Wheel of Fortune 14
森沢が自分で淹れたコーヒーではあるものの、そこに何かヤバイものでも入っていたのではないかと疑いたくなるほど、喜多嶋ケミカル分室でコーヒーを楽しむ明子は、変に陽気だった。
彼女は、蛸部屋もどきのこの部屋ならではの居心地の良さを褒め称え、ついで、森沢の仕事が思うように進んでいないことがわかると、今にも泣き出しそうな顔で彼に同情し、その後、森沢が剣道を始めた理由を問いただし、幼い頃に忍者に憧れていたからだとわかると大笑いした。
森沢とて明子が彼を笑いたくなる気持ちが、わからないでもない。しかしながら、小さな男の子が自主的に武道を始める理由なんぞ、だいたいそんなものだろう。それに、大きくなるにつれ、続ける理由というのは変っていくものだ。森沢の場合は、祖父への反発だった。硬派を貫けば、軟派な祖父が森沢にかまうこともなくなるかと思ったのだ。
結論だけを言えば、それは森沢の甘い夢に過ぎず、祖父は、森沢の反抗心を利用して、彼が自分から自分を鍛えたくなるように仕向けただけだった。中学生の森沢は、祖父を反面教師にした達也顔負けのカチコチの優等生……だったかもしれない。今となっては思い出したくもない過去である。
もちろん、森沢は、明子にそんな恥ずかしい過去まで明かす気にはなれなかった。おかげで、明子からは、『忍者の次は剣豪に憧れていたんじゃないですか? 宮本武蔵とか?』と突っ込まれた。
「それもあるな」
森沢は素直に白状した。
「でも、武蔵はあまり好きじゃない」
「どうして?」
「負けないから」
どちらかといえば、武蔵と戦って敗れたとされている吉岡清十郎のほうが彼の好みである。
吉岡清十郎とは、足利将軍家の剣術師範も務めた吉岡流の当主であった吉岡直綱をさすという説が有力である。小説や講談では武蔵に敗れることになっている彼だが、実際には、どちらが勝ったのかどころか、試合をしたのかさえ定かではない。要するに、『あの吉岡を倒した』 という事実があれば名が上がると多くの剣豪から認知され挑まれるほどに、当時の彼は有名人だったのだろう。
残されている複数の資料から知れることは、吉岡が武蔵との試合で斬り殺されてもいなければ、世を儚んで出家したのでもないということが確実だろうということ。しかも、面白いことに、この男は大阪の陣で豊臣方につき、城が落ちた後は染物屋に転じたという。やまももを主とした鉄触媒の黒茶色の染物は、吉岡染め、あるいは彼の号から憲法染めと呼ばれて評判となった。
「ああ、なるほど。いかにも布好きの森沢さんが親近感を持ちそうな御方ですね」
明子がひどく納得したように相槌を打つ傍らで、「でも、なんで染物屋?」と、葛笠が首を捻る。
「もともと稽古着を自分たちで染めていたかららしいよ」
染物は、そもそも吉岡の日常にある仕事だった。彼が染物屋を始めたのは、それしかできることがなかったからかもしれない。
では、なぜ、彼は剣の道を捨ててまで染物屋になったのか? 武蔵に負けたからなのか、戦の世の終わりに豊臣についた一門が徳川に睨まれないための方便だったのか、それとも、新しい世の始まりに、積極的に刀を捨てたのか、それとも、次から次へとやってくる挑戦者たちの相手をするのが面倒臭くなったのか。今となっては、誰にも確かなことはわからない。
それから何百年もたった今、剣の道を究めた武蔵は英雄になった。武蔵の名声が上がれば上がるほど、吉岡の名は貶められていった。
「なんだか可哀想ですね」
明子が、じみじみと言った。
「戦ってもいないかもしれないのに、負けちゃったとか、弱かったとか? 武蔵さんの話を面白くするために勝手に評価を下げられてしまうなんて、とても可哀想」
「まあ、そんなふうに言われたのは、彼が死んだ後だろうから、本人は知らないんじゃないかな。でも、たとえ生きていたとしても、気にしてなかったかもね」
森沢は微笑むと、棚の中から使い込んで角が丸まった色見本帖を引っ張りだし、パラパラとめくって彼が求めている色に近い色を見つけ出した。
「これが、吉岡が作った色。憲法色って、彼の号にちなんだ名前が付いている」
明子が興味を持ってくれたことにホッとしながら、森沢は微笑んだ。
「随分と落ちついた色ですね。くすんだこげ茶色というか、暖かそうな土の色というか……」
「はっきりと地味だって言っていいよ。でもさ、こんな地味な色だけで商売をしようと思った奴って、むしろ相当に大胆な奴だと思わない? きっと、かなり肝の据わった人だったと思うんだ。人の評価なんか気にしない。自分の信じた道を信じたとおりに進んでいく」
「自分の信じた道を、信じた通りに?」
思いがけないことを言われたかのように明子が、森沢を見つめた。
「そう。誰になんと言われようと、気にしない。それが嘘ならば、言われるほうよりも言っているほうが惨めになるだけだ。自分とほとんど関わりのない人が言っているのならば、それこそ、悩む必要なんてない。だってさ、嫌いな奴や、どうでもいい奴のことで頭を悩ませるなんて疲れるだけだし、時間の無駄じゃないか」
「時間の……無駄?」
明子が、大きく目を見開いた。まじめな明子のことである。今の発言は、彼女には無責任なものに聞こえたかもしれない。
叱られるのかと思った森沢は身構えた。だが、その瞬間、彼女は笑い出していた。
「あ、明子ちゃん?」
「そうですよねえ。おっしゃる通り、時間の無駄かもしれません」
そうだ、そうだ、そうだったと、明子は、目尻に涙まで溜めて笑い続けた。
「あれって、いったい、なんだったんだろう?」
明子たちが帰った後、部屋に独り残された森沢は、彼女が使っていた紙コップを見つめた。コップの縁に、ほんのりと口紅の跡が残っている。
「いつになく喜怒哀楽が激しかったけれど。まさか、このコーヒーって、カフェイン多め……ってことはないよな?」
試しに成分分析に出してみようか? 紙コップを凝視しながら、森沢は考えた。いやいや、コーヒーには人の精神を高揚させる働きがあるかもしれないが、あそこまで劇的に作用することはないだろう。明子の精神に何らかの影響を及ぼすものがあったとすれば、それは、やはりコーヒーではなくて達也であるに違いない。きっと、目の前で達也に無視されたことが、彼女には、かなりショックだったのだ。
「とにかく、まずは、奴をシメよう」
森沢は、勢い込んで達也の部屋に乗り込んだ。だが、残念なことに、秘書の久本英理子が応対に出てきた。達也は、会議中であるという。
「そうだった。忘れていた」
達也の行動は、昨日確認したばかりである。森沢は舌打ちすると、達也との面談の予定を取り付けようとした。もちろん、久本は、いい顔をしてくれない。
「頼むよ、英理子さん。夫婦の危機なんだ」
美人秘書に手を合わせつつ、 森沢は本日昼間に達也が明子にした仕打ちを説明し、ゆえに達也の心を早急に入れ替える必要があると力説した。
有能な秘書は、達也とは違って人の気持ちに敏感な人だった。話を聞き終えるやいなや、その場で何本かの電話をかけ、何かの予定をキャンセルして、森沢が達也と話すための時間を作ってくれた。
面談の予定時刻は8時半になった。ちょっと遅めだが、そのくらいの時間であれば、明子は確実に六条家に戻っているはずである。
そして8時半。
「え? 明子が今日会社に来ていたって? それ本当なの?」
達也との話し合いは、いきなり腰がくだけそうになる達也の発言から始まった。
「あれだけ近づいていたのに、気が付かなかったのか? 今日の昼過ぎ。2階に降りてきたお前の目の前に明子ちゃんがいたんだよ」
そこまで森沢が説明して、ようやく達也が青ざめる。従兄弟の反応の遅さに、本気でイラついた森沢は、横滑りに机の上に腰を下ろすと、達也の襟首を掴み上げた。
「お前、本当に明子ちゃんを泣かすようなことはしていないんだろうな?」
「してない。誓って、僕は潔白だ」
苦しげに達也が断言する。
「本当か?」
「本当だよ! 本当に何にもしてないっ!」
殺気のこもった森沢の眼差しに恐れをなしたらしい。達也が必死になって否定する。
「そうか、じゃあ電話しろ」
森沢は手を緩めると、近くにあった電話を達也の鼻先に突きつけた。
「電話って、どこに?」
「決まっているだろう。明子ちゃんにだよ。今日のことを謝って、帰ってきてくれるようにお願いしろ」
「え~~」
途端に、達也は嫌そうな顔をした。やっぱり六条家が苦手であるようだ。
「なんで僕が…… だいたい、どうして俊鷹から、やいのやいのと言われなければならないんだよ?」
「なんだと?」
「だって、そうだろう? これは夫婦の問題だ。それを、明子の身内でもないお前が、まるで明子の代弁者みたいに、しゃしゃり出るなんて、おかしいじゃないか」
「そんなことぐらい、俺だって、わかってるんだよ!!」
全く自分の出る幕ではない。そんなことは、森沢だって重々承知している。自分は、まるで森沢が最も苦手としているお節介がすぎる総務のオバサンのようじゃないかと、我ながら情けなくもある。だが、森沢は腹が立ってしかたがないのだ。達也のありようが、歯がゆくて仕方がない。
数秒の間、達也を無言で睨みつけた後、森沢は、「わかった。俺からは、もう言わない」 と、従兄から手を離した。
「そうか。わかってくれたか」
「うん。従弟の親切な忠告が聞けないというのならば仕方がない。明子ちゃんの身内のお父さんから、直接お前に意見してもらうことにする」
森沢は達也に背を向けて机に座ると、電話を膝の上に抱え、六条家に電話を掛け始めた。
「ああっ! やめろよ! 六条さんだけは、勘弁してくれ!!」
電話を取り返そうと、達也が喚きながら森沢の背中を叩く。
「じゃあ、素直に俺の言うことを聞くんだな」
森沢は、体の向きを変えると、達也が逃げ出さないように彼の首を腕を引っ掛けて締め上げた。
「や、やめ……」
「観念しろよ。あ、もしもし、わたくし、喜多嶋と申しますが…… はい、そうです。私は達也です。明子と話をしたいんですが、おりますでしょうか?」
森沢は達也の名をかたって明子への取次ぎを頼むと、「ほれ。ちゃんと話せよ」と言いながら、達也に受話器を返した。
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「明子。達也に成りすました森沢さんから電話だよ」
「森沢さんから電話?」
夕食後を妹たちと過ごしていた明子は、兄の和臣の言葉に、跳ねるように腰を浮かせた。
「ああ。だけど、あれも一緒みたいだ。後ろで喚き声が聞こえたから」
和臣がそっけなく付け足す。葛笠から何か聞かされたのかもしれない。ついこの間までは『達也さん』だったのが、『達也』と『あれ』に変化していた。
電話だからその必要もないのだが、明子は、いそいそと手で髪を直すと1階に駆け下りた。ちょっとだけガッカリしたことに、受話器から聞こえてきた声は、森沢ではなく達也のものだった。そろそろ帰ってくるようにとのこと。昼に明子を無視したことについても謝ってくれたものの、いかにも言わされているふうである。
数日中に戻ることを約束して、明子は受話器を置いた。
部屋に戻った明子が喜多嶋家に戻ると言ったら、妹たちは大反対した。
「このままずっと、この家にいればいいのに」
「そういう訳には、いかないわよ」
明子は、妹たちの反対を笑って聞き流した。そう。居心地がいいからといって、いつまでもここに留まっていたのでは何も変らない。変化を起こすために、明子には喜多嶋家に戻ってやらなければならないことがあった。
しかし、帰る前にも、やらなければいけないことがある。
まずは父親の源一郎への対策だ。2度と達也の素行を調査しないようにと、明子は彼に頼んだ。『言うことを聞いてくれなかったら、お父さまとは絶交する』と、明子に脅かされた源一郎は、渋々ながら娘の要求を呑んだ。
もう1つは、葛笠からの報告を受け取ることである。兄を支えつつ父から便利にこき使われ慣れている秘書は、明子の求めに応じて、調べたことを3日のうちに報告書にまとめてくれた。
報告書を手に入れた翌日、明子は、喜多嶋家に戻った。
長く留守にしていたにもかかわらず、姑の多恵子は、大喜びで明子を迎えてくれた。達也は、いつも通りに深夜に帰宅。 彼の明子に対する態度はどこかよそよそしかった。香坂唯のせいというよりも、明子その人を扱いかねているようである。コミュニケーションに窮した達也が、まるで宇宙人でも見るような眼差しを明子に向ける。明子が微笑むと、達也は、ますます気味悪そうに妻を見つめた。
その夜。
達也が熟睡するのを待って、明子は寝室を抜け出し、彼が書斎代わりに使っている隣の部屋に忍び込んだ。
「ええと……どこにしまえばいいかしら?」
適当な隠し場所を求めて、明子が小さなペンライトで部屋の方々を照らす。ライトを握っていないほうの明子の手には葛笠が作ってくれた報告書があった。
この報告書を隠すのは、達也に見つけられないためではなく、見つけてもらうためだ。自然に、そしてなるべく早いうちに、だけども、明子がしたことだとは知られないように上手に隠す必要がある。
達也の机の上を照らしてみると、丁度いい具合に書類の山があった。秘書の久本から達也の手に渡されたもののようだ。明子が持って来た報告書と同じように大きな封筒に入った袋もあれば、数日中に達也の決済を必要とする書類も混じっている。
なんて、好都合! 明子は、報告書を書類の山の間に滑り込ませた。
ちなみに、報告書には、香坂唯の渡仏を後押しした人物の名前が記されている。その人は、明子にとっては思いがけない人物だった。だが、それだけに、達也がこれを知れば、その人が自分と唯との仲を裂いたのだと思って、ショックを受けるはずである。
次に、明子は、引き出しの中を調べた。引き出しの隅っこに押し込まれるようにして、小さく折りたたまれたスーパーのチラシがあった。中味を確認すると、冬物のコートを着た香坂唯がポーズをとって笑っていた。
「ここにあるのなら、わざわざ、持ってくることはなかったわね」
明子は微笑むと、唯の姿が見えるように折り変え、違う引き出しの、文房具が入っているトレーの上に置いた。ここなら、必ず達也が開けるだろうし、開ければ、このチラシが目に入ることだろう。
明子は、葛笠経由で唯の写真も入手していた。最近の、今度のオーディションために撮られたモデルたちの集合写真である。
必要がなさそうだから持ち帰ろうかとも思ったが、せっかく持ってきたのだから活用しない手はない。 明子は、リビングに移動すると、裏返しにした写真の半分を隠すようにして、カーペットの下に挟み込んだ。これなら、明日にでも誰かが見つけて達也に渡してくれるかもしれない。誰も見つけてくれなかったら、明子が見つけたフリをして達也に渡せばいい。
「あとは、このカフスボタンだけど……」
ポケットの中を探ってる、持って出たきり、達也に返しそびれていたカフスボタンを取り出す。
ボタンは、達也と唯が恋人だった頃の思い出の品である。
「欠けた葉っぱの1枚を取り戻すといいわ」
葉っぱが3枚になってしまった4つ葉のクローバーを模したボタンを達也に見立てて、明子は冷たい声で話しかけた。
「もう、あなたにはうんざりなの。いやいや愛してもらっても、私は、ちっとも嬉しくない。あなたが、どんなに頑張ってくれたところで、私は、幸せになんかなれないわ」
考えたすえ、明子は、カフスボタンを彼のタキシードのポケットに入れることにした。
多恵子の話によると、デザイナーのポール・ガロアを主賓に迎えたパーティーが近日中に行われるらしいのだ。そこは、『胡蝶』のイメージモデル候補をガロワに紹介する場でもある。正々堂々と唯を見られる絶好の機会を、達也がふいにするとは思えない。
忍び足で寝室に戻った明子は、クローゼットの扉をそっと開けた。達也は気が付かない。静かで規則正しい寝息が、明子の耳にも聞こえてくる。
(あんなに彼女を愛しているのだもの、誰に咎められたっていいじゃないの。自分の想いを貫かなきゃ)
(もしも、お父さまが怒るようなら、私も一緒に謝ってあげるから)
(達也さんだけが悪いんじゃない。私が仕組んだことだって、ちゃんと白状するから)
明子の些細な悪巧みになど、達也は引っかからないかもしれない。だけど、唯のことが頭を離れない達也のことだ。簡単に引っかかってくれるような気もする。これで上手くいかなければ、明子としては、また別の手を考えるだけである。
(とにかく、もう嫌なの。これ以上人を疑うのも、あなたの気持ちに振り回されるのも、もう、うんざり!)
(だから……だから、さっさと離婚するために、 とっとと唯さんと浮気しちゃってください!! )
明子は、ギュッと目を瞑ると、達也のタキシードのポケットにカフスボタンを押し込んだ。




