Wheel of Fortune 13
前方には達也、後方からは、こちらに近づいてくる香坂唯。
明子に気がついたからだろう。達也も、ゆっくりとした足取りでこちらにやってくる。
香坂唯と明子、または明子と達也、あるいは明子と香坂唯と達也になるのかもしれないが、いずれにせよ、このまま二人が前進を続ければ、明子が誰かと顔を合わせないわけにはいかなくなることだけは確かだ。
(ど、どうしよう?)
明子の視線が、ふたりの間を世話しなく行き来した。できればこの場から逃げ出したいと彼女は思ったが、出口に通じるエレベーターは香坂唯の後方にある。そして、もう1つのエレベーターと非常口は、達也の背後にあるらしかった。逃げ道はない。だからといって、1日に2度も死んだふりができるほど明子は間抜けではない。
すっかりうろたえている明子を助けてくれたのは葛笠だった。明子の背後に控えていた葛笠は、香坂唯の姿に気が付くと、さりげなく前に出てきて明子の前に楯のように立ちふさがってくれた。
香坂唯は、明子に気が付いていたのかもしれないが、葛笠の後ろで息を潜めている明子に目をくれることもなく、ふたりの前を通り過ぎると、美女に見とれていた男性社員のひとりに話しかけ、彼の案内で更に奥へと進んでいった。彼女が進んでいる方向からして、達也に会いに来たわけではなさそうである。
もっとも、香坂唯も達也が同じフロアにいることには気がついていたようだった。彼女の頭が進行方向に対して左から近づいてきた達也のほうに向いた。
明子に対して背中を向けてる香坂唯が、どんな顔をして達也を見ていたのかはわからない。しかし、こちらに近づいてくる達也の顔は、明子のいる位置からもはっきりと見えた。香坂唯と目と合わせただろう瞬間、達也の表情が、とても優しく甘いものに変わったのを明子は見逃さなかった。
互いに少し手を伸ばせば触れ合うことができるほど近づいた達也と香坂唯が、すれ違っていく。振り返った達也は、どこかの部屋に案内された唯の姿が見えなくなるまで、彼女の姿を熱心に目で追っていた。
香坂唯がいなくなってしまうと、達也の表情は途端に冷めたものに戻った。それから、彼は、明子にいちべつもくれることなく回れ右をすると、すたすたと来た道を戻っていった。
「へ?」
意表を突かれたように葛笠の体がカクンと揺れた。
明子にせよ、達也の行動は思いがけなかった。なにしろ、達也は、明子のいるほうに向かって歩いてきていたのだ。当然、彼は明子に気が付いていると思っていた。気が付いているのならば、明子に声を掛けてくるのが当然だろうと思っていた。たとえ明子に気がつけなかったとしても、葛笠は、明子をかばって達也の前に姿をさらしていたのだ。葛笠には何度か会ったこともあるはずだから、達也が気がつかないはずはない。
……はずなのに、いきなりUターンするなど、いったい誰が予測できるだろう?
(つまり、達也さんは唯さんを見るためだけに降りてきて、唯さんしか見てなかったってことなのね)
唯しか見えてなかったから、明子と葛笠は、これほど達也の近くにいたにもかかわらず彼に認識されていなかったということなのだろう。
(それほど、彼女を想っているってことなのよね)
そして、明子は、達也から全く愛されていない。愛しているフリをされているだけ。いつもいつも、彼からは、そんなことばかり思い知らされる。
(そして、唯さんも)
明子は、ふいにこみ上げてきた、なんとも言えない気持ちを落ち着けるために目を伏せた。
ゆっくりと息を吐いてから、目を開ける。
森沢がこちらを見ているのが見えた。
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達也の行動に驚いていたのは、明子と葛笠だけではなかった。
明子よりも少し遅れて、森沢もまた、達也がフロアに現れたことに気が付いた。『達也は来ない』。そう明子に保証した森沢としては、これは、かなりまずい事態である。
しかしながら、彼は、話にだけは聞いている香坂唯の顔を知らなかったし、ましてや、彼女がこの場にいるなど思いもしなかった。
ゆえに、いきなりやってきたと思ったら、明子まであと5メートルというところでしばらく立ち止まり、そこからUターンして去っていった達也の行動は、森沢の目には奇行としかいいようのないものに映った。おかげで、いざとなったら、明子の代わって自分が達也に意見してやろうと意気込んでいた森沢は、従兄の奇妙すぎる行動に肩透かしを食らわされた気分になった。
それは、明子や葛笠も同じだっただようだ。特に明子は、打ちひしがれたような顔で去っていく達也の後姿を見つめていた。その顔を見た森沢は、彼女をここに連れて来た自分を責めたくなった。それ以上に、明子にあんな顔をさせる達也を絞め殺したくなってきた。彼を追いかけて、ここに引きずり戻してやろうかとも考えたが、明子がここで目立つことを望んでいないことを思い出したので、断念する。その代わりに、頭の中のタスクリストの先頭に、『後で達也を締め上げる』と、大きく赤で書き加えた。
「俊さん? どうかした?」
達也が去っていった方向を睨みつけていた森沢に、周囲の視線を一身に集めている美人の友人が話しかけてきた。
「いや、なんでもないよ」
「そういう顔してない。ねえ? もしかして、彼女?」
細めた目を明子に向け、森沢の肩に手を置きながら、女が秘密めかして囁く。
「なにが?」
「『見ていて危なっかしいどんくさい優等生女』って言っていたかしら? 俊さんの運命の人」
「そんなんじゃないって言っただろうが」
森沢は、面倒臭そうに女の手を払いのけると明子を見た。明子と、目が合った。彼女はまた、迷子になった子供みたいな顔をしていた。
「ねえ。紹介して」
耳元で煩い友人の求めに応じて、森沢は明子を手招きした。
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「こちらは、俺の友人の春瀬リナ。職業はファッションモデル」
「はじめまして」
森沢の紹介を受けて、美人がにこやかに頭を下げた。これだけの美女にモデルだと言われれば、その通りなのだろうと思うが、残念ながら明子は彼女を知らなかった。
でも、彼女の顔をどこかで見たような気は、確かにする。明子が素直に打ち明けると、森沢がリナのこれまでの仕事で、明子も知っていそうなものを上げてくれた。ショーに彼女を起用したデザイナーの名前もブランドも、明子が聞いたことがあるものばかりだったし、彼女が何度も表紙を飾ったファッション誌には明子が毎月のように購読していたものもあった。企業のキャンペーンポスターも、どれも彼女の記憶にある。
「ということは、私、リナさんのことを何度も見ているはずなんですよね」
「ええ。見ているけれどモデルのことまでは覚えてない。それでいいのよ。というよりも、そのほうがいいと私は思うの」
彼女のことを思い出せなかったことに恐縮している明子を見て、リナが、同性でもうっとりするするような微笑みを浮かべた。
「だって、広告主が見せたいのは、私本人じゃないもの。見せたい服や商品よりも私ばかりが目立ってしまったら、そのほうが問題。ね?」
「でも、それでは、なんだかリナさんに申し訳ない気がします」
「うふふ、明子ちゃんて可愛い。それにキレイ。ねえ、俊さん。この子もオーディションに出しちゃいましょうよ」
明子は、どうやらリナに好かれてしまったらしい。彼女の長い腕が明子に巻きついた。
「お、オーディション?」
「そう。あれ」
リナが、近くの壁を指差す。そこにも、『胡蝶』のポスターが貼られている。
「これから胡蝶50周年のためのイメージモデルを決めるの。この座を射止めれば、あのイラストのポスターの代わりに、自分の顔が写ったポスターが町中を飾り、テレビコマーシャルが全国放送され、そして各地で行われるイベントに引っ張り蛸……という訳」
今日ここで行われるのは、その審査のための説明会であるという。
「それは、すごいですね」
素直に感心する明子に気を良くしたリナが、「そうなの。すごいの。 実は、このオーディションに呼ばれるだけでも、名誉なの」と言いながら嬉しげに明子を抱きしめる。
なんでも、このオーディションに来るためには、ある程度の実績があるか、このオーディションに参加するオーディションに勝ち抜く必要があったそうだ。実力のあるリナは、最初の条件を満たして、ここに来ている。
「でも、俊さんの推薦があっても参加できるわよ。こんなのでも喜多嶋の有力者ですもの」
「『こんなの』で、悪かったな」
リナに茶化されて、森沢がムッとする。なるほど、唯がここに来たのは、そのオーディションを受けるためであったのかと、明子は合点した。唯は、さしたる実績はないモデルらしいから、どこかの有力者の推薦をもらったに違いない。
有力者とは誰か? もちろん達也に決まっている。
「でも、すごいのは、それだけじゃないのよ。新しい『胡蝶』の発売に合わせてファッションショーが行われることになっているの。その服のデザインを手がけるのが、なんと、あのポール・ガロワなのよ!」
暗い想いに沈んでいる明子の傍らで、うっとりとリナが言う。
ポール・ガロワ。その名前は明子でも知っている。彼は、純粋にオートクチュールのみを手がけるメゾンの代表者兼デザイナーである。日本での一般的な知名度は低いものの、明子が生まれる前から活躍している超一流のデザイナーだ。
「一度でいいから、あの人の服を着てみたかったの。このオーディションの最終選考に残れば、その夢が叶うのよ。そして、イメージモデルに選ばれれば、彼のショーのトリを飾れるの」
「お前なら、きっと選ばれるさ」
森沢が、確信を込めてリナにうなずいてみせた。
「どうかしらね。どうやら手強そうなライバルばかりみたいだから」
リナが、唯に続いて次々にフロアの奥に消えていくモデルたちを見やりながら苦笑した。
「そろそろ行くわ。ねえ、俊さん。本当に明子ちゃんを推薦する気はない?」
去り際に、リナが名残惜しげに明子を引き寄せた。
「ライバル増やしてどうするんだよ?」
「だって、この子、ガロワの服がとても似合いそうなんだもの」
「その意見には賛成だ」
森沢が微笑んだ。
「ガロワの服には、なんともいえない品があるからね。だが、あいにく、この子は目立つのが嫌いなんだ。 頼むから、そっとしておいてやってくれ」
森沢が、リナの腕の中から明子を奪い返した。
「そんなこと言ってるけど、本当は、あなたが彼女を人目に晒したくないだけなんじゃないの? 余程大切に思っているのね」
リナは、勘違いたっぷりの言葉を森沢に投げつけると、森沢が反論する前に、鮮やかにきびすを返して去っていった。
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その後、明子と葛笠は5階に連れて行かれた。
どこからでもフロア全体を見渡せるような広々とした2階や3階とは違って、5階は、部署ごとに壁で仕切られていた。
森沢が本来所属している喜多嶋ケミカルに割り当てられた部屋は、廊下の奥から2番目の部屋だった。 部屋の両側の壁には、書籍や書類がパンパンに挟みこまれた紙ファイルが何冊も積み重ねられ押し込まれたスチール棚があり。 部屋の真ん中には4台の机が並べられている。机の上も、書類や布の切れ端、用途はわからないが何かの部品の一部であるらしいプラスチックの欠片で一杯だった。電話は5台で、椅子も5脚。机よりも椅子の数が多いのが不思議といえば不思議だが、5台目の机は、スペースの問題から、たぶん入らないだろう。それほど、この部屋は狭かった。
「それにしても、手狭すぎやしませんか? 森沢さんは大出世なさったとお聞きしていましたが?」
眉を潜める葛笠に、自ら電気ポットで沸かしたお湯でコーヒーを淹れながら、「大出世したよ。それで、紘一伯父さん……社長が、上に重役用のでっかい部屋を用意してくれたから、広い部屋もあるにはあるんだけど……」と、森沢が言葉を濁す。
『だけど』も、その部屋は、きっと達也の部屋と同じフロアにあるのだろうと明子は察した。森沢は、きっと明子に気を使ってくれているのだ。彼も、明子に声を掛ける直前で回れ右をしていなくなった挙動不審な達也に気が付いていたようだった。だから、明子が傷ついているのではないかと心配してくれているに違いない。
「ああ、でも、上のほうが良かったかな。ここには紙コップしか置いてなかった。ええと、砂糖はこれで、ミルクは……って、ミルクってあるんだっけ?」
「あ、いいですよ。このままで」
ミルクを探して片っ端から引き出しを開け始めた森沢を慌てて止めると、明子は目の前に置かれた紙コップの中身に口をつけた。入れ物は安っぽい紙コップかもしれないが、森沢の淹れてくれたコーヒーは美味しかった。苦味の中に適度に酸味が効いている液体を口の中でゆっくりと転がしてから飲み込む。
「美味しい」
「そう?」
「ええ。とっても」
微笑みながら、明子はもう一口啜った。
(森沢さんって好い人だな。でも、私なんかに、そんなに気を遣ってくれなくてもいいのに)
カップの中の黒い液体を見つめながら、明子は薄く微笑んだ。明子は、達也の心無い仕打ちに、いまさら傷ついてなどいなかった。
ただ、先刻の達也の態度は決定的。おかげで、明子の悩みも一気に吹っ飛んだ。自分がどうしたいのかも、はっきりわかった。そして、コーヒーを飲みながら森沢が話してくれたことも、迷っている明子の背中を押してくれる役に立った。
「葛笠さん。急いで調べてもらいたいことがあるの」
森沢に礼を言い本社を後にした明子は、葛笠の車に戻るなり頼みごとを口にした。
「あとね、達也さんを付け回すのは、今日で終わりにしてちょうだい。探偵さんたちも引き上げさせて」
「しかし、お嬢さま……」
「いいの。お父さまには私から言っておくわ。だからお願い。言う通りにして」
何かを言いたげな葛笠を黙らせると、明子は、真っ直ぐに前を見据えた。
父の達也への監視は邪魔だ。これから明子がしようとしていることへの妨げになりかねない。
「いつまでも逃げていないで、そろそろ、あちらに帰る準備を始めないとね」
後ろに流れている車窓からの景色をぼんやりと眺めながら、明子は自分に言い聞かせるように呟いた。




