Wheel of Fortune 2
同じ頃。
誰かに噂でもされているのか、紫乃は、くしゃみの発作に襲われて目を覚ました。横を向くと、隣に寝ていたはずの妹の明子の姿はすでにない。彼女が使っていた布団も、きれいに畳まれていた。明子は捨てられたカフスボタンを探しにいったに違いないと、紫乃はすぐに思い当たった。
「あの子ったら、あれだけダメだって言ったのに……」
あのカフスボタンはあってはいけないもの。 紫乃には、そう思えてならなかった。
あれは、おそらく、達也が昔の恋人を思い出すためのよすがとして常に彼の身近に……明子が嫌でも気にせずにはいられないような場所にあったに違いない。そうでなければ、あの明子が、人の持ち物を勝手に持ち出したりするわけがないからだ。
達也がどれほど昔の恋に心を残していようと、過去は過去。彼が明子と結婚した以上、思い出をいつまでも形として残しておくのはよくない。あのカフスボタンをきっかけにして焼けぼっくいに火がつくようなことが、あってはならない。娘を傷つけられた自分たちの父親がどのような行動をとるかについては、紫乃の時に立派な前例ができている。達也が明子を不幸にするようなことがあれば、父は、達也と喜多嶋グループを破滅させることだろう。
ならば、昔の恋の形見など、いっそ誰の目にも触れないところに葬ってやるのが親切というものではないか? せっかく森沢が捨ててくれたというのに、明子はあれを探し出してどうしようというのか?
「本当に馬鹿なんだから。森沢さんも、どうせ捨てるなら、もっと念入りに捨ててくれればよかったのに。池に沈めてしまうとか、穴を掘って埋めてしまうとか……」
文句を言いながら着替えをすますと、紫乃は部屋を飛びだし、小さいほうの食堂へと向かった。明子がカフスボタンを探しているのならば、その食堂の窓から見渡せる裏庭のどこかを下を見ながらウロウロしているに違いない。そんなことを考えながら廊下を突進していた紫乃であるが、半開きになっている居間の扉の内側に夫の姿を見つけるやいなや、彼に吸い寄せられたかのように進む方向を転じた。
「おはよう。紫乃さん」
弘晃が、目の前に広げていた新聞を下ろして紫乃に笑顔を向けた。
「おはようございます。 もう起きてらしたんですの?」
紫乃は顔を曇らせた。昨夜の弘晃は、夫婦の居室とは別に彼が子供の頃から使っている仕事場兼病室で、森沢や義父と遅くまで話をしていたはずである。
「まだ、寝てらしたらいいのに。今日は、熱は?」
「大丈夫だよ」
小言を言いながら額に手を当てようとする紫乃を邪魔するように、弘晃が擦り寄ってくる。熱はないようだし、ためらうことなく紫乃にくっ付いてくるところをみると、今の弘晃には隠しておきたいような具合の悪いところはないということなのだろう。
ひとまず安心した紫乃は、弘晃の温もりを楽しむことにした。もこもことした彼の濃いグレーのセーターに顔を押しつけながら紫乃が幸せな気分に浸っていると、どこからともなく、彼女にとって大変馴染み深い声が聞こえてきた。
明子の声だと、紫乃には、すぐにわかった。だが、その声は、普段の明子の声と比べると、何かがひどく違っているように紫乃には思えた。
「外を見てごらん。見つからないように」
困惑しながら顔を上げた紫乃に弘晃が微笑みかける。彼に背中を押されるようにして、紫乃は窓辺へと向かった。
野にあるものは野にあるように……と、職人がわざわざ手間をかけて野生的に仕上げた裏庭では、紫乃が予想していた通りに、明子がカフスボタンを探してさまよっていた。そして、なぜか、森沢までもが、明子の探し物を見つける手伝いをしていた。ふたりの話し声もするのだが、窓に遮られているせいで、会話の内容までは紫乃の耳には届かない。
「なんの話をしているのかしら?」
窓ガラスに額をくっつけるようにして明子たちの様子をうかがっていた紫乃は、じれったくなって窓を小さく開けた。冷たいすきま風と一緒に、「だから、そこは、もう探したって言っているだろう」という森沢の機嫌が悪そうな声が飛び込んできた。
その声の大きさに驚いた紫乃は思わず身を引いた。けれども、彼女の驚きは、そこで終わらなかった。なんと、明子が……あの従順で人との争いを好まない明子が、知り合って間もない森沢に向かって、「あんなの探したうちに入らないと思います!」と、きつい口調で言い返したのである。
「棒の先で藪の中を突っついただけじゃないですか。探すのを手伝ってくださるのだったら、もっと真面目にやってください。ほら、その辺とか、その辺とか」
「はいはい、わかりましたよ。真面目に探せばいいんでしょう? 探せば」
森沢はおっくうそうに立ち上がると、明子が指し示したヤエムグラの小さな茂みを掻き分け始めた。
(あの明子が、男の人と口喧嘩している?!)
(しかも、命令までしてる?!)
目をまん丸にして驚く紫乃の口から、「あら、まあ……」という言葉がこぼれ落ちた。
「止めようかなと思ったんだけども、止める気になれなくてね。明子ちゃんのことは、あのまま森沢さんに任せておいたほうがいいかなと思ったんだ。昨日の彼女は、ずいぶん無理をしているように見えたから」
「そうね」
明子に目を向けたまま、後ろに立つ弘晃に背中をくっつけると、紫乃は嬉しそうに微笑んだ。人に心配をかけまいとして一生懸命笑っていた昨日の明子に比べたら、今の怒っている明子のほうがずっといい。ずっと、生き生きとしている。
「もうしばらく、あのままにしておきましょう」
紫乃は弘晃を振り返ると、窓辺を離れた。そのタイミングを見計らったかように、中村家の料理人の女性が、陽気な声で挨拶をしながら紅茶を運んできた。紫乃は、その女性に、明子と森沢の朝食が遅れるであろうことを伝えた。
「ふたりだけじゃなくて、全員の朝食を遅らせてしまっていいよ。お父さんも、今朝は出社ギリギリまで寝ていたいと思うから」
弘晃が言い添えると、紫乃に、「昨日、深夜まで森沢さんと盛り上がっていたのは、僕じゃなくて、お父さんなんだ」と説明した。
「まあ、おとうさまが?」
義父と森沢の間に、盛り上がれるような共通の話題などあるのだろうかと、紫乃は不思議に思った。
「すごかったんだよ。すのこの絹糸の話から始まって……」
「すのこ? 糸?」
「ほら、手作業で紙を漉くときに、大きな木のお盆みたいなのを、紙の原料を溶かし込んだ水の中で揺らすでしょう?」
首を捻る紫乃に、弘晃が紙を漉く動作をして見せた。
「なんでも、どこかの襖絵だか壁の絵だかの修復のためにどうしても必要な厚手の手漉きの紙があるそうでね。その紙を漉くことができる職人さんも少ないのだけれども、その紙を漉くための道具を作れる職人さんは、もっと数が減っていて、更に、その道具を作るための材料を作る人は、もう絶滅寸前だとか」
紙漉き用のお盆……舟の底には、紙の繊維を受け止め、水だけが抜けるように竹でできたすのこが敷かれている。そのすのこを作るのに欠かせないのが、森沢たちが話題にしていた手よりの特別な絹糸だということである。
「普通の絹糸ではいけないんですの?」
「ダメらしいね。それから、掛け軸の裂地の話とか」
「絵を貼り付けるための後ろの長い布のことですか?」
「そう。ふたりとも詳しいのなんのって……」
珠光緞子に笹蔓緞子、利休間道に有栖川錦、梅波文風通等々……
それらの用語は、弘晃にはチンプンカンプンだったが、ふたりがあまりにも楽しそうだったので質問をするのも憚られた。話においていかれ、呪文のような言葉のやりとりを黙って聞いているうちに、弘晃は、早々に眠りに落ちた。おかげで熟睡できて、今日の自分の体調はめったにないほど絶好調であると、弘晃は笑った。
「まあ、すごい」
弘晃と同様に細かいことはわからぬものの、紫乃は心から森沢に感心した。弘晃を支え、彼と二人三脚で社長業をしている彼の父親の本性は学者である。彼の専門は、古い美術品やその保守保全に関わること全般。ごく一般的な若者にしか見えない森沢が、その義父と、専門的な話題で対等に話ができるとは恐れ入った。
……というよりも、『森沢さんって、前から、ちょっと変だと思っていたけど、やっぱり、かなり変っているかもしれない』 と、紫乃は思った。
「私は、てっきり3人で喜多嶋グループ救済問題でも話し合っているのかと思ってましたわ」
「その話も、少しはしたよ」
紅茶の湯気を吹きながら、弘晃が微笑んだ。
「それで、喜多嶋グループは立て直せそうなんですの?」
「そんなことを部外者の僕に聞かれても答えようがありませんが」
しれっとした顔で弘晃が答えるのを見て、「また、そうやって、はぐらかそうとする」と、紫乃は口を尖らせた。
「喜多嶋グループには、特効薬みたいな、一発逆転の起死回生の策があるのでしょう?」
「ほう、あるんですか?」
紫乃の言葉に、弘晃が興味深そうに眉を上げた。
「ご自分でおっしゃったくせに、都合よく忘れないでくださいな。『喜多嶋ケミカルには宝の山が眠っている。あれさえあれば、喜多嶋グループなんて、あっという間に立ち直る可能性がある』って、いつだったか、うちの父と話していたでしょう?」
「ああ、そのことか」
弘晃は、得心が行ったように微笑むと、紅茶のカップを置いた。
「それは、今のところは、本当に可能性を秘めているだけに過ぎないよ。特効薬かもしれないけど即効性もないです。これから始めたとしても、実際の利益が出るまでには、ある程度の時間がかかるだろうね。でも……」
弘晃は紫乃に顔を寄せると、秘密めかして微笑んだ。「絶対に確実です」
「だったら、そのことを、森沢さんに教えてあげれば……」
「いずれね。でも、しばらくは、やめておこうと思って」
弘晃が困ったように首を振る。
「どうして? 意地悪ね」
「意地悪なのは、君のお父さんだよ」
不満を口にする紫乃の鼻先を弘晃が突っついた。
「父?」
「『喜多嶋が潰れようがどうしようが関係ない。あの馬鹿が明子が完璧に幸せにするとわかるまで、喜多嶋のためには指一本動かすな』 と……」
「父が言ったの?」
紫乃の背中を冷や汗が伝った。
「結婚式の翌日に電話があってね」
弘晃が苦笑した。
「言いつけを守らなかったら、中村物産への資金援助を止めるって」
「……。また、あの人は、馬鹿のひとつ覚えみたいな脅しを……」
紫乃は、頭を抱えたくなった。彼女は、肩を落としてうなだれると、「いつも、いつも、お父さまが我がままで、本当にごめんなさい」と、弘晃に謝った。
「謝らなくていいよ」
すっかり萎れてしまった紫乃の頭を引き寄せながら、弘晃が笑った。
「それに、僕も、今のところは、安易に救いの手を差し伸べないほうがいいと思う。せっかくのピンチだからね。これを機会に喜多嶋グループ全体の業務を徹底的に見直したほうが、後々のためには良いような気がするんだ。それに……」
弘晃は手を添えて、うなだれている紫乃の顔を上向かせた。
「六条さんみたいなことを言うようだけど、森沢さんが何もしないうちから、僕らが救済策を喜多嶋に提案したことで、あのグループの業績が一気に回復したとするだろう? そうしたら、経営者としての達也さんの評価はうなぎのぼりだ。表向きには、手柄の全てを達也さんが独り占めすることになる」
「そんなの嫌」
間髪を入れずに紫乃は言った。明子を幸せにする気があるのかさえわからないうちに、達也だけに好い目をみせるなんて、冗談じゃない。
「そう言うと思った」
弘晃は微笑むと、紫乃のこめかみに口付けた。くすぐったさを感じて、紫乃も顔を和ませた。
「そういうことなら、私は、当分の間は、何も言いません。でも、森沢さんは? あの人に任せて大丈夫なの?」
「それは、大丈夫。僕も森沢さんの相談ぐらいには乗るし、なにより、森沢さんには自分の仕事に対して愛があるからね。彼に任せておけば、かなり面白いことになると思うよ」
弘晃が、彼が使う中では上等の誉め言葉を口にした。
「そうね。 森沢さんなら、きっと大丈夫ね」
紫乃は森沢が気に入っているクッションを手に取ると、窓のほうに顔を向けて微笑んだ。
いつの間にか、裏庭から聞こえてくる明子の声は、笑い声に変っていた。




