Wheel of Fortune 9
おそらく他のどこの会社の経営者よりも我がままで活動的な六条源一郎は、自分の手足となって働く沢山の秘書を抱えている。
その秘書たちの中でも、飛びぬけて若く、特別に源一郎に目をかけられているのが、葛笠晴之である。
もっとも、源一郎本人は、葛笠を自分の秘書だとは見なしていないようだった。彼にとっての葛笠は、あくまでも愛息子和臣の右腕となる秘書候補である。だから、和臣が六条グループの跡を継いだ時に彼の良き片腕となれるよう、源一郎自らが手塩にかけて彼を育てている真っ最中だというわけだ。
源一郎に見込まれ将来を約束された葛笠を羨む者は多い。だが、その一方で、源一郎に好き放題にこき使われている葛笠を気の毒に思う者が大勢いるのもまた事実である。
そのような源一郎の思惑もあったので、葛笠は、日頃から和臣との意思の疎通を図るため、(というよりも、他に住まいがあっても忙しすぎて帰る暇がないからかもしれないが)ここ六条家に一室を与えられている。仕事以外の雑用なども気軽に引き受けてくれるので、六条家の女たち……特に下の3人の妹たちは、彼に大変懐いていた。
葛笠であれば、父よりも兄の和臣、そして明子たち姉妹の味方になってくれるはず。少なくとも、父の暴走を後押しするような行動だけはしないでくれるばずだと明子は確信できた。なぜなら、父が無茶をする時に一番の面倒を押し付けられるのが、常に葛笠だからである。
姉妹たちと10時頃までおしゃべりをして過ごした後、明子は、真夜中を待って、自分の部屋から抜け出した。
片足が不自由なこともあり、葛笠の部屋は、紅子母子の居住エリアである南棟1階の本館寄りの場所にある。灯りが落とされた玄関ホールの中央階段を半分ほど下った所から明子が首を伸ばして廊下を覗くと、彼の部屋の扉の下の隙間から細く灯りが漏れているのが確認できた。
(よかった、もう帰ってきている)
明子は、ホッとしながら、扉を控えめにノックした。片足だけでなく右目も見えない葛笠は、それを補うように耳が良い。微かな音を聞きつけて、すぐに扉を開けてくれた。
「これは、明子お嬢さま」
戸口に現れた明子を見て、葛笠が驚いた顔をした。
「あ、あのね。葛笠さんに聞きたい事があるの。それで……」
葛笠の瞼を縦に切り裂くような古い傷を間近に見た途端に、彼に怪しまれないために考えた幾つもの言い訳をすっかり忘れてしまった明子は、口ごもりながら、やっと、それだけを言った。
「わざわざ、このような遅い時間に私を訪ねていらしたということは、お父さまに内緒のお話があるということですか?」
ありがたいことに、葛笠のほうから明子の言いたい事を察してくれた。明子がうなずくと、彼は、見えるほうの眼で射抜くように彼女を見つめ、「社長はともかく、場合によっては、お兄さまにはお話しすることになりますが、それでも?」と、念を押す。
「葛笠さんの立場上、そうするのは仕方ないと思います。それに、葛笠さんの手に負えないということは、私の手にも負えないということでしょうから。その時には、どのみち、お父さまよりも先に、お兄さまに相談したほうがよいと思うの」
少し考えた後、明子は答えた。
「そうですか」
葛笠は微笑むと、「……だ、そうですよ。よかったですね。頼りにしてもらえて」と、部屋の奥に向かって声をかけた。
部屋の奥から返ってきた「当然だろう」という声に驚いた明子は、葛笠の背後をのぞいた。
「まあ! お兄さま!?」
「静かに。でないと皆を起こしてしまうよ」
和臣が笑いをかみ殺すような顔をしながら、明子に注意した。
明子が葛笠の部屋に入ったのは、この日が初めてだった。
作りつけの戸棚の中や続き部屋になっている寝室の中がどうなっているかは知らないが、彼の部屋の中は、殺風景とも思えるほど、すっきりと片付いていた。部屋の中央に置かれた小さな真四角のテーブルには、それとセットになっている2脚の椅子だけではなく、窓際に置かれた仕事机から引っ張ってきたと思われるデザインの違う椅子がもうひとつ並べられている。
テーブルの上に置かれた茶器も、3人分だ。しかも、どう見ても葛笠の私物ではなく台所から持ってきたとしか思えない上品な縁取りが美しいウェッジウッドのボーンチャイナである。
まるで、明子が来ることを予め知っていたような……そんな彼女の推測を裏付けるように、「随分遅かったね。待ちくたびれてしまったよ」と、和臣が言った。
「お兄さま、どうして?」
唖然とする明子に、和臣が「明子のことなら、何でもお見通しだよ」と笑う。
「……というのは嘘。気がついたのは橘乃だよ。明子が葛笠に話したい事があるようだってね。それで、ここで待ち伏せしてみることにしたというわけ」
種明かしをしながら、和臣が、小さなテーブルを挟んだ向かい側の椅子を明子に勧めた。
「それで? 葛笠に何を聞きたいんだい? 達也さんの浮気についてかな?」
「お兄さま、なぜ、それを」
「それこそ、不思議に思うほどのことではないだろう? 達也さんには他に女がいるんじゃないか? 明子を裏切っているんじゃないか? あの結婚式から、みんなが彼を疑っている。そうそう。最近では、彼が明子のじんましんの原因ではないかとも疑われているようだね。おかげで、葛笠の苦労が絶えない」
そうだよね? と確認をとるように、和臣が葛笠に微笑みかけた。苦笑する葛笠に、明子も、たずねるような視線を向けた。
「社長がね。どうしても納得してくださらないんですよ」
大きなため息をつきながら、葛笠がうなだれる。
「納得?」
「喜多嶋さまが浮気してないってことをです」
「え?」
口に含んだ紅茶を飲み込むのも忘れて、明子は、まじまじと葛笠を見つめた。
「う、う…そぉ……?」
「本当なんですってば」
葛笠がムキになって明子に訴えた。
「社長に命じられて、私がトコトンまで調べました。喜多嶋さまは、浮気なんぞしていらっしゃいません。少なくとも、明子さまとお見合いなされてからこっち、浮気を疑われるような具体的な行動はしていらっしゃいません」
葛笠が話してくれたところによれば、達也の身辺調査は、見合いの前から始まっていた。
達也は、見合いの1年前ほど前に、別の女性との婚約を解消している。表向きは相手の女性が原因で別れたことになってはいるものの、達也のほうにも、それなりの落ち度があったのではないかと疑っていた源一郎は、信用のおける興信所に念入りな調査を依頼した。
「その以前の婚約者さんという方は、他に好きな人がいらっしゃったのよね?」
「それは、橘乃がどこかで聞きかじってきた無責任な噂にしか過ぎないよ」
和臣が笑いながら口を挟んだ。
「はっきりとした理由は、ご本人にもわからないようなんです」
口をへの字に曲げながら、葛笠がこめかみを掻いた。
両親や達也が婚約解消したい理由をたずねても、達也の前の婚約者は、 ただ『結婚する自信がない』『とにかく婚約を解消したい』 と繰り返すばかりばかりだったそうである。
「でも、『決して達也さんが嫌いなわけではない』とも、彼女は何度も言っていたようなんですよ。それでも、『とにかく結婚するのが不安でしかたがない。達也さんと一緒にやっていく自信がない。だから、どうしても勘弁してほしい』って」
訳がわからないとでもいうように、葛笠が眉根をきつく寄せた。
「それで、お父さまが依頼した調査のほうは?」
「喜多嶋さまには、問題となるようなことは何もありませんでした。もちろん、別の女性と隠れて付き合っていたということもありません」
強いて言うなら、完璧すぎるところがかえって気持ちが悪いというのが、調査書を読んだ源一郎の感想だった。おそらく、達也と婚約を解消した元外務大臣の孫娘というのは、完璧すぎる彼の妻になる自信がなくて逃げ出しただけなのだろう。その点、うちの明子も完璧だから全く問題はなかろうと、源一郎は、この見合いを受けることにしたそうだ。
見合いの後、話はトントン拍子に進んで、3ヶ月後には結婚式となった。
そして、その結婚式の当日に、達也は、結婚の誓いを言い渋るという、花婿として一番やってはいけないことをした。おかげで、源一郎の達也への心証は、一気に悪くなった。
「社長は、別の女性の存在を疑いました」
「当然だな。自分にも一杯いるから」
「ご自分だって、疑っていらしたでしょうに」
無駄に話を混ぜっ返そうとする和臣を、葛笠が睨む。
明子の結婚式から帰ってきた源一郎は、すぐに興信所に命じて達也の調査をやり直させた。それだけでは足りなくて、社長秘書を総動員させて、達也の身辺を徹底的に探った。特に葛笠は、『浮気現場を押さえてくるまで帰ってこなくていい』とまで厳命された。
「父さんは、明子を達也さんにやったことを毎日のように後悔している。だから、彼が浮気していることを理由に別れさせようと思った。そして、離婚が成立した暁には、喜多嶋をこの世から消滅させてやるのだと息巻いている」
「ああ」
やっぱり、お父さまは、そんなことを考えていたのね……と思いながら、明子は深くため息をついた。
「でも、いくら達也さんを調べても、なんにも出てこない」
「何ひとつ?」
明子は、聞き返した。何もないなんてことがあるはずはない。
「疑わしいことはあったんですよ。結婚式の後に、喜多嶋さまが人を頼んで昔の恋人の消息を調べさせていたりだとか」
「昔の……恋人さん?」
カフスボタンの女は、きっと、その人に違いない。明子は自分の動悸が激しくなるのを感じた。
「あ、あの、それで、その人は?」
「でも、喜多嶋さまは、本当に、ただ彼女の消息を探していただけのようなのです」
動揺している明子を見て慌てた葛笠が言った。
「彼女の仕事場に一度だけ顔を出しただけで、それきり会いに行くようなことはなさっていません」
その一度きり会った日というのが、達也が、『森沢に会いに行く』と明子に嘘をついて出かけた日であったらしい。
「会ったのは一度だけ? どこで?」
「一度だけです。それも、せいぜい10分程度の時間です。場所は青山の撮影スタジオで、人の出入りも多かったそうです。その女性はモデルなんですけど、はっきり言って、かなり落ち目なんですね。喜多嶋さまは、そのことをどこかから聞きつけた。それで、気になって彼女を探すことにしたのでしょう」
「それだけ?」
「それだけ、です」
葛笠が大きくうなずきながら、きっぱりと言った。
「ですから、達也さんは正真正銘のシロです。お嬢さまを裏切ってなどおりません。だから、どうぞ安心なさってください」
「そうだよ。達也さんは潔白だ。さすがの父さんも、シロをクロだと言い張って彼を断罪することはできないぐらいにね。安心して達也さんと幸せになるといい」
葛笠と和臣が明子を見つめて熱心に言う。
「あ……」
ふたりから何かしらの返事を求められていると思った明子は、口を開きかけたものの、後が続かなくなってしまった。
(達也さんが浮気をしていない?)
(じゃあ、昔の彼女さんは?)
(でも、あのカフスボタンは?)
(でも、達也さんの、あの心無い態度は?)
(でも、なんで?)
(でも…… だって……)
葛笠が嘘を言っていないことは間違いない。葛笠の言うとおりならば、達也は浮気をしていない……という結論にならざるを得ないのも理解できる。
でも、どうしてだろう? なぜか、どうしても、どこか釈然としない。
「そうか。やっぱり納得するのは無理か?」
「そうですか。やっぱり調査続行ですか……」
浮かない顔をしたままの明子を見て、和臣は心配そうに顔を曇らせ、葛笠はガッカリと肩を落とした。
「ううん。そんなことはないのよ。だた……」
「無理しなくていい。明子は、なんでも我慢しすぎだよ」
「そうです。無理して納得なさらなくてもいいんですよ」
葛笠が気丈に微笑んだ。
「どうせ、やらなければいけないんです。社長だけではなく、他の皆さんも全然納得していないんですから」
「みんな?」
「ええ。社長や和臣さまだけではなくて、明子さまのお母さまも、それから妹さまたちも」
『おかげで、俺は、突き上げを食らいっぱなしですよ』と、葛笠がぼやいた。
「それから、紫乃さまも心配していらっしゃいます」
「お姉さまも?」
「ああ。先日ここにやってきて、葛笠を罵倒していったよ」
和臣が思い出し笑いをした。
「『わたくしが知りたいのは、達也さんが現実に浮気しているかどうかじゃないの! 達也さんの心が明子を裏切っているかどうかがなのよ!』だってさ。妹たちも、姉さんの意見を全面的に支持するそうだ。でも、そんなの、どうやって調べろっていうんだろうね?」
「まあ、中村も動いているようですから、そのあたりのことは、坂口さんが調べてくれるかもしれません」
葛笠が、苦笑しながら、中村家の執事をしながら弘晃専任の運転手兼秘書もしている男の名前を挙げた。
「では、私は、明子さまや皆さまが納得してくださるまで、もうしばらくの間、地道に喜多嶋さまの後ろを付け回すことにいたしましょう」
「あの、それと、達也さんの昔の恋人さんのことを、もう少し詳しく調べていただけないでしょうか?」
明子は、思い切って頼んでみた。
「どんな人なのか、とか。どうして別れてしまったのか、とか。無理ですか?」
「いいえ。それに、ある程度は調べてありますよ」
葛笠が微笑んだ。
「おや、随分と仕事が早いじゃないか」
「おかげさまで」
和臣の嫌味に、しれっとした顔で応じながら窓際に置かれた仕事机に向かった葛笠が、引き出しから書類用の封筒を持ってきた。彼は、そこから1枚の写真を取り出して、明子の前に置いた。
「香坂唯さんです」
明子が予想していた通り、写真に写っていたのは、結婚式の日に雨の中で佇んでいた女だった。




