Wheel of Fortune 6
紘一が言ったとおり、達也は、比較的に早い時間に帰ってきた。彼の言うことを信じるならば、取引先との会食を終えた後、まっすぐに帰宅したとのことである。
結婚してから2週間。仕事とはいえ毎日午前さまで、しかも、ようやく早く帰宅できた日には明子に嘘をついて昔の恋人に会いに行ったくせに、彼は甘えるような口調で、「昨日も、早く帰ってきたんだよ。だけど、明子はいないしさ」、と、実に非難がましいことを明子に言ってのけた。
「それは…… どうも、すみませんでした」
さすがにカチンときた明子は、彼のためにお茶をついでやりながら、心のこもらない声で詫びた。明子の態度が硬化したことに達也は気が付かなかったようだが、多恵子だけではなく、彼女に『鈍い』と評された紘一までもが気が付いてくれた。
「明子さんにだって、たまの息抜きは必要だよ。お前は、自分のことを棚に上げて、なんという自分勝手なことを言っているのだ」
息子を叱る夫を加勢するように、多恵子がコクコクとうなづく。
「じ、じ、自分のことを棚に上げてって…… ぼ、僕は、やましいことなど、何もしていませんよ」
やはり、やましいことがあるらしい。達也の声が上ずった。
「は? 『やましい』?」
話が噛み合っていないので、紘一が怪訝な顔をする。
「私は、お前の帰宅がずっと遅かったことを言っているのだが?」
「ああ、そうだった、帰宅時間の話だったね」
自分の早合点だとわかった達也がホッとした顔をする。だが、素直に明子に謝るのは気が進まないようだった。彼は、ムッとしたように、「仕事のせいで遅かったんです。仕方がないじゃないですか」と、父親に言い返した。
(言われなくてもわかっているのだから、そういうことは、わざわざ言わなくてもいいのに……)
明子は、達也を非難する代わりに、小さなため息を吐いた。
義父母は、自分たちが口を出せば出すほど、若い夫婦の仲がこじれそうだと判断したようだ。彼らは、「ようやくの『水入らず』なんだから、とにかく仲良くしなさいね」と、ふたりに言い聞かせるようにして、そそくさと食堂から引き上げていった。
多恵子たちがいなくなった後は、食堂で交わされる会話も極端に少なくなった。夫婦だというのに、共通に盛り上がれるような話題も、お互いに知らない。
「それにしても、昨日も今日も帰りが早いなんて珍しいですね」
黙っているのも気詰まりなので、明子は、とりあえず、そう言ってみた。
「一昨日の会議で、俊鷹が僕の代わりに会社を立て直してくれることに決まったのでね。僕は、当面お払い箱になったんだよ」
変に明るい口調で達也が答えた。その決定は、彼にとって面白くないことであるらしかった。明子が黙っていると、彼は、負け惜しみのようなことを言い始めた。
「そうは言っても、彼にどこまでできるかといえば、はなはだ心もとないけどね。でも、僕ひとりが反対しても、どうにもならない。旧態依然のやり方に慣れ親しんだ父やおじたちは喜多嶋紡績グループの厳しい現状から背を向けて、俊鷹の甘い夢に同調することに決めてしまったからね。しばらくは、彼のお手並み拝見……という訳さ」
(なんか、嫌だな)
高い位置から森沢や他の親戚を嘲るような達也の物言いは、明子の神経に障った。
「まるで、森沢さんが失敗すればいいとでも思っていらっしゃるような物言いですね」
つい、そんな嫌味が、明子の口を突いて出た。
「そんなことは言ってないよ」
達也が笑う。
「ただね。俊鷹って、昔から理想ばかりを追いかけているような奴なんだ。和綿を復活させたいとか、枯葉剤は良くないとか……、そんな夢みたいなことばかり言っている」
「それの、どこがいけないんですか?」
「そうか、明子には、綿のことなんて知らないから、俊鷹の言っていることが、どれだけ無謀なことかなんてわかるわけがないよね」
達也が、訳知り顔で言う。
「つまりね、俊鷹の理想通りに綿を作ったら、普通にある綿に比べて、20倍から50倍もの値段がするものになってしまうんだよ。確かに質は良いかもしれないさ。でも、わずかな違いでしかないし、洗ってしまえば安全性にも問題はない。糸から布になり、それが服になって店頭に並んだ時、布を構成する一本の糸の良し悪しや手間の掛け具合にまで気を留めてくれる人がどれだけいるというんだい? 消費者は、自分が着ている服が、農薬まみれの糸も手間隙かけて作った糸かどうかなんて気にしちゃいない。質的に変らないなら、少しでも安いものを迷うことなく買っていく。そういうものだよ」
「それは、そうかもしれませんけれども……、でも、そうじゃないかもしれないでしょう?」
明子は、ムッとした。
(この人、今までも、こんな人だったからしら?)
以前から達也との会話が一方通行であることに明子も気が付いていた。だが、達也の話し方が、今日ほど気に障ったことはない。気持ちが醒めた途端に、好きだった男とは、これほど色褪せて見えるものなのか…… 明子にとっては新しい発見である。
「もちろん、安い綿だって必要だと思いますよ。その綿で作られた安い服だって、生活の必需品です。必要なものです」
森沢は、そのことをちゃんとわかっているようだった。
「でも、例えば1000人に一人ぐらいは、たった一着でも、最初の課程から心を込めて丁寧に作られた何かを身につけてみたいって気持ちが生まれることだってあるかもしれないじゃないですか?」
だから、その人たちのための作られるものがあってもいいのではないかと森沢は言っていた。できるだけ機械に頼らないで作った布は肌触りが全く違うから、まずは、それを知ってほしいのだと言っていた。始めは、ほんの小さなことでいいから、少しずつ和綿やオーガニックの綿を普及させていきたいと話してくれた。
「そりゃあ、和綿やオーガニックコットンを喜多嶋紡績の主力製品にすることはできないでしょう。それは森沢さんだって、おわかりになっていらっしゃるようでしたわ。それに、会社の建て直しのことだって、今朝のお話を聞く限りでは、かなり真面目に具体的に考えていらっしゃるようですよ。達也さんだって、高みの見物なんてしていないで、彼に協力して差し上げればよろしいのに」
話しているうちに、明子はかなりムキになっていた。
森沢は、考えなしに夢みたいなことばかりを言ってはいない。夢を実現したいからこそ、彼は、ちゃんと現実を見つめて、どうやったら成功するかを、あの人なりに地道に考えているのだ。
喜多嶋グループの建て直しについても、森沢は良くやっているのだろうと、明子は思っている。彼は明子に、これから調査して、経営にたずさわっている喜多嶋の親族たちに、今の状況を、しっかりわかってもらう必要があると話していた。
『厳しい現状から背を向けて』などという体裁の良い言葉で自分以外の人間を馬鹿にしている達也は、これまで彼らに伝える努力をしてきたのだろうか? 彼は、ただ数字の並んだ資料だけ配って説明義務を果たしたと思っているだけなのではないだろうか? そうであるならば、能がないのは、森沢ではなくて達也のほうだ。伝える努力さえしなかった達也に、皆を嘲笑う資格はない。
それに、達也は、森沢のように、彼と達也の祖父が会社を存続させるためにしてきた努力を知りもしないのだろう。たとえ、聞いたことがあったとしても、彼にとっては必要のない情報として、右から左へと耳の穴を通り過ぎて行っただけに違いない。明子が一生懸命話している今この時でさえ、彼は、そうであるようだった。
「俊鷹と、今朝、話した?」
おもむろに、達也が明子の両肩を掴んで、話を中断させた。
「今、そう言ったね? 彼を話をしたのか?」
「は……はあ」
明子は、ビックリしながらうなずいた。勢い余って、つい話してしまったが、やはり森沢と中村家が仲良しなのは話してはいけないことだったようである。
「その……森沢さんは、あれですよ。以前、たまたま姉と見合いをしたときにですね……」
「は? 中村さんのことなんて、どうでもいいよ」
言い訳めいた明子の言葉を、またしても達也が遮る。
「それより、俊鷹と、今朝、会ったの?」
彼が気になっているのは、どうやら、そのことだけであるらしい。
「俊鷹は、その……君に何かを言っていなかったかい?」
「何かって、何をでしょう?」
綿の話ならば、森沢から山のように聞かされたけれども……と、明子は首を傾げる。
「『何を?』って……ええと、その、だからさ……」
彼は、数秒間ほど言うのをためらった後、「その……一昨日のこと……とか?」 と、明子に探るような視線を向けた。
(あ、なんだ、そのことだったのね)
明子は、ようやく合点した。そういえば、達也は、一昨日、昔の恋人に会いに行くための口実に、森沢の名を出したのだった。だから、達也は、森沢の口から、そのことが露見するのを恐れているのだろう。
(せっかく森沢さんが庇ってくれたようなのに、どうして、この人は、わざわざ自分から墓穴を掘るような真似をしてしまうのかしら)
森沢が軽く達也を脅していることなど知らずに、明子は、苦笑いを浮かべた。そんな彼女の微笑みにまで反応して、達也が脅えた表情を浮かべる。
(そんなに、怖がらなくてもいいじゃないですか?)
あまりにもわかりやすい達也の表情を見ていたら、明子は、なんだか情けなくなってきた。
「森沢さんでしたら、『夜中に達也さんを呼び出して悪かった』って、私に謝ってくださいましたよ」
明子は事実だけを報告した。
「あ…… あ、そう。 彼、そう言ってた? なんだ、そうかあぁ。うん、そうなんだよ」
それまで緊張しきっていたらしい達也は、全身の力が抜けたのか、押さえていた明子の肩にぶら下がるようにして大きく息を吐いた。
「安心しましたか?」
ちょっとばかり……いや、かなり意地悪い気持ちになって、明子がたずねた。
「あ、安心って、嫌だなあ。僕は、別に何の心配もしていないよ」
顔を上げた達也が、目を泳がせながら、明子に強張った笑みを向けた。それから、彼は、何を思ったのか、おもむろに明子の肩を引きよせ、ふたりの距離を縮めた。
「ここのところ、僕の中では、いろいろあって……その、バタバタしていたんだけど。けど、でも、もう大丈夫。ちゃんとカタはつけたから。僕には、君だけだ」
明子を見つめながら、達也が更に近づいてくる。
「あの? 達也さん?」
「会社のことは、しばらくは俊鷹に任せて……ね? 僕らは、今、ここから始めよう? 僕らには、もっと知り合う時間が必要だ」
低い声で達也が誘う。彼の長い睫毛も唇も、触れそうになるぐらい近くにある。
「え? でも? だって、なんで? あの?」
明子は、うろたえながら、達也から逃げるように顔を後ろに引いた。
あなたには別の人がいるはず。
始めから、私のことなんて見ていないはず。好きじゃないはず。
今だって、そう ……であるはずだ。
(でも、浮気しないことにしたのかもしれない?)
(私を選んでくれる気はあるのかもしれない?)
明子の中で、そんな希望も頭をもたげはじめた。
(一時の気の迷いだったかもしれないし、実は何もなかったのかもしれないし……ね)
(私も、忘れたほうがいい……かもしれない)
「黙って」
瞼が触れるぐらいに近くに達也が迫ってくる。
(もう1回だけ、信じてみようか?)
(そのほうが、皆も安心するし)
(波風も立たないし……)
明子は、達也の囁きに応じて、目を閉じた。そして、達也を受け入れるように、自分から僅かに顔を上向かせる。
「愛している」
達也の唇が彼女のそれに触れた。その途端、彼女は、一昨日の夜に無理矢理に達也のものになった時のことを思い出した。あの時の達也が明子に触れた感覚。その時の恐ろしさと恥ずかしさ、そして悔しさと心細さが、記憶の中で鮮明に蘇った。
(嘘ばっかり。 なんて白々しい!)
明子は、達也に対して、全身が総毛立つほどの不快感を覚えた。
(あなたが好きなのは、あの人なのに)
(あの人のことを考えながら、ただ誤魔化すためだけに、私を抱いたくせに)
(また、あの時と同じのは、嫌)
(怖い)
(この人とは、嫌だ。あんな思いをするのは、もう絶対に嫌!)
「いやあっ!」
気が付けば、明子は、達也を両手で押しのけていた。思いがけない力ではねつけられて、達也がよろける。彼が離れた隙に、明子は、自分を守るように両腕で自分を抱きしめた。
「明子? どうしたの?」
妻に拒否されることなど思いもよらなかったのだろう。達也が目を丸くして彼女を見た。
(や、やっちゃった……)
我に返った明子の背中を冷や汗が伝っていく。
「え……と、その、ごめんなさい」
謝ると同時に明子はうつむいた。
「今日は、そのちょっと、心の準備ができていないといいますか……その……」
明子は、口ごもりながら、この場を切り抜ける理由を探した。
だが、達也は、またしても明子の話を聞いていないようだった。
「明子? どうしたんだ? それ?」
会話が噛み合わないまま、達也が再び明子に近づいてきた。
「え? あの? だから、やめ……てって……」
再び明子に触れようとする達也から逃げようと、彼女が手を振り回す。だが、今度の達也は、明子の腕を掴んで簡単に彼女を動けなくした。
「暴れないで。いいから、ちゃんと見せてごらん。その首のところ」
「く、首?」
暴れていた明子は動きを止めた。
「うん。ああ、これは酷いな」
達也は、明子のセーターのタートルネックを強く引っ張ると、露出したうなじから肩を見て顔をしかめた。
「これ、どうしたの。いつから?」
「ど、どうしたの……と言われても……」
達也に見せられた自分の素肌を見つめながら、明子は困惑気味に呟いた。
彼女の白い肌は、ブツブツ……というよりもボコボコと波打つように大きな湿疹のようなもので覆われていた。




