Entangled Yarn +2(side YUI)
今日は2話アップしております。
想いが通じ合っている私たちの繋がりが本物。
間違っているのは、達也さんの結婚のほう。
夕べは疑いようのない真実であるように思えた確信は、翌日の月曜日を迎え、明るい朝の陽射しの中で私のアパートから会社に出かけて行く達也さんを見送った途端に、脆くも崩れていった。
今の達也さんには、ちゃんとした家庭がある。だから、ここは、彼の疲れた心を癒すだけの止まり木みたいなものでしかない。達也さんは、今日出かけたきり、もう戻ってこないかもしれない。今日じゃなくても、いつか、私を捨てるかもしれない。いいえ。彼が捨てなくても、いつかは彼の家が私と彼とを引き離しにかかるだろう。 3年前のように。そして、私は、また惨めで孤独な日々に逆戻りするのだ。
達也さんと離れてしまった途端に、私はすっかり落ち込んでしまった。だから、夜になって達也さんが戻ってきたときには、私は泣いて彼の首にむしゃぶりついた。
「もう、戻ってきてくれないかと思った」
そう言って泣く私を達也さんは笑い飛ばしたけど、それでも不安だった。今が幸せであればあるほど、達也さんを失ったときのことを考えるのが怖かった。
「ねえ? ずっと一緒ね?」
「もう、二度と離さないで」
彼に抱かれながら、私は熱に浮かされたように懇願し、何度も彼に誓いを求める。そんな私を持て余すように笑いながら、彼は、無数のキスと共に何度も約束をくれる。
それでも、朝が来るのが恨めしかった。夜にやって来て、朝になると元の世界に帰っていく恋人。陽の光は、私から幸せと愛しい人を奪い去っていく。
朝になるとふさぎ込む私に、達也さんは、「ちゃんと帰ってくるから」と約束してから家を出て行く。
それでも、私の不安は治まらない。撮影の仕事が終わると、自然に彼の会社のほうへと足が向いてしまう。なにをするわけでもないけれども、会社のまわりをしばらくウロウロしているうちに、頭が冷えてくる。私は達也さんにとっては隠しておかなければいけない存在だ。あんまり目立っては彼の迷惑になる。
「帰らなきゃ……」
私は自分を戒めて、彼よりも一足先に家に、または次の仕事場に行く。
そんな日が幾日か続いたある日の昼過ぎ。私のバイト先のレストランに達也さんの秘書だという女がやってきた。秘書は、眼鏡をかけた、頭は良さそうだけれども洒落っ気のない女だった。
「どういうつもりなの? あなた」
夜の営業時間前だというのに強引に店に入ってきた彼女は、いきなり私に食って掛かった。
「専務とはとっくに別れたのでしょう? なんで、今になってヨリを戻そうなんて思うわけ? 専務には奥さんがいるの。いまさら、彼をたぶらかすのはやめてくれないかしら?」
「たぶらかしてなんかいません」
居丈高な秘書の態度にムッとしながら、私は言い返した。
「それに、あなたは達也さんの秘書なんでしょう? 文句があるのなら、達也さんに直接言えばいいじゃない。あなたの言葉に納得して達也さんが私と別れるべきだと思えば、さっさと私と縁を切るはずよ」
「それは……」
私の言葉に、眼鏡秘書が悔しそうに歯を食いしばる。
間違いない。彼女は、既に達也さんに直訴したのだ。でも、彼に聞き入れてもらえなかった。だから、私のところに来た。達也さんが、彼女をここに寄こした訳ではない。そう思ったら、力が湧いた。私は、眼鏡の秘書を真っ直ぐに睨み返した。
「で、でもっ!」
秘書が、私に負けじと言い返す。
「あなたは、お金貰って、自分の意思でパリへ行ったんでしょう? パリでモデルとして成功していたら日本に戻ってくるつもりなんてなかったでしょう? 失敗したから日本に戻ってきて、専務とやり直そうだなんて虫が良すぎると思わないの?」
「私は、やり直せるなんて思ってなかったわ。そんなつもりもなかった」
「ノコノコと結婚式にやってきておいて、なに言っているのよ? あの時、あなたが専務の心をかき乱さなければ、今頃、専務は奥さまと幸せな家庭を築けていたはずだわ」
「そうは思えませんけど」
私は、怒りを込めて言い返した。
「達也さんの奥さんって人は、全く達也さんに心を開こうとしないそうじゃないですか? どれだけ偉いところのお嬢さまだかしらないけれども、世間知らずで、すぐに実家に遊びに帰っちゃうし、いつまでたっても娘気分が抜けないってそうじゃないですか」
「専務が…… あの人が、あなたに、そんなことを言ったの?」
信じられない……とでも言うように達也さんの秘書が目を見開いた。
「そうよ。達也さんが言ったのよ」
私は断言してみせた。
でも、本当は、ちょっとだけ嘘が混じっている。
達也さんは優しいから、私がどれだけたずねても、奥さんのことを悪く言ったことはない。『彼女に落ち度はない』、『君とこんなことなって、彼女には本当に悪いことをしていると思っている』と、奥さんのことを庇うばかりだ。でも、私には、彼の言葉の端々から奥さんへの不満と彼女の実家への遠慮が、そこはかとなく感じ取れる。それに、『家の都合で貰った、どこから見ても完璧で落ち度のないお嬢さん』なんて、どう考えたところで、夫にとってにとっては煩わしいものであるに決まっているではないか。
数日後。私は、自分の嘘の正しさを、自分の目で確認することになった。
その日は、イメージモデルがパーティーで着ることになるドレスの試着をすることになっていたので、私は堂々と喜多嶋本社に向かった。通りに面した門の側で、たまたま達也さんを見つけて合流し、彼と一緒に会社の中に入る。すると、ドアを入ってすぐの所で、彼の奥さんが、彼の秘書と一緒に彼を待っていた。
なかなか家に帰ってこない達也さんを心配して彼を訪ねてきたのだと彼女は言った。それ以外に彼女が話したことといったら、パーティーのことと、その時に着るドレスのことだけだった。人が好いのか鈍いのか、2週間も家に帰ってこなない夫のすぐ横に浮気相手がいることに気が付く様子もない。というよりも、私など育ちの良い彼女の眼中にはないらしい。結婚式の時に、ほんのわずかな間だけ顔を合わせたことがあったけれども、それも忘れているようだ。
でも、私のことなんて、どうでもいい。なによりも酷いのは、達也さんを見る彼女の眼差しに、愛情の欠片すら感じられないことだった。おそらく、この人は、達也さんのことなんかどうでもいいと思っているのに違いない。彼女にとって大事なことは、自分が出る予定のパーティーで彼が彼女をエスコートしてくれるかどうかということだけ。彼女にとって、達也さんという夫は、彼女の身を飾るドレスと同じ程度の存在でしかないみたいだ。
明子さんの無邪気なプレッシャーに負けたのか、達也さんは、その日は喜多嶋家に帰っていった。その代わり……と言ってはなんだが、翌日の昼間に、彼のお父さんが私のアルバイト先のレストランにひとりでやってきた。
「しばらく、この人と話をしたいのだか構わないかな?」というお父さんの質問に、店長は嫌な顔もせずに「どうぞ」と笑顔で応じて、彼を招き入れた。それどころか、「事情は知りませんが、こいつが大変なご迷惑をおかけしているみたいで申し訳ありませんね」と、なぜか私の代わりに謝り、「どうせなら、飯、食っていってください。味は保証しますから」と、お父さんの前にメニューを置いた。
「いただこう。 注文は、君のお勧めがいい」
お父さんは、店長に向かって重々しく言い。「この人の分も頼む」と、私の分まで注文した。そして、無言で私を見て、それから彼の前に空いた席に視線を移す。つまり、座れということなのだろう。仕方なしに、私はエプロンを外して、彼の向かい側の席に座った。
やがて、『日替わりすぺしゃる!』 こと、今日のランチが運ばれてきた。大きなお皿の上にたっぷりと盛られたサラダの手前には、熱々のかにクリームコロッケとチキンソテー。それに加えて、香ばしく炒ったゴマをまぶしたごはんとスープ。和気あいあいとは言い難い状況でも、人柄は最悪でも、店長の作る料理はやっぱり美味しい。達也さんのお父さんも、料理が載せられた皿を親の敵みたいに睨みつけながら、黙々とナイフとフォークを動かしている。
「ごちそうさま。 たいへん美味しかった」
食後のコーヒーを持って来た店長をお父さんが誉めた。それから、彼はカップに口をつけて一息ついくと、前置きもなしに、こう切り出した。
「唯さん。達也と別れてくれないだろうか?」
「達也さんには……」
「達也にも話した。だが、あれは頭に血が上っているようで、こちらが言えば言うほど意固地になるばかりだ。だから、恥を忍んで、あなたにお願いしにきた。お願いします。達也と別れてやってください」
「それは、奥さんの実家との関係が壊れると困るからですか?」
私は、たずねた。声が震えているのが自分でもわかった。
「いいや。彼女の実家はもちろん大事だが、なにより、明子さん……達也の奥さんと達也の関係を壊したくないからだ。今ならば、彼女は君たちのことに気がついていない。いや、もしかしたら、気が付かないフリをしてくれているだけかもしれない。でも、今なら、まだ、なんとかやり直せると思う」
だから、もう達也には会わんでください。頼みます。そう言って、お父さんが私に深々と頭を下げた。
下げっぱなしのお父さんの頭を見ているうちに、言いようのない怒りがこみ上げてきた。
「私の時には別れさせたくせに、今の達也さんの奥さまには、随分と優しいんですね」
私は、冷ややかに言った。
「3年前。 あなたたちは、愛し合っていた私と達也さんを無理矢理に別れさせた。きれいごとを言っても、結局、家柄とか育ちとが大事ってことなんでしょう?」
「あの時には、私の妻が失礼なことをしたようだ。すまないと思っている」
お父さんが謝った。
「しかしね。妻が、君と達也を別れさせようと思ったのは、そういうことが理由ではないよ。妻は、そういうことを気にする人間ではない。例えば、3年前に達也が結婚したいと紹介したのが明子さんのような人だったら、その人が普通の家のお嬢さんだったとしても、私たちは喜んで彼女を達也の嫁として迎えただろう」
「私がいけないっていうんですか?」
「その答えは、誰よりも君が一番良く知っているはずだ」
お父さんが背広の内ポケットから何かを取り出して、私の前に置いた。
それは数枚の写真だった。被写体は私。数日前に雑誌の仕事で撮られたものである。写真の中では、淡いピンクのドット模様のブラウスと白いスカートを着た私が、にこやかに笑っている。
この写真の、どこがいけないというのだろう? 意味がわからずに顔を上げた私に、お父さんが微笑みかけた。
「雑誌社に頼んで、貰ってきた。よく撮れてる。写真というのは、実に正直だな。なにもかも、ありのままに写し出してしまう」
お父さんは、答えになっていない返事をすると、伝票を片手に立ち上がった。
「妻は、君が良い家柄の娘ではないから達也との結婚を許さないという言い方はしなかったはずだ。誤解しているようだから、彼女が言いたかったことを私の言葉で言い直そう。明子さんがいようがいまいが本当は関係ない。達也がどれほど君のことを愛していようと、君がモデルを続けたいと思っている限り、君を喜多嶋の家に入れるわけにはいかない。達也がどうしても君との関係を続けようとするのであれば、その時には、私は喜多嶋の長として達也を喜多嶋から追い出さなければならない。つまり勘当するということだ」
「…………え?」
勘当? 達也さんが喜多嶋の御曹司じゃなくなるってこと?
「それでもいいなら、達也と結婚でもなんでもするがいい。 明子さんと六条さんには、私と妻が首でも腹でも切って詫びるから」
お父さんは厳しい顔でそう言うと、店を出て行った。




