Metamorphoses 4
この日。
美しく着飾った明子の姿に目を奪われた男性は、少なくなかったはずである。だが、森沢ほど長く熱心に見つめていたものは、おそらくいなかったに違いない。
だいぶ距離が離れていたにも関わらず、森沢の熱い視線に気がついたらしい明子が、こちらを向いた。 彼は、ばね仕掛けの人形よろしく、『く』の字に曲がった腰を真っ直ぐに伸ばすと、空咳をひとつして自分を落ち着かせた。そして、みっともないところを彼女に見せてしまった埋め合わせをするべく、気取った素振りで挨拶代わりに手を振ろうと……したものの、上げかけた手を途中で引っ込めた。
達也が明子に話しかけている。話しかけられた明子も、達也に笑顔を返している。
ふたりは、絵に描いたような仲睦まじい新婚夫婦に見えた。彼ら夫婦が揃って一緒にいるところを森沢が見たのは、結婚式以後、これが初めてだった。笑い合っている喜多嶋夫妻を前に、森沢の笑顔が行き場を失って凍り付いた。
しかしながら、それも束の間のこと。明子が達也に森沢の到着を伝えたのだろう。ふたりは揃ってこちらを向くと、笑顔で彼に会釈した。森沢は、下げかけていた手を上げると、わざとらしいほどにこやかな笑みを浮かべながら、彼らに向かって腕を大きく振り回した。
それから数秒後。達也夫妻の注意が自分から逸れるやいなや、森沢は、体の中一杯に溜まってしまったやるせない気持ちを、大きなため息と一緒に吐き出した。
全ての息を吐ききってしまうと、それまで全く気にならなかった人の声やBGMが、彼の耳に飛び込んできた。
「重症だな、これは。観察するまでもない」
「本当ですね。こんなに面白い俊さんは、初めて」
時節柄クリスマスソングをクラシック音楽風にアレンジした曲と共に、そんな声も聞こえてきた。彼は、振り返ると、声のしたほうを睨みつけた。
「リナ。なぜここに?」
「あら? 明子ちゃんに見とれて忘れちゃったのかしら? 仕事よ。シ・ゴ・ト」
『胡蝶』イメージモデルの候補者ナンバーワンと黙されている春瀬リナが、腰に手を当ててポーズを取ってみせた。
「そうだった。俺のことは放っておいてくれていいから、頑張って仕事に励んでくれ」
森沢は、真面目腐ってうなずくと、明らかに面白がっている友人から顔を背けた。だが、リナは、森沢を逃がすつもりはないようだった。ニヤニヤしながら彼の横に並ぶ。
「今日の私にとって、ここは戦場。どんなに華やかなパーティーでも楽しむ余裕なんかないと思っていたのに、まさか、いまだかつてないほど面白い俊さんを見ることができるなんてね」
「面白いってなんだよ?」
「さっきの俊さんの間抜け面を『面白い』以外のどんな言葉で表せばいいのかしら?」
「べ、別に、俺は、明子ちゃんに見とれていたわけじゃないぞ。彼女が着ているガロワのドレスに感動していただけで……」
だが、取って付けたような森沢の言い訳は、やはり、リナには通用しなかった。
「嘘ばっかり。ドレスに感動したのなら、どうして、私のドレスにも感動してくれないのかしら?」
リナが、自分の着ているアイボリーのドレスを見せびらかすように優雅にターンする。
「まさか、それ……」
「そう。ガロワのドレスよ。といっても、これは、ガロワのスケッチを元に、彼のお弟子さんたちが作ってくれたものだけどね」
「じゃあ」
森沢は、パーティー会場を見回した。
着ているモデルによって少しずつデザインが違うようだが、そこかしこに、リナと同じようなアイボリーのドレスを着た若い女性の姿がいる。明子や多恵子のように鮮やかな色でない分だけ目立たないものの、どのドレスからも、いかにもガロワらしいワンランク上の優美さが感じられた。
「そうよ。あれもこれも、みんなガロワのドレスよ。それから、もうひとり」
リナが楽しそうに笑いながら、明子の側にいる女性に森沢の視線を促す。
「ええっ! まさか、多恵子伯母さん?! 嘘?! とんでもなくカッコイイぞ!」
森沢は、今度こそ、まずはガロワのドレスに、ついで、それを美しく着こなしている多恵子に感動した。
「伯母さん…… まるで、同じ顔をした別人みたいだ」
惚けたように森沢が呟く。
大胆なドレスのせいかもしれないが、今日の多恵子は、同じ顔のまま、中味まで取り替えたかのように見えた。だが、なぜだろう。見慣れないはずの伯母の姿を、森沢は良く知っているような気がした。どこかで、しかもつい最近、今の彼女とよく似た感じのなにかを見た……ような気がしてならない。
「ほら、やっぱり明子ちゃんしか目に入ってなかった」
リナが勝ち誇ったように笑った。
「それにしても、ガロワもひどいことしてくれるわよね。これでは、肝心の私たちが霞んじゃうわ」
明子と多恵子に羨望の眼差しを向けながら、リナがむくれた顔をする。
「わざとじゃないかな?」
森沢は、多恵子の後方で某アパレルメーカーの役員を話しているガロワを見ながら微笑んだ。いたずら好きのガロワのことだ。あのふたりが着ている華やかさ全開のドレス前にして、モデルたちが、どれだけ自分らしく美しく振舞えるかをテストしているに違いない。
「そうでしょうね。つまり、オーディションは既に始まっているってこと」
リナによると、ガロワは過去にも何度か同じようなことをしているらしい。
「さすがプロ。下調べは完璧だな。それで? 君は、これからどうするつもり?」
「もちろん正面突破」
見かけを裏切って潔い友人は、キッパリと宣言した。
「せっかくガロワのドレスを着せてもらえたというのに、ふたりに遠慮して壁の花になるなんてゴメンだわ。ましてや逃げたり隠れたりするのは、もっと嫌。小細工するもの嫌い。比べられたって構わないから、明子ちゃんや、あの素敵な奥さまとおしゃべりしたいわ。ガロワ本人ともね。 俊さんは? この後、どうするの?」
「え? 俺は、オーディションは受けてないし……」
「とぼけないの。明子ちゃんのことよ」
リナが明子に目を向けた。森沢も同じ方向を見ると、なぜか、明子と目が合った。森沢が笑みを浮かべると、つられたように明子が微笑んだ。はにかんだような微笑が、とても愛らしい。
「まさか、彼女が、喜多嶋の御曹司の…… 俊さんの従兄さんのお嫁さんだったなんてねえ」
リナが、芝居がかった仕草で大きなため息をつく。
「言わなかったっけ?」
「聞いてない。ねえ? いつまでも逃げていたら、余計に辛くなるんじゃない?」
「逃げる?」
森沢が聞き咎めた。彼は逃げた覚えがなかった。逃げなければならない状況に置かれた覚えもない。
「逃げてたでしょう? 普通の俊さんだったら、とっくの昔に彼女への気持ちに気が付いていたと思う。無自覚だったのは、そのほうが楽だから。肝心な所で踏み込めないのは、昔からの俊さんの悪い癖ですってね」
「それは剣道の試合の時の話だろ? だって、どうしろって言うんだよ?」
訳知り顔で説教するリナに、森沢は、イライラと言い返した。
「そうねえ。例えば、誘う……とか? 奪う……とか?」
「馬鹿言うな。許されることじゃないし、俺は、彼女の今の幸せを奪う気もないぞ」
達也の浮気疑惑騒動も、やっと治まったばかり。これからふたりで幸せを築こうとしている矢先に森沢が横恋慕して、彼らの家庭を壊してよいわけがない。
「『今の彼女の幸せ』?」
リナが、哀れむような眼差しを森沢に向けた。
「恋は盲目って、本当ね。今の俊さんの目は節穴だわ」
「は?」
「焼餅を焼くのはやめて、冷静になってごらんなさい。そうしたら、見えてくるものもあるから。それからね。後でもいいから、ちゃんと明子ちゃんを誉めてあげるのよ。彼女、絶対に喜ぶから。じゃあね」
姉のように小言めいたことを森沢に言い残すと、リナは、明子たちの側に行ってしまった。リナを後を追うようにして、父信孝までもが励ますように森沢の肩をひとつ叩いて、紘一に挨拶に行ってしまう。
森沢だけが、その場に置き去りにされた。
「まったく、なんだって言うんだよ」
森沢は、言いたい放題だった友人と父親の後姿を恨めしげに見つめた。
「あいつの言っていることはおかしい。俺が彼女を好きだなんて、あるわけがない」
彼はムキになってリナの言葉を否定しようとした。だが、耳から入ってきた自分の声は、我ながら非常に嘘っぽく聞こえた。
「……。なんてこった」
森沢は愕然とした。あれこれ逆らってはみたものの、自分に関するリナの指摘は非常に正しい……ような気がした。否、否定しようとすればするほど、リナのほうが正しいとしか思えなくなってきた。
森沢は、明子のことを、多分……ではなくて、かなり好きなのだ。しかも、他人にわかってしまうほど熱烈に彼女が好きらしい。
結婚式の日に心細そうな明子の顔を見てしまってからずっと、森沢は彼女を気にかけてきた。最近は、彼女のことが気になって気になって仕方がない。彼女を気にかけ続けていたいし、守ってやりたいとも思う。
これを恋と言わずして、何と言えばいいだろう?
だから、彼が無意識のうちに明子への想いに気が付かないようにしてきたのだというリナの指摘も、おそらく当たっているに違いない。とはいえ、明子は達也の妻なのだ。森沢が、彼女への気持ちに気がついたところで、どうなるものでもない。自分の気持ちを隠したまま、紳士的に彼女を見守り続けるのは、きっと苦しい。ならば、自分を誤魔化してなにが悪いというのだ?
(リナも、リナだ)
モデルという職業柄誤解されがちだが、リナの貞操観念は非常に強い。不倫など大嫌いなくせに、どうして、今回に限って、『彼女を奪ってしまえばいい』などと、あえて森沢を焚き付けるようなことを言うのだろう?
「『良く見てみろ』なんて言われてもなあ」
森沢は、達也夫婦に目を凝らした。
どれだけ一生懸命見つめても、ふたりが腹が立つほど仲良さそうに見えることに変りはなさそうだった。 困ったことに、ずっと見つめているうちに、明子の側をウロチョロしている達也が、とんでもなく目障りなものに思えてきた。目障りといえば、現在明子と会話している森沢の父親の信孝も目障りだった。自分の本心を他人から知らされて動揺している息子を置き去りにして、自分だけ明子と楽しい思いをするなんて、親の風上にも置けない奴である。
(……って、やばい。我ながら、かなり重症だ)
森沢は、自分で自分にゲンナリした。
明子への気持ちを認めた途端に、自分は、恋する馬鹿男への道を超高速で突き進んでいるようである。しかも、そんな馬鹿を癒す一番の薬は、どうやら明子であるようだった。森沢が穴が開くほど見つめていたからだろう。明子は、先ほどから、時々、こちらを気にするような素振りを見せている。彼女と目が合うたび、彼女が微笑むたびに、森沢は心が浮き立つのを感じた。すぐにでも、彼女の傍に行きたかった。
「いかんいかん。 落ち着け、自分」
森沢は、明子に背を向けると、自分に言い聞かせた。
こんなにわかりやすい態度をとっていたら、リナや父親だけでなく、明子本人や、このパーティーに出席した全員に彼の想いを知らしめることになってしまう。そのために、森沢ひとりが笑われるのは構わない。だが、明子までが周囲から妙な勘繰りを受けるようになったら、彼女に迷惑がかかる。
それよりなにより、真面目な明子が結婚した男以外の男性から懸想されて喜ぶとは思えない。きっと、嫌がる。森沢の気持ちを知ったが最後、明子は彼と距離を置こうとするかもしれない。
(それは、絶対に嫌だ)
明子に嫌われるかもしれない。そう思っただけで、森沢は胃の辺りがキリキリと痛むのを感じた。
(とにかく、彼女に気取られないようにしないといけないな)
森沢は、さしあたって、馬鹿丸出しの表情を改めることにした。頬に両手を当て、顔を洗うような要領で頬の筋肉を揉みほぐす。それから、伊達男を気取ったポーカーフェイスを浮かべられるように、強く意識した。
「よし。 行くか」
頬をピシャリと叩いて自分に気合を入れると、彼は、明子がいる方向に顔を向けた。
(傍に行って、いつものように普通に彼女と会話するだけだ)
自分は、あくまでも明子の夫の親戚のひとり。自分の恋心を、誰にも疑がわせてはいけない。何事にも真面目に悩みがちな明子に迷惑をかけるようなことは、絶対に避けなければいけない。大盤振舞いしがちな彼女への好意や親切も、これからは努めて控えめにするように心がけねばいけない。
(あ、でも、俺は、女たらしだと思われているから、少しぐらいなら、彼女に馴れ馴れしくしてもかまわないかな)
そんな虫の良いことを考えたのがよくなかったのかもしれない。
森沢が明子に向かって歩き出そうとした途端、ひとりの若い女性が「先ほどから、すいぶんと熱心に彼女を見つめていらっしゃるのね」 と言いながら、彼の前に立ちふさがった。




