Wheel of Fortune 10
2週間後。明子は、まだ六条家にいた。
源一郎は、当分の間は明子を喜多嶋家に帰すつもりはないらしい。毎朝、明子と顔を合わせるたびに、彼女の目の下のわずかなくすみや軽くせき込んだことなどを大げさに騒ぎ立てては、「こんな体調では、まだまだこの家での静養が必要だ」と断言するのが日課になっている。それだけではなく、家を出るときには常に、「私がいない間に、あの野郎が来たら、私の分まで、たっぷりとおもてなしするように」と、6人の妻たちと妹たちに申し付けていくことも忘れない。達也がいまだに六条家に顔を見せていないこともあり、源一郎の苛立ちは日ごとに増しているようであった。
葛笠は、あれからずっと達也のことを探ってくれていた。
達也は、始業30分前に会社に到着し、昼食を挟んで夜の10時ごろまで仕事をする。就業中に出かけるときには常に秘書が同行し、帰りも運転手付きの車で送られて寄り道もせずに帰宅する。彼の生活は、毎日その繰り返し。葛笠の言う通り、浮気を疑う余地など、どこにもない。
葛笠は、達也の浮気相手と目されている香坂唯についても、更に詳しく調べてくれた。
香坂唯がモデルを始めたキッカケは、街でのスカウト。中学生の頃であった。所属しているモデル事務所は業界大手ではないものの、それなりに名が知られている、いわゆる中堅どころである。
モデルとしての彼女の世間的な評価は、中くらいと極めて普通。しかも現在進行形で人気は下降しており、ここ1、2年の間に仕事は減る一方で、飲食店でアルバイトをして、やっと生活が成り立っているような状態だという。モデルを商品だと考える者たちにとって、唯のような20代半ばの幼顔のモデルは、ティーンエイジャー向けの雑誌や広告にはとうが立ちすぎている反面、大人の女性向けのファッション雑誌を飾るには可愛らしすぎるので、非常に使いづらいらしい。
売れない、あるいはいずれ売れなくなるという自覚は、20歳を過ぎた頃から唯も自覚していたようだ。今から3年半ほど前の春、彼女は、海外での活躍の場を求めて、フランスへと旅立っている。それと同時に、およそ半年間におよぶ達也との交際にも終止符が打たれた。彼女が渡仏したその日に唯を探し回る達也を見かけた者がいたそうだから、この別れは、彼にとっては思いがけないものであったと推測される。
その後。日本で売れないものが海外で売れるわけもなく、唯は、半年程度で日本に戻ってきてしまったようだ。だが、達也が既に別の女性と婚約していたこともあるのだろう。唯が達也を訪ねてくることはなかったようだ。
達也のほうはといえば、唯が帰国したことにさえ気が付いていなかったと思われる。あの雨の結婚式の日に唯と会ったのだとすれば、彼にとっては、およそ3年ぶりの再会となったはずである。
そして、結婚式の後、彼が唯に会いに行ったのは、たったの一度きり。しかも、たったの10分程度の時間だったという。
どれだけの想いを唯に残していようと、達也は浮気などしていないし、これから浮気するつもりもないようだ。見合いの時に明子に語ったとおり、家の都合であてがわれた妻と愛を育み、彼女と作る家庭を守っていくつもりでいるとしか思えない。
明子が、『別れましょう』と切り出したところで、達也は笑って取り合わないに違いない。いや、達也は、そもそも裏切っていないのだから、別れる必要などないということか?
達也が裏切っていないことがわかっても、明子はちっとも嬉しくなかった。それどころか、葛笠からの報告を思い返すたびに、なぜか腹立たしい気持ちで一杯になる。
(達也さんを置き去りにしたくせに)
(あんなに想われているくせに)
(達也さんも達也さんよ)
考えるまいと思っていても、止まらない。ここ最近、気が付けば、明子の頭の中は、二人を責めるような言葉で一杯になっている。
「もうっ! 私にどうしろっていうのよ!!」
明子は、吐き捨てるように呟くと、念入りにマフラーを巻き、サンドイッチと水筒を入れた紙袋を下げて家を出た。これから、達也の見張りを続けてくれている葛笠の陣中見舞いに行くつもりだった。彼は達也を見張っているのだから、達也が仕事をしている喜多嶋紡績の本社に行けば、会えるはずである。
喜多嶋紡績本社は、千駄ヶ谷。新宿御苑の近くにある。本社の正面入り口に面している大きな道路の向こう側に数珠繋ぎに路上駐車している車に紛れて、妹たちが『葛笠号』と呼んでいる葛笠の紺色の軽自動車が止まっていた。
明子は、車の窓をノックして葛笠の注意を引くと、後部座席に乗り込んだ。差し入れが入った紙袋を渡すと、「こういうねぎらい方をしてくださる方は、明子お嬢さまぐらいなものですよ」と、葛笠が目を潤ませた。
「ところで、新しい進展がありました」
差し入れのサンドイッチを頬張りながら、葛笠が報告する。
「進展?」
「唯さんに仕事が増えてます。どうやら、達也さまが、裏からこっそりと彼女に仕事を回してやっているようです」
「裏から? そういうこと、できるの?」
「喜多嶋グループの御曹司ですから」
葛笠が笑った。なるほど、喜多嶋グループは、糸と服地と化粧品を扱う大企業である。達也ならば、ファッション業界に幾らでも伝手があるだろう。
「達也さまは、昔の彼女の窮状を見るに見かねて、少しばかり手助けしてやることにしたのでしょう」
「達也さんのことだから、きっと、そうなんでしょうね」
明子の気持ちを慮ってくれるような葛笠の物言いまでもが疎ましくなって、彼女は不機嫌に応じた。珍しく無作法な明子に、葛笠は驚いたような顔をしたが、何も言わなかった。
「そうそう。手助けで思い出しましたが、唯さんがフランスに行くことになったキッカケも、喜多嶋にあったようです」
何食わぬ顔に戻って、葛笠が事務的な口調で話を続けた。
「喜多嶋に?」
「ええ。『現地での活動を支援してくれる有力な人を紹介してもらったから』 と、フランスに行く前に、唯さんがモデル仲間に言ったそうなんですよ」
「唯さんに有力者を紹介した人というのが、喜多嶋の誰かということ?」
「そう考えるのが自然でしょう」
葛笠がうなずく。
「モデル仲間は達也さまが紹介者だと思い込んでいたようですけどね。『お嬢さまとの縁談に邪魔だから、フランスに唯を厄介払いをした』と、最初の達也さまの婚約が決まった時に、そのように噂していたみたいです」
「でも、それは、達也さんではないでしょう?」
「違うでしょうね。でも……」
葛笠が、含みを持たせるように口をつぐんだ。
「そう……ね」
ビル全体がガラスで覆われた喜多嶋紡績の本社ビルを見つめながら、明子もうなずく。喜多嶋グループの誰かが、達也の縁談に邪魔な唯を厄介払いした可能性は、非常に高い。
「ところで、お嬢さま。 これから、どうなさるおつもりですか?」
短い沈黙の後、葛笠がたずねた。
「え?」
「いえ、達也さまを見張ることが嫌なわけではないんですよ。むしろ、丁度良い骨休めになっているくらいです。楽すぎて申し訳ないぐらいで……」
「そうなの?」
「ええ。24時間昼夜の区別なしに、3人ずつ交代で、興信所の人間や私や他の秘書たちから寄ってたかって見張られているっていうのに、喜多嶋さまは視線すら感じる気配もないんです。だから、尾行も楽です。あの人、どれだけ鈍いんだか……」
「まあ」
いかにも達也らしくて、明子は苦笑した。
「でもね。ただ鈍いから、だから気が付かないというわけではないと思うんです。それだけ、達也さんには、やましいと思うところがないのではないかと……」
明子の反応を伺いながら、葛笠が、控えめに意見した。
「……。わかっているわ」
しばらく黙り込んだあと、明子は口を尖らせながらポツリと言った。
「達也さんは浮気していない。いくら調べても何も出てこないのだから、調査を続ける意味はないのよね。葛笠さんには、本当に悪いと思っているの」
「私のことはいいんですよ。ただ、その……」
言いづらい事があるかのように下唇を噛む葛笠の顔が、バックミラーに映る。
「なあに?」
「朱音さまが、『達也さんが何をしようが、本当は関係ないでしょう?』 と」
「紅子のお母さまが、そんなことを?」
源一郎の愛人のひとりで、いつも呑気に笑っている童女のような女を思い出しながら、明子は言った。葛笠の部屋は彼女と紅子が暮らしている棟にあるので、彼は普段からふたりと話す機会が多いようだ。
「はあ。朱音さまが言うには、喜多嶋さまが浮気しようがどうしようが、そんなことは、明子お嬢さまにとっては、実はどうでもいい事なのだそうです。肝心なのは……明子お嬢さまが知るべきなのは、明子お嬢さま自身の気持ちであって達也さんの気持ちではない。明子お嬢さまが、これからも達也さんを好きでいられると思っていらっしゃるかどうか。そして、これからどうしたいと思っていらっしゃるかであると、そう……」
「どうしたいってかって言われてもねえ」
明子は大きく息を吐くと同時に、力が抜けたように前のめりに体を傾げ、葛笠が座る運転席の背面に額を押し付けた。
「もう、何がなんだか、わからなくなっちゃった。本当に、どうしたらいいんだろう? ねえ? 葛笠さんは、どうしたらいいと思います?」
「そんなこと、私に聞かないでくださいよ」
明子のほうを振り返った葛笠が、困ったように眉根を寄せた。それから、とても優しい口調で明子に助言する。
「しばらくお家にいて、ゆっくり考えたらいいですよ。そのために、社長が時間を稼いでくれているのですから」
「お父さまが、なにをしているっていうの?」
「明子お嬢さまを喜多嶋家に帰したくなくて、毎朝、ただ我がままを言っているだけにしか見えないかもしれませんけれどね」
葛笠が笑う。
「でも、社長に言わせれば、『自分は、明子を引き止めてなんぞいない』そうです。『自分は、明子を閉じ込めているわけでも、縄で縛って繋いでいるわけでもない。明子は帰ろうと思えば、いつだって帰れる。どこだって行ける。しようと思えば、なんだってできる。そうしないのは、明子が、そうしたくないだけだ』『ならば、私は、全力を上げて明子の望みを叶えるのみだ』、『迷いたいのであれば、好きなだけ迷わせてやる』のだそうです」
「……。別に好きで悩んでいるわけじゃあないんですけど」
「じゃあ、悩むのはやめて、お父さまにゲタを預けてしまいますか? 社長のことですから、とんでもないことになると思いますけれども?」
「とんでも……」
「和臣さまが懸念されているように、喜多嶋紡績を潰してしまう。あるいは、達也さん自身を消してしまう」
「け、消す?」
「社長的に、一番手っ取り早いですから」
何でもないことのように、葛笠が言う。
「それは、ダメよ!」
明子は、全否定するように首を大きく振った。
「そうでしょうとも」
葛笠が笑った。
「だから、しばらくの間は、社長の我ままに付き合う形で、実家にいればいいですよ。その間に、じっくり時間かけて、悩むだけ悩んで、自分が一番幸せになれる答えを出せばいい」
「自分が幸せになる?」
「だって、それが社長の一番の望みでしょう?」
葛笠が微笑んだ。
「だから、あくまでも追求するのは自分の幸せです。変に良い子になってはいけませんよ。当たり障りのない半端な結論なんて出そうものなら、今度こそ社長は…… やばい! 隠れてください!」
葛笠が、突然、無理矢理ハンドルの下に自分の体を押し込もうとするかのように身を屈めた。命じられるがまま、明子は後部座席に身を伏せた。
「な? なに? いきなり、どうしたの?」
「森沢さんです」
葛笠が声を潜めた。
「え? どこ?」
明子は顔を上げて、外を見た。スラリとした体型の、歩き方からして様子のいい若者が、喜多嶋紡績の入り口に向かって数人と歩いているのが遠くに見えた。
「頭を上げないでください。見つかっちゃいますよ!」
宙を引っかくように、葛笠が手を振る。
「でも、こんなに離れているのよ?」
明子は、微笑んだ。森沢が歩いているのは通りの向こう側だ。しかも、この道路は両側2車線なので道幅が非常に広く、車もひっきりなしに通っている。これだけ離れていれば、見つかる心配などないだろう。
だが、葛笠は、まったく油断する気はないようだった。
「あの人、隙が無いと言うか、妙に鋭いんですよ。この間も、裏口で見張っていた興信所の人間に声を掛けてきたんです。なんとか誤魔化したようですけどね。それに、紫乃さまの時だって、あっという間に見つかって、いきなり後ろを取られました」
「葛笠さん、森沢さんの調査までしたの?」
「紫乃さまとお見合いなさる前にね」
森沢さんについては、いろいろと好からぬ噂がありますから……と、葛笠が苦笑する。彼が言うとおり、森沢俊鷹には、常に華やかで艶っぽい噂がついて回っているようなところがある。
「なるほど、達也さんと違って、やましいことが一杯あると勘も鋭くなるわけね」
呆れながらも妙に納得している明子に、『というよりも、練習の賜物じゃないですか?』と助手席のシートに顔を押し付けた葛笠が言った。
「中学生の時に、剣道の全国大会に出たこともあるそうですから」
「森沢さんが? 嘘でしょう?」
驚いた明子は、思わず頭と声を上げた。似合わない。らしくない。イメージと全然違う。彼の綿好きを知ったとき以上の驚きである。
「本当ですよ。あの人、見かけによらず硬派ですよ。お嬢さま、お願いですから頭を下げてください」
「あ、はい。ごめんなさ…… あ!」
屈もうとした明子は、前方を見たまま固まった。
「どうしました?」
「目…… 合っちゃった」
「なんですって?!」
「どうしよう? こっちに来る!」
横断歩道のないところを忙しく行きかう車の間を縫うように渡ってくる森沢から目が離せぬまま、明子は逃げ場を求めておろおろと視線と彷徨わせた。葛笠も、明子と同じくらいうろたえているようだ。
「に、逃げますか?」
「でも、私も葛笠さんも、森沢さんとは知らない間柄じゃないのだから、逃げたりしたら余計に怪しまれない?」
「そ、それもそうですよね」
そんなことを言っている間にも、森沢は弾むような足取りで道路を渡りきり、あっという間に、『葛笠号』の前までやってきてしまった。
追い詰められた明子は、この状況で最も馬鹿馬鹿しいこと…… こともあろうに、その場で死んだフリをした。




