Wheel of Fortune 12
「ちょっ、ちょっと森沢さん。困ります!」
「なんで困るの? 夫の職場を知るのは良いことだと思うよ。ましてや君は喜多嶋グループの次期総帥の奥さんだよねう? 自分の裕福な生活が、どういう人たちによってどうやって支えられているのかを知っておいても罰は当たらないと思うけど?」
真面目な明子は、正論に弱い。もっともらしい森沢の一言で、ごねられなくなった。葛笠の車が来客用の駐車場に収まると、いち早く降りた森沢が、明子のためにドアを開けてくれた。
「でも……」
外に出しかけた足を宙に浮かせたまま、明子は、恨めしげに森沢を見上げた。
「でも、目立つのは嫌?」
森沢が、明子の気持ちを見透かしたように笑う。
「大丈夫だよ。明子ちゃんの顔を知っている社員なんてほどんどいない。それに、一般の見学コースをグルリと見て回るだけだから、君が誰であろうと誰も気にしやしないって」
「見学コース? 動物園や博物館じゃあるまいし、そんなものがあるわけないじゃないですか」
「それがあるんだよ」
明子を車から引っ張り出しながら、森沢が笑顔で言い張った。彼は、明子を逃がす気はないらしく、車から出すときに掴んだ彼女の手をしっかりと握ったまま本社に向かって歩いていく。
森沢の体温が、手袋ごしに明子にも伝わってくる。暖かくて、大きくて、そして、とても力強い手だった。『離してほしい』 そう言うべきだと思いながらも、なぜか言い出せずに、明子は、森沢に引っ張られるまま本社の中に入っていった。葛笠が、少し遅れてふたりについてくる。
会社の中に入ると、空中につり下げるようにして飾られている4畳半ぐらいの大きさの巨大なポスターが、いきなり明子の目を引いた。それは、喜多嶋化粧品の主力製品の一つである胡蝶のポスターだった。「大きい」
呆然と呟く明子の横で、葛笠も、「うちの会社とは違って、喜多嶋は華やかですねえ」と感心している。
「『胡蝶』が50周年を迎えるんだ。それで、伊織叔父さんが、ところ構わずポスターを貼りたがってね。どれだけ浮かれれば気が済むんだか」
森沢は、明子の手を離すと、ぼやきなら、ひとりで受付に近づいていった。
「この人たちに社内を案内したいんだど、かまいませんよね?」
森沢が話しかけると、受付の女性は、「見学の方ですね」と心得たようにうなずき、明子たちの素性を詮索することもなく、ひも付きのカードのようなものを渡してくれた。カードには大きく『VISITOR』と書かれていた。赤いリボン状のひもで首からかけられるようになっている。
「……。見学コース、本当にあるんですね」
受付嬢の手馴れた応対を見れば、明子も、森沢の言葉を信じるしかなかった。
「うん。わりと人気なんだよ。特に女の子。高校、短大、専門学校などなど、学校単位で見学にくることもあるしね」
「あ、就職?」
「たとえば、そうだね。この会社では、化粧品の美容アドバイザーはもちろん、紡績のほうも、糸から始まって布やら服やら手がけているから、女性社員が大勢活躍している。見学したのがキッカケで、どうしても入りたくなったって女性は多いよ。また、こういった業界にご興味がなくても、お肌にあったお手入れのしかたや、メークの方法の講習会もいたしますし、お土産げに試供品もお配りいたしております。実際にご使用になってみて、お気に召しましたら是非ともご購入をご検討くださいませ」
セールスマンのようなことを言いながら、森沢がエレベーターのボタンを押した。エレベーターの中にも、大きな『胡蝶』のポスターが張られていた。
連れて行かれたのは3階だった。『見学コース』だと聞かされていたが、社員たちは、普段どおりに働いていた。
(この中に、達也さんもいるのかしら?)
明子は、フロア全体を見回した。できることなら、彼にだけは会いたくない。さりげなく葛笠の後ろに引っ込もうとした明子の思いを見透かしたかのように、「大丈夫だよ」と森沢が微笑んだ。
「達也は、ほとんど下には降りてこない。それでなくとも、今日の彼は、午後1時から7階の会議室での会議が立て続けに2つ入っている。午後いちで会議がある日の達也は10階にある重役用の食堂で昼飯を食うのが普通だから、少なくとも夕方までは下界に下りてくることはないさ」
「なんで、そんなことまで森沢さんが知っているんですか?」
明子の疑問に、森沢は、「たまたまだよ」と、そっけなく答えた。
一方、葛笠は、明子とは違うところで驚いていた。
「重役用の食堂なんてものがあるんですか?」
「あるんだよ。特別豪華なのが」
森沢が不快げに顔をしかめた。
「うちの会社の最大の無駄だから『まずは、あれからなくそうぜ』って言っているのに、ジジイどもが聞きやしねえ」
どうやら、コスト削減最高責任としての森沢は、かなりの苦戦を強いられているようである。
-------------------------------------------------------------------
(やはり、達也には会いたくないのか)
同じ社内にいても達也と出くわす心配がないとわかった時に明子が浮かべた安堵の表情を見て、森沢は思った。
達也に会わずにすむと知ってからの明子は、それまでよりもずっと寛いだ様子を見せている。彼女は、社内を案内する森沢の説明に熱心に耳を傾け、見学者に関心を持ってもらうために用意されている糸車や小さな織機をおっかなびっくりながらも楽しそうに試していた。
次に、森沢は、明子たちを2階に連れて行った。こちらは化粧品担当の社員が使っているフロアである。糸や布には詳しい森沢だが、化粧品のことならば、彼よりもここで働く者……特に女性たちのほうがずっと詳しい。美容相談ともなると、森沢には口の出しようがない。説明役を代わってもらった森沢は、葛笠とともに、明子の後ろをおとなしくついて回るだけとなった。
「ありがとうございます」
並んで歩く葛笠が、小さな声で森沢に礼を言った。
「お嬢さまが、久しぶりに、とても楽しそうです」
「そう? それはよかった」
森沢は微笑んだ。
「ところで、彼女、何かあったの?」
無駄だと知りつつ、森沢は葛笠に聞いてみた。だが、主に忠実な秘書は、曖昧な微笑を浮かべただけで、やはり何も答えてくれなかった。
(あんなふうに笑えるのにな)
屈託のない笑顔を浮かべている明子の横顔を暖かな笑顔で見守りつつ、森沢は理不尽な思いをかみ締めていた。
明子は、こんなふうに無邪気に可愛らしく笑うことができる。おそらく、それが普段通りの明子なのだろう。それなのに、何の因果で、森沢は、彼女に会うたびごとに、彼女の困ったような顔や悲しげな顔を見るハメになるのだろうか? しかも、今回の明子は、前回に会ったときよりも、やつれてさえ見える。
(なにか、あったんだろうか?)
(いや、あったから、実家に帰っているのだろうけど)
(達也も、こんな状態の明子ちゃんと放っておいて、よくも平然としていられるな)
(俺だったら、絶対放っておきはしないのに)
(俺なら、決して、彼女を悲しませたりしないのに……)
この時の森沢は、知らぬうちに、夫を持つ女性に対して考えるべきではないところにまで踏み込んでいたようだった。しかしながら、森沢自身がそのことに気が付く前に、彼に呼びかける女性社員の甲高い声が彼を現実に引き戻した。顔を上げ、声のしたほうを目で追う。昨日、森沢の頼みで葛笠の偵察に行った女性社員がふたり、怖い顔をして、こちらを見ていた。
「森沢さん! その人っ!」
ひとりが、葛笠に向かって指を突きつけかけた。
(やばいっ!!)
慌てた森沢は、ふたりに駆け寄った。そして、天気の話などをしながら、親しげに彼女たちの肩に回した腕で口を塞いで、廊下の隅まで連れて行った。
「なんで、あの男がここにいるんですよ?!」
「あの人、産業スパイかもしれないんでしょう? 会社の中に入れてしまっていいんですか?」
口がきけるようになった途端に、ふたりが、正義感に満ち溢れた眼差しを森沢に向けながら訴えた。
「えーと、それは……だね」
言い訳を探しながら、森沢は頭を掻いた。ここの社員は、女性が多いことも手伝って、好奇心が旺盛で噂話が大好きである。達也に浮気の事実があろうとなかろうと、『達也の浮気調査をしているかもしれない』と匂わせるだけで、大騒ぎになりかねない。だから、森沢は、彼女たちに葛笠を調べてもらうに当たって、適当な出任せを言った。おかげで、達也は噂の餌食にならずに済んだ。その代わりに、森沢が面倒な立場に立たされてしまったようだった。
-------------------------------------------------------------------
『ええ~っ! 勘違い?! なんですよ、それ?』
『森沢さんってば、案外、早とちりさんですね』
明子が、『自分に似合う口紅の色の見つけ方』という話題で喜多嶋化粧品の美容相談員と盛り上がっていると、後ろのほうから、弾けるような女性たちの笑い声が聞こえてきた。明子と向かい合わせに座っている美容相談員の背後にある鏡を見ると、森沢が可愛らしい女性社員ふたりに囲まれている姿が映っていた。
『もういいですよ。でも、お詫びしてくれるっていうのなら、今度奢ってくださいね』
『私、茅蜩館ホテルのバイキングがいいです!!』
女性社員のオーダーに森沢が笑顔でうなずいている。
(やっぱり、森沢さんって、もてるのねえ)
明子が鏡に映った森沢を見つめていると、目の前の美容相談員が、「気になさらないほうがよろしいですよ」と、優しく明子に耳打ちした。
「森沢係長は、気さくで、どなたにも、お優しい人ですから。勘違いする女の子が多いんです」
どうやら、彼女は、明子と森沢の仲を誤解しているようである。
「ええ、わかります」
明子は、微笑みながら、うなずいた。森沢が優しくて面倒見がいいのは、ここのところ彼の世話になってばかりいる明子が一番よく知っている。勘違いしてはいけないと気を引き締めなければいけないのは、むしろ明子のほうかもしれない。
「森沢さんが優しいのは本当だと思います。けれども、私は違うんですよ。私が……」
『私が森沢さんの恋人だというのは、あなたの誤解です』と言おうとした明子の声がふいに途切れた。
フロアのずっと奥のほうに、達也がいた。彼は何かを探すように首を左右に動かしていた。
(森沢さんの嘘つき! 達也さんは、ここには来ないって言ってたじゃないですか?!)
明子は、心の中で森沢を罵りながら、手元にあった手鏡を手に取ると、達也から隠れるように顔の前にかざした。そして、顔を隠したまま振り返ると、詰るような視線を森沢に向けた。
しかし、森沢が、明子の刺々しい視線を受け止めることはなかった。なぜなら、森沢も明子に対して後ろを向いていたからだ。
そして、後ろを向いていたのは森沢だけではなかった。森沢の周りにいた他の人々の視線も全て、彼の更に後方にいるひとりの女性へ集中的に向けられていた。
その女性は、とても美しい人だった。
もちろん、美しい人ならば、この世には幾らでもいる。その中でも、この人は特別だろうと、明子は直感的に思った。
彼女は、長くて美しい髪や整った顔立ち、あるいはスラリとした肢体を持っているだけではなく、周りの雰囲気まで瞬時に変えてしまうような圧倒的な存在感を持ち合わせていた。存在感といえば、明子の姉の紫乃にも充分にあるが、それとも違う。たとえて言うなら、美術館に入った途端に、誰に教えられた訳でもないのに名作と呼ばれる作品に真っ先に目が行く……あれと同じだろう。黙ってそこにいるだけでも、彼女は人々の視線を奪わずにはいられないような何かを確かに持っていた。
そんな美女が、「俊さん、この間は、ごちそうさま」と言いながら、親しげに森沢に近づいていく。森沢が彼女と親しいことに多くの者たちが驚かされていたようだが、明子は、それ以上に、別のことに驚いていた。
華々しい美女の登場と時を同じくして、あの香坂唯が、ひっそりとフロアに入ってきたのである。




