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悪い女のつくりかた  作者: 風花てい(koharu)
悪い女のつくりかた
49/88

Metamorphoses 8

 男の人の腕が、こんなにも逞しいものだと、それまで明子は知らなかったような気がする。


「森沢さん?! 困ります!!」

「なにが困るの? 沢山の人と親交を深める。パーティーとは人と知り合う場だ。違う?」

「違いませんけど……」

 『見せびらかす』という言葉におののく明子のためらいなど意に介することもなく、森沢が彼女を会場中央へと連れ出そうとする。明子が喚こうが抵抗しようが腰に回された彼の腕は緩む気配もなく、楽しそうな表情や歩く速度にも、まるで変化がない。


 ぴったりと森沢に寄り添ったまま、明子は、よろめくような足取りで歩を進めた。足元が覚束ないにもかかわらず転ぶ心配を感じないのは、森沢がしっかりと支えてくれているからだろう。つまり、それだけ明子の体が森沢に密着しているということだ。それを考えると、とても恥ずかしく、明子は、少しでもいいから彼から物理的に距離を置きたいと願った。


 だが、その一方で、彼に体ごと預けきってしまいたいと願っている自分もいる。

(そんなのダメよ)

 明子の理性が警鐘を鳴らしている。 


「でも、あの……」

 明子は、消極的ながらも抵抗を続けた。

「『でも、あの』? 達也じゃないとイヤ?」  

 森沢の声の調子が変わった。 

「え?」

 明子が顔を上げると同時に、森沢が歩く速度を緩めた。

「達也と一緒じゃないとイヤ? 俺とではイヤ、かな?」

 森沢が、明子から僅かに目をそらす。怒ったような傷ついたような彼の横顔に、明子の胸は、なぜか苦しくなった。


「い、いいえ、違うんです。 そういうことではないんですけど」

 達也のことなど露ほども考えていなかった明子は、慌てて否定した。

「そう? それは良かった」

 森沢は、あっという間に機嫌を直すと、「ジョージ!」と、前方にいる金髪の外国人に声をかけた。

「トシ!」

 ジョージと呼ばれた男が、数年来の友人のように森沢を抱きしめる。

「元気だった? ヨリコも?」

「ああ。元気だよ。君は? ローラやメアリは元気にしている?」

「日本に行くと言ったら、プンプン怒ってたよ。君に、とても会いたがってた」

「それは、光栄だな」

 英語による挨拶が交わされた後、森沢が、明子にジョージを紹介してくれた。外国の有名なファッション誌とも契約しているフリーの記者だという。

「ガロワの追っかけをしているんだよ」

 ジョージが首にかけたカメラを持ち上げてニヤリと笑う。

「ガロワは、めったにショーをしないのでね。彼の新作を求めて、実際に服を着ている人を追いかけているんだよ」

 説明をしながら、彼は、明子の姿を写真に収め始めた。ジョージのような記者は、他にも数人いるようだ。フラッシュの光に誘われるように、カメラを持った外国人数人が、明子に近づいてきた。


 写真撮影の後、明子は、記者たちから2、3の質問を受けた。質問が英語だったので、明子も出来る限り英語で答えた。その様子を、森沢が微笑みながら見守っている。明子の言葉の足りないところは、彼が補ってくれた。それどころか、彼は、明子が言っている以上のことまで付け足していた。

「森沢さん。私は、そんなことまで言ってません!」

 明子が抗議しても、森沢は、「おや、そうだっけ?」と惚けるばかり。今の明子の抗議まで、「今ね、彼女が、『こんなにも自分に赤が似合うなんて思ってみませんでした。美人に生まれて、本当に良かったわ』って、言っているよ」と、全然違う言葉に変換してしまう。


「森沢さん!」

「大丈夫だよ。日本語、少しはわかるから」

 明子の膨れっ面に向かってシャッターを切りながら、ジョージがニヤリと笑った。

「今のは、トシが嘘ついているよね。だけど、トシのおかげで、やっとわかった」

「え?」

「あそこにいた時は、わからなかったから」

 ジョージが、達也がいる方向に顔を向ける。

「なぜ、ガロワが手がけたことのない赤をあなたに着せる気になったのか。でも、そうやって笑ったり怒ったりしている君を見たら納得した。ガロワは、君という素材を見つけたから、このドレスを作る気になったんだね。今日の僕は運がいい。君にも会えたし、伝説の女神さまも見つけることができた」

「伝説の女神?」

「そう。まさか、こんな所に潜んでいるとは思いもしなかった。トシも、ひどいな。教えてくれないなんて、友達甲斐のない……」

「え? 俺?」

「おや? まさか、君も知らないの?」

 驚いた森沢の顔を見て、ジョージは心底意外そうな顔をした。そして、「なるほど、身内も知らないトップシークレットだったとは」と、顎に手を当てながらつぶやく。 

「どういうこと?」

「後で発表するって言っていたから、どうせ、すぐにわかるよ。サプライズは、その時まで取っておくといい」

 ジョージはニヤニヤするばかりで教えてくれなかった。



 次に明子が引き合わされたのは、デザイナーやスタイリストなど、ガロワのドレスそのものに興味のある人々だった。

「森沢さん、偉い! よくぞ彼女を奪ってきてくれたわ」

 うっとりとした表情でガロワの手仕事によるドレスに触れながら、テレビかなにかで見た記憶がある年配の女性が、森沢をねぎらう。

「あの堅物そうな旦那さんに『奥さんのドレスを見せてください』なんて言ったら、怒られそうだったからね。だから、遠巻きに眺めているしかなかったのよ」

 女性の言葉に同意するように、明子のドレスを調べるために方々から伸びていた手の持ち主たちがうなずいた。


 服作りに携わっている人々から解放された明子が次に引き合わされたのは、頭の形がきれいな(つまり頭髪のない)細い銀縁眼鏡をかけた厳しげなイギリス紳士だった。「遅い」という言葉で迎えられた明子は、思わず首をすくめた。

「ああ、すまない。トシがいつまでたってもこちらに来てくれないので、ついイライラしてしまった。私は、どうも短気でいけない」

 紳士が恥ずかしそうに笑うと、目尻と頬に感じの良い皺が寄った。その優しげな笑顔のまま、「お会いできて光栄ですよ」と、紳士が明子の手の甲に唇を寄せる。彼の洗練された動きに圧倒された明子は、頬を染めながら「はじめまして」と、軽く膝を曲げて挨拶をした。

 森沢と紳士が話してくれたところによると、彼は、イギリスで羊毛製品の会社の経営しているそうだ。牧場も持っているとのこと。爵位は伯爵。貴族の称号をもつ人間を明子は生まれて始めて見た。

 森沢は、伯爵の屋敷に何度かホームステイしているとのことだった。

「彼のところに滞在して、羊の世話や毛刈りを手伝ったり、収穫した糸が商品として出来上がるまでを一通り教えてもらっんだ」

「やっぱり、羊毛もお好きだったんですね」

「『やっぱり』ってなんだよ?」

 森沢が、心外そうに眉をひそめる。その顔が可笑しくて、明子はクスクスと笑い出した。


「どうやら、このお嬢さんは、君のことを良くわかっているようだ」

 伯爵も、糸好きな森沢のことを良くわかっているらしい。明子を見て満足げに微笑んだ。それから、森沢を見て、「素敵なお嬢さんだ」と、うなずく。

「待たされた甲斐があったでしょう?」

「だから、奪ってきたのかね?」

「ええ。美しいガロワのドレスも気立てのいい美人も世界共通の財産ですから。眼福は、皆で分け合わないといけません。ですから、美を解さない彼女の旦那の代わりに僕が……」

「理由は、本当に、それだけかね?」

 しれっとした顔で答える森沢に、伯爵が静かに問いかける。

「え?」

 森沢が、虚をつかれたように言葉を止めた。だが、彼は、すぐに笑顔に戻ると、伯爵に問いかけた。

「嫌だなあ、他にどんな理由があるっていうんですか?」

「さあね。ただ、人は言いたくない事があると変に饒舌になったりするものだよ。その男が、お人好しの馬鹿である場合、その傾向は特に顕著だ」

 伯爵は、笑いながら頭をかく森沢を見てため息をついた。

「だが、私は、君のそういうところを気に入っているよ。まあ、いい。機会があったら、また、うちを訪ねておいで。アンもべスも、君を待っているから」


 ちなみに、森沢は、牧場つきの伯爵の屋敷以外にも、広大な農地を持つアメリカの綿農家にもホームステイしたことがあるとのことだった。 

「農薬を使わない綿作りをしているっていうんでね。そっちは、自分で手紙を書いて、お邪魔させてもらったんだ」

「じゃあ、伯爵さまの所へは?」

「始めは祖父に連れて行かれたんだよ。中学1年の時だったかな。『お前は馬鹿だから、体で覚えなきゃわからないだろう』と言われてね」

「森沢さんは、馬鹿なんかじゃないですよ」

 そう言いながら首を振ったのは、お開きの時間間近に辿りついた日本人のサラリーマン10人ばかりの集団である。 

「あなた、翔鳳高校から翔鳳大の経済でしょう? 馬鹿だなんて言ったら、あなたの同窓生たちが気を悪くしますよ」

「まあ。うちの兄と一緒ですね」

 明子は驚いた。なるほど、プライドの高い兄に『馬鹿』などと言ったら、彼は、きっと激怒するに違いない。達也とは比べ物にならないのかもしれないが、森沢も人並み以上に優秀であるらしい。

「そう。うちの祖父さんの陰謀でね」

 森沢が明子に答えた。

「陰謀?」

「ああ。『行かなくもいいから翔鳳高校を受験しろ。受かったら何でも買ってやるから』って言われてね。だから、頑張って合格したんだ。そうしたら、祖父さんが合格祝いをしてくれて、『めでたいことだから、今日は飲め!』と、中学生の俺に強引に酒を飲ませたわけだ。当時真面目だった俺はコップ2杯のビールで酔いつぶれ、……というより、どうやら薬が盛られていたらしく、目を覚ました時には丸二日経ってて、長野の公立高校を受けるために東京から電車に乗っていたのでは、とても間に合わない時間になってましたとさ……というわけ」

「まあ。それはお気の毒でしたね」

 明子は、彼に一応の同情を示した。とはいえ、学生に酒を勧める大人もどうかしているが、勧められるままに飲む中学生もどうかしている。

「それに、物につられて受験するのもどうかと思いますけど?」

「そのとおり」

 森沢は潔く己の否を認めた。

「そんなこともあって、それ以来。俺は、もう二度と酒に飲まれまいと訓練に訓練を重ね……」

「……。森沢さん。それは、努力の方向が違っていると思います」

 明子は額に手を当てた。 

「もちろん、二十歳になってからですよ。未成年の飲酒はいけません」

 ウィスキーが入ったグラスを片手に森沢が答える。だが、大真面目な顔をして言うものだから、かえって嘘っぽく見えた。

(真面目なのだか不真面目なのだか、ちゃらんぽらんなのだか誠実なのだか……)

 よく知っているようなのに、とらえどころがない森沢。だけど、なぜか彼を憎めない。

「困った人ですね」

 小言を言うつもりだったのに、明子は笑い出してしまった。


「じゃあ、高校生の時は、喜多嶋のご本家で暮らしていらっしゃったんですか?」

 一緒に話していた人々のうち、大手衣料品メーカーの社員が森沢にたずねた。

「いいえ。寮生活でした。学校の近くに、それはそれはオンボロな建物があったんですよ。そこで、3年間」

 3年目は寮長だったそうだ。

「床は抜けるは、水道管は破裂するは、女の子を連れ込もうとする生徒はいるは、喧嘩はするはで、毎日大変でした」

「そういうのをどうにかするのも寮長の仕事なんですか?」

「他に誰もいないので」

 辛い過去でも思い出したのか、森沢が大きなため息を共にうなだれた。

「おかげさまで、私だって御曹司もどきだというのに、日曜大工は得意だし、トイレの水漏れだって直せるし……」

 ゴキブリだって大丈夫だし、シロアリ駆除だってできるし、庭木の剪定だってできると、森沢が胸を張る。

「それもこれも、みんな、うちのジジイのせいですよ」

「ジジイって、喜多嶋の先代会長ですか?」

「ええ。あの人は、私を玩具と勘違いしていましてね」

 森沢が、居合わせた人々に向かって自分の亡き祖父をこき下ろし始めた。『達也に馬鹿が感染するから』という理由で、森沢を寮に放り込んだのも彼の祖父だそうだ。

(でも、森沢さんや達也さんのおじいさまがしたことは、本当に、ただの意地悪なのかしら?)

 文句を言いながらも楽しげに祖父の思い出話をする森沢の横顔を見ながら、明子は、ふと疑問に思った。

 喜多嶋の商売に関することを実地で経験させ、人脈作りに最適だといわれている翔鳳大学に高校から入れ、寮という親の力を頼りにできない場所に放り込む。寮長になることまでは彼の祖父でも予見できなかったとは思うが、多くの人からの信任がなければ務まらないその地位は、森沢を精神的に強くしたことは疑いがない。

(これって、喜多嶋の跡取りとして大切に育てられてきた達也さんとは正反対……よね? おじいさまの気まぐれがもたらした、偶然の結果にすぎないなのかしら? それとも……)

「どうかした?」

 ぼんやりとしていた明子に、森沢がたずねた。

「い、いいえ、別に」

 明子は、瞬きをひとつすると、笑顔で首を振った。

「疲れた? そろそろ紫乃さんの所に戻ろうか? 俺が連れ出しちゃったから、あまり話せなかったんだろう?」

 気遣いのある森沢の提案を、明子は、ありがたく受けた。



「あの…… 今日は、すみませんでした」

 話の輪から抜け、ふたりで並んで歩きながら、明子は森沢に謝った。

「森沢さんは、私が達也さんの側で退屈そうにしていたから連れ出してくださったんですよね? でも、皆さんには、自分の我がままで私を奪ってきた……と説明してくださっていたでしょう? そのせいで、森沢さんだけを悪者にしちゃったみたいで、なんだか申し訳なくて」

「また、君は、そうやって、余計な所にまで気を回す」

 森沢が眉間に深い皺を寄せながら、明子の頭を軽く小突いた。

「どうせ、『女たらしのプレイボーイ』から浮上することないんだから、俺の評判なんか、どーでもいいんだよ。それに……」

 森沢が、ふいに口を閉じた。 


「強奪したいのは本当だから」


「……え?」

「なんてね。あ、紫乃さん発見!」

 森沢が明子から顔を背けた。

(そうよね? 今のは冗談よね?)

 明子は、ドキドキしながら、赤くなった自分の頬を押さえた。

 だけど、彼は、なんというタイミングで、女心をかき乱すような言葉をさらりと言ってのけるのだろう?

「やっぱり、女たらしじゃないですか」

 森沢と反対の方向を向くと、明子はボソリと呟いた。



 紫乃は、多恵子や紘一と一緒にいた。

「ねえ。 喜多嶋のご両親、どうかしちゃったの?」

 明子と合流するなり、紫乃は、彼女を一時的に話の輪から引っ張り出した。

「以前にお会いした時に比べて、おかあさまのほうは見た目から思いっきり変っているし。おとうさまだってね。『結婚式の時には、ご主人に出席を無理強いするようなことをして申し訳なかったですな。今思うと、誠にお恥ずかしい限りです』、なんておっしゃるのよ」

「今のふたりが、本当の姿なのよ」

 姉の狼狽ぶりが可笑しくて、明子は微笑んだ。


「それにしても、本当に素晴らしいですな。ガロワはいけ好かない野郎だが、こういう仕事を見せられると、彼を認めないわけにはいかなくなる」

 紫乃と共に戻ってきた明子のドレスに、紘一が賞賛の眼差しを向けた。

「着ている人が良いから、ドレスが映えるんですよ」

「そうよ。明子ちゃんあっての、このドレスなのよ」

 森沢と多恵子が、そろって明子を持ち上げる。

「そんなことは、わかっているよ。だから、明子ちゃんの隠れた魅力を引き出すガロワは凄いなあ……と、思ってだね」

「本当に、これが引っ込み思案の自分の妹だと、いまだに信じられないですわ」

 内心の動揺など微塵もみせずに、紫乃が紘一に笑顔で同意する。

「結婚式の時も行けなくて残念がっていましたけど、今日の話を聞いたら、主人は、もっと悔しがることでしょう。特にこのドレス。私の説明だけでは、この素晴らしさを彼に伝えられそうにありませんわ。いっそ……」

 微笑みながら紫乃が目を伏せた。

「いっそ、この子をうちに連れて帰ってしまってはいけませんかしら? そうしたら主人に説明する手間が省けますし」

 数秒の間、5人とも沈黙した。


「……なあんて、さすがに、『お持ち帰り』は無理ですわよねぇ」

 気まずい沈黙を破ったのは、やはり紫乃だった。

「そ、そうですよ、お姉さま。無理です」と、明子は姉をたしなめた。帰った後で達也とまた顔を合わせるかと思うと明子も気が重いが、姉の無茶な提案を喜多嶋の両親が許してくれるとは思えない。

 だが、驚いたことに、森沢が、「それは、いい考えだね」と紫乃の提案に乗ってきた。

「え?」

「そうですよね? 伯父さん? 今日は、この後いろいろとありそうだし」

「そうだな。中村さんに喜んでいただけるのなら願ってもないことだし、今日のうちは……その、いろいろと取り込みそうだしな」

「そうね。お姉さまのところならば、明子ちゃんもゆっくり休めるでしょうから。行ってらっしゃい」

 まるで申し合わせたかのように、紘一や多恵子が、明子に中村家行きを勧めた。


「じゃあ、『お持ち帰り』決定ってことで。いいよね、紫乃さん? ああ、でも、着替えがないのは困るかな?」

「それは、心配してくださらなくても大丈夫」

 狐につままれたような顔で紫乃が答える。

「でも、本当によろしいんですの?」

「ええ。そちらさまさえよろしければ、明子ちゃんは、しばらく、そちらでゆっくりさせてあげたほうがいいのかもしれません。できれば、うちの馬鹿息子が、いろいろなことにちゃんとケジメをつける気になるまで……」

「は?」

「いえいえ。こっちの話」

 多恵子は微笑むと、「伊織さんが私を呼んでいるから行かなくちゃ。では、ごめんあそばせ」と逃げるように去っていった。ついで、紘一も、腕時計で時間を確認しながら、「そろそろ、お開きの時間だな。 私も、挨拶を頼まれているんだ」と、多恵子の後を追っていった。

「それじゃあ、俺も行くかな。じゃあね、明子ちゃん。今日はありがとう。とても楽しかった」

「明日、よければ、お夕食を食べにいらして。繭美と森沢さんのお父さまもお誘いしたの。明子もそれまで引き止めておくから」

 去りかけた森沢に紫乃が声を掛けると、彼は背中を向けたまま承諾の変わりに手を上げた。


「さてと」

 皆が行ってしまうと、紫乃が明子を振り向いた。

「いろいろあるとは思っていたけれども、どうやら、私が考えている以上に、『いろいろ』あるみたいね」

「ある、みたいです」

 紫乃と視線を合わせるのが恐ろしくて、明子は下を向いた。「そんなに恐がらなくてもいいでしょう?」と、姉が笑う。

「とにかく、今日は、あなたの話したくないことまで無理に聞きだす気はないから、安心して、うちに来なさい。いいわね?」

「うん。ありがとう」

 ふたりがそんなことを話している間に、会場の前方に一段高く設けられたステージには、『胡蝶』のイメージモデル候補が集まっていた。 


「喜多嶋化粧品は、来年50周年を迎えます」

 マイクを握った喜多嶋化粧品社長の喜多嶋伊織が、人々に話しかける。

「当社を代表するブランド『胡蝶』も、戦後の再出発より30年を迎えました。長い間、多くの女性たちに愛されてきた『胡蝶』が尚いっそう愛されるよう、私たち喜多嶋化粧品は、リニューアルする胡蝶と、ここに集いました女性たちの中から新しく選ばれます『胡蝶』のイメージモデルと共に、心新たに頑張っていく所存でございます。ところで、皆さま。古い話で恐縮ですが、30年前に私たちが掲げた『胡蝶』のポスターを覚えていらっしゃる方はおられますでしょうか?」

 伊織が後ろを振り向く。 彼の背後に一列に並んでいたモデルたちが両脇に退き、壁に貼られていた30年前のポスターをイラストで再現したポスターが現れた。

「当時は、終戦から間もない頃で、このようなカラーでもなく紙の質も印刷も悪かったのですが、あのポスターは大変評判を呼びました。そして、そのおかげで、多くのお客さまから、「是非『胡蝶』を試してみよう」と思っていただくことができました。本日、そのポスターのモデルとなった女性も、この場に来ております。ご紹介しましょう」


 伊織が、思わせぶりに言葉を止めた。




「タエコ。現喜多嶋紡績社長夫人、喜多嶋多恵子でございます」


 





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