Wheel of Fortune 11
森沢が明子に気がついたのは、偶然ではなかった。
2週間ほど前、彼がまず気にかかったのは、本社の裏口近くの路上にいつも停車している一台の白い車であった。それは、見るたびに必ず中に人が乗っているにもかかわらず、一向に動き出す気配がなかった。
怪しんだ森沢は、思い切って、車の中の人物に話しかけてみた。車の中の人物は、その日初めてそこを通りがかったような嘘を言って、森沢をはぐらかした。更に疑いを深めることになった森沢が次に気がついたのが葛笠の車である。それは紺色の軽自動車で、3年ほど前に森沢が紫乃と見合いをした頃に、彼の素行を調査すべく彼の周りをうろちょろしていた。
葛笠本人は目立っていないと思っているようだが、彼が所有しているような明るい紺色の車というのは、実は、それほど数が多くない。一度気になってしまえば、見つけるのは容易い。路上駐車を装って本社の真ん前の道路に止まっているとなれば、尚更である。
念のために、森沢は女性社員2人に頼んで、その車を偵察してもらった。彼女たちの報告によれば、車の中には、森沢と同い年ぐらいの『ちょっと危険な香りのする、わりといい男』が乗っていたそうである。しかも、その男は、足が不自由であるように見えたということだった。間違いなく、六条社長の秘書の葛笠である。
「ということは、調べているのは、六条さんなんだろうな」
仕事面において、喜多嶋は六条に見張られなければならないようなライバル関係にはない。従って、調べられているのは達也だと考えるのが妥当である。六条源一郎もまた、達也の浮気を疑っているのかもしれない。
「あんな結婚式だったから、六条さんが達也を疑うのも仕方がないか」
森沢は諦め気味に苦笑した。親馬鹿で有名な六条源一郎のことである。達也が愛娘を悲しませるのではないかと、気が気でないに違いない。
そういうことであれば、六条氏が気が済むまで調べさせてやったほうがいいだろう。その方が、彼も安心する。そう判断した森沢は、葛笠たちを黙認することに決めた。
どうせ、どれだけ達也を調べたところで、何も出てきやしないのだ。達也は、昔の恋人にフラれたと言っていたし、3年も前に壊れた関係をわざわざ修復する気もないようだった。
今のところ、達也は明子一筋だ。
だから、調べれば調べるほど、六条社長は達也を信頼するに違いないはず……
「はず……だよな?」
森沢は、急に不安になった。会社の再生などという大役を任されている森沢としては、六条とのトラブルは絶対に避けたいところである。それより何より、女性には敬意をもって接することをモットーとしている森沢としては、万が一にでも達也が明子を泣かすようなことをしていたとしたら許す訳にはいかない。
森沢は、彼なりの方法で達也の素行をチェックしてみた。真面目な従兄弟の日常はうんざりするほど品行方正で、日中は秘書が立てたスケジュール通りにロボットのように働き、仕事が終わると、伝書鳩のように、まっすぐ家に帰っていた。森沢としては、『少しは遊べよ』とそそのかしてやりたいぐらいの真面目さである。よって、達也は問題なし。
だが、調査の過程で、森沢は気になる情報を手に入れてしまった。
明子が、2週間ほど前から実家に帰ったきりだというのである。
「なんで、帰ったっきり?! なにがあったの? お前、彼女になにをしたんだよ?」
森沢は、即座に達也を問い詰めた。だが、達也には、これといった心当たりがないらしい。
「別に何もしていないよ。親馬鹿の六条さんが、あれこれ理由を作って、久しぶりに戻ってきた娘を引き止めているだけだろう」
達也は、明子を迎えに行くつもりさえないようである。明子の事が心配ではないという訳ではないが、あの家にいる六条社長に会うのが怖いようだと、森沢は察した。
「だいたい、明子も明子だよ。いつまでも独身みたいな気分でいるんだから。お父さんがなんと言おうと、さっさと帰ってくればいいのに……」
達也は、ボヤキながら仕事に戻っていった。
それが昨日の夕方のことであった。
それ以来。 森沢は、仕事が手に付かなくなっている。
(だってさ。帰ってこないのは、あの明子ちゃんだぞ?)
自分のしたいことだけをして大きくなったような甘ったれのお嬢さまならばいざ知らず、道理も常識も人並み以上にわきまえた、分別臭くて真面目な、あの明子が実家に行ったきりだというのである。
(喜多嶋の家に戻ってこられない、あるいは戻りたくない理由でもあるのかな?)
ふと思いついた疑問が、時間が経つにつれて、森沢の中で大きく膨らんでいく。
(もしかして、明子ちゃんも、まだ達也の浮気を疑っているのだろうか?)
(ということは、六条さんは、明子ちゃんに頼まれて達也を探っている……かもしれない?)
森沢は、落ちつかなくなってきた。六条源一郎が勝手にヤキモキして達也の調査をしているのであれば放っておこうと思っていたが、明子が気に病んでいるというのであれば、話は別である。
(あの子は、無駄に一生懸命悩みすぎる傾向があるからな。あまり心配させては可哀想だ)
(俺から彼女に話をしてみるかな? いや、でも、俺の言うことなんか信じないだろうか?)
(達也を説得して彼女を迎えに行かせるか? でも、それで、浮気疑惑が晴れるわけでもないし……)
(……っていうか、なんで俺がこんなことで頭を悩ませなければいけないんだよ? 夫婦の問題だろう?悩むなら、達也が悩めよ!)
森沢は、落ち着き払っている従兄が憎らしく思えてきた。
(やっぱり、今度の日曜日にでも六条さんの御宅に行ってみるかな? それとも…… ああ、そうだ)
近くのレストランで会社の幹部との打ち合わせを兼ねて昼食をとっての帰り道、森沢は、道路の向こう側に止まっている葛笠の紺色の車に目を向けた。
一見すると車の中には誰もいないように見えるが、葛笠は車の中に隠れているに違いない。どういうわけだか、森沢は彼に避けられているようなのだ。葛笠が森沢をつけ回していた時に、捕まえた彼を近くの店に連れ込んで、森沢が見立てたネクタイを3本ばかり無理矢理買わせたことがあった。葛笠は、そのことを根に持っているのかもしれなかった。
人には好みもあることだし、普段の森沢ならば人の服装をとやかく言うことはしない。だが、深い海の色をした葛笠の右の義眼に、ヘドロを思わせる緑色の縞の入ったネクタイは絶対に似合わない。あれは犯罪に等しいコーディネートだった。ネクタイは、何でもいいから首からぶら下げておけばいいというものではないのだ。
あの時の森沢は、葛笠に善行を施してやったつもりだった。それなのに、かえって嫌われてしまうとは…… 世の中は、ままならないものである。
(まずは、葛笠くんに探りを入れてみるか。さて、今日の葛笠くんのネクタイは、どんなのかな~)
森沢が、そんなことを考えてニヤニヤしていると、誰もいないように見えていた葛笠の車の中に人影が見えた。森沢は目を凝らした。 長くて真っ直ぐな髪をした若い女性が確かに乗っている。
(もしかして、明子ちゃん?!)
森沢は、考えるよりも先に行動していた。
「すみません。 先に行っててください」
彼は、同道していた者たちに告げると、葛笠の車に向かって、引っ切りなしに車が行きかう道路を渡り始めた。 近づくにつれ、明子の姿が鮮明になっていく。彼女は身じろぎもせず、目を見開いて彼を見ていた。だが、森沢が車まで、あと5メートルという所まで近づいたところで、彼女の姿が、ふいに消えた。
「いまさら隠れたって、しょうがないのに」
森沢は微笑むと、運転席の窓をノックした。運転席の下に無理矢理体をねじ込むようにして隠れていた葛笠が、バツの悪そうな顔をしながら上体を起こし、窓を開けた。
「久しぶりだね。葛笠くん」
森沢は、晴れやかな笑顔で仏頂面の六条社長の秘書に挨拶し、ついで、「それと……」と言いながら、後部座席にいる明子に視線を向けた。その途端、彼は言葉を失った。
明子は、後部座席に上体を倒していた。顔はうつ伏せ。万歳をするような格好で肩よりも上に投げ出された腕の片方は窓枠に指が引っかかており、もう片方は床にダラリと落っこちている。しかも、森沢に見つかっていることには気が付いているだろうに、彼女は、ピクリとも動かない。
まるで死体…… 状況的に、葛笠が殺したように見えなくもない。
(死んだフリって…… 俺は、熊かよ?)
森沢は笑いを噛み殺した。すっとぼけたことを大真面目にやっている明子が滑稽でもあったし、可愛らしくもあった。あんまり可愛らしいので、ちょっと苛めてみたくもなる。
(このまま放って置いたら、彼女は、どうするのだろう?)
明子は、ひたすら死んだフリを続けるのか? それとも、自主的に起きあがるのか? 起きあがったとしたら、彼女は、どのように彼に言い訳するのだろう?
森沢は、明子を起こそうとした葛笠を目で制した。そして、まるで明子がそこにいないかのように、葛笠と話を始めた。
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一方、目をつぶって車の後部座席に突っ伏した状態でじっとしていた明子は、車のガラスをノックする音で、森沢がすぐ近くにいることを知った。これ以上隠れ続けるのは無駄だと悟った葛笠が窓を開けたらしく、車内の空気が僅かに冷えた。
「久しぶりだね。葛笠くん」
親しげに森沢が挨拶するのが聞こえた。それから、彼は明子に話しかける……のかと思ったら、「それと……」と言ったきり黙ってしまった。
(私のこと、見ているのよね?)
森沢の視線を感じた明子は、顔が熱くなるのを感じた。彼は、きっと、明子を見て呆れているに違いない。呆れて当然だ。どこの馬鹿者が人をやり過ごすのに死んだフリなどするだろう?
だが、今更、起きるのもためらわれた。起き上がったら最後、今度は、明子が葛笠の後部座席に倒れていた理由を、森沢に説明しないわけにはいかなくなる。だが、もともと嘘が苦手な明子が、森沢を心から納得させるような上手な言い訳を思いつくはずもない。そんなものが思いつけるのであれば、死んだフリなどしやしない。
(もう~~っ! 私ったら、どうして死んだフリなんてしちゃったんだろう?)
(疲れてるんだわ、私。疲れているから、判断力が鈍ってこんな馬鹿なことをしちゃうのよ)
明子は、喜多嶋家の人々に悪いと思いつつ、父や葛笠の勧めに従って、しばらくの間は、気合をいれて実家で静養を続けようと心に決めた。
それはともかく、この気詰まりな状態を、どのように切り抜ければいいのだろう?
(恥ずかしい、ここから消えてしまいたい。死んだフリより、いっそ気絶してしまえれば良かったのに……)
自分を情けなく思いながら、明子は、ひたすら死んだフリを続けていた。
森沢は、そんな明子の苦悩を思いやってくれているのか、明子を見て見ぬフリをすることに決めてくれたようだ。彼は明子を無視して、葛笠と世間話のようなことを始めた。頭の上のほうから、『今日のネクタイは、なかなか好いね』『ええ、おかげさまで』などと、当たり障りのない話をする声が聞こえてくる。だが、立ち去ってくれるつもりはないようだった。
「ところで、今日は? こんな所で何をしているの?」
葛笠と、しばらく話を続けた後、森沢がたずねた。
「まさか、また俺の見張り? でも、俺に対する様々な疑いなら、とっくに晴れたと思っていたけど?」
「ええ、あの時は苦労させられました」
ムッツリと葛笠が答えた。
「ひょっとして、また俺にネクタイを見立ててもらいたくて訪ねてくれたとか?」
「絶対に違います」
「それも違うんだ? じゃあ、なんの用事?」
ついさっきまで和やかに話してたのに、答えあぐねている葛笠を追求する森沢の口調が厳しくなった。
「俺に用事がないとすると、葛笠さんが、明子ちゃんまで連れてこんなところにいるのは、やはり達也を見張る……」
「違います!!」
明子は、慌てて森沢の疑惑を否定した。顔を上げたとたん、明子の目が森沢のそれと合った。
「お。ようやく、生き返ったな」
森沢が微笑んだ。
(生き返った……って)
彼の言葉を聞いた明子は、恥ずかしさのあまり、もう一度死んだフリをしたくなった。だが、それをしたら、馬鹿に輪をかけることになる。それに、葛笠への疑いも、なんとかして晴らさなければいけない。
「ち、違いますよ」
口ごもりながら明子は言った。
「葛笠さんは……、葛笠さんは、ですね。え、、と、その、私を、送ってきてくださったんです」
「うん」
「そうしたら、急に気分が悪くなって……」
「ほう。それは、大変だ」
森沢がニコニコしながら顔をしかめる。全く信じてくれていないようだ。明子は、口を尖らせた。
「森沢さん、面白がってますね?」
「いやいや。そんなことはありません。明子ちゃんの言うことを心から信じてますよ」
森沢が、更にニヤニヤしながら自分の胸を軽く叩く。
「それで? 明子ちゃんは、ここに何の用事で来たの? 達也に会いにかな?」
「い、いえ、その……」
明子は言いよどんだ。たずねられた瞬間、『今は、達也に会いたくない』と、強く思った。
「き、今日は、その…… 森沢さんに……」
苦し紛れに、明子は言った。
「俺?」
森沢が、怪訝な顔で自分の顔を指差した。
「え? なんだろう?」
『なんだろう?』 それは、明子のほうが聞きたいくらいである。訪問の理由を探すように、明子は、森沢を見つめた。他の人が着ているものと、さして違うとも思えないのに、今日もまたスーツが良く似合っている。
(ああ、そうか。この人、立ち姿がきれいなんだ……)
森沢は、服選びのセンスも良いのだろう。だが、それ以上に、姿勢がいい。だからこそ、着ているものが、非常に似合って見える。
「どうしたの?」
ぼけっとした顔で森沢を見つめ続けていた明子に、彼がたずねた。
「い、いいえ、なんでもありません。ただ、スーツが…… ああ、そうだ。 スーツです! この間。ボタンを探していただいた時に、森沢さんのお洋服を汚してしまったではないですか?」
明子は言った。
「そのお詫びをしたかったのと、できればクリーニング代を受け取っていただきたいと思いまして……」
「ボタン?」
葛笠が不審そうな顔を森沢に向ける。森沢も『汚した服?』と呟きながら、記憶を手繰るよせるように遠い目をした。
「ああ。あのツイードのことか。気にしなくていいよ。あれは、死んだ俺の祖父さんのお下がりで、丈があってないから作業用に着ているんだ。クリーニング代なんてもらったら、こちらが困ってしまう」
森沢が、自分の言葉を補強するように手を振った。
「でも……」
「そうだね。でも、せっかく訪ねてくれたんだ。せっかくだから、コーヒーでも入れるよ。よかったら、会社の中も案内しよう」
「………… え?」
「よし、決定。では、葛笠号、発進!」
森沢は、明子の返事を待たずに助手席に乗り込むと、前方を指差した。
「は、はい」
葛笠が反射的に森沢の指示に従う。
紺色の車は、周囲の車に些かの迷惑をかけながら反対車線に入り込むと、喜多嶋紡績本社に入っていった。




