Entangled Yarn 3
「わ、私がこれを着るんですか?」
「そうですよ。アキコ。とても、キレイな色でしょう?」
布地を手に無邪気な笑顔を浮かべながら振り返ったガロワは、明子が浮かない顔をしているを見て、不思議そうに首を傾げた。
「赤は嫌いですか?」
「いいえ、嫌いではないのですが、その色は私には似合わないというか、そんな真っ赤な色を着る勇気がないというか……ですね」
消極的に明子がガロワに意見する。
「おやおや。それは、もったいないですね」
ガロワは微笑むと、手を差し伸べて、明子を自分の傍に呼び寄せた。
「アキコは、『しっかりとした恥ずかしがり屋さん』だと、多恵子が言っていました。だから、赤は着たことがないかな?」
「はい!」
『だから、どうか、この色は考え直してください』という気持ちを込めて、明子は、ガロワを縋るように見つめた。だが、明子の控えめな抗議は、ガロワのやる気に火をつけただけだったようだ。「だったら、なおさら、アキコがお気に召すような素敵なドレスを作らなくっちゃね」と、巨匠が楽しそうに笑う。
「ガ、ガロワさぁぁん」
「まあ、赤が苦手だというアキコの気持ちもわかります。赤いドレスを選ぶ女性のほとんどは、アキコのような、おとなしい性格はしていませんから」
目を潤ませる明子をなだめるようにガロワが微笑みかけた。
「赤を選ぶ女性は、強くて戦闘的。自分に自信があって、自分の気持ちに正直。でも正直すぎて、時には人を傷つけてしまう。そのために、自分勝手だと思われたり、悪い女だと思われることもあります。でも、そんな女たちに似合う色は、この赤ではありません」
ガロワは、大きな白いキャンパス地でできた薄汚れた自分のバッグの中をかき回して、布の切れ端を引っ張り出した。その端切れを森沢に持って来た布の上に置いてみると、どちらも赤としか呼べない色であるのに、明らかに色合いが違っていた。
「最初の赤に比べると、こっちの赤は、ちょっとだけど暗く濁っているでしょう? これはストロングトーンの赤です。強くて豊かな感じがする一方で流れ出した血を思わせる色です。だから危険な感がします。この赤は、自分だけではなく他者をも焼き尽くす情熱の赤です。戦いの女神やカルメンの赤です」
「でも、明子ちゃんは、カルメンってガラじゃないわよね」
「そうだな。この子の場合は、人を振り回すよりも、人に振り回されるほうが得意そうだ」
多恵子が明子を見て微笑むと、森沢までもが、伯母に同意するようにうなずいた。
「一方、トシタカが持ってきてくれた赤は、ビビットトーンの赤です。なるべく透明感のあるものを持って来てくださいと、私は彼にお願いしました。カルメンの赤が何かを求めて戦い奪い取る赤ならば、これは惜しみなく与える赤。大地を照らすお日さまのエネルギーの色。闇を焼き払う色。恵みを約束する色。生き物を生かし暖める色。どれも、とっても大事なものだし、どこにでもあるし、とっても大きな存在感があります。だけども、なぜだか曖昧で手で触れられないものばかりです」
ガロワは、彼女に顔を近づけると、「そんなわけなので、こちらの赤は、実は、とっても臆病で恥ずかしがり屋なのです。だから、手に取れないものの中にばかり隠れて、なかなか人前に出てこようとしない」と、秘密めかして囁いた。
「まあ」
童話のような説明に明子が顔をほころばせると、ガロワは、「それに、この色は、自分が眩しすぎるということを知っているのです。だから、ますます恥ずかしくなって、引っ込み思案になってしまうのです」と、おどけてみせた。
「アキコも、この色と同じ匂いがします」
ガロワが手に取った布を明子にフワリと着せ掛ける。
「とても華やかでパワーもあるのに、恥ずかしがりやさん。だから、きっとこの色と気が合うと思いました。大丈夫。絶対に似合う服を作るから、私を信じてください」
巨匠ガロワに胸を叩かれては、明子も無闇にごねられない。
「は……あ」と、明子が、またもや消極的にガロワにうなずいてしまいそうになったところへ、舅の紘一が息せき切って帰ってきた。
「ポール! この野郎!」
開口一番、紘一が、ガロワに向かって叫んだ。
彼が発した言葉のうちで明子が聞き取れたのは、そこまでだった。やってくるなり喧嘩腰のフランス語で話を始めた紘一に対して、ガロワも、わざわざ慣れない日本語で答えてやるような親切心は持ち合わせていなかったようだ。フランス語による喧嘩の仲裁をする多恵子が話しているのもまた、フランス語である。誰かが争っているときは必ず仲裁役を買って出る明子ではある。だが、今回は言語の壁に阻まれて、あっという間に蚊帳の外に置かれてしまっていた。
(それにしても、お義父さまは、いったい何を怒っていらっしゃるのかしら?)
「どうやら、多恵子おばさんをめぐってのライバル同士みたいだよ」
争いの渦中から自主的に蚊帳の外へ避難してきた森沢が、明子の隣に並んだ。
「まあ、そうなんですか?」
「うん」
森沢は、口喧嘩に夢中になっている男たちを見てニヤニヤ笑いながら、明子のために同時通訳を始めた。
「 『俺の留守を狙って、なにしに来やがった? このつぶれ大福!』
『なにしに来たとはご挨拶な。もちろん仕事だよ。多恵子に頼まれていたドレスを持ってきたんだ。もっとも、一着は作り直すことになったけどね』
『作り直しだと? ははあ、天才ガロワもついに焼きが回ったな。だが、才能が枯渇したからって絶望することはないぞ。おまえがどんなに落ちぶれても、この俺様が助けてやろうじゃないか。大昔にうちの多恵子が世話になったよしみで』
『そんな恩着せがましいことを言っているけど、紘一の本心は、ガロワ印のタオルやシーツやスリッパを売りたいってだけだろう? でもね。どんなに頭を下げられても、僕は誰ともライセンス契約なんか結ばないよ。ああ、でも、潰れかけている喜多嶋紡績を助けてほしいっていうのであれば、多恵子のために考えてやらないでもない。多恵子と引き替えに協力してやる』
『ふんっ! おまえの助けなど、天地がひっくり返っても借りるものか。多恵子もやらん!』
『あんたたちは、どうして寄るとさわると喧嘩ばっかりするわけ?』
『それは、僕が多恵子を愛しているから。こんなサルに多恵子を任せておけないから!』
『それは、こっちの台詞だ!この腐れ―――』
……と、ここから先は、明子ちゃんは知らない方がいいな」
「差別用語が満載だから」と、苦笑しながら森沢が通訳をやめた。
「しかし、まあ、なんとも大人げないオッサンたちだな」
明子と並んで口喧嘩を見学しながら、森沢が呆れたように眉をひそめる。
「でも、ちょっとだけ、お義母さまがうらやましいです」
「そう?」
本音と舌をチラリと覗かせた明子を横目で見ながら、森沢が目元を緩ませた。
「ところで、大丈夫?」
「はい? なんですか?」
「うーんと、俺が気になっていることは、いろいろあるけど。さし当たっては、赤い服とじんましん」
天井に顔を向けながら、森沢が腕を組んだ。
「残念ながら、どっちも、大丈夫だと言い切れません」
明子は、ガックリとうなだれた。
「大丈夫だよ。きっと似合う」
下を向いてしまった明子を慰めるように、森沢が彼女の頭に手を乗せた。
「無責任に『大丈夫』だなんて言わないでくださいな」
「無責任なことを言っているとは思っていない。君に似合うと思ったから、持ってきたんだ」
ぶっきらぼうな口調で、森沢が言い返してきた。
「え?」
下向きに頭を押さえ付けられたまま、明子は森沢を見ようとした。森沢は、相変わらず、自分よりもずっと年上の男性同士の口喧嘩を見物していた。明子から顔を逸らすために、わざとそちらを見続けているように見えないでもない。
「なるべく濁りのない透明な赤。そんなドレスを着る君は、想像つかなかった。でも、なんでだろう。その色は君に似合うと思った。だから持って来た」
「は……あ」
『それは、どうもありがとうございます』と、明子は、顔を赤らめつつ、口の中でモゴモゴと呟いた。
「もちろん。水色のドレスが似合わないというのではないよ」
森沢が、思い出したように付け足した。
「あれは、あれで、君によく似合うと思う」
「でも、今の私があれを着たら、汚い肌が目立ってしまって、みっともないですものね」
「みっともなくない」
自嘲気味に微笑む明子に、またもや怒ったように森沢が言う。
「肌に多少の傷とか赤みがあっても、似合うものは似合うと思うよ。問題は、それを着たときの君の表情や仕草だと思う。今の君があれを着たところで、露出した肌がどうしても気になって、お洒落を楽しむどころじゃないだろう? それじゃあ、もったいない。作り直しはガロワさんのためだと多恵子伯母さんは言ったけど、伯母さんが本当に気にしているのは、そういうことだと思う」
森沢は明子の頭から手をどかすと、うつむいたままの彼女の正面に立った。
「首か、腕。見せてもらってもいい?」
『嫌じゃなければだけど』 と、森沢が慌てて言葉を足した。
「あ、はい」
明子は首に巻いていたスカーフを外した。ついでにセーターの袖も捲り上げた。
今は発疹が出ていないが、明子の肘の内側や首は、赤くなっているだけでなく粉を吹いたようにカサカサになっている。あまり人に見せたい状態ではないので、明子は、腕を差し出したものの、すぐに無意識に引っ込めようとした。だが森沢が手首を掴んでいるので、明子が引っ張っても腕はビクとも動かない。彼は、まるで医者のような眼差しで明子の腕や首を観察し、そっとではあるが患部に触れ、更によく見るために明子の顎に手をかけて、上向かせた。
明子は緊張し、顔がほてるのを感じた。意識すまいと思うほど、彼の視線や指先を意識してしまう。血の巡りが良くなったせいで、じんましんが出て、森沢を驚かせてしまったらどうしよう? 明子は、そんな余計な心配までしはじめた。
「かなり辛そうだね。今もかゆい? 痛みは?」
「いいえ。今は痛くも痒くもないし、発疹が出ても、お医者さまからいただいた薬を飲めば大丈夫です。でも、どうしても知らない間に掻きむしってしまうので、痕が残ってしまって」
明子の声が変な調子に上ずった。
「そうか……」
考え深げに相槌を打った森沢は、まだ明子の肌を観察し続けている。
「このまま、ずっと治らなかったら、どうしよう」
これまで誰にも打ち明けなかった弱音が、明子の口からポツリと洩れた。
「え?」
明子の腕を見ていた森沢が、驚いたように顔を上げた。
「治らなかったら? もっと酷くなってしまったら? あの水色のドレスだって、ずっと着られないかもしれない」
堰を切ったように、明子は森沢に不安を訴えた。
「こればっかりは、『大丈夫』だなんて気休めは言えないな」
しばらく黙り込んだ後、森沢が言った。
「そうだね。むごいことを言うようだけど、もしかしたら、君はじんましんと一生付き合わなければいけなくなるかもしれない。でも、そうなっても、せめて水色のドレスは着られるように頑張ってみよう。……というのはどうだろう?」
「みっともない姿でも、気にしないで堂々としていろってことですか?」
明子は、森沢を睨んだ。
「だから、ちっとも、みっともなくないよ。葛笠くんを見てみるがいい。顔には大きな傷をこさえているし、足だって引きずっている。それなのに、それが、かえってカッコイイじゃないか」
「男性と女性では違いますよ」
明子が、つんと森沢から顔を背けた。そうしながら、明子は、自分で自分が情けなく思えてきた。
(森沢さんにあたったところで、どうしようもないのに)
普段の明子であれば、たとえ相手が身内であったとしても、人にあたるようなことはしない。いつだって、ちゃんと自制してきたのだから、今日だって、明子がそうしようと思えば、そうできるはずである。だが、そつのない大人の礼儀正しい会話を目指しているはずの明子が今していることといえば、正反対のことだった。彼女は、口を開くたびに森沢を困らせるようなことばかり言って、子供みたいに拗ねていた。
(森沢さんがいけないのよ)
嬉しくなるような言葉をかけてくれたかと思えば、厳しいことを直言する。まっすぐにこちらを見つめてくる彼のあの目もいけない。それに指も…… どうしてなのかはわからないが、彼に見つめられたり触れられたり、明子は、なぜか心穏やかでいられなくなる。
森沢にしても、明子がしていることが八つ当たりだとわかっているだろうし、自分が明子に八つ当たりされる筋合いなどないとわかっているはずだ。ならば、彼だって腹を立てればいい。腹を立てて、明子との会話を打ち切ってしまえばいいのだ。それなのに、彼は、それをしようとしないし、感情的になって言い返すようなこともしてこない。
今だってそうだ。
「ごめん。今の発言は無神経だった。君を傷つけるようなことを言ってしまって悪かった」
森沢は、素直に彼女の抗議を受け入れ、謝罪した。謝られてしまったおかげで、明子は、かえって居心地が悪くなった。
「別に、森沢さんが悪いわけじゃないです。全部、私が悪いんです。私のせいなんです」
袖をもとに戻しながら、明子が拗ねたように呟いた。すると、「そんなこと、あるわけないじゃないか。君は、全然悪くない」と、森沢が、ムキになって優しい言葉をかけてくれた。
あまりに彼が優しいので、明子は腹が立ってきた。
「そんなことないです。 全部私が悪いんです」
明子は、頑固に同じ言葉を繰り返した。
そう。全て責任は、明子にある。
そして、そのことを知っているのは、今のところ明子だけだった。
今から、2週間ほど前。
とうとう達也に愛想を尽かした明子は、彼と別れたい一心から、彼と彼が愛し続けている昔の恋人との仲を修復させるべく、ちょっとした細工をした。つまり、妻自ら夫が浮気をするように画策したのである。
かなり大雑把な姦計であったにもかかわらず、その日のうちに達也は罠に引っかった。明子が忍ばせておいた3年前の別れの真相を記した報告書を読んだ翌日、達也は、さっそく唯のところに出かけていったようだ。
調査書以外に明子が仕込んだ唯との思い出のカフスボタンも、カーペットの下に隠した唯の写真も出番がなかった。それどころか、出かけ間際に、達也はカフスボタンの行方を明子にたずねたほどだった。明子は、探すフリをしながら隠し場所のタキシードのポケットの中からカフスボタンを出すと、達也に渡した。
カフスボタンを取り戻した達也は、今日は『仕事』で帰れないかもしれないと明子に告げて出かけていった。そして、予告した通りに1週間ほど帰ってこなかった。
達也との接触の可能性が低いことは、明子と彼女のじんましんにとっては望ましいことだった。彼の両親にしても、彼が会社に泊まることは結婚前には珍しいことではなかったようで、初めのうちは気にも留めていなかった。
だが、1週間の外泊は、さすがに長い。「やっと明子さんが戻ってきたというのに、戻ってきた途端に放ったらかしにするなんて……」と、多恵子が家に戻ってきた息子を責めると、達也は剣呑な顔を母親に向け、「3年前のこと、彼女から聞きました」と冷えた声で告げた。
『彼女』というのが3年前に自分が達也から遠ざけた香坂唯のことであると、多恵子は、すぐに察したようだった。「その話は、後でにしましょう」という多恵子の申し出で、話し合いは夕食後、明子のいない場所で行われた。
明子は、立ち聞きを試みたが、聞こえたのは、「お母さんだけは、僕の味方だと思ってたのにっ!」と「こんな家、なくなってしまえばいいんだ!!」という激昂した達也の叫び声のみだった。母親との諍いの末に家を飛び出した達也は、その夜も帰宅しなかった。
その後も彼は家に帰ってこない。そろそろ一週間になる。
達也が出て行った日の翌日の多恵子は、明子が見ていて辛くなるほど打ちひしがれていていた。それでも、達也と唯のことで明子を傷つけたくないと思ってくれていたり、達也が昔の女の元に走ったことを母親として申し訳なく思ってくれていたりするためだろう。多恵子は、明子の前では元気に振る舞い、いつも以上に明子を大切に可愛がってくれた。
それは、舅の紘一も同じだった。
達也が出て行った後に帰宅した紘一は、多恵子から事情を聞かされたようだ。紘一は、多恵子以上に露骨に明子に気を遣ってくれた。紘一は、明子の父を恐れるがゆえに彼女の機嫌を取ってくれているだけなのかもしれない。だが、そんな姑息な考え以上の優しさや好意を、明子は義父から感じずにはいられなかった。
だからこそ、明子は、彼らに申し訳なくてしかたがない。
達也が浮気するようにしかけたのは、明子なのに……
達也に道を外れた行動を起こさせたことで、ふたりを悲しませているのは、明子なのに……
申し訳ないと思うものの、そのことを打ち明けて、ふたりに許しを乞うわけにもいかない。
今、明子が本当のことを話したら、計画が台無しになる。それ以上に、明子は、ふたりに嫌われてしまうのが怖かった。義父母から愛想を尽かされたうえ、もしも計画が中途半端に終わって離婚できぬまま達也との結婚生活を続けなければならなくなったとしたら、明子は、これまで以上に辛い生活を送らなければならなくなるだろう。だから、どうしても言えなかった。
あんな馬鹿な真似するんじゃなかった。私さえ我慢していればよかった。夫が他の女のことを思っていようが浮気しようが、気が付かないフリをして、ひたすら我慢して良い奥さんを演じていればよかった。家同士の都合で結婚した夫婦で、夫が他所に女性を囲っていることなど、それほど珍しいことではない。我慢していれば、いつか気にならなくなったのかもしれない。
夫が自分を愛してくれない。そんなのは、きっと、ただの娘っぽい我がままでしかなかったのだ。ただ、自分の我慢が足りなかっただけなのだ。私がこの家の平和を壊してしまった……
後悔と義父母に対する罪悪感は、明子の中で日を追うごとに大きくなっていった。そして、それがストレスになったのだろう。3日前。もう治ったかもしれないと半ば安心しかけていたじんましんが大量発生した。だから、明子がじんましんを患うのも、やはり自分のせいなのだ。
だが、義父母同様、そんなことまで森沢に打ち明けることはできない。
「全部、私が悪いんです」
明子は、そう言ったきり唇をかみ締めた。
森沢は、わずかに口を開け、驚いたように明子を見ていた。それから、急に口をへの字にしたかと思うと、明子の肩に両手を置き、彼女の目を見て、「それでも、君は悪くない。絶対に」と言い切った。
「それこそ無責任な発言で悪いけど、でも、絶対に君は悪くない。君が何を悩んでいるのかは知らないし、君が何をやったかも――どうぜ、たいした悪さはしてないと思うけど―― 知らない。でも、君のことだから、その悪いこととやらをする前に、散々……それこそ、どうでもいいような些細で下らないことにまで悩んで悩んで悩んだ挙句に出した結論だと思うんだ。だから、君は絶対に悪くない。俺が保証する」
「森沢さん……」
「だから、そんなに悩むなよ。じんましんが悪くなる」
森沢が微笑んだ。その途端に、明子の涙腺が緩んでしまったようだ。
「……はい」
明子は、声を震わせながらうつむいた。
泣く女は苦手なのかもしれない。森沢は、うろたえたように周りを見回すと、自分が持参した紙袋のうち、ガロワに渡していないほうの紙袋ふたつを掴んで、明子に押し付けた。
「こ、これ! この間、本社で明子ちゃんの化粧の相談に乗った人から預かってきたのとか、その他にも、いろいろ入っている。肌に良いかもしれないから使ってみて。それから、これも……」
森沢は、明子に押し付けた紙袋の中から白っぽいマフラーのようなものを引っ張り出すと、明子の首に巻きつけた。
「ウールはチクチクするかもしれないし、絹や化繊のマフラーは着合わせによっては静電気が起りやすくて肌に良くないからね。伯父さん! そろそろ行きますよ! まだ8時の会議が残っているでしょう!」
森沢は早口で言うと、口喧嘩が高じて取っ組み合いの喧嘩を始めようとしていた紘一に声を掛けた。
「あ、そうだった」
ガロワの襟首を掴んでいた紘一が、手を離した。
男ふたりの喧嘩を止めようと躍起になっていた多恵子も、ホッとしたような顔で明子たちを振り向いた。
「俺のいないところで、俺の妻と嫁に不埒な真似をするんじゃないぞ! わかったな!」
……と、ガロワに向かって喚く伯父を引きずるようにして、森沢は喜多嶋家を後にした。
森沢が去り際に明子の首に巻いてくれたのは、綿でできた薄手のマフラーだった。タグの説明によると、オーガニックコットンを使って作られたもののようである。それは、軽いのに温かく、そして、いつまでも頬を寄せていたくなるような、とても優しい触り心地がした。




