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悪い女のつくりかた  作者: 風花てい(koharu)
悪い女のつくりかた
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Metamorphoses 1

 3年前に別れた恋人との仲を修復し、2週間の逢瀬を満喫してきたらしい達也が久しぶりに家に帰ってきた夜、明子は悔しさのあまりなかなか寝付けなかった。                                   

「『君は、僕にちっとも心を開いてくれない』なんて言われても、あなたは、結婚式の当日から私のことなんか目に入っていなかったじゃないですか。あんな態度をとられたら、打ち解けられるわけないじゃない。そりゃあ、あなたのおっしゃる通り、私のほうからも、もっと積極的にあなたと仲良くしようとするべきだったかもしれません。でも、『お互いに知らないもの同士だから、ゆっくり仲良くなろう』っていう提案を先に反古にしたのは、あなたのほうじゃないですか! しかも、自分の嘘を私に悟られないためだけに、あなたは私を強引に…… いくら夫婦だって、ああいったことはお互いの同意があってこその行為だと思いませんか? しかも、私、今までキスだってしたことなかったんですよ。それなのに、あんなことされたら怖くなるし、そのせいで、じんましんまで出るようになって……そうよ! じんましんだって、あなたのせいじゃないの! こんな状態で、あなたを好きになれるわけがないわ。それを……そんな事情もぜんぜん知らないくせに、私のことを責めるなんて、あんまりじゃないですか? これ以上、あなたとは到底やっていけません。だから別れましょう。わたしと離婚して、あなたは唯さんと好きなだけ仲良くすればいい。私の父の報復が怖いなら、私が取り成してあげます。でも、誤解しないでね。絶対にあなたのためじゃありませんから。私にとても良くしてくれた、あなたの両親のためにすることですから。とにかく、なんでもいいから私と離婚して頂戴!」


 ……と、朝になったら絶対に達也に言ってやるのだと布団の中で悶々と考え抜いた抗議の台詞を、明子は結局言いそびれることになった。 


 その日の明子は、思い出せる限り生まれて初めての朝寝坊を経験した。目を覚ました時には昼前で、慌てて起き出した明子をリビングで待っていたのは、姑の多恵子ひとりだけ。達也は出社した後だった。

「いいのよ。昨日は、その……いろいろあったでしょうから」

 多恵子は、言葉を濁しながら寂しげに微笑むと、朝寝坊を詫びる明子に近づいてきた。昨夜の多恵子も、ロクに眠っていないのかもしれない。彼女の目はいつもよりもはれぼったくみえた。そして、それは、明子も同じだったようだ。

「可哀想に、こんなに腫らしちゃって」

 明子の前に立った多恵子が彼女の目尻にそっと指を這わせた。かと思ったら、彼女は、やにわに明子を抱きしめた。

「お義母さま?」

「ごめんね」

 湿った声で多恵子が謝った。

「あなたは聡い子だもの。本当は、言いたいこと沢山あるのに我慢してくれているのよね? 達也は……あの子は、全然わかってないのよ。あなたの思いやりにも、自分に向けられる笑顔の裏に潜む打算や悪意にも全く気が付こうとしない。今度こそ、あの子の目を覚まさせないと、あの子も喜多嶋もダメになってしまう。本当にゴメンね。あなたを巻き込んでしまった私たちを許してね。でも、もう少しだけ、せめて、あと1ヶ月だけでいいから甘えさせて。これでダメなら、誰が反対しようと私があなたを解放する。あの子のことは、もう諦めるから」

「……」

 多恵子の胸に顔を埋めながら、明子は返答に困っていた。達也の浮気については、明子は知らないことになっているはずである。諾であれ否であれ、ここで、明子が迂闊に返事をしていいものなのだろうか?


 明子が人知れず困っていると、この家に滞在中のガロワがリビングに入ってきた。

「おやおや、麗しき親子の図……ですか? でも、こんな日に泣いたりしちゃダメでしょう!」

 ガロワが、抱き合う多恵子と明子を引き剥がした。

「今日は、おめかしする日です。それなのに、こんなに目を腫らしたら、せっかく僕が作ったドレスが可哀想ですよ。タエコもだよ」

 ガロワが、多恵子と明子を交互に睨みつけた。それから、彼は、「これから先は、僕の言うことを全部聞いてもらいます!」と宣言し、「まずは、今日はもう泣くのは禁止!」だと、最初の命令を発した。


「なにしろ、今日のオーディションの成功は、アキコとタエコにかかっているのです。ふたりが、そんな顔をしていたら、僕は困ります」

「オーディション?」

 明子は不思議に思った。オーディションが行われるのは年明けで、今日は、オーディションに参加するモデルを交えてのガロワの来日歓迎パーティーであったはずある。

 そんな明子の疑問に、ガロワは、「日程はそのとおりです」と答えた。

「オーディションもします。でも、それは最終確認みたいなものです。僕が選びたいのは、ショーの花道を行って帰ってくるだけのハンガー代わりの女じゃなくて、僕が服を作りたいと思わせるような人です。でも、今回はショーのモデル選びでもありますから。ただ歩いているだけでも、他人から『彼女みたいに装ってみたい』と思わせることができるプロのモデルを選ぶ必要があります。自然な笑顔と、プロとしての素養と根性。そのふたつを同時に見るためには、選考に参加するモデルたちがお洒落しながら適当に寛げて適当に緊張しているパーティーのほうが適しています」

 彼女たちのイロイロな顔が垣間見えるからねと、ガロワが楽しげに微笑む。


「それで、私は、なにをすればよろしいのでしょう?」

 明子は自分を指差した。ガロワの説明を聞く限り、自分と多恵子は、ガロワがいうところのモデルの選考とは無関係だと思われる。

「アキコはね。試金石です」

 ガロワが明子の長くてまっすぐな髪のひと房を手に取りながら微笑む。

「僕の作ったドレスを着た君を見たモデルたちがどんな顔をするのか、君の前で、どんなふうに振舞うのか、そこに興味があります」

「あんた、そんな意地悪なことを考えていたの? でも、私も?」

 いかにも気が乗らないといった素振りで、多恵子が自分を指差す。

「もちろんだよ。僕の女王さま」

 ガロワが多恵子に敬意のこもった眼差しを向けた。

「いつだって、君なしにはパーティーは始まらない。そうだろう?」

「それは大昔の話よ」

 多恵子が不機嫌そうにガロワから目を逸らした。

「今の私には、なんの力もない。自分の息子も満足にしつけられなかった、ただの老いぼれ婆だわ」


「そうかもしれないね。だって、そういうことは、昔のタエコは言わなかった」

 ガロワが多恵子の愚痴を優しい笑顔で受け止めた。

「でも、変るのに遅すぎることはないよ。『間違ったら、その場から生まれ変わればいいのよ。芋虫が蝶に生まれ変わるみたいにね。自分の望んだ通りに思いっきり綺麗に伸び伸びと羽を伸ばすの。変身の前と後でギャップがあればあるほど素敵じゃない?』 ねえ? 必要なのは?」

「……。ちょっとの勇気ときっかけ」

 ふて腐れたように口を尖らせながら多恵子が答えた。

「そう。タエコの口癖だった」

 ガロワが嬉しそうに多恵子の頭に手を置いた。


「なにがあったかは聞かない。でも、君に力がないなんて、僕は思わない。コウイチだって思っていない。でも、彼は心配している。君を追い詰めたのは自分ではないかとね。でも、そんな心配は無意味だ。だって、僕は知っている。君は他人に変えられてしまう女じゃない。君が変ったのなら、それは君自身の選択の結果だ。だったら、今すぐに君が変る決心をするだけでいい。このまま良家の奥さまぶって手をこまねいていたいなら、それも君の選択だから、僕は君を止めない。でも、それが嫌なら……」

 『わかるよね?』 と、ガロワが多恵子の目線まで腰を屈めて、微笑んむ。

「ほしいものは自分でとりにいく。チャンスは自分で掴む。いつだって、君はそうしてきたはずだよ」

 ガロワが続ける。

「ちょっとの勇気が出るように、ドレスも新しいのを用意したよ。ちなみに、請求書はコウイチが喜んでもらってくれた。コウイチも、遅ればせながら親馬鹿父さんを返上して変わることにしたんだとさ。君と一緒に自分のするべきだと思うことをする。見得も保身も捨てる。必要ならば大会社の社長という地位も名誉も捨てる。 多恵子と一緒なら、大衆の面前で大恥かいて地獄に堕ちてもいいってさ」

 『久しぶりにアテられちゃったよ』と、ガロワが茶目っ気たっぷり笑った。

「相変わらず大げさねぇ…… あの男」

 多恵子が今日始めて笑った。だが、ガロワの言いつけは守れなかったようで、彼女の目尻には涙が溜まっていた。


「そうね。私が変ったとすれば、それは私の意志だったわ」

 ややあってから、多恵子が自分に言い聞かせるような口調で言った。

「『あんな女を嫁にして』。そんなふうに紘一が思われないように、私のせいで息子が馬鹿にされないように、そんなことに意地になってた。喜多嶋家の奥さまとして誰にも文句を言わせないようにって、私は頑張ったのだわ。いまから思えば、完全に判断基準と努力の方向を間違ってたわね。だから、達也にも見くびられてしまったのでしょうね。紘一も、止めてくれたらよかったのに」

「紘一が間違いに気づけないほど、君が上手くやりすぎていたんだろうね」

 あいつは鈍いから。 ……と、ガロワが恋敵を貶すと同時に肩を持った。

「そうね。 私、昔から化けるのは得意だったものね」

 多恵子がおかしそうに喉を鳴らす。 

「でも、このままじゃいけないわね。猫被っていたままじゃ、本当の気持ちが相手に伝わらない。このままじゃ、きっと達也も変えられない……というわけで」

 彼女は、立ち上がると、憑き物が落ちたようなサッパリとした笑顔をガロワに向けた。

「今日から正々堂々と元の私に生まれ変ってやろうじゃないの。ところで、私のドレスって、どこ?」



 ガロアが多恵子のために作ったというドレスは、明子のドレスと共に、予め多恵子行きつけの美容サロンに運び込まれていた。


 多恵子にとってはすっかり顔なじみとなっているスタッフの先導で、ふたりとガロワは、両壁が鏡張りになっている部屋に通された。製作過程を側で見せてもらっていた明子の赤いドレスはハンガーにかけられていたが、多恵子のドレスは首のないマネキンに着せられて部屋の真ん中に飾られていた。それは、胸元にラインストーンがあしらわれ、たっぷりとしたドレープが裾に向かってアシンメトリーに左右に流れる紺色のロングドレスだった。 

「この間見せてもらったのと同じに見えるけど?」

 多恵子が呆れた顔をしながら、腰に手を当てる。

「確かに、ガロワさんが初めてうちにいらした時に持ってきてくださったドレスに良く似ていますね」

 明子もうなずく。あの日のガロワは2枚のドレスを持参していた。1枚は多恵子にダメ出しされた明子のドレスで、もう1枚は、多恵子のために作ったドレスである。新しいドレスは、以前のドレスと形はだけは良く似ていた。

 ひと目で違うとわかるところは、最初のドレスにはついていたショールともボレロともつかない羽織りが無くなっていることである。それ以外は、どこがどう違うとは言いづらい。ただ以前のドレスよりも胸元が少し大きく開いているような、ラインストーンのきらめきが増えたような、裾の布の重なり具合が少しだけ違っているような……そんな気がするだけである。

 だが、その程度の変更でしかないのに、ドレスは随分と雰囲気を変えていた。前のドレスと比べて、目の前のドレスは、よりエレガントに、そして、より大胆に見えた。一度目の前のドレスを見てしまうと、以前のドレスは、綺麗ではあるものの無難にまとまったドレスに思えてくる。


「実を言えば、前に見せたのよりも先に、こちらのドレスを作ったんだ。でも、久しぶりに多恵子に会って、今の多恵子では、このドレスを着るのは無理だと思った。だから、自主的に作り直したんだよ」

 ガロワが打ち明けた。

「今の多恵子なら、あのほうがいいと思ったんだ。あれなら、誰が着ても、それなりにキレイに上品に見えるからね。でも、これは難しい。下手に着れば、下品なあばずれに見えかねない。でも、着方によっては威厳のある女王さまにも見える。タエコ? 着こなす自信はある?」 

「誰にものを言っているのよ? でも、そうねぇ」

 多恵子は、ガロワの挑発的な視線を鼻で笑いながら受け止めると、ドレスに目を戻して腕を組んだ。彼女は、しばらくの間難しい顔でドレスを睨みつけていたが、やがて、組んでいた腕を解くと、明子やスタッフを振り向いた。


「切るわ」

「え? ドレスを?」

 明子の背後から、若い男の声が上がった。

「馬鹿ね。髪よ。そうね、だいたい、これぐらいにしてくれる?」

 多恵子は、緩くウェーブがかかった長からず短からずの自分の髪を襟足のあたりで掴むと、はさみの形に作った指で切るような仕草をした。

「え? そんなに?!」

 明子の声が多くのスタッフの声と重なった。

「うん。今の長さは、いかにも中途半端だもの。今すぐに長くできないなら、いっそ切っちゃったほうがスッキリする。それに、明子ちゃんの髪は長くて綺麗でしょう? 彼女の隣に並ぶなら、私の髪が短いほうがメリハリも付くしね」

「メリハリ……って、奥さま? ど、どうかお待ちくださいませっ!」

 話しながら、さっさと部屋を出て行く多恵子を、スタッフが総出で追いかけた。彼らは、一様に戸惑った顔をしていた。無理もない。彼らは、自分とは違って、喜多嶋家の女主人としてそつなく振舞っていた多恵子の顔しか知らないのだ。それでも、ただひとり。このサロンの総責任者である年配の女性だけは、とても嬉しそうな顔で多恵子に付き従っていた。もっとも彼女の表情は、『嬉しそう』……というよりも『ワクワクしている』という表現のほうが適当であるかもしれない。


「さあ。思い切って、バッサリやっちゃって」

 隣の部屋に飛び込み、大きな鏡の前にある革張りの白い回転椅子に腰を下ろした多恵子が、彼女の担当をしている30代ぐらいの美容師に気風よく命じた。

「え……、あの? 本当に?」

「いきなり、『切れ切れ』って。奥さま。マグロや大根じゃないんですから」

 サロンの主がクスクスと笑いながら、落ち着きのない表情を浮かべてうろたえる担当美容師の後ろから出てきた。

「ヘアカタログをお持ちいたしますよ。まずは、その中から多恵子さまのイメージに近いヘアスタイルを選んでいただいて、切るのはそれからにいたしましょう。メイクも、いろいろと検討してみましょうね。それからアクセサリーも。本日は早めにご来店いただけて良かったですわ。じっくりと、あれこれ試すことができますものね」

 『明子さまも……』と、サロンの主が、ゆったりとした微笑を明子に向けた。


「わ、私もですか?」

 背中がゾクゾクしてきたのを感じながら、明子は後ずさった。

「わ、私は別に……」

「何をおっしゃっているんです。そんな引っ込み思案なことを言っていると、パーティーで多恵子さまの添え物になってしまいますよ。明子さまは、若くて美人。しかも今日はあんなに明るい色のドレスをお召しになるのです。これで目立たなかったら、かえってみっともなくて恥ずかしいことになってしまいます。ですから、今日だけでも、覚悟を決めて頑張ってください」

「は、はい。では、どうぞ、よろしくお願いいたします」


(なんだか、私こそ、まな板の上の鯉みたいだ)

 そんなことを考えながら、サロンの主の気迫に押された明子は、ぎこちなく頭を下げた。





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