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悪い女のつくりかた  作者: 風花てい(koharu)
悪い女のつくりかた
52/88

Metamorphoses 11



(俺が次期総帥???)

 意外性がありすぎて、森沢がその言葉の意味するところを飲み込むまでに数秒を要した。


「でも、なんで俺?」

「『なんで』って、おまえこそ、今更なにを言っているんだ? 前から、そう言ってきただろう?」

 森沢の問いかけに、紘一が呆れる。伊織も繭美も他の親戚たちも、それどころか、達也までもが呆れた顔で森沢を見ていた。

「あれは、冗談だとばかり……」

「冗談だと思っていたのは、おまえとおまえのお祖母さんぐらいだろうよ。少なくとも、父……おまえのお祖父さんは本気だった」

「……うそ」

「嘘じゃない。私の跡を取るのは暫定的に達也とするけれども、実際にどちらが継ぐかは今後のふたりを見て私が決めていい……と、そう父から言われていた」

 紘一が重々しい口調で打ち明ける。親戚たちは、一部を除いて、ここまでの話は聞かされていなかったようだ。「先代は、そんな遺言を遺してたんですか?」と、一時的に騒がしくなった。


 達也は、青ざめていた。


「僕は、お祖父さまに認めてもらえてはいなかったということですか? 俊鷹のほうが優れているということですか?」

 声を震わせ詰るような口調で、達也が父親を問いただす。

「そういうことではないよ」

 紘一の代わりに伊織が答えた。

「あえて優劣をつけるとすれは、達也のほうが上だ。だけど、父さんは、おまえのプライドの高さとか応用力のなさを心配していた。応用力というより想像力の欠如といったほうがいいかな?」

 達也は、教えられたことや経験済みのことならば誰よりも優れた結果を出すことができる。しかしながら、想定外の出来事には弱い。学校生活であれば、優等生として充分にやっていけるかもしれないが、社会は想定外の出来事だらけだ。彼が将来つくべき地位を考えれば尚更。経営不振に陥っている大企業の代表ともなれば、自分の思うようにならないことなど幾らでも出てくる。そんな状況に孫の達也は果たして耐えられるのだろうか? 達也が成長するにつれ、彼と森沢の祖父、先代喜多嶋英輔は不安を募らせていたそうだ。

「うまくいっている時はいい。でも、どうにもならない事態にぶつかった時が危ない。それに、このままの達也では、いずれ社員の心が彼から離れるだろう。だが、独りでなにもかもできるほど、達也は強くない。いつかポッキリ折れるかもしれないと言っていた」

 紘一が述懐する。


 祖父は、達也を彼のやり方で躾け直すことを試みた。だが、達也の教育に熱心だった彼の祖母は、そんな祖父の懸念に聞く耳を持たなかった。

「英輔さんのやり方では、達也がロクな奴に育たなくなると、彼女は、よく言っていたな」

 大叔父が懐かしそうな顔で説明を加えた。

 祖母は、自分の子供たちについては、祖父の教育方針に逆らわなかったそうだ。

 その結果。長男の紘一は、母親の反対を押し切って、どこの馬の骨ともわからぬ外国帰りのストリッパーもどきのモデル(多恵子のことである)と結婚し、長女は、これまた母親の反対を押し切って家出し、田舎者で貧乏な苦学生(信孝のことである)の妻になった。 

 次男は次男で、母親の勧める縁談には見向きもせず、自分で見初めた女性(繭美の母である)を、なかば攫うようにして妻にした。おかげで、『娘は、喜多嶋の家など比べようがないほど良家との縁談がまとまりかけていたところなのに』と、彼女は先方の両親から散々な辱めを受けることになった。

「子供たちがあんなふうに育ったのは、父親のせいだ。だから、達也の教育だけは絶対に父さんには任せない。多恵子さんにも兄さんにも口出しさせないと、母は決意していたわけだ」

 苦笑交じりに伊織が言った。


 達也は、祖母の選んだ進路に順当に進み、彼女の期待によく応えた。優等生の達也は、祖母の自慢の孫だった。達也のような孫だったら自慢に思っても当然だと誰もが認めた。ただし、祖父だけは、素直な良い子に育っている達也に不満を感じていたそうだ。真面目すぎて面白味に欠けるというのだ。 

「恥ずかしいことだか、私も、父の心配がわからなかった。スポーツ万能、学力優秀、しかも礼儀正しい。どこに出しても恥ずかしくない子供にしか思えなかった。そんな達也のどこが気に入らないのか、と父に怒りさえ感じた。多恵子もそうだった」

 家人の誰からも自分の懸念を理解されなかった祖父は、達也をどうにかすることを諦めた。達也が変えられないのであれば、彼の足りないところを補うことができる人材を自分自身が育成するしかない。彼は、教育熱心な妻の目の届かない所にいる孫の俊鷹に目を付けた。 

俊鷹は、達也ほどの優等生でなくても良い。そう考えた祖父は、沢山の『寄り道』を、この外孫に用意した。

 元来がまじめな性格だったことも手伝って、森沢はまんまと祖父の計略にはまり、彼が仕掛けた沢山の試練を潜り抜けることで経験を積み重ねていった。その結果、ちょっとばかり怠惰でお調子者で無責任なところはあるものの、ほぼ祖父の期待通りに、どんな状況におかれても身につけた順応力と調整力を発揮して乗り切ってくれそうな若者に成長した。

 そして、就職。達也は、祖母の肝いりで初年度から喜多嶋の重役として、森沢は、祖父の命令で喜多嶋紡績の一社員として働き始めた。ふたりとも、それぞれに与えられた立場で充分に活躍した。彼らの働きを目にした祖父は、達也と森沢が助け合いさえすれば喜多嶋の将来は安心だと、ひとまず安堵したようだった。


 一方、紘一は、一緒に働いてみるようになってようやく、自分の息子の欠点に気がついた。

 融通が利かない。自分の考えに囚われがちである。他人との協調性に欠け、時に他人を見下すような態度を取る。しかも謝れない。等々…… これで優秀でなかったら、紘一は、とっくの昔に達也を張り倒しているところである。しかしながら、今のところ、仕事面では、達也のやっていることは全て会社にとって吉と出ているため、父親が注意しても息子は聞く耳を持とうとしない。『お父さんの考えは古い』と馬鹿にするばかりである。

 年齢的には大人になった達也の性格を、紘一が強制的に矯正することは、もはや不可能だった。だが、森沢と比べれば比べるほど、達也の至らなさが目に付いてしかたがない。『そらみたことか』と、父親には言われた。

「とはいえ、この手の鼻持ちならない新入社員は達也に限らず結構いるからね。1度か2度痛い目にでも合えば、達也も変るだろうと父も言ってくれた。だから、跡取りは、あくまでも達也だった。そして、俊鷹は達也の至らないところを補うための補佐役であり、もしもの時のためのピンチヒッターだった。でも……」

 紘一は、森沢に目を向けた。

「父さんは、おまえをとても買っていたよ。『控え』のままで終わらせるのは惜しいとも言っていた。だから、達也が順当に喜多嶋を継ぐことになっても、状況が許すなら、喜多嶋ケミカルだけは俊鷹の裁量でやらせてやってほしいと、亡くなる少し前に私にそう言い遺した。あそこをおまえに任せたら、きっと楽しいことになるだろうからって……」

「祖父ちゃんが?」

 森沢は目を見張った。


『おもしろい』『楽しそう』は、祖父の最上級の誉め言葉だった。


「ああ。だから……」

「ちょっと、待ってください!」

 なし崩しにまとまりかけていた森沢と紘一の会話に、達也の秘書の久本英理子の凛とした声が割って入った。

「専務は、あの女に騙されているだけです!」

 久本が、椅子に座っている達也を庇うように彼の前に仁王立ちになった。


「専務は、中学高校と進学校の男子校で勉強漬けの毎日を過ごして、大学も共学だけど女子の少ない学部でした。そのせいで、就職するまで、男女交際どころか親戚以外の女性とほとんど口も聞いた事がなかったって聞いてます。専務は、いわば純粋培養種ですよ! それにもかかわらず、この人は、社会に出た途端に、モデルとかキレイなお姉さんがウジャウジャいる会社の重役になっちゃったんです。それで、訳もわからないうちに、『御曹司』というブランドに憧れる打算的な女の子たちに次々に言い寄られることになってしまったわけですよ。普通の男性なら価値観が狂いますし、簡単に舞い上がって勘違いして道を踏み外します! それなのに、いきなり勘当だなんて、あんまりじゃないですか!」

 久本が、訴えた。

「専務は、冷血漢とか態度がでかいとか陰口叩かれてますけど、本当はいい人です。それに、それが悪いことだと教えてあげれば態度だって改めようとはしてくれます。私にだって、時々は、思いやり……のようなものを示してくださいます。ただ、けっこう抜けているし、プライド高いくせにお坊ちゃますぎて庶民の感覚がわからないし常識面でも足りないところがあるから、自分の落ち度に自分で気がつけないだけです! ついでに人見知りで、自分からは、なかなか人と打ち解けられないんです。だから、あちらから積極的に言い寄ってきてくれるような女に、うっかり騙されたりするんですよ! 正気に戻りさえすれば、専務は、もう二度と浮気なんかしません。奥さまのことだって、一生大事にしてくださるはずです。だから、お願いです。南極に飛ばすとか勘当とか、しないであげてください。もう一度だけ。もう一度だけでいいですから、専務にチャンスを与えてあげてください」

 久本は、達也の代わりに一同に深く頭を下げた。彼女の達也評は誰よりも惨いものだったが、彼女が上司を想う気持ちは充分に伝わった。久本は、振り返ると、「ほら、専務も、皆さんにお願いしてください!」と、じれったそうに達也を促した。


「いや、でも……」

「『でも』、なんですか? まさか、まだ、あの女を信じようっていうんじゃないでしょうね?」

久本が、眉を吊り上げた。

「私や社長だけではなく、ここにいる全員が、口をそろえて専務がだまされているって見抜いていらっしゃるんですよ。それに、専務だって、あの写真を見たでしょう? あれが、あの女の本性です! いい加減に目を覚ましてください!」

 久本が聞き分けの悪い子供に対してするように達也を諭す。

「あの写真って、なんだね?」

 伊織が遠慮がちに質問を挟んだ。

「社長! あれを!」

「あ…… うん。 これは、雑誌《AnNon》の再来月の記事の為に撮られたものなんだが……」

 久本に指示されるまま、紘一が上着の内ポケットから手帳に挟まれた数枚の写真を取り出して伊織に渡す。伊織は、自分用に1枚取ると、残りの写真は他の者に回した。 


 森沢は、伊織の背中越しに写真を覗き込んだ。写真には笑顔の香坂唯が写っていた。森沢が見る限り、これといっておかしなところがあるようには思えない。

「春物の先取り記事の為の写真のようだが、これがどうかしたのかね?」

 胸ポケットから細身の老眼鏡を取りし、念入りに写真を眺めていた伊織がたずねた。

「その写真は、代々木公園で撮影されました。撮影者は八木光太郎。撮影時間は午前8時です。彼女の他に3人のモデルとスタイリストとメイクアップ担当の女性が参加していました」

 久本が説明する。街中の屋外での撮影は、人通りの少い早朝に行われることが多い。午前8時は、むしろ遅いほうである。

「同じ日の6時半。私は、奥さまをないがしろにしている専務に今日こそは意見させていただこうと、香坂さんのアパートの前でお待ちしておりました」

「達也が言い逃れできないように、浮気現場を押さえようと思ったわけだ?」

「はい。そうです」

 悪びれもせずに、久本は森沢にうなずいてみせた。


 久本によると、その朝の達也は、6時45分に香坂唯の部屋から出てきた。久本は、すぐに達也に声をかけようと思った。だが、唯が達也の後を追って部屋から出てきたので、ひとまずは物陰に隠れて様子をうかがうことにした。 

 唯は、涙を流して達也との別れを惜しんでいたそうだ。

「部屋を出ていったら最後、専務は自分の所には戻ってこないに違いない。香坂さんは、そのようなことを何度も言って、専務を引き留めていました。あんなふうに泣かれたら、専務だって香坂さんを無下にはしづらいでしょう。あそこまで思われているのなら、専務を香坂唯さんから引き離すのは可哀想だと、彼女を疑っていた私でも思ってしまうほど、彼女の演技は真に迫っておりました」

「演技って……」

 達也が聞きとがめる。

「演技ですよ! だって、この写真は、彼女が専務の前で大泣きしてから、たった1時間後に撮られたんですよ」

 久本は、伊織から唯の写真を引ったくると達也に突きつけた。

「それなのに顔も目も腫れていないじゃないですか。メイクの人も撮影に参加した他のモデルさんも、彼女が泣いたとは思ってなかったし、化粧のノリもばっちりだったと言っていました」

「それは彼女がプロだから……」

「プロだから、顔のコンディションを崩さないように泣いたって言うんですか? そういうのを一般的に『嘘泣き』って言うんですよ。だいだい、彼女は、すぐにフランスから帰ってきたんでしょう? 専務のことが本気で好きだったら会いにくるまでに3年も間を空けたりしません! 結婚式の噂を聞きつけて、あなたと別れたことが急に惜しくなっただけです。そんな人と南極なんかに駆け落ちしたら、途中で逃げられて、クレバスの中に独りで取り残されるのがオチですよ!」

 久本は肩を怒らせて叫んだ。


「久本さん」

 達也が、心細そうな顔で久本を見上げた。

「やっぱり、僕は彼女に騙されているのだろうか?」

「専務っ!」

「だめだこりゃ」

 久本が激昂し、親戚たちが失笑を洩らした。だが、この達也の間が抜けた発言が、かえって親族の同情を買ったようである。

「なんだか、彼女に騙されていることもわからない達也が、とてつもなく可哀想に思えてきた」

「確かに、喜多嶋の跡取りなら、社会に出る前に、もう少し女を見る目を養っておくべきだったよね。気がつかなかった紘一さんにも諦めちゃった先代にも責任がある」

「そうだな。育児放棄と言われても仕方がないな」

「それに、いきなり息子を勘当されたんじゃ、多恵子さんが可哀想だ」

「……っていうよりさ。俺たちだって、たちの悪い女に引っかかったことがないわけでもないよね。1回こっきりの達也の過ちを、ここまで責め立てる資格が、果たして俺たちにあるのだろうか?」

 達也の肩を持つようなことを言いながら、男たちが達也の周りに集まってきた。


「そうだな」

 伊織が、小さく息を吐いた。 彼は、達也に近づくと、彼と視線の高さを合わせるように膝を曲げた。

「達也。俺たちの言うことが信じきれないのなら、試しに、彼女に『今すぐに駆け落ちしよう』って誘ってごらん」

「え?」

 驚いたように達也が伊織を見上げた。

「『親戚の恐いおじさんたちが、君と別れないと僕を勘当すると言っている。ならば、自分から喜多嶋を捨ててやろうと思う。お金も地位もなくなってしまうけれども、それでも僕についてきてほしい』って、試しに彼女に言ってみるといい。その結果、彼女が君についていくことを選ぶ、あるいは、君に迷惑をかけないように何も言わずに姿を消そうとするならば、君は騙されていない。彼女の君への想いは本物だと、私たちも認めてやろう。生活は私たちが保障してやるから、安心して、ふたりで遠い所に行くがいい」

「もしも、彼女が裏切ったら?」

「その時には、誠心誠意明子さんに謝って、やり直してもらえるように頼み込むこと。いいな? 兄さんたちも、それで、いいですよね?」

 伊織が紘一と多恵子を振り返った。

「そうしてもらえるのなら、私たちとしても、ありがたいが……」

 紘一は多恵子と目を合わせてうなずき、それから、親戚たちに目を向けた。反対する者はいなかった。


「じゃあ、駆け落ちまでの期限は半月ぐらいに切るとして……」

「遅い。1週間! それと、明子ちゃんの気持ちが最優先だからな!」

 森沢が念を押す。 

「達也が謝っても彼女が達也を許せなかったら、別れたいと言ったら、それ以上の無理強いはしないでやってほしい」

「1週間でも長すぎるわ。香坂唯が達也を本当に好きなら、3日で答えを出せるはず。それから、俊鷹くんも言っているように、いくら会社が可愛くても、明子ちゃんと達也の仲を無理矢理戻すようなことはやめてちょうだいね。 あくまでも、彼女の気持ちを優先してほしいの」

 多恵子が厳しい顔で、森沢に加勢する。


「大丈夫ですよ」

 それまでずっとおとなしくしていた繭美の母親が言った。

「明子ちゃんは、立派なレディーです。そして、喜多嶋家の男の方々は、誰に頼まれなくてもレディーに無理強いなどできません。それに、明子ちゃんに無理強いしたことを六条さんに知られた時のことを考えたら、誰も、そんなことをしようと思わないでしょう。ねえ? そうですよね?」

 繭美の母親が、おっとりと男たちに微笑みかける。怒鳴りも殴りもしないものの、叔母のこの言葉は、男たちへの何よりの脅しとなった。

「達也さんも、いいですね? これ以上グズグズするのは誰のためにもなりません。そうね。今から、香坂唯さんに、お話していらっしゃいな。さあ、早く」

「あ、はい」

 達也は神妙な顔でうなずくと、一足先に部屋を出て行った。さりげなく達也を逃がすことに成功した叔母は、満足げに微笑んだ。そして、「では、今日はお開きということでよろしいですね。皆さま、お疲れさまでした」と、自ら解散を宣言した。

 そして、森沢は、彼女から、当然のように後片づけを申し付けられた。伊織も、娘と妻が残っているために、必然的に片付けに参加することになった。森沢の父親は、いつのまにか姿を消していた。逃げ足の速い男である。


「あ~あ。いい考えだと思ったんだけどな」

 テーブルを運びながら、伊織がぼやく。

「南極行きが??」

「ば~か。南極は、ただの脅しだよ。っていうか、南極って、基本的に一般人は住めないし」

 伊織は、運んでいたテーブルを正しい位置に置くと、いかにも秘密めかした様子で森沢の耳に口を寄せた。

「おまえ。明子さんのことが、かなり好きだろ?」

「え?! なぜ、それを!」

 森沢は焦った。その拍子に運んでいた椅子が彼の手から滑り、大きな音を立てて横倒しになった。

「バレバレなんだよ。見ているこっちが恥ずかしくなる」

 伊織が笑った。 

「兄さんたちは、自分の悩み事で精一杯だから気がついてないみたいだけどな。他にも何人も気がついているだろうよ。信孝義兄さんだって、おまえの気持ちを知っているからこそ、達也とおまえの交換なんていう馬鹿げたことを、あえて提案したのではないかな?」

「うー…… たぶん」

 森沢は、うめきながら下を向いた。

「おまえが彼女を本気で好きなら、それもいいと思ったんだけどなあ。でも、やっぱり無理だよなあ。『あれ』がだめなら『これ』なんて、六条さんにしてみれば失礼極まりないものな。それに、達也も、今度こそに香坂唯に愛想を尽かすだろう。でも、あいつは明子ちゃんにもふられる確率が高い。ということは、やはり、うちの会社は潰れるよりほかないのだろうか?」

天井を見上げながら伊織が嘆く。

「叔父さん……」

「だから、俊鷹。おまえが最後の頼みの綱だ」 

 天井から視線を戻した伊織が森沢の両肩に手を置いた。

「え?」

「達也が明子ちゃんにふられたら、思い切って明子ちゃんに当たって砕けてみるがいい。明子ちゃんがお前のプロポーズを受けてくれたら、もしかしたら喜多嶋が命拾いできるかもしれない。頑張れ、俊鷹! 頼むから、頑張ってくれ! 私と喜多嶋化粧品のために! どうか、お願いしますっ!」

 伊織は、泣きながら森沢にすがりついた。


 

 


 それから、30分ほど後。 森沢は、徒歩で家路に向かっていた。


(達也がふられたら…… か)

 ため息混じりに空を仰ぐ。冬空は澄んでいた。だが、東京の夜は明るすぎる。長野で見る星空とは比べ物にならないほど、視認できる星の数が少ない。


 達也がふられたら、喜多嶋グループが自分のものになる……かもしれない。ただし、六条に潰されなければの話である。六条が喜多嶋を潰そうとするなら、森沢は、最後まで抵抗するだろう。それこそ、どんな手を使ってでも……だ。 

 そんな状況で、森沢が明子にプロポーズしたとする。 

 聡明な彼女は、どう思うだろう? 素直に彼の想いを信じてくれるだろうか?


(でも、 もしも、達也がふられなかったら?)

 明子が達也を選んだら? 

 そうしたら達也と明子の仲は元通りになり、喜多嶋紡績グループも元通り……というよりも、今のところ六条からは何もされていないので、無傷のままである。喜多嶋グループとしては、理想的な結末だといえよう。そして、まだまだ先の話だが、森沢には、喜多嶋ケミカルが手に入る。


(あと、3日か……)

「どうするかなあ」

 空に向かって、森沢は大きく息を吐きだした。


 白く煙った息が、微かに光る星々を隠した。


 



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