Wheel of Fortune 4
「綿畑だったんだ」
そんな言葉で話の口火を切ってしまった森沢は、内心で「あ~あ、またやっちまった」と早くも後悔していた。
この話題は、実は、森沢にとってのタブーである。特に女性を相手に話すことを極力避けてきた話題だった。なぜなら、とにかくウケが悪い。自他共に男っぷりが良いと認める森沢が、女にそっぽを向かれる一番の原因となっている。
実際、数年前の森沢は、当時かなり真面目に付き合っていた女性から、これが原因でフラれている。初めから当て馬扱いだったとはいえ、紫乃と見合いをさせられた時にも、彼は、母親から、初対面の六条家のお嬢様の前では決してその話はしないようにと、何度も念押されたものである。
仲のよい友人たちは、森沢がこの話をしたところで、「また、その話か」と笑って聞き流してくれるだけだが、あまりしつこいとうっとうしがられる。森沢自身も、この話をする自分は実に暑苦しくもうっとうしい奴だという自覚が十二分にある。
逆に言えば、森沢に対して、都会的で洗練された金持ちの御曹司(森沢は傍系なので正確には御曹司とは呼ばないのかもしれないが)のイメージを求めて近づいてくる軽くてキレイなお嬢さんたちの相手をするのが面倒くさい時にも、この話題は有効だった。なぜなら、大抵の女性は、森沢がこの話を始めた途端に、『何を言い出したんだ、この男は?』と、あからさまに彼を怪しみ、距離を置こうとするからである。
さて、現在森沢の前にいる明子であるが、彼女は、森沢がこの話を始めても、いきなり彼を不審な目で見るようなことはしないでくれた。そればかりか、彼女は、「わた、ですか?」と、彼の話に興味を示すことさえしてくれた。
思いやりのある明子の態度に勇気づけられた彼は、よせばいいのに、「うん、確かここに……」と言いながら、ジャケットやズボンのポケットを探って、小さなビニール袋を引っ張り出した。ビニールの中に入っているのは、小さな白い綿の塊でしかない。森沢の手の上に乗せられたそれを見て、明子が小首を傾げた。興味を示しているようにも見えるし、どこにでもあるようなものを見せられて、どう反応したらいいか戸惑っているようにも見える。
「触ってみてごらん」
森沢は、綿を乗せた自分の手を明子の前に差し出した。
彼に言われるまま、明子が小さな綿の塊に手を伸ばした。細い指先が綿に触れた瞬間、彼女は一瞬怪訝な顔をし、それから、「わぁ」という、吐息のような声と共に顔をほころばせた。
「これ…… この綿の中にあるのって、種ですか?」
「そうだよ。綿の種」
明子の反応を嬉しく思いながら、森沢はうなずいた。
「初めて見ました。こんなこと言うと笑われちゃうかもしれませんけれど、綿って本当に植物なんですね」
明子がフワフワとした綿毛に守られた種の感触を何度も確かめながら笑った。
「笑ったりしないよ」
森沢は微笑んだ。世の中には、綿が動物の毛だと思っている者だって大勢いるのだ。
「これが糸になるんですよね? どうやって?」
「どうやってって、こうやって……」
森沢は、実際に糸にするためにしなければならない幾つかの工程をはしょって、種を覆う繊維を少しずつほぐしながら指先で縒り始めた。
「まあ、すごい。本当に糸になっていきますね」
すごいすごいと、明子が、しきりに感心しながら森沢の指先から紡がれていく細い糸を見つめている。明子に喜ばれて気を良くした彼は、つい得意になって「俺が作ったんだ」と、しなくてもよい自慢をしてしまった。
「この綿を? 森沢さんがですか?!」
明子が目を大きく開いて驚いた。
「といっても、俺ひとりでじゃないけどね」
森沢は照れ笑いを浮かべた。ここまで明子が素直に感心してくれると、かえって気恥ずかしくなってくる。
「うちの研究所の畑で作っているんだ。これは、和綿といって……」
「和? 日本の綿?」
「そう。今じゃあ、すっかり珍しくなっちゃったけどね」
森沢は、ほろ苦く笑った。
森沢たちが育てている綿は、一般的には和綿と呼ばれている。地域によって多少の品種の違いはあるものの、昔から日本のいたるところで作られ、服にも布団にも油にも使われていた、どこにでもあった綿である。毛足が短く弾力性のある和綿の繊維は、毛足が長くてしなやかな米綿やエジプト綿に比べると機械による紡績には向かない。また、安い労働力で作られた綿を海外から大量に手に入れることができるようになったこともあり、国内での綿作りは、明治の終わりごろから、戦後の一時期を除けば衰退の一途をたどることになる。枯葉剤の使用によって機械を使った大規模な綿の摘み取り可能となり更に安い綿が大量に輸入されるようになると、完全に廃れた。
「ちなみに、枯葉剤っていうのは……」と、話の流れで枯葉剤のことを説明しかけた森沢は、すんでのところで思いとどまった。枯葉剤については言いたい事が山ほどあるだけに、そこまで話が及んでしまうと、話が終わらなくなる恐れがある。
だが、「でもね、大量生産の並に乗れなかったってだけで、和綿を初めとしたアジア系の綿が劣っているという訳ではないんだよ」 と、森沢がついつい和綿の肩を持ち、「毛足が短くて弾力性があるってことは空気を多く含む糸ができるってことだ。エジプト綿で寄った細い糸から、暑いところで暮らす人向きの薄くて涼しい布ができるように、この綿からは、寒いところや湿度の高いところで暮らす人向きの、保温性や吸湿性が優れた厚手の暖かな布ができる。その土地その土地で、そこで暮らす人が着る服に適した綿が作られていたというわけ」などと、更に詳しい説明を始めてしまっても、明子は迷惑そうな顔ひとつしなかった。それどころか、「つまり、この和綿は、日本人にとって、天からの恵みのような植物だったわけですね?」などと嬉しい相槌まで打ってくれるものだから、森沢の舌は、ますます滑らかになり、結局、一度は思いとどまった枯葉剤の話までしてしまうこととなった。
そこまでやっても、明子は、森沢の長い長い話を笑みを絶やさずに聞いてくれていた。
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一方。
明子は、いつまで続くかわからない森沢の話に退屈もしなければ、カフスボタンを探すことを中断していていることさえも気にならないほど面白く聞いていた。
しかしながら、明子もまた、他の多くの女性たちと同様に、それまでの森沢に対する印象を『クールで都会的』『ハンサムで洒落っ気のあるプレイボーイ』から『変人』に改めていた。もっとも、明子は、『クールで都会的でハンサムなプレイボーイ』と 『軽薄な遊び人』とを同じ意味だと認識しているので、森沢のこの変り様は、とても好ましいものに思えた。
(人って、見かけによらないものなのねえ)
今朝から森沢の意外な一面ばかりを見せられている明子は、つくづく思った。
少しくすんだ白い綿の塊からスルスルと紡ぎ出される糸のように、森沢の言葉は澱みがなく終わりもないように思われた。手の中の綿毛が尽きると、彼は、紡ぎだした糸の端と端を合わせて更に縒り始めたが、それでも話は終わらない。
そして、多少のムラはあるものの、引っ張っても簡単には切れそうもない20センチ程度の長さの糸が出来上がり、明子が、そもそも何の話からこのような話になったのかを忘れかけた頃、森沢が、「ごめん、話が、すっかり脱線してしまったようだ」と、ようやく我に返り、照れ笑いを浮かべながら慌てて話を元に戻した。
「ええと、話を戻せば……だね。和綿は、高いばかりのB級品であるかのように評価されたことで、作っても売れなくなってしまったんだ。そして、高い綿でつくった高い糸を売っても売れないから、うちの祖父さんがまだ若いうちから、喜多嶋紡績でも海外から輸入した安い綿を使わなければならなくなった。だけど、俺が住んでいるところは、昔から綿づくりが盛んな土地でね。喜多嶋の家は、そこで作られる綿とその生産者のおかげで財をなし、彼らと一緒に発展し栄えてきたわけ」
「いわゆる企業城下町というやつですか?」
「そう、それ。喜多嶋の当主は、今だに町の人から殿さまみたいに思われている」
森沢がうなづく。
「だから、祖父さんも、ひい祖父さんも、何世代にもわたる付き合いがある生産者に向かって『ここの綿はもういらないから、あんたたちも、もういらない』 なんてことを言って彼らと縁を切るわけにはいかなかったし、切るつもりもなかったんだよ。それで、綿が売れないのなら、綿の代わりになるものを作って売ろうと考えた。例えばバラとか……」
「バラって、お花の?」
「そう。バラを作って、国内産の香水を作ろうと思いたったんだね。高く売れそうだからっていうだけ理由で」
馬鹿だろう? そう言いながら森沢が苦笑する。
「どんな品種をどれぐらい植えたらいいか、どうやったら花から香水ができるのか? そんなことも知らないで始めちゃったんだ。だから、最初は失敗続きだった。祖父と数人の有志が集まって、沢山の文献を取り寄せて勉強し、研究を重ねた」
それが喜多嶋の研究所の始まりであるという。
そして、試行錯誤の結果、ようやく出来上がった香水が、喜多嶋化粧品の最初の商品となったそうだ。
舶来品よりも質は劣るかもしれないが、安価な香水は、日本人の好みを考えて、あえて控えめな香りに調合したこともあって、たちまち話題になり、飛ぶように売れた。お調子者ぞろいの喜多嶋一族は、この成功に気を良くし、その後は、白粉や口紅などの他の化粧品も扱うべく商売の手を広げていった。
「……で、その化粧品を売った利益で余裕ができた喜多嶋紡績は、国内の大学で開発された化学繊維の生産にも乗り出した。これも、大当たりしたので、喜多嶋は押しも押されぬ大企業になった。でも、どんなに町が豊かになっても、祖父さんも、それから町の人たちにも、どうしても残しておきたいものがあった」
「それが、この和綿ですか?」
「うん。なんとか商品作物として残せないかと、20年ぐらい前までは、頑張って作り続けていたらしいだけど」
だが、高く売れないものは安く売るしかない。綿を作れば作るほど赤字続きになり、昭和30年頃になると、化粧品や化繊の売り上げで補填するのも無理になるほど、どうにもやっていけなくなって、綿作りを諦めるしかなくなった。今では、種を守るために、研究所の畑で細々と栽培されているのみである。
「それでも、祖父さんは、いつかまたこの綿を売ることを夢見ていた。良いものを売れないからという理由でなくしてしまうのは忍びないからって。それに、いつかきっと、農薬をバンバン使って安い綿を作ること、つまり、本来高いはずのものを無理に安く作ることへの反動が来るはずだからって、そう言ってた。『質で勝負するなら、この綿は負けない。いつか、手間と質に見合うだけの価値を消費者に認めさせてみせる』っていうのが死んだ祖父さんの夢で、困ったことに、祖父さんは、死ぬ間際に俺にその夢と小さな綿畑を押し付けて逝きやがったわけだ」
『本当に迷惑なジジイだった』と文句を言いながら、森沢がさも迷惑そうに顔をしかめた。でも、そんなポーズは彼の照れ隠しに違いないということは、これまでの森沢の話を聞いていれば、明子にもわかる。
(本当は、夢のある、とても一生懸命な人なのね)
森沢のしかめ面も見ながら、明子は微笑んだ。
その瞬間、明子の心臓が、とくり、と、大きな音を立てたような気がした。
もちろん、他人の心臓の音など周囲に聞こえるようなものでもないから、森沢は普通に話し続けている。
「それにさ、和綿が認められるようになっても、紡ぐ機械がないんじゃまた負ける……というわけで、研究所は、長年糸紡ぎ機の改良と開発にも取り組んでいたり、その他にも、バラの品種改良やら、肌に優しい製品の開発やら、そこから発展して他の植物の薬効の研究やら、漢方やら、医薬品やら、あとは高機能繊維の開発や、合成繊維の研究とか、織り機とか、環境問題への取り組みとか、静電気とか……」
「え? それ全部、森沢さんの所の研究所がやっているんですか?」
明子が目を丸くすると、森沢は「一部は違うけど」と否定しつつ、「でも、今言ったこと以外にも、まだまだいろいろしている」と言った。
「うちの研究所は、いつもいつも、祖父さんに無理難題を押し付けられても弱音を吐かずに必死になってやってきたんだ。そりゃあ、『研究のためならば』と甘えて、考えなしに予算を使いまくっていた研究所にも問題があるよ。そこは、ちゃんと改めなくちゃいけないとも思っている。でもさ、いきなり数字だけ見て、あっさり『無駄』と決め付けた挙句に、日本は人件費が高いからっていう理由で、国内で働く従業員をアッサリ切り捨てて、海外に工場を移すってのは、なんなんだよ? 会社とそこで働く人を守るために、祖父さんたちが、どれだけ苦労してきたのか、それを知りもしないで、自分たちの得にならないからって、なんの痛みもなく簡単に捨てようとするなんて……」
達也の…… 馬鹿野郎おおおおおっっ!!
……と、森沢は、天に向かって呑気に手を振っているようなススキの穂を達也に見立てて叫んだ。
彼の声に驚いて、家のあちこちの窓から、中村家の人々が顔をのぞかせた。
だが、多くの視線を集めて恥ずかしい思いをしたのは、明子だけであるようだった。
何を思ったのか、森沢は、いきなり走り出すと、行く手を阻む植え込みをハードルのように飛び越えながら、彼が怒鳴りつけたススキよりも右斜め前の方向にある一本の常緑樹に向かっていった。そして、木の下で立ち止まると、何度か跳びあがり、頭上の枝を叩いて揺らした。
「枝のところが光った気がしたものだから、もしかしたらと思ったら、やっぱりそうだった。下ばっかり探してたから、全然気が付かなかった」
ニコニコしながら戻ってきた森沢が、明子に報告する。
「しかし、4つ葉のクローバーの何がそんなにありがたいのかねえ。俺は、3つ葉のほうがデザイン的には優れていると思う。しかも、3つ葉なら、わざわざ探すこともないほど、どこにでもある。俺が羊なら、迷わずに沢山あるほうを選ぶけどなあ。そのほうが腹が一杯食べられて、ハッピーになれるじゃないか」
どうやら綿だけではなく羊毛にも詳しいらしい森沢が、妙なことを言って明子を笑わせた。
「羊と人では違いますよ。珍しいものだからこそ、人は、4つ葉のクローバーを幸運の印だと思ってありがたがるのでしょう?」
「でも、当たり前に沢山あるものほど、ありがたいものはないんだよ。だからこそ、なくしたときには、とても寂しい」
そんな言葉と共に、森沢が明子の手の中に達也のカフスボタンを落としてくれた。




