Entangled Yarn 6
その後。信孝が、達也が言うところの『役に立つんだか立たないんだかわからない研究(完全に否定しきれないところが悲しい)』の話で明子を笑わせているうちに、壁の時計の針が森沢の昼休みの終了予定時刻を示し、時計を見た森沢に気が付いた明子が暇乞いを告げた。
「実家では、ああいう話をよくしていたの?」
「ああいう話?」
見送りがてら明子と廊下を歩いていた森沢がたずねると、彼女がキョトンとした顔をした。なんの話だかわかっていないようなので、「さっき、俺に話してくれたような仕事が絡んだような話」だと、彼は言葉を足した。
明子の答えは、「父と兄が」というものだった。
「私は、ほとんど聞いているだけでした。でも、食事中に話される程度のことでしたら、誰が話に混ざっても父や兄は咎めません。それに、難しい話でも、姉や妹が兄たちを質問攻めにするので……」
「お父さんたちは、わかるまで説明してくれるんだ?」
「ええ。だから、話を聞いているだけの私まで、なんとなく分かった気になってしまうんです」
明子が、はにかんだ笑みを浮かべる。
「なるほど。破天荒な天才経営者として知られている六条源一郎氏は、そんなふうにして、さりげなく娘たちに独自の教育を施しているわけだ」
賑やかな食事風景を想像しながら、森沢は微笑んだ。
「教育、ですか?」
「うん。結婚式以来、家に引っ込んでいるだけのように見える明子ちゃんでさえ、自分が手に入れた様々な情報の断片を繋ぎ合わせて、きちんと自分なりの意見にできる。しかも公正というか……偏りが少ない」
明子の物言いの公正さは、森沢が彼女の姉の紫乃と話した時にも感じたことである。上のふたりの姉たちがそうならば、下の4人の妹たちも、きっとそうなのだろう。
「お父さんとお兄さんの話を聞いている間に、自然にそういう考えかたの癖がついたんだと思うよ。ある意味、そんじょそこらの男よりも、よほどしっかりしているのかもしれない」
「え~っ!? まさか、そんなことないですよ」
明子は、森沢の言っていることを冗談だとしか思っていないようだった。
(そうやって無邪気に笑っているところは、どこにでもいるような、でも、かなり育ちの良さそうな、ただの女の子にしか見えないのにな)
森沢は、明るい笑い声を上げている明子を見て、クスリと笑った。
明子本人は背が高いことを気にしているようだが、森沢が知っているモデルたちと比べればそれほどでもない。どれほど高いヒールの靴を履いてみたところで、彼女が森沢の背を追い越すことはないだろう。 長い髪が掛かるなで気味の肩といい、背中から腰に至るラインといい、彼女の体が描くラインは、どこもかしこも優しく柔らかく、そして、思わず支えたくなるほど頼りなさげだ。
(……って、なにを考えているんだよ? 俺っ?!)
森沢は、無意識のうちに明子の肩に回しかけた腕を慌てて引っ込めた。
「森沢さん?」
引っ込めたものの行き場をなくした腕をブンブンと振り回していた森沢を見て、明子が不思議そうに小首を傾げた。
「なんでもない」
彼は、さりげなく歩調を速めると、彼女のために出入り口の重たいガラスのドアを開けてやった。だが、さっさと外へ出て行くとばかり思っていた明子は、なぜかドアの数歩前で止まっている。
「どうかした?」
「いいえ。なんでもありません」
明子は首を振ると、くすぐったそうに微笑みながら、森沢の脇を通り過ぎていった。
「ところで、森沢さん。あの ぉ……」
別れ際、明子が、森沢になにかをたずねたそうな素振りをみせた。
「なに?」
「いえ、あの…… さっき、私が偉そうに言ったことですけど。本当に、ちょっとだけでも森沢さんの役に立ちましたか?」
「ちょっとどころか、とても役に立ったよ」
森沢は、『とても』に力を込めた。
「俺も含めて、喜多嶋の人間って世間知らずなんだと思うんだ。若いうちから偉くなって、『喜多嶋』っていう枠の中でヌクヌクと生きているから、一般的な感覚とずれていることにも気がつけない。ついでに、俺の場合、駆け引きとかゴチャゴチャした人間関係とか苦手で、今まで避けてきたところがあるからね。だから、今日の明子ちゃんの話は、とてもためになったよ。ありがとう」
「よかった。私、森沢さんにはお世話になってばかりでしょう? だから、少しでもお役に立てたなら嬉しいです」
明子が、フワリと微笑んだ。
「それで、あの お……」
「なに?」
「あのですね。あの……女の……」
よほど言いづらいことなのか、明子が何度か唇を噛むような仕草をみせる。
「うん。『女の』? なに?」
森沢は先を促した。
「女の…… 女の…… ええとっ、ですね! あの、女の人の意見というのは取り入れられているのでしょうか?」
「は?」
「ええと、その…… この会社、女の人が多いですけど、経営に携わっていらっしゃる方は男の方ばかりのようですから……」
「ああ、女性社員の意見ってこと?」
なるほど明子の指摘は的を射ているかもしれないと、森沢は、またしても彼女に感心する。もしかしたら、愚痴だと思ってばかりいた女性社員の不満の中にも、きちんと耳を傾けさえすれば、貴重な意見として拾えるものがあるかもしれない。
「そうだね。面白そうだから、ちょっと調べてみるよ」
森沢は、二つ返事で明子の勧めを受け入れた。
「は、あ、よろしくお願いします」
明子は、どこか乾いた笑顔を浮かべると、「じゃあ、私はこれで」と、ぎこちなく頭を下げて去っていった。
森沢は、時折立ち止まってはペコペコ頭を下げながら遠ざかっていく明子の姿が見えなくなるまで見送った。
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明子を見送った森沢が自分専用の部屋に戻ると、父親の信孝だけでなく先刻まで5階の蛸部屋で一緒にコーヒーを飲んでいた一同が、揃って気味の悪いニヤニヤ笑いを浮かべながら彼を出迎えた。
「なに? どうしたの?」
「あの子、いい子だね」
行儀悪く机の上に腰掛けた信孝が、森沢に話しかけた。
「ああ。とてもいい子だよ」
「そうか、そうか」
否定のしようのない事実を肯定する森沢を見て、信孝と彼の背後に控えた社員たちが、嬉しそうに何度もうなずく。父親の行動が不審なのは、それほど珍しいことではない。森沢は、信孝が座っている机に向かうと仕事に取り掛かった。森沢の動きを追うようにして、父親が体の向きを変える。
「それで? 彼女とは、どこで知り合ったんだ?」
「どこでって? 結婚式だよ」
「結婚式って、達也くんのか?」
「そうだよ」
「中村さんを兄呼ばわりしていたということは、あの子も、六条さんちの娘さんか? 何番目の子だ? 3番目?」
「何番目だ……って、やっぱり、誰だがわかってなかったのか」
森沢は、額を手で押さえながら大きく息を吐くと、書類から顔を上げ、彼の真ん前で胡坐をかいている信孝を見上た。
「……。親父。その分厚いばっかりのプラスチックレンズの実用化は諦めたほうがいいと思うよ」
「なんで?」
「ちっとも見えてないみたいだから」
ちなみにこの頃の眼鏡は、ガラスレンズが主流である。厚くて傷が付きやすいプラスチックレンズは、割れないことだけが唯一の取り得でしかないような代物だった。
真顔で息子に諭された父親は、自分がかけている眼鏡の弦を押さえると、「いやいや、これには、まだまだ改良の余地がある」と反論を始めた。
「研究を重ねれば、プラスチックレンズは必ずやガラスレンズを越えるはずなのだ。このレンズだって、決して性能は悪くない」
「結婚式の主役の顔もロクに見えてなかったくせに、よく言うよ」
森沢は鼻で笑うと、「あの子は明子ちゃんだよ。達也の奥さん」と、父に教えてやった。
「えっ?!」
信孝共々社員一同が、森沢に向かって口をあんぐりと開けた。
「嘘だろう?」
「嘘ついて、どうするんだよ?」
森沢の声が冷ややかになる。
「変だな……とは思ったんだよ。でも、俺が来たときには、既に親しげに話してたから、てっきり彼女が誰だかわかっているものだと……」
「ああ、そうか、だからか」
信孝が膝を叩く。
「俺もね、彼女からの自己紹介もなかったし、俊鷹も全然紹介してくれないから、おかしいなとは思ったんだよ。でもさ、あの子はお前の作った綿のマフラーしてたしさ、それに、こいつらが早とちりして……」
信孝が社員たちに咎めるような視線を向けた。
「だって、今回の……明子さん、ですか? 俊鷹さんがいうところの『だたの友達』ってやつでもなさそうだったし……」
「2階の化粧品コーナーの宮瀬さんも、『絶対に付き合ってる。間違いない』って言ってたし」
「俊鷹さん、肌の具合の良くない彼女のために、忙しい合間を縫って、いろいろ聞いて回ったり、肌に良さそうな試作品を掻き集めたりしてたじゃないですか。だから……」
信孝社長に責任転嫁された社員たちが、モジモジしながら言い訳を始めた。
「だから、今度は絶対だと思ったんですよ。それで、奥さまに教えてあげたら、お喜びになるかなぁ……と思って」
「ママは、小躍りして喜んだよ。それで、俺は、『俊鷹の彼女を見てくるついででいいから、東京で仕事をしてこい』って言われて、追い出されたんだ」
信孝が恨めしげな顔を森沢に向けた。
「……。勘弁してくれよ」
脱力した森沢は、机に突っ伏した。
「すみません」
社員たちは謝ってくれた。だが、信孝だけは、「でも、お前も悪いんだぞ」と、開き直った。
「なんで俺が悪いんだよ?」
「だって、なあ?」
信孝が、同意を求めるように社員を見る。 社員たちも、「そうですね」と、苦笑いを浮かべた。
「なんだよ?」
「お前は、鏡がなければ自分の顔が見えないから、わかんないだろうけどね」
眉間にシワをよせた森沢の鼻先に、信孝が指を突きつけた。
「あの子の前にいるときのお前の顔を見れば、誰だって誤解すると思うぞ」
「え?」
「それにさ、彼女だって……」
何かを言いかけた信孝が口を閉じた。
「まあ、いいか。世の中には知らないほうが幸せだってこともある! な?」
キョトンとした息子を励ますように彼の肩をバシバシと叩くと、信孝は弾みをつけて机から降りた。
「とりあえず、今は一心不乱に仕事に励むがいい。そして、研究所に金をバンバン回しても資金繰りに困らないほど喜多嶋グループを元気にしてくれ。あ、そうそう」
社員たちを引き連れて部屋を出て行こうとしていた信孝が振り返った。
「お前が、コーヒーを飲みにやってくる少し前にな。 お前をたずねて女の人が来たぞ」
「え? 誰?」
「名乗らなかったので、知らん。派手な花柄の服を着た化粧の濃い女だった。『また寄る』と言ってたぞ」
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「はあ……結局聞きそびれちゃった……」
森沢と別れた帰り道、明子は、大きく息を吐いた。
森沢が喜多嶋ケミカル分室に入ってくる前に、彼を訪ねてきた女性がいた。目鼻立ちがハッキリした顔を更に際立たせるような化粧に、大胆な花柄が一面にプリントされたモノトーンのワンピースを着た彼女は、半分あけたドアから顔を覗かせると、「俊くん、いないんだ? じゃあ、いいわ。また来るね」と、言って帰っていった。
「あの女の人、誰だったんだろう?」
その場にいた社員たちも彼の父親も、彼女が誰だか知らなかったようだった。
「きっと、いつもの『ただの友達』です」
「俊さん、交友関係が馬鹿みたいに広いから」
「あいつは、女も男も見境なしに友達になるからな」
……と、彼らは言っていた。
「でも、『いつもの、ただの友達』って、なんなの?」
明子は、面白くなさそうに呟いた。『いつもの』ということは、ああいう女性が他にも『馬鹿みたいに広い交友関係』の中に沢山いるということだろうか?
「でも、私には、どうでもいいことよね」
明子は、唇を尖らせると、この件について考えるのをやめることにした。森沢は独身だ。誰と付き合おうと、彼の勝手。明子が、とやかく言う筋合いはない。
むしろ明子がとやかく言うべきは達也であるが、これはこれで頭の痛い問題である。
「『帰って来い』って言っちゃったけれども、達也さんが帰ってきたら、私は、どういう態度を取ればいいんだろう?」
何事もなかったかのように、「お帰りなさい」と、彼を優しく迎え入れるべきか? それとも、ここ2週間の不在と唯とのことを、すぐにでも達也に問い詰めるべきか? 明子に追及されたら、達也は彼女に別れを切り出すだろうか? 逆に、「今度こそ、唯と別れる」と彼に言われたら? 彼が2度と浮気しないと誓ったら、明子は、彼とやり直す努力をするべきだろうか?
そんなことを取りとめもなく考えているうちに、日が暮れた。
明子がガロワたちと共に夕食を終えてから、数時間後。達也が、紘一より少し送れて帰宅した。
バツが悪いのと、たぶん誰からも追及されたくなかったからだろう。久しぶりに戻ってきた達也は、まるで2週間も家にいなかったことなどなかったかのように振舞った。
多恵子と紘一は明子とガロワがいる手前、明子は多恵子と紘一とガロワがいる手前、全員一緒にいる間は、お互いに何事もなかったかのように和気あいあいと過ごした。だが、達也が夕食を終えて一息入れたと見るや、まずは両親が、非常に厳しい顔で彼を彼らの部屋に呼び入れた。
30分ほどしてから夫婦の寝室に戻ってきた達也は、両親に言われたことが堪えていたのか、それなりに神妙な顔をしていた。普段着のままベッドの縁に腰掛けていた明子は、特に広くもない寝室を所在無さげにウロウロしている達也を、辛抱強く目で追った。だが、いくら待っても達也は何も言ってこない。気詰まりな沈黙に耐えながら10分ほどが経過した頃、 明子は、自分から達也に声をかけた。すると、話しかけられるのを待っていたかのように、「わかっている」と達也が返事をした。
「君のことだから、ある程度の察しがついていると思うし、父や母に言われなくても、僕だって君には悪いことをしていると思っている。でも、ごめん。正直なところ、今、ちょっと自分で自分をどうしたらいいか、わからなくなってて……」
『唯との浮気ついて』という前置きはないものの、反対側のベッドの縁に腰を下ろした達也が、彼にしては正直に話し始めた。
「我ながら、自分がこんなに情けない奴だとは思っていなかった。君もそう思っていると思う」
達也は腰を捻ると、明子に問いかけるような視線を向けた。
「ええ、まあ」
なんと言っていいかわからず、明子は曖昧な答えを返した。
「いつだって冷静なんだなあ……君は」
達也が少し呆れた顔をした。
「君は、いつだってそうだ。いつだって、そうやって僕を突き放す」
「私のせいだって、そうおっしゃりたいんですか?」
明子の声が尖った。
「違うと言いたげだね」
皮肉げに達也が笑う。
「君は、僕のことをいつだって避けているじゃないか。こうして一緒の部屋にいても、まるで壁1枚向こう側にいるみたいだ」
「そんなことは……」
「じゃあ、試してみる?」
達也は立ち上がると、片手を付いて明子のほうに体を大きく身を乗り出した。そして、もう片方の手を伸ばすと、顎を押さえて彼女の顔を自分のほうに向けようとした。急に恐ろしくなった明子は、とっさに彼から顔を背け、達也の手から逃れた。そして、そのまま、彼女は、自分で自分を抱くように腕を回して縮こまった。
「ほら」
達也が、クスクスと笑った。
「君は、僕にキスひとつさせてくれやしない。君は、いつだって僕に心を閉ざしている。いつも脅えて、身構えて。いつだって僕から逃げることしか考えていない。こんなの、本当に夫婦といえるのかね?」
「だって、それは……」
自分をそんなふうにしたのは誰なんだと、明子は言い返したかった。だが、言葉が出てこない。明子は、悔し涙を滲ませながら達也を睨むのが精一杯だった。
「わかっている。それでも、悪いのは僕だ」
何も言わずに睨んでいる明子に、達也が悲しげに微笑んだ。
「今日は、隣の部屋で寝るよ。 君は、そのほうがいいんだろう?」
彼は、そう言い残すと、静かに部屋を出て行った。




