Metamorphoses 7
同じ頃。
ワイングラスを香坂唯に受け取らせることに成功した森沢は、彼女と会話を始めていた。
「こんなところで壁の花になってて、いいのかい?」
唯に倣って壁に背中をつけながら、自己紹介すらしていないことを忘れさせるような慣れなれしい口調で、たずねる。
「君も、『胡蝶』のオーディションを受けているんだろう? 他のモデルみたいに、もっと自分を売り込まなくっちゃいけないんじゃないの?」
「いいんです。私なんか……」
香坂唯が、うつむいた。
彼女がこちらを見ていないのをいいことに、森沢は、じっくりと彼女を観察しはじめた。
長い睫と透けるような白い肌。初対面の森沢と目を合わせたときに、大きく潤んだ瞳の中に垣間見えた脅えた表情。なにかを言いたげにわずかに開いた唇。そこから発せられる消え入るような小さな声。そして、モデルにしては低すぎる身長と全体的にか細い印象のある体型に加え、モデルらしからぬ内向的な態度。
(いかにも『守ってやりたい』って感じの子だな)
森沢の趣味ではないが、達也は、庇護欲をそそられるような可愛らしい女性がお好みであるらしい。
「そんなに自分を卑下することは、ないんじゃないかな?」
森沢は、唯を励ましてみた。
「このオーディションって、ちゃんとした実績がないと参加できないって聞いているよ」
「でも、私は違うんです。他の人とは違って、才能なんかありません。私、こんなところにいちゃいけないんです」
森沢が励ましても、唯は、頑なに自分を卑下し続ける。その卑屈すぎる態度を、森沢は、不審に思った。ここまで自信のない発言をするモデルを彼は他に知らなかった。たまたま彼が知らないだけかもしれない。だが、そもそもモデルなんてものは、自分に自信があるからこそ、やってみようという気になる職業なのではなかろうか。普通の女性ならともかく、モデルを職業としている彼女のこのしおらしさは、なんなのだろう? 才能も覇気もないのに旬を過ぎたモデルがいまだにモデルを続けているのは、なぜなのだろう?
いぶかしく思いながら森沢は、「へえ、そうなの?」と、適当な相槌を打った。すると、唯が顔をあげ、「そうなんです」と、今にも泣き出しそうな顔で大きくうなずいた。
「本当は逃げ出したいぐらいなんです。でも、応援してくれる人がいるから頑張ろう。そう、思っているんです」
両手を組んだ彼女が、想いを込めた視線を前方に向けた。
「へえ? それは誰?」
たずねるまでもないと思いながら、森沢は質問した。唯の視線を追えば、誰だってわかる。達也である。唯も、森沢の質問に答えるつもりはないようだった。
「いやだ! 誰だっていいじゃないですかぁ!!」
急にはしゃいだ声を上げながら、唯が森沢の腕をピシャリと叩いた。
そして、また急に態度を変え、「でも、私にとって、その人は、とても大切な……誰にも代えがたい大切な人なんです」と、恥ずかしそうに顔を赤らめてうつむいた。
(おいおいおいおいおい????)
森沢は、まじまじと香坂唯を見つめた。
確かに、彼女は、これまで一言も達也の名前を出していない。だから彼女の言葉だけでは、ふたりが付き合っているかどうかも、はっきりしない。
(だけど、これじゃあ、『私は、喜多嶋達也と深い関係があります』って、大声で言っているのも同じじゃないかっ!)
森沢は心の中で叫んだ。
(でも、この子、こんなことしてなんになるんだろう?)
森沢は不思議に思ったものの、すぐに、彼女の意図に気が付いた。
喜多嶋の御曹司の恋人だからといって皆が憧れる『胡蝶』のイメージモデルになれるほど、この業界は甘くない。だが、モデルの仕事はこれだけではないのだ。香坂唯が達也の愛人であるのならば、達也を喜ばせるために……つまり次期喜多嶋の後継者に取り入るために、彼の愛人に『ちょっとした』仕事を与えてやろうという者なら、この会場にいくらでもいるに違いない。
要するに、彼女は、先ほど森沢を誘惑しようとした《なんとか麻耶》と同じようなことをしているのだ。しかも、この香坂唯という女性は、《なんとか麻耶》よりも、ずっと始末が悪かった。《なんとか麻耶》が姑息な手を使うのは、一流モデルにのし上がりたいという上昇志向ゆえである。だから、当然、彼女も、リナや樹里と同じように、本気で『胡蝶』のイメージモデルになろうと頑張っている。
それなのに、彼女たちが『胡蝶』になりたくて、しのぎを削っている間、香坂唯は、なにをしていた? 仕事の『おこぼれ』を得るために、ここに集っている業界関係者に『達也の愛人』という自分の存在を印象付けようとしていただけではないか。
この女に、オーディションを受ける資格はない。ついでに言うと、喜多嶋紡績グループの関係者がこんな女と関わりが深いと思われることは、喜多嶋グループにとっても迷惑千万である。喜多嶋の品位に関わる。道理で、樹里やティナが『つまみ出せ』と勧めた訳である。
(達也は、このことを知っているのか?)
森沢は、唯の視線の一直線上にいる達也に目を向けた。達也は、こちらを見ていないが、森沢は、彼以外の人々の視線を感じずにはいられなかった。礼儀正しく知らぬふりをしてくれてはいるが、先ほどから、多くの人々が、チラチラと好奇心に満ちた視線をこちらに向けてくる。彼女と達也と見比べるように視線をさまよわせている人もいる。
繭美は、唯が達也に向ける視線から、ふたりの関係に気がついた。
樹里もティナも気が付いていた。リナも、たぶん気がついている。
紫乃も、気がついたかもしれない。
もしかしたら、ここにいる全員が気がついているかもしれない。
(では、明子ちゃんは?)
明子も、唯が達也に向ける熱い視線に気がついただろうか?
明子は聡い。でも、馬鹿みたいに『おりこうさん』だ。唯の視線に気が付いていたところで、彼女は、この場で怒りを露にすることはないだろう。ここにいる全員が達也と香坂唯のことに気が付いているかもしれなくても、彼女は、気が付かないふりをして達也に寄り添い、喜多嶋の御曹司に嫁いだ幸せな新妻という役割を果たそうとするに違いない。
だが、それでは、明子は、ただの道化ではないか?
(ふざけるなよ。どうして、彼女が、そんな惨めな目に合わなくちゃいけないんだ?)
森沢は、手にしていたワイングラスの中身を一気に飲み干すと、側のテーブルに音を立てて置いた。その音に驚いたように顔を上げた香坂唯を、睨みつける。
「君さ、いい加減にしなよ」
森沢は言った。
「全てを失いたくなければ、今みたいな方法で仕事を手に入れることは、やめるんだね」
「言っていることが、わかりませんけれども?」
キョトンとした顔で森沢を見上げる香坂唯に、彼は、「俺は達也の従兄だよ」と名乗った。香坂唯は、やはり知らなかったようだ。ただでさえ大きな目を更に大きく見開いた。
「君がこんなことをしていると知ったら、達也はどう思うだろう? 達也はともかく、喜多嶋としては、こんな姑息な手段で仕事を手に入れている君を見過ごしにはできない。『君に仕事を与えれば、かえって喜多嶋の不興を買うことになる』。ここからつまみ出されたうえに、君の仕事に関係しそうな全ての人に、そういう回状を回されたくなかったら、いますぐやめて、おとなしくしていなさい。いいね?」
森沢が脅かすと、唯は、返事をするかわりに、いじけたように後ろを向いた。そして、そのまま振り返ることなく、達也の目の届かないところまで壁伝いに逃げていった。
唯が達也に秋波を送るのをやめさせた森沢は、ついで、明子のところへと向かった。その途中、森沢は、スーツ姿の男性ふたりと話していた達也の肩を掴んで振り向かせた。達也の耳元に顔を近づけ、低い声で呟く。
「話がある。パーティーが終わったら、ツラを貸せ」
「え?」
「覚悟しておけよ」
呆然としている達也を尻目に明子の側までたどり着いた森沢は、背後から彼女の隣に並ぶと同時に、するりと腰に手を回した。『ひゃあ』とか『わあ』とか言いながら、明子が、ひどくビックリしたように体をのけぞらせた。だが、森沢は気にしない。
「紫乃さん。しばらくの間、明子ちゃんを借りてもいい?」
明子の動揺などおかまいなしに、森沢は、明子自身よりも彼女の行動の決定権を握っていそうな彼女の姉に許可を求めた。
「なにをする気なの?」
警戒感たっぷりの眼差しを、紫乃が森沢に向けた。
「そうよ、なにするつもりなの?!」
繭美は、森沢の予定外の行動に憤慨しているようだった。森沢の父の信孝は、息子を咎めることも唆すこともせず、相変わらず悠然と観察に勤しんでいる。
「皆に見せびらかす」
森沢は答えた。
明子が抗議らしき声を上げたが、彼は無視した。その代わりに、彼は、彼女が逃げ出さないように腰に回した手に力を込めた。それから惚れ惚れと彼女を見つめる。その遠慮のない視線に、明子が顔を赤らめた。
「彼女は、こんなに綺麗なんだ。こういう場合、自分は添え物に徹して会場中に彼女をお披露目して回るのが、真のエスコート役というものだろう? でも、朴念仁の達也は、奥さんは自分の添え物だとしか思っていないようなのでね。ですから、不肖この森沢俊鷹が、達也からエスコート役を奪うことにいたしました!」
森沢は、冗談めかして宣言し、「いいよね」と、明子に承諾を求めた。
「え? 見せびらかすなんて、そんなの……」
情けない顔をする明子に、「いってらっしゃい」と、紫乃が勧めた。
「そんな綺麗で派手なドレスを着ているのに会場の隅っこで身内とおしゃべりしているだけ……なんて、確かに惨めな状況ではあるわ。森沢さん。明子をよろしくお願いします」
「了解。そういうわけだから、おいで」
「え、でも」
「君に紹介されたがっている人が沢山いるんだ。俺がついているから大丈夫。 ね?」
不安げな明子を励ますように微笑むと、森沢は、彼女を連れて会場の中心に向かって歩いていった。




