Entangled Yarn 2
「私はね。首とか胸が隠れるドレスを作ってちょうだいとお願いしたのよ。明子ちゃんのじんましんのことだって、ちゃんと話したわ。それなのに、これを見てちょうだい!」
多恵子が左に大きく1歩動く。すると、森沢の目の前に、胴体だけのマネキンに着せられた、けぶるような水色ドレスが現れた。
森沢は小さく口笛を吹くと、吸いつけられるように正面からドレスに近づいた。まず彼の目を引いたのは、ドレスの裾だった。水草か蔦のような繊細な模様が細い銀糸で刺繍されており、裾に近いところほど密度を増している。明子がこれを着るのであれば、水から上がったばかりのウンディーネのように見えることだろう。そんなことを考えながら、森沢は、茶器と菓子を載せたトレイを押したお手伝いと共に部屋に入ってきた明子をチラリと見た。今日の明子も、スカーフで首の周りをキッチリと隠している。スカーフで覆い切れなかった首と頬の境目が不自然に赤みを帯びているのが、森沢の目には、なんとも痛々しく見えた。
そして、目の前のドレスに視線を戻す。多恵子の要望通り、ドレスは、首と胸元がきっちりと隠されるデザインになっている。美しくはあるものの奥ゆかしさを感じさせるおとなしめのドレスは、目立つことを好まない明子の好みとも一致するもののように思われる。
「このドレスのどこがいけないって……」
首を傾げながらドレスの背後に回った森沢は、そこで見つけたものに目を瞠り、それから多恵子に苦笑を向けた。
「背中が、スッカスカ、ですね」
ついでに言えば、このドレスには袖がない。ということは、腕もむき出しになる。しかも、このドレスの色は、赤みがより目立ちやすい寒色系の水色だ。
じんましんなどの発疹は、首回りだけでなく肘や膝の裏側などにも多く出やすく、患部を掻き壊すことや薬の一時的な影響などで肌を傷めやすいと、森沢は聞いている。なるほど、じんましんで悩んでいる明子が、このドレスを着るのは、酷かもしれない。
「ね? ひどいでしょう!」
自分の言いたかったことを森沢が正しく理解したと察した多恵子が、勝ち誇ったように胸を張った。
「言われた通りに首と胸を隠しただけ。 しかも水色だなんて、信じられる? ほんの少しでも想像力があるデザイナーだったら、こんなバカバカしいドレスを作ったりしないわよ。だから、やり直し!」
多恵子が、マネキンから2メートルほど後ろで小さくなっている男……ポール・ガロワに、厳しい声で命じた。この水色のドレスを作ったのも彼であるようだ。今さら確認するまでもないと思ったものの、森沢は、「念のために聞いていいですか? その人、誰だが知ってます?」と、多恵子にたずねてみた。
「知ってるわ。ポール・ガロワでしょう?」
多恵子の答えは明快だった。
「ガロワは、日本では知られていないけれども、ヨーロッパやアメリカの上流階級のオバサンたちには絶大な人気がある。なぜなら、シャネルならば、お店に行けば既製服が手に入るけれども、この人の場合は、完全な一点もの。デザインからして、その人のためだけにデザインされた、此の世にふたつとない服だから。だから、お店では売りようがない。王族や昔からの深い付き合いがある人などの、わずかな例外を除けば、ドレスの予約は、3年待ちだって言われている」
「そこまでわかっていて、あえてダメ出ししているんですね?」
それどころか、カロワをお針子代わりにするつもりだとは…… 森沢の背中を冷たい汗が伝っていった。
「そうよ。巨匠だの天才だのと持ち上げられて好い気になっているから、こんな馬鹿な失敗するんだわ」
多恵子の批判は、容赦がなかった。そして、多恵子にボロクソに言われても、ガロワは侮辱されたとは感じていないようだった。
「うん。僕が馬鹿だった。すぐに作り直すよ」
福助のように両手をキチンと揃えたガロワが、うなだれながら多恵子に約束する。
「お義母さま、本当に、もういいですから」
堪りかねたように明子が口を挟んだ。
「私、このドレス好きです。だから、作り直しだなんてしないでくださいな」
もしかしたら部屋に入る前に辞書を引いて予習をしてきたのかもしれないと思うほど、たどたどしい口調ながら、明子がガロワにフランス語で話しかけた。
「お義母さま。さっきも言いましたけど、このドレスに合うようなショールか何かがあれば大丈夫ですから。そのための材料を森沢さんが持ってきてくださったのでしょう?」
明子が期待を込めた眼差しを森沢に向けた。
「……いや」
森沢は、首を振った。
「え? 違うんですか?」
「おそらく……」
森沢は、驚いている明子に、心もとなげにうなずいた。彼が持参した生地が水色のドレスに合わせたショールになるわけがない……と思う。森沢が多恵子にたずねるように視線を向けると、彼女は、「ショールじゃないわ。始めからドレスを作り直すの」と、キッパリと言い切った。
「でも……」
「ダメなものはダメなの。明子ちゃんがポールに気を遣ってくれるのは嬉しいのよ。でも、これは、ポールの信用の問題だからね」
多恵子が、不安げな顔をしている明子を宥めるように、優しい眼差しを向けた。
「着た人が最も美しく見えるドレスを。ポールは、これまでのドレスを、そういう気持ちで1枚1枚丁寧に服を作ってきたの。どれひとつ、手抜きなんかしてこなかった。だからこそ、沢山のお客さんが彼の腕を信用して、彼のところに押しかけるし、ポールはポールで、小さなアトリエで30人ばかりのスタッフと一緒に作りたい服だけ作って暮らしていけるのよ。だから、あなたのドレス1枚こっきりで、その信用を失うわけにはいかないの」
「俺も、作り直したほうがいいんじゃないかと思う」
自分でも驚いたことに、森沢は、苦手だとばかり思っていた伯母の言葉に心から賛同していた。
ガロワの作る服は、それを身にまとった人物と共に、しばしば雑誌などで取り上げられることがある。2、3時間の間なら、明子は、自分の魅力を半減させるかもしれないドレスを我慢して着ることができるかもしれない。だが、この服を着た明子を見たガロワのお得意さんたちは、次からは、彼に服を注文する気を無くすかもしれない。自分の評判を守るためにもガロワは服を作り直すべきだろう。
「もちろん、ガロワさんさえよろしければ……の話ですが」
「もちろん、私は、喜んで作り直します」
フランス語で話しかけた森沢に、ガロワが日本語で答えた。
「タエコに言われたから作り直します。それも理由です。けれども、私は違うドレスを作りたくなった。それが1番の理由です。それは、私がずっと作りたいと思っていたドレスです。でも、今までは着てほしい人がいませんでした。私は、そのドレスがアキコにとても似合うと思います。どうか、新しいドレスを着てください。お願いします」
ガロワは、明子の手を取ると、流暢だけれども、どこか堅苦しい日本語で熱心に訴えた。
「でも、本当にいいんですか?」
消極的ながら、明子がガロワの申し出を受けれると、彼が、「ありがとう」と、嬉しそうに笑った。
「では、さっそく始めましょう! 私がお願いした物は、持ってきてくれましたか?」
ガロワが、森沢を振り返った。
「はい。ここに」
森沢は、足元に置いていた紙袋のひとつを持ち上げると、ガロワを伴ってテーブルにへと向かった。
「ええと、まずは、サテンシルクを5メートル。それから……」
「やだっ! なんですか、それっ?!」
森沢が紙袋から取り出した物を見るなり、明子が悲鳴にも似た声を上げた。明子の反応は充分に予想できたことなので、森沢は、その声を聞き流して、ガロワとの話を続けた。
「レース生地ですけど、ご所望の柄のものでは、陰影の加減で黒みが濃くなるような気がしたので、とりあえず柄違いで幾つかサンプルをお持ちしました」
「うん、確かに黒く見えるね。これは、使えない。あ、これ。柄も、こっちのほうが断然良いね。これをください」
「わかりました。すぐに持ってこさせます。それから、裏地ですが、手前味噌とはいえ、こちらをお勧めします」
森沢は頼まれた生地の横に、良く似た風合いの自社製品を並べた。
「従来のものよりも肌触りも良くなっていますし、静電気の発生も抑えられています」
「なるほど、これは良いね。それに軽い。これにしましょう」
ガロワは指先で生地の質感をじっくりと確認したあと、おもむろに森沢に抱きついた。
「あなたは、私がお願いしていた以上の材料を揃えてくれました。どうも、ありがとう、タツヤ!」
「ご満足いただけたようで、私も嬉しいです。でも、私は達也ではないんですが……」
森沢は、苦笑しながら訂正した。
「違うの? では、あなたは、タツヤの弟ですか?」
「いいえ。その子は、義妹の子よ」
キョトンとしているガロワに、多恵子が教えた。
------------------------------------------------------------------
「ご挨拶が後になってしまいました。 はじめまして。 私は、森沢俊鷹といいます」
森沢がガロワに手を差し出し、自己紹介を始めた。
明子など、学校で習ったにも関わらず簡単な単語を聞き取るのだけで精一杯だが、森沢も多恵子と同様に、フランス語の会話には不自由していないようだ。
自分ももっと勉強しなくては……と思うものの、今の明子は、自分の勉強不足を反省している心の余裕はなかった。先ほどからずっと、彼女の目は、テーブルの上に置かれた、 ガロワが言うところの『明子のドレスの材料』に釘づけになっていた。
(こ、これを、私が着るの? まさか、嘘でしょう???)
彼女がうろたえるのも無理はない。森沢が持ってきた生地は、縫製に使う糸も含めて、どれもこれも、彼女が今まで身につけようと思ったことさえないような、とても鮮やかな赤い色をしていたのである。




