Wheel of Fortune 7
明子の湿疹は背中にまで及んでいた。それどころか、肘の裏側や髪の毛の中にまでできていた。 かゆみのほうは、もっとひどかった。
『もう夜も遅いから、今晩は我慢する』と、明子は遠慮したが、達也は、すぐに喜多嶋家のかかりつけの医者を呼んでくれた。
医者の見立ては、じんましんだった。薬をもらって、いったんは症状が収まったものの、その後も、何かの拍子に、かゆみと湿疹がぶり返す。初日ほど症状が重くなることはなかったが、完治する気配はない。湿疹はまだしも、耐え難いかゆみはどうしようもなく、明子は薬が手放せなくなっていた。
何が原因でこうなったのかは、いまだに、わからないままである。
初めて湿疹の出た日の朝に森沢と歩き回った中村家の庭に、かゆみや湿疹を引き起こすような植物が植えられていたのかもしれないし、外出先で姉と食べた昼食の中に入っていた何かに当たったのかもしれない。あれこれ考えてみるのだが、『これだ』と断定できる心当たりがない。それに、あの日に食べた物や肌に触れた何かが原因であるというのならば、いまだに症状が続いているのも、おかしなことのように思われる。誰もが明子が口に入れるものに気を使ってくれているし、彼女自身は家の中に引きこもったままだからだ。
「結婚して間もないことでもあります。ここにきてお疲れが出たのかもしれませんな」
明子にじんましんが出るようになって1週間後。血液検査などもして原因がいよいよハッキリしないとわかると、医者は、そう結論づけた。
「つまりストレスが原因ってことなのか? なんてことだ。六条さんに殺される」
その日の夜に多恵子から医者の話を伝えられた紘一が、頭を抱えた。彼の物言いは大げさだったが、彼の心配を杞憂だと笑い飛ばすことができる者はいなかった。
「達也、お前のせいだ!」
不安が頂点に達した紘一が、目を潤ませながら息子を責めた。
「そうですよ。仕事仕事で、明子さんのことを放ったらかしにしたりするから……」
いつもは息子に遠慮している多恵子までもが、夫に加勢して小言を言った。
「達也さんが悪いわけではないですよ。私は、とても良くしてもらっています」
明子は、とりあえず達也の肩を持った。庇わずにはいられないほど、ここ最近の達也は、なにかにつけて彼女に気を遣ってくれていた。彼の帰りは相変わらず遅いし、時々誰かさんのことを想ってぼんやりしていることもある。加えて、最近の彼は、森沢が想定していた以上に良くやっている事実が気に入らないのがミエミエの発言をして、明子を失望させることもしばしばである。
それでも、他の女性のことで頭が一杯で、明子に対して全く気持ちのこもらない態度を取ってばかりいた頃の達也に比べたら、今の彼は、彼女に思いやりを示してくれるようになっていた。じんましん騒ぎに紛れてすっかり忘れてしまっているだけかもしれないが、先日、明子が達也を拒否してしまったことについても、気にしてはいないようである。
今のような状態が続くのであれば、ここで充分幸せに暮らしていけそうだと、明子は思っていた。達也のことは、血の繋がらない兄かなにかだと割り切ってしまえばいい。そうすれば、彼が外で昔の彼女と仲良くしようと、気にならないに違いない。
だが、明子の考えは、ただの希望的観測でしかなかったようである。
「確かに、僕がいけなかったのかもしれないね。これからは、ちゃんと奥さんを大切にするよ」
達也は、両親たちの小言を殊勝な顔で受けると、明子に、こう提案した。
「その手始めに、ねえ、明子? お預けになっていた新婚旅行に行かないかい?」
「え? 旅行?」
「ああ。 仕事のほうは俊鷹に任せておけば、僕なんていなくても大丈夫みたいだから。しばらく、ふたりっきりで、ゆっくりしよう」
「ふたり……っきり、ですか?」
その言葉を聞いた途端に、明子は、背中のあたりがゾワゾワしてくるのを感じた。
「うん。いっそ1ヶ月ぐらい休みをとって、海外とか、どうかな?」
無邪気な表情を浮かべた達也が、更に問いかける。
「は、はあ。そうですねえ」
無意識に服の上から首の付け根のあたりを掻きながら、明子は生半可な返事をした。
言葉を濁すばかりの彼女の代わりに話に食いついたのは、紘一だった。
「それはいいな。1ヶ月でも2ヶ月でもいいから、明子ちゃんと存分に仲良くしてくるといい。ハワイなんてどうだ?」
「ハワイよりも、ヨーロッパがいいわよ」
「ヨーロッパは寒いだろう。明子さんの肌に悪い」
「あら、ハワイだって、暑くて陽に焼けるから明子ちゃんの肌に悪いわよ」
まだ行くとも決まっていないのに、義父母たちが行き先を巡って言い争いを始めた。
しばらくの間、明子は、微笑を浮かべて夫婦喧嘩の成り行きを見守っていたが、さり気なく席を立つと、部屋を出た。向かったのは洗面所。木製の引き戸を閉めて独りきりになるなり、彼女は服の裾を捲りあげた。
思ったとおり、露になった肌を満べんなく覆うように、最近見慣れたブツブツが大量発生していた。しかも、最初に症状が出たとき以上に酷くなっているようだった。鏡を見ながら前髪をかきあげれば、湿疹は、これまで出たことのない額にまで発生していた。
「どうして?」
明子は泣きたくなった。薬なら、少し前に飲んだばかりである。
「なにが、いけなかったの?」
追加の薬を飲んでから今回の発疹が出るまでの状況を、明子は頭の中で丁寧におさらいしてみた。
発疹が出始めたのは、背中がゾクゾクして全身があわ立つような感覚があった、あの時だろう。それは、達也がふたりきりで旅行に行こうと明子に言った直後だった。その時の明子は、達也と長時間ふたりきりになる状況を頭に思い浮かべていたと思う。
観光をするのも、街を歩くのも、宿泊する部屋も、いつでも、なにをするのも達也と一緒だなんて、愛し合う夫婦であるのなら嬉しいことだろう。だが、夫を愛することを諦めてしまった明子は、正直、困ったことになったと思っていた。もっと正直に言えば、『そんなに長い間、達也とふたりきりにされるなんて耐えられない』と、思っていた。
(そういえば……)
明子に最初にじんましんが出たのも、達也と甘いムードに落ちかけた時だった。いちいち思い返してみれば、明子の状態が悪くなったのは、達也に触れられたり、あるいは彼から親密な態度を示されたりした直後、または、多恵子や紘一が孫の誕生を心待ちにするような発言をした後だった。
では、夜になると必ずといっていほど体の痒みが増すのは、達也と同じベッドで休んでいるからなのだろうか?
じんましんが発症して以来、達也が明子を求めてくることはない。それでも、いつまた彼が夫としての当然の権利を行使する気になるかもしれないと気が気ではなかった彼女は、毎晩のように寝床で身を硬くしていた。
「まさか、達也さんが原因だったなんて」
明子は、鏡の中に映る今にも泣き出しそうな自分に向かって、うめいた。
その日以来、明子は、意識的に達也から距離を置くようになった。まるで達也を病原菌扱いするようで申し訳ないとは思うものの、背に腹はかえられない。
達也を避けたおかげで、明子のじんましんは、だいぶ改善した。そのうちに、無闇に彼から逃げ回らなくてもいいということもわかってきた。たまたま手が触れたぐらいならば、なんの問題はない。同じ布団で寝ていても彼に触れられなければ平気だし、ただおしゃべりをしているぐらいなら、なにも起こらない。要は、彼と親密さが増すような状況がいけないようなのだ。物理的にも精神的にも、達也と適正な距離を保つ。それが肝心。
だが、世の中は、やはり、明子の思い通りには進んではくれない。
明子の具合が良くなってきたとわかると、達也は、再び彼女と夫婦としての親交を深めたがるようになった。その上、先伸ばしになっていた新婚旅行にも、行く気満々であるようだった。
「明子は、どこに行きたい?」
旅行会社からもらってきた大量のパンフレットを達也に見せられたとたんに、明子のじんましんは、やはり悪化した。
「もうだめ。これ以上耐えられそうにない」
半年なんて無理。
新婚旅行も嫌。
じんましんだって…… このままでは、きっと一生治らない。
六条家から連絡があったのは、こんなふうに、明子が、すっかり悲観的な気分に陥っていた時だった。
明子の父親からの電話に直接応対した多恵子によれば、『たまには、実家にも顔を見せてくれるように』とのことである。言い方は柔らかいが、『もし断ったら、この家ごと明子ちゃんを連れて行きかねない勢いだった』 らしい。
どうやら、明子のじんましんのことが、父親の耳にまで届いてしまったようである。




