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悪い女のつくりかた  作者: 風花てい(koharu)
悪い女のつくりかた
23/88

Wheel of Fortune 5


 その日の午後は久しぶりに紫乃と買い物に出かけたので、明子が喜多嶋家に戻ったのは夜になってからだった。


「ああ、やっと帰ってきたのね」 

 たった一日留守にしただけなのに、姑の多恵子は明子の不在をひどく寂しがってくれていた。


 『着替えたらすぐに戻るから』と多恵子に言いおいて、明子は、いったん自室に引き上げた。後ろ手でドアを閉めるなり、コートを脱ぐことも忘れてバッグから達也のカフスボタンを取り出す。


「結局、達也さんには、この4つ葉しか見えていなかったってことなのよね」

 葉っぱが3枚に減ってしまった4つ葉のクローバーの形をしたボタンを掌に、明子は呟いた。


 3つ葉のクローバーなら、どこにでもある。3枚なのが普通だ。だから、たとえ4つ葉の1枚が欠けていたとしても、1枚足りないことを気に病みさえしなければ普通に幸せになれる。達也は明子に、そう話してくれた。明子も、達也の言うことを信じたから結婚した。


 でも、そうではなかった。 


 どれだけ沢山の3つ葉があろうと、4つ葉どころが5枚10枚の葉をつけたクローバーがあろうと、達也にとって価値があるのは、この恋人との思い出が染み込んだ4つ葉のクローバーだけだ。達也が愛しているのも、このカフスボタンの片割れであるハートの形をしたネックレスを持っている女性だけだ。彼の心は、そのハートの中に閉じ込められて、今でも彼女と共にある。 

 だから、明子が結婚した今の達也は、心を持たないただの抜け殻。喜多嶋グループの後継者として期待された通りに振る舞い、喜多嶋の家に相応しいというだけで選ばれた女に向かって空ろな眼差しで愛を誓い、形だけの幸せな未来を語ってみせる……そんな人形のような存在でしかないのだろう。

 心の無い人形だから、達也は、目の前にいる明子をまともに見ようともしないし、平気で嘘もつく。そして、そのことで明子が傷ついているかもしれないなんて考えようともしない。


「私が、その恋人だったなら、これほどの幸せはないでしょうね」


 明子は苦く笑った。たとえ別れても自分のことを一途に想ってくれる男性なんて、まるで小説の中に出てくる理想の恋人のようではないか? 自分が、その物語のヒロインだったら、明子はどんなに幸せだっただろう。

「でも、私に割り振られた役は、ヒロインと男性との恋路を邪魔する『脇役その1』なんでしょうね」

 明子は、しゅんと肩を落とした。 



 こんなことになるなんて思いもしなかった……と言えば、嘘になる。


 初めから……形状からしてペア仕様だと思われるカフスボタンを達也に見せられたときから、なんとなくではあるものの、明子にも予感はあった。常識で考えれば、見合いの席にいかにも昔の恋の思い出の品らしきアクセサリーをつけてくる男など、明らかに『変』ではないか?

 それでも、達也の話しぶりからして終わった恋のようではあろうと思ったから、明子は、今さら彼の過去を問うことはするまいと思った。この先、達也が自分以外の女性に心を移したとしても、それは昔の恋人ではなく、これから知り合うであろう別の誰かであろう。もしも、そんなことが起こるとすれば、もっと先のことであろうし、明子と達也の結婚生活がうまくいかなくなった結果として起こることならば、普通の……愛し合って結ばれたカップルの結婚でも起こりうることだと思ったから、明子は彼との結婚を承諾したのだ。

 それなのに、結婚したときから夫は昔の女をだけ愛していました……というのは、幾らなんでも明子の想定外である。



(これからどうしよう?)


 そのことを、明子は、一昨日からずっと考えている。


 もともと、家同士の都合で結婚したのだ。夫に別の女がいたことがわかったからといって、いきなり離婚するわけにもいかないだろう。なにより、達也は昔の恋人のことを想い続けているだけであって、実際に浮気をしているかどうかもわからない。


 どちらにせよ明子にとっては耐え難いことではある。だが、ただ想っているだけの達也に腹を立てて離婚というのは、さすがに大人げないような気がする。


(お父さまに言えば、なんとかなるだろうけれども……)


 明子の父親の六条源一郎ならば、娘のために、できない無理でも通してくれる。それは明子にもわかっている。

 だが、あの父親のことである。離婚が成立した暁には、彼は、喜多嶋グループに対して、とんでもない報復行動に出るだろう。それでは、明子にとても良くしてくれた姑の多恵子と舅の紘一、それに喜多嶋グループ全体に多大な迷惑をかけてしまうことになる。

 それだけは絶対に避けたい……と、明子は思う。それに、せっかく森沢が頑張って喜多嶋グループを立て直そうとしている矢先に、明子の父親のせいで全てを台無しにされるのでは、彼も可哀想だ。


(それに……どうでもいいといえば、もう、どうでもいいのよね)


 自分でも呆れているのだが、達也が別の女性を愛していることがハッキリしたというのに、明子は悔しくも悲しくもなかった。焼きもちさえ焼く気になれない。かといって達也を憎らしいとも思わない。

 なんといったらいいのだろう。一昨日、女に会っていたことを誤魔化すためだけに達也が明子を抱いた……あの時以来、彼女の彼に対する気持ちが完全に切れてしまっているようなのである。はっきり言って、明子は、彼のことなどどうでもよくなっていた。他に欲しい人がいるというのであれば、のしをつけた上で進呈しても構わないとさえ思ってしまう。


(でも、私は達也さんの妻なのだから、やっぱり、達也さんと話合うとか、相手の女性と会ってみるとか、達也さんを取り返す努力をすべきなのかしら?)


 単に争いを避けたいだけなのかもしれないが、そう考えただけで、なんだか面倒臭くなってくる明子である。

(あんまり、騒ぎにしたくないな。それに、もしかしたら、一時的なものかもしれないし……)

 明子は、自分で自分に言い訳を始めた。


 今の達也は、久しぶりに昔の恋人が現れたことで、動揺しているだけかもしれない。あとしばらくすれば、結婚式前の達也に戻る可能性だっておおいにある。それに、結婚式からまだ2週間しか経っていない。別れ話をするには時期的にも早すぎる。


「とりあえず、あと半年ぐらいは様子を見ないといけないわよね」

 明子は、自分に言い聞かせるように呟いた。


 その半年の間に、達也が昔の恋を思い切って真正面から明子と向き合う気になったら……

 彼が明子を生涯を共にする伴侶として認めてくれていると、彼女が思えるようになったら……

 そうしたら、その時は、今回のことを明子ひとりの胸にしまってしまえばいい。その時には、明子も達也を夫として心から慕えるように努力しよう。


(あとは、達也さんが、この後どうするかだけど)

 達也の昔の恋人というのは、きっと、結婚式の日に雨の中に立っていた白い服の女性だろうと、明子は思っている。ずぶ濡れになりながら、明子を見上げていた女性…… あの調子なら、彼女もまた、きっと達也のことを愛しているに違いない。


 一昨日、彼女に会いに行ったらしい達也は、彼女と復縁したのだろうか?

 それともこれからするつもりなのだろうか?

 あるいは、過去は過去だと割り切って、明子のところに戻ってくるつもりなのか?


 いずれにせよ、あくまで達也次第だと明子は決めた。明子のほうからは、これ以上は彼に寄り添う努力をする気にはなれない。

(私には別に離婚を急ぐ理由もないし……ゆっくり構えていればいいわよね?)

 離婚したところで、明子には、父親が選んだ別の大企業の御曹司に嫁がされる運命が待っているだけだろう。次の結婚とて、上手くいく保証はない。

 それに、達也のことだ。自分に不利な醜聞は絶対に避けたいだろうし、六条家の娘をもらった覚悟ぐらいはあるだろう。本当に好きな人が誰であろうと、しばらくの間は、結婚したての妻を粗略に扱うことはないだろうから、表面的には明子に対して礼儀正しく振舞ってくれるに違いない。

 義理の両親は気の良い人たちであるから、この家の居心地自体は悪くないのだ。明子は、しばらく……、あるいは、ずっとこの家にいて、人形化した夫相手に妻としての役割を演じていればいい。達也との離婚を本格的に検討するのは、彼との仲が決定的に壊れてからでも遅くはないだろう。


 明子の考えが大体まとまったところで、部屋の外から、多恵子が呼ぶ声がした。明子は、カフスボタンを慌ててコートのポケットに隠した。それと同時に、多恵子が部屋に入ってきた。

「明子ちゃん、お茶が冷めちゃうんだけど…… あら? まだ、そんな格好をしているの?」

 部屋の真ん中でコートも脱がずに突っ立っている明子を見て、多恵子が怪訝な顔をした。


「す、すみません。なんだかボーっとしちゃって」

 明子は、笑顔で取り繕いながらコートを脱ぐと、ハンガーにかけた。

「ちょっと待って、糸がついているわ」 

 多恵子が、クローゼットにしまわれかけた明子の黒いコートの袖口に張り付いている白い糸を摘み取った。それは、今朝、森沢が綿の実から作ってくれた糸だった。『こんなもの、どうするの?』と森沢に笑われながら、明子がもらってきたものだ。カフスボタンを隠すためにポケットに突っ込んだ手を出したとき、袖にくっついて出てきたらしい。


「あらまあ。 なんて太くて不細工な……手縒りの糸?」

 多恵子が摘み上げた白い糸を目の前にぶら下げて、不思議そうな顔をした。

 「ああ、それは、森沢さんが……」と言いかけて、明子は口をつぐんだ。確か、森沢が中村家と親交があることは内緒であったはずである。なんと言い訳しようかと明子がまごまごしている間に、多恵子が、「わかった! この糸を作ったのは、俊鷹くんでしょう?」と言い当てた。


「お義母さま。 どうしてそれを?」

「なに? 糸のこと? それとも俊鷹くんが中村さんや六条さんと親しいこと?」

 びっくりした顔をする明子を見て、多恵子がカラカラと楽しげに笑った。

「いやあね。俊鷹くんは紘一に気兼ねして隠そうとしていたみたいだけれども、結婚式の時の彼の様子を見ていればわかるわよ。でも、紘一は、いまだに気が付いてないみたいよ。鈍いからねえ、あの人。真っ正直で嘘も下手だしね。紘一だけじゃなく、喜多嶋一族の男って、そういう人が多いわね」

「あ、そうなんですか」

 達也が鈍いのは遺伝でもあるのか…… そんなことを考えて、明子の顔に苦笑いが浮かんだ。


「それで? 昨日は、俊鷹くんも中村さんちに来ていたの?」

「はい。義兄の招待だそうです」

「変でしょう? あの子」

 多恵子が思い出し笑いをする。

「糸や布のことに、やたらと詳しかったりするのよね。だけど、あの子のお父さんは、もっと変なの。だからねえ、ふたり揃うと大変なのよ」

「はあ」

 2倍になった森沢を想像した明子は、確かにそれは大変そうだと思った。


「察するに、昨日は綿の話だったみたいね。じゃあ、あの話はした? 枯葉剤とか?」

 森沢が作った糸をヒラヒラさせながら、多恵子が部屋を出て食堂に向かう。「はい、うかがいました」と答えながら、明子も多恵子の後を追った。


「機械で綿を収穫するために邪魔だからって薬で葉っぱを全部枯らしちゃうだなんてねえ。なんだか、子供が大きくなった途端に、もう必要ないからって親を捨てちゃうような話じゃない? しかも、畑の土にも作っている人の体にも良くないのでしょう? 自分を育ててくれた皆に迷惑かけないと収穫できないなんて、恩知らずな植物よねえ」

「そ、そう言われてみれば、そうかもしれませんね」

 多恵子の独特な感想に、明子は苦笑しながら相槌を打つ。

「しかも漂白剤とか柔軟剤とか、それと、接着剤みたいなのとか? 白い糸にするまでにも、まだまだ沢山いろんな薬品を使うわけでしょう? ポールも言ってたわ。『最近の糸や布はとてもキレイになったけれども、昔に比べると色気と優しさに欠けるって』」



「は? ポール?」

 『……って誰のことですか?』 と、明子が問いかける前に、玄関の方向から『なに? ポールだと?!』と、ひどくイラついた舅の声が聞こえてきた。 


「お帰りなさい、あなた。 今日は随分とお早いんですのね?」

 瞬時に上品な奥さまに早変りした多恵子が、足音を立てて向かってくる紘一に笑顔を向けた。


「多恵子。いつの間に、あの男と話をしたんだ?」

 紘一は、帰りの挨拶に応じる余裕もないらしい。真っ直ぐに多恵子に近づくと、彼女を問い詰めた。


「今日の夕方に、お電話が掛かってきましたの。久しぶりに来日したから、一緒にご飯でも食べましょうって、彼から誘われました。もちろん、あなたも一緒でかまわないそうよ」

「なにが、『一緒でかまわない』 だ。あいつのことだ。私が君に付いていったら、食前酒に毒を盛るだろうよ」

「また、そういう意地悪を言う。あの人はねえ、あなたをからかって面白がっているだけよ」

 「実際、面白いしね」と言いながら、多恵子は背伸びをすると、紘一の頬に音を立ててキスした。


「多恵子ぉ、明子さんの前で……」

「大丈夫よ。本当はね。明子ちゃんには私の本性はバレているの」

 ムッツリとした表情で赤くなった紘一に向かって、多恵子はペロリと舌を出した。

「バレたんじゃなくて、お前がバラしたんだろうが?」

 紘一が、多恵子に咎めるような視線を向けた。だが、すぐに、「でも、まあ、うるさかった母さんが死んでだいぶ経つし、今じゃあ父さんもいないしな。お前もしたいようにすればいいか」と、諦めたように、ため息をついた。 


「それより、なぜ、ポールが日本に来てるんだ? 仕事か?」

「あの人は『キタジマに呼ばれたから、わざわざ来てやったんだ』って言ってたわ。だから、私は、あなたが呼んだのだと思ったのだけど」

「さては伊織だな。あいつは、何を考えているんだ? 俺に対して嫌がらせばかりするんだ」

「そんなの、あなたの思い過ごしよ。お腹がすいているから、そんな風に思うんだわ。とりあえず、ご飯にしましょう。それとも、お風呂が先? なんだったら、一緒に入る?」

 多恵子が苦虫を噛み潰したような紘一の腕に手を回し、今日の献立を紹介しながら、食堂に連れて行こうとする。


「あ、そうだ。明子さん。今日は達也も早く帰ってくるらしいから!」

 多恵子に引っ張られながら、紘一が明子を振り返った。 

「一昨日、仕事がらみとはいえ、明子さんとの約束をすっぽかしたから、その穴埋めをしたいみたいだよ。気のきかん奴だが、奴は奴なりに頑張ろうと思っているみたいだから嫌わないでやっておくれね」

「いやあね。明子ちゃんが、達也を捨てるはずないじゃない! 大丈夫。うちはずっと幸せだから! ね。明子ちゃん?」

 珍しく気弱げな夫を多恵子が笑い飛ばした。


(やっぱり、この人たちを悲しませたくない)

 明子は、いささかの罪悪感を感じながらも、「は、はい。大丈夫です」と彼らに答えるしかなかった。





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