Metamorphoses 6
一方、明子はといえば、パーティーが始まって間もないうちから退屈していた。
目前で行われている達也と灰色の背広姿の男ふたりとの間で交わされる会話は、仕事のことばかり。喜多嶋の社員でなければ喜多嶋の取引先の社員でもない明子が、迂闊に口を挟むわけにもいかない。『妻』という部外者の明子がしてもよさそうなことといったら、達也の横で微笑んでいることだけ。退屈なので、どうしても気がそぞろになる。
近くの人だかりから、弾けるような笑い声があがる。楽しそうな雰囲気に惹かれて、目前の話し相手に失礼のない程度に明子が目を転じると、舅の紘一と姑の多恵子の周りに、年齢性別の区別なく沢山の人々が集まっていた。堅い話ばかりしたがる息子とは違い、父親のほうは、パーティーとは会議室ではできない会話をする場所だと心得ているようである。
(いい人かどうかは別にしても、とても真面目で勤勉な人であることだけは、間違いないのだけどねえ)
久しぶりに達也の隣に並んだ明子は、彼の熱弁を聞きながら心の中で苦笑する。真面目なのは良いことだ。それに、パーティーの席で仕事の話をすることが悪いことだとは、明子は思っていない。だが、話題が専門的かつ局地的でありすぎるので、達也の周りに集まるのは、彼と話を合わせることができる人しかいない。達也は意識していないのだろうが、これでは、自分から自分と生き方や考え方の違う人との付き合いを拒否しているようなものだ。
達也自身は、真面目にひたむきに頑張っているのかもしれない。だけども、彼の行為が、おしなべて自己中心的に見えてしまうのは、もしかしたら、こういったところに原因があるのではないだろうか? 達也も、無理して話の中心になろうとはせずに、たまには他人の話の聞き役に徹してみればいいのだ。そうしたら、彼も、他人には他人の『正しさ』があることに気が付くかもしれない。自分が『正しい』と思っていることだけを相手に押し通す前に、少しでも他人の気持ちを慮れるようになれれば、達也は、今よりも素敵な男性になるような気がする……
……と、暇を持て余していた明子は分析した。
(本当は、奥さんである私が、そうなるように達也さんをサポートするべきなのかもしれないけれど)
しかしながら、今の明子は、達也にそのようなことをしてやる義理すら感じなかった。自分は、もう関係ない。明子と離婚した後、香坂唯が、そのように達也を導いてやればいい。
その香坂唯も、このパーティーに出席していた。オーディションに参加しているモデルたちが自分を売り込むのに忙しそうにしているなか、唯だけは、壁際の1ヶ所から動かずに、物憂げな目でじっと達也を見つめている。
(声をかけるような知り合いもいない……ってことなのかしらね。それとも人見知り? でも、モデルなのだから、こんな場所で人見知りしている場合でもないでしょうに)
父の秘書である葛笠が調べてくれたところによれば、唯は、売れっ子のモデルではないそうだ。この仕事を彼女に与えたのは、おそらく達也だろうが、もしかしたら、唯も、身の丈に合わない仕事を振られて戸惑っているのかもしれない。
(女の子の気持ちがわからないというか、気が回らないというか…… そういうところが、達也さんらしいといえば、らしいけど)
自分に対する仕打ちも含め、明子はつくづく達也に呆れた。とはいえ、もしも望まずにこの場にいるのだとしたら、あのまま彼女を壁際に放置しておくのは気の毒ではないだろうか? これが元で、達也が唯に嫌われてしまったりしないだろうか?
……と、退屈が高じた明子がお門違いな心配までしかけた頃、ようやく森沢がパーティー会場に現れた。
遅刻したらしい森沢は、彼の父親の信孝とともに息せき切ってパーティー会場に飛び込んできた。
赤いドレスを着た明子は、やはりとても目立っていたようである。会場に入るなり、彼は明子に気が付いてくれた。森沢の表情を見れば、彼が明子の姿に良い意味で驚いてくれているのは明らかだった。彼女は、ひとまずホッとした。
まっすぐにこちらにやってくるかのように思えた森沢は、その場でリナと立ち話を始めた。リナと信孝が明子の側にやってきても、彼だけがこちらに来ようとしない。
(どうしたのかしら?)
リナたちから話しかけられたおかげで、一時的にせよ達也を注珍に盛り上がる退屈な話の輪から抜け出せたものの、明子は、なんとなく物足りなかった。
「俊さんなら、そのうち、こちらにやってくるから大丈夫よ。彼ね。今、いろいろ煩悶している最中なの」
明子の視線の行方に気がついたリナが微笑む。
「そうそう。放っておいても、いずれ引き寄せられるさ。なにせ、ここには強力な磁石がいるからな」
信孝も、息子のほうに視線を向けながらニヤニヤと笑う。ふたりとも、やけに楽しげだ。リナたちの言葉は謎めいていたが、『煩悶』という使い慣れない単語が明子の耳に残った。
「森沢さん、何か悩み事でもあるんですか?」
明子はリナにたずねた。明子は森沢に世話になってばかりである。できることがあるなら、恩返しの意味も込めて、明子は彼の力になりたいと思った。
明子が控えめに自分の希望を言うと、ふたりは、なぜか爆笑した。
「明子ちゃん、大好きよ」
リナが明子を抱きしめた。花の香が明子の鼻をくすぐった。
「今の台詞、後で俊くんに直接伝えてあげて。きっと泣いて喜ぶわ」
「そう……でしょうか?」
心もとなげに呟きながら明子が周囲に目を向けると、彼は、明子よりも若く見えるけれども妖しい色気の漂う『胡蝶』候補のモデルと話しているところだった。親密な雰囲気がふたりの間に漂っている。
(もしかして、彼女が森沢さんの恋人さんなのかしら?)などど明子が悩む暇もなく、妖艶な美女が、日に焼けた健康的な美女によって追い払われた。
森沢は、妖艶な美女よりも、健康的な美女と一緒にいるほうが楽しいようだった。ふたりが和気藹々と話しているところに、今度は妖精のように可憐な美女が加わった。
……と思ったら、彼は、彼の従妹の繭美によって、どこかへ連れ去られてしまった。
(森沢さんって、やっぱりもてるのねえ)
明子は、なかば呆れつつも感心した。
(そりゃあ、そうよね。親切だし、おまけにハンサムだし、チャランポランに見えるうえマニアックなところはあるけれども、実は真面目な好い人だし)
ちょっとでも男性を見る目がある女性なら、彼を放ってはおくことはしないだろう。しかも、森沢の良さを見分けて近づいてくる女性たちは、魅力的な女性ばかりであるようだった。
(森沢さんって、あの女の人たちの誰かとお付き合いしているのかしら? 最初に話しかけていた色っぽい女の人だったら嫌だな。あの人は綺麗だけど、どこか不実な感じがするもの。リナさんが森沢さんの恋人ならいいのに。リナさんは、とても素敵な人だもの。あの人ならまだ許せる…… って、嫌だ。『まだ許せる』なんて、私ったら、なんておこがましいことを考えているの?)
明子は、赤くなった。
(許すも許さないも、そんなの森沢さんの勝手じゃないの。そりゃあ、私は森沢さんに沢山お世話になっているけれども、恋人とか妻とか? そういう間柄になる可能性はないわけで……)
「どうしたの? 明子ちゃん?」
人知れず自分で自分を諌める明子に、リナがたずねた。
「い、いいえっ! なんでもありません! 変なこと考えて、すみません!」
明子は、力一杯首を振ると、勢い余ってリナに謝ってしまった。
「変なことって?」
「え? えっと、その……」
うっかりと口走った言葉で自ら墓穴を掘ってしまった明子が更におかしなことを言いかけた時、繭美に連れ去られていた森沢がパーティー会場に戻ってきた。動揺しながらも、明子の目は、しっかりと彼の姿を追いかけていた。森沢は、まだ『煩悶』中であるようで、いつになく難しい顔をしていた。こちらにむかってくる。
「あの、森沢……さん?」
明子は森沢に声をかけた。 だか、声が届かなかったのか、森沢は明子に一瞥さえくれなかった。彼は、無言で彼女の横を通り過ぎていった。そして、近くにいたウェイターから飲み物を2つ受け取ると、グラスの1つを香坂唯に差し出した。
(え?)
(なんで? どうして、森沢さんが唯さんに?)
香坂唯もまた、森沢の数ある女友達のひとりなのだろうか? それとも、森沢もまた香坂唯に心惹かれるなにかを…… 達也が唯に恋に落ちたときのような特別な感情を覚えたのだろうか?
内部崩壊している仮面夫婦は、こんな時に限って気が合うらしい。示し合わせたわけでもないのに、明子と達也は、同時に「どうして?」と呟いた。背中合わせに立っていたふたりは、お互いの声に驚いたように振り返った。だが顔を見合わせたところで、今見たことについて、ふたりが話し合えるわけもないので、お互いに気まずそうな顔をしながら顔を背けた。そんな若い喜多嶋夫妻の奇妙な行動を、彼らの周りにいた人々……特に達也の話し相手をしていた男性ふたりが、不思議そうに見ている。
(あ、いけない)
ほとんど同時に我に返った明子と達也は、その場を取り繕うために、ふたり揃って強張った作り笑いを男たちに向けた。
その時。
「明子!」
唯がいるのとは反対の方向から、姉の紫乃の呼ぶ声がした。
紫乃が結婚した後で気が付いたことだが、紫乃と最も歳が近い明子は、誰よりも強固に姉に守られてきたがゆえに他の姉妹よりも姉への依存度が高い。
「お姉さま!」
紫乃の姿を見つけた途端、全身の力が抜けるほどの安心感を覚えた明子は、衝動的にそちらに駆け寄ろうとした。だが、走り出す直前で、彼女は達也のことを思い出した。
「お久しぶりね、達也さん」
明子が達也を振り返ると同時に、紫乃が、彼女の頭越しに達也に話しかける。「こちらこそ、ご無沙汰いたしております」と、達也が几帳面な顔で応じた。
「少しの間、妹をお借りしてよろしいかしら? ああ。どうぞ。あなたは、そのままでいいですよ」
話し相手に断りを入れ、明子を連れて近づこうとした達也を紫乃が笑顔で制した。
「お忙しいのでしょう? どうぞ、お好きなだけお仕事の話を続けてくださいな。私たちにはお構いなく」
紫乃の物言いは柔らかかった。だが、達也を見る姉の目には愛想の欠片もない。
達也が、そんな紫乃の顔を見て顔を強張らせた。そして、彼女の達也への冷ややかな態度に恐れをなしたのは当人だけではないようだった。紫乃の隣にいた繭美は、達也以上に青ざめていた。
「そ、そうね。達也くんは、そこにいてちょうだい。これから、信孝叔父さまが、おかしな研究所のお話を紫乃にしてくださることになっているの。たとえば、高級服地として生まれたのに雑巾にしかならなかった布の話とかね。明子ちゃんも、きっと楽しめると思うわ。さ、行きましょう、明子ちゃん!」
「そうそう。この麗しい女性たちのお相手は、繭美ちゃんの御指名で、この私がすることになったんだ。君は向こうへ行ってなさい」
繭美が慌てた様子で明子の背中を押し、信孝が達也を追い払うように悠然と腕を振った。
「あの? 繭美先輩?」
明子は、戸惑いながらも繭美に背中を押されるまま、姉に近づいていった。姉との距離が近づくにつれ達也との距離が広がる。達也よりも更に後方にいる森沢からも遠ざかっていく。
明子は首を無理に曲げて後ろを振り向いた。森沢と唯の姿が、柱の影に消えた。




