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悪い女のつくりかた  作者: 風花てい(koharu)
悪い女のつくりかた
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Metamorphoses 3

 明子がパーティー会場に到着した頃。 

 森沢は、まだ、父親とともに自分のマンションにいた。


「だからさ、それは明子ちゃんなんだよ。そう。達也の嫁さんの明子ちゃん。みんなが勝手に俺の恋人だと誤解したんだよ。あ? 『誤解されるほうが悪い』って? なんで俺のせいなんだよ? 誘惑なんてしてないよ! 『いくら好きでも人妻はだめ』だ?! そんなこと、わかっているよ! 親父っ! いつまでイジケてんだよ。早く着替えろよ!」

 森沢は受話器を手で押さえると、部屋の隅っこにうずくまっている父親の信孝に声をかけた。

 信孝は返事をしない。 膝を抱え、イジイジと床に人差し指を突き立てている。昨日今日と2日続けて会議で達也にこてんぱんにされたことが、彼には相当堪えているらしかった。


(今日の達也は、特に機嫌が悪かったみたいだしな)

 なにがあったのかは知らないが、今日の信孝は達也の不機嫌のとばっちりを受けたようなもの。どれだけ弁がたつ人間でも、始めから人の話を聞く気がない今日の達也を言い包めるのは不可能だっただろう。そう言って、彼は信孝を慰めた。たが、めったなことではへこたれない信孝が、今回に限って、いつまでたっても立ち直ろうとしない。

 しかしながら、いつまでも父親にいじけられては、森沢が困る。今だって、父の代わりに母親からの電話を応対することになって、彼は充分に困っていた。だが、『息子にも、ようやく結婚を前提につき合う女性が現れた』と思い込んでいる母の誤解を早々に解いておかないと、次に森沢が長野の家に帰った時に、『祝 御結婚!』の横断幕が商店街に掲げられていないとも限らない。

「『放っておけば、じき直る?』って? それは、そうかもしれないけど、急いでいるんだ」

 森沢は、落ち着きなく窓の外に目を向けた。安っぽいイルミネーションの灯りが暗闇を満たしている。

「これから喜多嶋主催のパーティーがあって、親父も連れてこいって伯父さんに言われてるんだよ。それに、会わせたい人もいるんだ」


 森沢は、信孝を明子の姉の紫乃に引き会わせたいと思っていた。

 紫乃の夫の弘晃は、中村物産グループの実質的な経営者である。中村物産ならば様々な業界に顔が利くから、達也が『くだらない』の一言で片付けようとしている研究を商売に繋げられる会社に心当たりがあるかもしれない。そういう会社に、喜多嶋ケミカルの研究の一部を引き継いでもらえないか、そのための仲立ちを中村物産に引き受けてもらえないだろうかと、森沢は考えたのである。

 森沢が直接弘晃のところに話をもっていっても同じことかもしれない。だが、せっかく信孝が上京しているのだ。病弱なために家に引きこもったきりの弘晃に繋ぎをとろうと多くの経営者たちがそうしているように、まずは紫乃に信孝を接触させてみるのも面白いかもしれない。

 本人はあまり自覚していないようだが、紫乃の人を見る目は確かだ。夫に会わせる価値がある人物かどうか、商売相手として誠実に付き合える相手かどうか。 彼女は、社交的な短い会話の中で、それらを正確にかぎ分けることができる。紫乃の判断を弘晃が鵜呑みにすることはないようだが、信孝が彼女の眼鏡に適えば、その後の森沢の弘晃との交渉が格段にやりやすくなるはずである。

「……というわけなんだ。ああ。わかった。助かるよ」

 森沢は、空いているほうの手で電話を持ち上げると、信孝のところに持っていった。

「母さんが、話したいって」

 森沢が受話器を差し出すと、信孝は無言で受話器を受け取った。


 数分後。 母のおかげですっかり立ち直ったらしい信孝は、上機嫌で着替えを始めた。

「俺の頭の中は進歩的すぎて、古い考えに囚われた達也くんには理解できないんだろうってさ」

 母によれば、普通の人々よりも100年も200年も先のことを考えている信孝に対して、自分たちの利益と効率ばかりを重視する達也の脳味噌は、産業革命当時の実業家のそれと比べてほとんど進歩がないとのことである。

「『頭の中が300年も隔たっている人間同士が、たった2日で理解し合えるわけがないでしょう。ちょっと言い負かされたぐらいでへこたれてどうするの?』だとさ。でもなぁ」

 信孝は、ボタンを外す手を止めるとため息をついた。 

「うちの研究所がやっていることは、達也くんに夢物語と間違えられるほど、突拍子のない見当はずれなことなのだろうか? 100年も200年も先の、そんな遠い未来の話でしかないんだろうか。俺たちは、しなくてもいいことに精力を注いでいるだけなのかな?」

「俺は、そうは思わないよ」

 森沢は、父を慰めるように微笑んだ。普段はくさしてばかりだし、いかれた奴だとも思うが、森沢は父が大好きだし、尊敬もしていた。

「母さんは100年先って言ったけど、俺は、50年先でも80パーセントぐらいは実現できると思うよ。そのうちの50パーセントが実用化されて、その中の半分が商品として世の中に受け入れられたとしたら、我が社としては万々歳。これまでの研究費を全部引いても、その何倍ものお釣りがくるんじゃないかな」

「……俊鷹ぁ……」

「なに泣いてんだよっ! 泣いている暇があったら、早く支度しろよ!」

 信孝から潤んだ目で見つめられた森沢は動揺し、彼から逃げるように洋服箪笥の中に顔を突っ込んだ。


「でも、惜しかったよな」

 引き出しからシャツを取り出しながら、森沢は冗談めかして笑った。

「2年前の石油ショックがもう少し長く続いていたら、達也の頭も、もう50年ぐらいは進化したかもしれない」

 2年前の石油ショックは、物価の高騰など社会に大混乱をもたらすと同時に、頭が固くなった経営者たちに大胆な方針や発想の転換を強いることになった。

「もっとも、あの時、繊維産業は大打撃を受けたから、勤勉な達也は二度とゴメンだと思っているだろうけど」

「困難を乗り越えないと進化できないなら、いっそ二度目が来ればいいのに。げっ! ここまでキチンとした格好をしなくてはいけないのか?」

 不謹慎な息子の言葉に物騒な相槌を打っていた信孝が、森沢から渡されたシャツがタキシードに合わせるためのウィングカラーのシャツだと知って嫌そうに顔をしかめた。

「当然だろ」

 森沢は答えた。今宵のパーティーでは、明子たち女性陣がイブニングドレスで出席するのだ。男性も、彼女たちに見合った服装をするのが礼儀というものである。

「でも、俺たちは、オマケみたいなものじゃないか」 

 普段は白衣ばかりで、スーツでさえ滅多に着ることのない信孝が駄々をこねる。

「ここまでする必要はないだろう。それに、時間通りに行かなくっても、最後の30分程度顔を出せばいいじゃないか。それで紘一への義理は果たせるはずだし、中村さんにだって会える」

「そういう訳にはいかないんだよ」

 森沢は、声の大きさで父親のわがままを退けた。

「なんで?」

「なんでって…… だって、約束しちゃったし……」

 森沢は、頭を掻き口を尖らせながら、父親から顔を背けた。

「誰と? 何を?」

「明子ちゃんと。その…… 今日、明子ちゃんは、ガロワが作ったドレスを着ることになっているんだよ。それが、目の覚めるような赤い色の布でさ。明子ちゃんは引っ込み思案だから、着るのをためらっているんだ。 だから、早めに行ってやったほうがいいだろう? 俺、楽しみにしているって言っちゃったし、明子ちゃんも俺を待ってると思うし……っていうか何よりも俺が明子ちゃんのドレス姿を見逃したくないというか、お世辞じゃなくて、きっと似合っていると思うし、だから……」

 ごにょごにょと言い訳じみたことを言いながら、森沢が顔を前に戻す。信孝は、怒っているような呆れているような、それでいて喜んでいるような……と、なんとも表現の難しい顔をして森沢を見ていた。


「親父? 」

「まさかとは思うが、お前…… ひょっとして、もしかして……なのか?」

「は?」

 森沢は眉根を寄せた。質問の意味が、さっぱりわからない。

「だからさ、俊鷹。 おまえ本気で……」

 信孝が言いかけた言葉を飲み込むように口を閉じた。 

「どうやら、この自覚なしのボケを問いただすより、自分の目で確認したほうが早そうだ。そう。まずは、観察だ」

 どういう風の吹き回しか、信孝が急に着替えに精を出しはじめた。いそいそとシャツの袖に腕を通し、森沢の手から蝶ネクタイをひったくる。

「おい、パーティーってのは、何時からだ?」

「6時」

 困惑しながら、森沢は、クリーニング屋から帰ってきたままの状態のタキシードをハンガーごと差し出した。

「馬鹿者! それを早く言いなさい。もう始まってしまうではないか」

 自分がいじけていたせいで遅刻しかけているにもかかわらず、6時ちょうどを示している壁の時計を見ながら信孝が森沢を叱った。

「ここから会場までは、どれぐらいかかるんだ? 俊鷹、タクシーを呼べ! いや、呼びつけるより、外に出て流しているのを拾ったほうが早いな」

 何に興奮しているのかは知らないが、今の父親の様子は明らかに変だった。

「どのみち、もう遅刻なんだから。10分や20分遅れたところで、同じだよ」 

 森沢は、とりあえず信孝を落ち着かせようと試みた。だが、信孝は、いちど思い込んだら最後、誰の手にも負えなくなるという非常に厄介な性格をしている。着るべきものを着てしまうと、彼は、髪も梳かさず鏡も見ずに玄関に向かって突進していった。


「親父?! 待てよ!」

 森沢は、財布と鍵をポケットに突っ込むと慌てて信孝の後を追い、彼が履こうとしていた白いスニーカーを直前で取り上げ、代わりの革靴を靴箱から玄関のたたきに放り投げた。

「とにかく、観察あるのみだ!」

 靴を履きながら、信孝が叫ぶ。

「ここで早合点して騒いだら、それこそママに怒られる。だが、俺の推論が当たっているとしたら? 普通の親ならば ―― ①その件については触れない。②問答無用で反対する―― べきところではあるが、あのふたりについては始めから芳しくない噂ばかりだ。だったら、応援してやってもいいのではないだろうか? ああ、いかん。こういう複雑な人間関係は俺にはさっぱりだ。やはり、ママに相談すべきだな。それにはまず、判断に必要な情報を自分の目と耳で集められるだけ集めることだ」

 考え事に夢中になっている時の癖で、信孝の独り言は、早く小さく舌足らずになっている。側にいる森沢にも、さっぱり聞き取れない。

「親父? 大丈夫か? 具合が悪かったら俺ひとりで行くから家で休んでいてもいいよ。伯父さんには俺が謝っておくから」

「馬鹿者。我が家の一大事に休んでなどいられるか。ほら、行くぞ! 早くしろ!」

 信孝が森沢の手を勢いよく引っぱった。


 10分後。 森沢は、その勢いのまま、パーティー会場へと駆け込むことになった。



 父親に手を引かれて前につんのめるようにして会場入りした森沢は、体勢を立て直そうと顔を上げ体を起こしかけた途中で、すべての動きを止めた。


 ガロワによって作られた鮮やかな赤い色のドレスに身を包んだ明子は、匂い立つように艶やかでありながら、近づいてくるものを拒むように頑なさと初々しさを併せ持ち、まるで、咲き初めのバラの花のようだった。

 色は鮮やかだが露出を極端に抑えたガロワのドレスと、はにかんだような明子の笑顔とおっとりとした物腰が、互いに互いを引き立てあって、そのイメージを更に確かなものにしている。


 周りの人物の姿も、会場内を流れるBGMも人の声も、明子の姿を除いた一切のものが、一時的に森沢の感覚から遮断された。ましてや、森沢の父親の 『あ~あ、やっぱり本気の本気で惚れちゃってたか。これは厄介なことになったなあ』という呟きが彼の耳に届くはずもない。


 口を半開きにし、老人の如く腰を海老のように曲げたまま、彼は惚けたように明子を見つめていた。


 



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