に起こった石油ショックである。
「あの時に日本の繊維産業が打撃を受けたのは、原料や燃料不足だけではなく複合的な要因が重なったからではありますが、喜多嶋の先代会長 ―― 森沢さんのお祖父さまですね ―― は、石油ショックが起こるずっと前から、外国の輸入を頼りにしなければやっていけない物作りを忌々しく思っていらっしゃったようなんですね」
仕入れる材料も燃料も外国頼みで、相場で変わる仕入れ値に一喜一憂しなくてはいけない。しかも、自分たちの事情とは関係なしに輸入がストップすることもある。商品を作ったら作ったで、他国の安い商品の価格に押されて自分たちの働きに見合う値段よりも下げざるを得ない。これでは踏んだり蹴ったりではないかと、彼は憤っていたようだ。
そんな先代会長が目をつけたのが、キュプラやレーヨンなどを代表とする、植物由来の材料から作られる再生繊維と呼ばれる化学繊維だった。
「そういえば、肌に良いからと森沢さんからいただいたシャツも、植物から作った繊維でできているって聞きました」
シャツの肌触りの良さを思い出しながら、明子が言った。
「そう。そういった繊維の生産は、もともと喜多嶋ケミカルの得意とするところです。だから、先代会長は考えたわけですよ。植物から化学繊維の原料が作れるのなら、プラスチックや燃料だって植物から作りだせるのではないか。しかも、できるだけ国内のどこにでもあるような、持て余すほど有り余っているような身近なもので作れないかと彼は考えました。新しく作り出した繊維やプラスチックは、自社製品として独占的に売り出し、燃料は自分たちで使う。または売ることはできないかと……」
「ちょっと待って」
紫乃が話を止めた。
「いくらなんでも、それは無茶じゃないこと?」
「かもしれませんね。家の近所で油田を掘り当てようっていう話ですから」
弘晃が笑った。
「でも、あの研究所は、かなり本気で取り組んでいるようですよ。企業秘密なので森沢さんは詳しく教えてくれませんが、現時点でも、ある程度までは可能であるようです」
森沢が暮らしている町では、すでに実用化に向けた試行実験が開始されているそうだ。
「まあ。すごいんですね!」
明子は、思わず手を叩いた。だが、すぐに冷静になる。
「それならば、どうして喜多嶋ケミカルは赤字続きなのでしょうか?」
「理由は簡単です。実用化には、ほど遠いから」
「え?」
明子はポカンと口を開けた。
「こういった技術的な話だと、『できること』と『やれること』の間には、非常に大きな隔たりがあるんです。研究所の生み出した技術は、今のところ、手間とコストがかかり過ぎるんですよ。ですから、石油に頼っていたほうが、ずっと安上がりで楽なんです」
レーヨンよりもポリエステルのほうが安いのと同じ理屈ですねと、弘晃がわかるようわからないような理屈を捏ねる。
「でも、レーヨンにはレーヨンの特性があるので需要があります。一方、喜多嶋ケミカルが生み出したものの多くのものは、今のところ、消費する側が、『これくらいならばお金を出してもいい』という基準まで、値段が下げられない状態なので商品化の目処がなかなかつかない。だから、結果的に無駄なことばかりしているように見えるんです。そのため、先代会長の死後は、喜多嶋紡績にすら金食い虫のお荷物扱いされているわけです。でも、僕は、面白いと思いますよ。続けていれば、いつか実になることもあると思います」
弘晃が、いくぶん能天気な言葉で話を締めくくった。
しかし、紫乃は、そんな言葉で言い包められたりはしなかった。「いつかって、いつです?」と、厳しい口調で夫を問い詰める。
「ええと……30年後ぐらい……かな? 開発したのが糸なら、もう少し早くなると思うけど」
弘晃が助けを求めるような眼差しを彼の弟に向けた。
「うちの会社のシンクタンクが勝手に予測した結果では、30年後になれば、研究所がやっていることの半分ぐらいは実用化にまで漕ぎ付くことができ、その中の20パーセントが生活システムの中に定着するだろうということです。そうなったら、それまで研究につぎ込んだ資金の何十倍もの利益が出るはずですよ」
紫乃の剣幕に押され気味の弘晃を弟がデーターで援護した。
「そんなに長いこと、待っていられません!」
焦れたように紫乃が叫ぶ。そして、同情的な視線を明子に向けながら、「やっぱり、研究所の半分は閉鎖するしかないようね」と、諦めたようにため息をついた。
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それから1時間ほど後、明子は風呂を借りていた。
少し熱めのお湯が、疲れた体に心地よい。「ふー」と大きく息を吐きながら、彼女は、手と足を目一杯に伸ばした。
「やっぱり、今のままでの存続は無理なのかしらねえ」
湯船の縁に頭を預け、天井に上がっていく湯気をぼんやりと見つめながら、明子はつぶやいた。
儲けに繋がらないことに熱心に挑戦しているという喜多嶋ケミカルの研究所。森沢が住んでいる所では、研究所の成果を実用化するための様々な試みが既に始まっているという。
「どんな所なんだろう?」
瞼の裏に、遠く近くに山を望む美しい自然に恵まれた小さな町の姿を思い浮かべる。
空気も水も、澄んでいるのだろう。綿畑だったという所は、今はどうなっているのだろう? 香水につかうというバラ畑は、花の季節になると夢のように美しいに違いない。長野だから、冬は雪がたくさん降るのだろうか? 今日の天気予報では、長野の天気は、なんと言っていたっけ?
「きっと、とっても寒いのよね?」
温かな湯に浸かりながら、明子は身を震わせた。森沢は、そこで、どんなふうに暮らしているのだろう?
「行ってみたいな」
明子のつぶやきが、思いの他、風呂場内に大きく反響する。
驚いた彼女は、おしゃべりな口を塞ぐように、とっさに湯の中に顔の下半分を沈めた。
(も、もちろん。 行ってみたいのは研究所よ。だって、気になるじゃない?)
誰に聞かれたわけでもないのに、明子は、心の中で言い訳を始めた。そのうちに、明子自身も、言い訳がましい自分にうんざりしてきた。そのままズルスルと体を前にずらすと、全身が湯に沈みこむが、だんだん息苦しくなってきた。明子は、天井を仰ぐように顔を上げると、大きく息を吸い込んだ。水の表面で大きく広がった彼女の長い髪が、彼女が立てた小さな波に合わせて、ふわふわと揺れた。
(なにか、別のこと。 楽しいことを考えよう)
ひとまずは前向きな目標を胸に、彼女は目を閉じた。 だが、真っ先に思い浮かんだのは、やはり森沢のことだった。今日のパーティーで明子のドレス姿を見て驚いた森沢の顔も、彼女の腰に回された彼の腕の感触も、会話のひとつひとつさえ、鮮明に覚えている。それどころか、ふたりの相手をしてくれた人々と森沢との会話の中に登場した多くの女性たちの名前や、彼と話していた女たちの顔までも、なぜだか、しっかりと明子の記憶の中に残っていた。
(『よりこ』に『ローラ』に『メアリ』に、『アンとベス』でしょう? それから、ほっそりとした妖艶なモデルさんと、健康的なモデルさんと、妖精みたいなモデルさんと…… それよりも、リナさんと森沢さんって、本当はどういう関係なんだろう? あと、会社に訪ねてきた花柄ワンピースの美人もいたわよね? それから、香坂唯さんとも、おしゃべりしていたし……)
(私、ひょっとして、森沢さんのことを……好……)
明子の『気になること』は尽きない。
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同じ頃。
紫乃は、不機嫌そうな顔で夫を睨みつけていた。
もっとも、睨まれている当人は、紫乃にそんな顔をされても一向に堪えていないようである。最初に出会った時から、彼は、いつだってそうだった。紫乃がどのような顔をしていようと、弘晃は嫌な顔ひとつしない。むしろ、紫乃がそんな顔をしていることに好奇心を覚えるらしい。
「どうしました? そんな顔して?」
弘晃がたずねた。
「やっぱり、おかしいと思って」
「おかしい?」
無邪気を装った弘晃が首を傾げた。
「だって、弘晃さんは、前に、喜多嶋を立ち直らせる方策があるとおっしゃったわ。時間は掛かるけれども確実だとも言ってらした。そう考えると、30年では時間が掛かりすぎる。だって、それだけの時間が経つ前に喜多嶋ケミカルが立ち直れないまま潰れてしまうかもしれないでしょう。そういうのを、弘晃さんは『確実』とは言わないと思うの。それに、どうして、中村物産のシンクタンクが研究所の30年後の利益予測までしているの?」
もちろん。中村物産の頭脳ともいえるシンクタンクは、弘晃の頼みとあれば、マッドサイエンティストのアジトであろうと喜んで潜入捜査に向かうことだろう。しかしながら、収集した情報を分析し遠い未来の利益予想までしているとなると、それは、もう、弘晃だけではなく中村物産が喜多嶋ケミカルを対等な商売相手として本気で値踏みしているとしか思えない。
「もっと近い未来に確実に大きな利益があがる何かを、あの研究所が持っている。違いますか?」
紫乃は、思い切って彼女の推測を弘晃にぶつけてみた。弘晃は、彼の弟の正弘と顔を合わせ苦笑いを浮かべた。
「紫乃さんには適いませんね」
「じゃあ?」
「ありますよ」
弘晃は、あっさりと白状した。
「いくらでもね」
「いくらでも?」
「ええ。あなたや彼らが、『役に立たないもの』と思っているものの中にもね。おそらく、もっと出てくるでしょう。彼らはね、宝の山の上で何年も寝起きしながら、何も知らずに暮らしているようなものなのです」
「え? そうなの?」
紫乃よりも先に、驚いたようにそう言ったのは弘晃の父――現中村物産社長であった。
「お父さんには、この間、きっちり説明したでしょう! なに聞いてたんですか?!」
正弘が父親を叱り、それから「でも、兄さん」と、心配そうな目を弘晃に向けた。
「頭2つ分ほど先に進んでいる技術だとしても、いつまでものんびりしていていては、国内外のライバル社に先を越されることになりかねません。それでは寮長が気の毒です。そろそろ……」
森沢と同時期に同じ学校に通っていた正弘は、今でも森沢のことを敬意を込めて昔の肩書きで呼ぶ。
「ああ。そうだね。できれば、年明け前には目処だけでもつけたいよね。ところで紫乃さん」
弘晃が妻にたずねた。
「そろそろ、明子ちゃんをうちに連れてきた訳を聞かせてくれないかな?」
「だって、ひどいんですもの」
パーティーに達也の浮気相手が公然と、しかもオーディションのモデルとして出席していたこと、そして、その女がパーティーの間中達也に秋波を送り続けていたこと、おかげで達也と彼女の浮気に出席者の多くの者が気が付き、明子が物笑いの種になっていたことなどを、紫乃は、怒りを込めて、だが明子が戻ってくるといけないので手短に中村家の人々に言いつけた。
「腹が立ったので、問答無用で明子を引き取ろうと思ったの。だけど、あちらのご両親や森沢さんも達也さんの浮気に気が付いていらして、そのことで明子にとても申し訳なく思ってくれているみたいなんですね。明子をしばらく預かることにしたのも、むしろ、あちらのご両親と森沢さんが積極的に勧めてくださったからなんです。そのうえ、なんだか、わたくしが思っている以上に話がややこしくなっているような気がして……」
紫乃は、『自分の気のせいかもしれないが』と前置きしたうえで、森沢が明子を好いているらしいことを告げた。
「それに、明子も森沢さんと同じ気持ちなのではないかと……」
言いづらそうに紫乃が打ち明ける。「おや、まあ。それは意外な展開ですね」と、さすがの弘晃も驚いた顔をした。
盛り上がったのは、話を聞いていた女たちである。
「まあ! 素敵!」
「素敵……って、でも、これだって浮気ですよ? 達也さんのこと責められないじゃないですか?」
泣きそうな顔で、紫乃が姑と年上の義妹に訴えた。
「そんなことないわよ。最初に裏切ったのは、あちらでしょう?」
「そうかもしれませんけど、でも、どうしたらいいんでしょう?」
紫乃は手近にあったクッションを抱えると大きくため息をついた。
弘晃が、珍しくへこたれている紫乃の頭を撫でながら、「大丈夫、なるようにしかなりませんよ」と、慰めにもならないようなことを言って、笑った。




