Wheel of Fortune 8
翌日から、明子は、彼女の父親の強い希望で、一週間を予定に実家に戻ることになった。
「おかえり、明子」
平日であるにもかかわらず、妹たちばかりか父の源一郎までもが、六条家に戻った彼女を出迎えてくれた。
「このたびは、こちらが至らないばっかりに、大変申し訳ないことになりまして」
挨拶がてら明子を送ってきた多恵子が源一郎に頭を下げると、彼は、「詫びなど、あなたには似合いませんよ、多恵子」と、娘でさえ魅了せずにはいられないような極上の甘い微笑みを彼女に向けた。
「あなたは、いつだって女神のように堂々としていればよいのです。さすれば、私はあなたの下僕として、ただ足下にひれ伏すしかないのですから」
「また…… 女とみれば、誰彼かまわず芝居がかった真似をしたがるんだから」
末の妹の月子が、明子の背後でボソリと呟く。何事にも鷹揚な橘乃でさえも、「お父さま…… いくらなんでも、娘の嫁ぎ先のお義母さまを呼び捨てにするのは、どうなんでしょう?」と呆れた顔をした。かたや、多恵子はといえば、節度を知らない父の賛辞に呆れたり怯んだりする様子もなく、「ありがとうございます。そうおっしゃっていただけると、少しだけですけれども気が楽になりますわ」と、当たり前のように源一郎の言葉を受け止めた。
源一郎は、満足げに微笑むと、多恵子の手を両手で包んだ。
「私は、本当に、あなたを責めるつもりなどないのです。むしろ、お礼を言いたいぐらいですよ。娘があなたに向ける眼差しを見れば、彼女がどれほどあなたを信頼しているか、あなたが、どれほど私の娘を大切に思ってくださっているかがよくわかりますからね。明子は、ただ少しばかりの疲れが出ただけなのでしょう。何日かの間、こちらでゆっくりすれば、じきに、そちらの家が恋しくなって帰りたくなるに違いないですよ。ですから、しばらくの間だけ、娘を想う私の我侭を許していただきたいのです。達也さんにも、どうか、そのようにお伝えください。それから、私がくれぐれも彼に宜しくと言っていたということもね」
「今日は、彼に、お会いできなくて、非常に残念でした」と言った時だけ、源一郎が声の調子を変えた。響の違いは僅かではあったものの、その声の冷たさに寒気を覚えたのは、明子だけではなかっただろう。
「達也さんが今日ここに来なかったのは正解だったのか? それとも人生最大の失敗だったのか?」
ため息混じりに小さく呟く紅子の隣で、夕紀がひどく不安げに顔を曇らせていた。
多恵子が帰ってしまうと、源一郎は、明子ひとりを書斎に招き入れた。
部屋の真ん中には、『そこに座れ』とでもいうように、背もたれまで布張りの大きなひとり掛けの椅子がおいてある。椅子の横の足の長い小さなテーブルには、彼女を懐柔しようとでもいうように、クッキーやチョコレートがてんこ盛りに盛られた菓子鉢が置かれていた。
(まるで、小さい頃に戻ったみたい)
こそばゆい気持ちになりながら、明子が椅子に腰を下ろすと、源一郎が、自分が座った椅子ごと引きずって、彼女の前にやってきた。
「さあ、明子。なにがあったのか、お父さんに話してごらん。なにが君を苦しめている? 私は、君になにをしてあげればいい?」
源一郎は、膝に置かれた明子の手を両手で包むと、彼女に言った。
「優しい僕のお姫さま。我慢なんかしなくていいんだよ。言ってごらん。君のためなら、なんだってしてあげるから」
彼は、腰をわずかに浮かすと、手を伸ばして、ゆっくりと彼女の頭を撫でた。無条件に優しい源一郎の言葉と仕草に、明子の気持ちが大きく揺れた。
「あ……」
『あのね。もう嫌なの! 達也さんと離婚したいの!』
父に、そう言ってしまいたい。彼の腕に飛び込んで、これまで辛かったこと全部を打ち明けてしまいたい。衝動的にそう思ったものの、明子は、喉から出掛かった叫びを必死に飲み込んだ。父に全てを打ち明けたら最後、この結婚は雪崩を打ってお終いに……喜多嶋家の破滅に向かって動き出してしまうだろう。
それに、もしも、そんなことになったら、ただでさえ悪名高い六条家の評判が更に悪くなってしまう。妹たちは学校で嫌な思いをするかもしれないし、この先、彼女たちの縁談にも支障がでるに違いない。姉も婚家で肩身の狭い思いをするかもしれない。
(だめ。少なくとも、今は話すときじゃない)
明子は口を真一文字に引き結ぶと、真っ直ぐに源一郎を見て微笑んだ。
「困っていることなんて、何もありません」
「明子!」
「本当よ。お見合いから結婚まで、とても忙しかったでしょう? そのうえ環境も変わったから、ちょっと疲れちゃっただけ。本当に、それだけよ」
詰るように娘の名を呼ぶ源一郎に、明子は笑顔のまま、精一杯の嘘をついた。
「本当に、本当? 達也くんのことで、本当は、ものすごく我慢しているんじゃないかい? 実は、もう触られるのも嫌だとか、いっそ、いなくなってしまえば楽になるのに……とか、君は、そんなふうに思っているのではないのかい?」
源一郎が、そこに明子の真意が書いてあるとでもいうように、触れるほどに彼女に顔を近づけた。
(お父さま……鋭すぎる)
明子は、心の中で冷や汗をかきながら、「本当に我慢なんかしていないわ」と、辛抱強く言った。
「でも、もしも…… もしもね。本当に我慢ができなくなったら、その時は、ちゃんとお父さまにお話しますから」
「本当だよ。約束だよ?」
「ええ。約束します」
(だから、お願い。お願いだから、もうしばらくは何もしないで。もう少しだけ、見守っていて)
何度も念を押す源一郎に、明子は思いを込めて大きくうなずいてみせた。
(でも、きっと長くは誤魔化せない。もう、後がない)
父は、達也のことを、ひどく疑っている。姉も疑っていることだろう。
だから、達也には忘れきれない女性がいることも、彼が明子を形ばかりの妻として受け入れることはできても、心から愛することはないであろうことも、それを知った明子が、達也に触れられただけでじんましんが出てしまうほど彼に対して拒否反応を示していることも……
父に全てがわかってしまうのは、時間の問題でしかない。
(ならば、いっそ、お父様が怒り出す前に……)
全てを知った、六条源一郎が行動を起こす前に……
「自分たちで円満離婚しないと」
なんとか父を言い包めて書斎から逃げ出した明子は、自分の部屋だったところに駆け戻ると、呟いた。
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さあ! 目指せ、円満離婚!!
「……って、言ってもねえ」
その夜。
父や妹たちとの賑やかな夕食を終えて部屋に戻った明子は、そのままベッドの上に仰向けに寝転んだ。
「具体的に、なにから、どうしたらいいものかしら?」
天井の桟が作る格子模様を目で追いながら、彼女は自問自答した。
「まずは…… やっぱり、達也さんと話し合う必要があるわよね?」
達也には、他に好きな人がいる。そして、彼に触れられると、明子にはじんましんがでる。
明子が、彼と離婚したい理由は、主にこのふたつである。
どちらの理由にせよ、不仲の責任を達也に一方的に押し付けるものでしかない。これらの理由をもって明子ひとりが『離婚をしたい』と言い出そうものなら、彼女が一生懸命に達也を庇ったところで、結局、父を激怒させることになってしまうだろう。
喜多嶋家を守りながら離婚するためには、達也の協力は不可欠だ。どうしても彼と口裏を合わせる必要がある。だから、まずは達也と話し合わなくてはいけない。明子と離婚して本当と好きな人と結婚して幸せになってくれるように、彼を説得するのだ。そして、ふたりで話し合って、ある程度まで離婚への道筋をつける。
明子の父や喜多嶋の両親に話すのは、それからでいい。ふたり揃って、お互いの幸せのために別れることを決めたと申告すれば、明子の父親も喜多嶋の両親も、きっとわかってくれるに違いない。
「結婚がふたりでするものなら、離婚も独りじゃできないものだったのね」
今更ながら、明子は思った。
「……となると、最初の問題は……」
明子が達也を説得できるかどうかであろう。彼は、他に好きな女性がいても、明子とは夫婦を続けるつもりでいるようである。
「達也さんってば、大好きな人をお妾さんにする気なのかしら?」
明子は顔をしかめた。だが、すぐに、「まあ、うちは他人を責められるような家でもないけれどもね」と、苦笑する。明子の父親は、彼女の母親を含む6人の愛人と共に、この家で暮らしている。愛人の娘である明子には、達也を責める資格はないのかもしれない。
しかしながら、源一郎と達也では心構えが違うと、明子は思う。源一郎は、自分が抱えている愛人たちやその娘たちに愛情不足を感じさせたことがない。少なくとも明子は、嫁ぐ前には一度も、『自分は愛されていないかもしれない』 などと疑ったことはなかった。
「やっぱり、達也さんには二股は無理よ。ちゃんと好きな人と一緒になるべきだわ」
明子は、確信を込めて呟いた。
でも、もしも、達也が離婚に同意してくれなかったら?
それ以前に、達也が他に好きな人がいることを認めなかったら?
はぐらかすばかりで、話し合いにも応じてくれなかったら?
「証拠が……いるわ、よね?」
達也にはぐらかされないために、彼に好きな人がいるということが否定できないような証拠が必要だ。
「あのカフスボタンは、どうかしら?」
恋人との思い出が詰まった達也のカフスボタンは、彼に返し損ねたまま、いまだに明子のコートのポケットの中に入っている。
「だめ。 あれは、過去にお付き合いがあったという証拠にしかならないわ」
ガッカリしながら、明子は、寝返りを打った。彼女が必要としているのは、達也が現在進行形で彼女と付き合っている事実を立証するような《なにか》である。
「調べてみればいいかしら? でも、どうやって調べよう? 探偵を雇う……とか?」
ところで、探偵というものは、どこでお願いすればいいものなのだろう? その前に、探偵というのは実在するものなのだろうか? 小説の中にしかいない架空の存在だということはないだろうか?
「う~ん。 どうしたら、いいかしら?」
明子は起き上がると、腕を組んで考えた。
名案は思いつかないものの、彼女は誰かに……こういったことに詳しそうな人に相談できるかもしれないということに思い当たった。
「そうよ、葛笠さんならば、お父さまに内緒で頼まれてくれるかもしれない」
明子が思い浮かべたのはは、父の秘書の顔だった。




