A bride in the rain 1
結婚式が始まるまであと15分という頃、朝からの霧雨が本降りに変わった。
花嫁のための控え室で膝に置いた淡いピンクや黄色の花を束ねたブーケをぼんやりと見つめていた六条明子は、にわかに大きくなった雨音に気がついて、窓のほうに顔を向けた。
「本格的に降ってきちゃたね」と、窓辺に立つ明子の妹の紅子と夕紀が残念そうに顔を見合わせている。
彼女たちは明子の2歳年下だ。ふたりとも同い年で、紅子は大学の、夕紀は短大の一年生である。半年ほど前の姉の紫乃の結婚式の時には、デザインが同じだが色違いのパステルカラーのドレスを着ていた彼女たちは、今日は、デザイン違いだが同じ葡萄色のドレスを着ていた。
「でも、雨が酷くなる前にお客さまがみんな到着できたようでよかったわ。そうでなかったら、せっかくのおめかしが台無しになるところだったもの」
晴れやかな声で妹たちの愚痴めいた発言を吹き飛ばしたのは、明子のすぐ下の妹の橘乃だった。
橘乃は物事の良い面をみつける名人だ。余計なところにまで気を回しすぎて落ち込みがちな自分とは正反対の性格をしている彼女を、明子は、たびたび羨ましく思うことがある。例えば今日の天気のように、どれだけ心配したところで、避けられないことだってある。明子のように、『明日、雨が降らなければいいけれど……』と、昨日から散々心配した挙句に、雨に降られて落ち込むより、橘乃のように、『雨が降ったけれども、良かったわね』と言って笑えるほうがどんなにいいだろう。
(結婚式なのに……ね)
明子はため息をついた。
自分の結婚式なのに、ちっとも心が弾まない。
そのうえ、雨が降ってる。
しかも、大雨だ。
しかも……
「雨でも晴れでも関係ないわ」
陰鬱な物思いから明子を救ったのは、姉の紫乃だった。
「晴れたからって縁起が良いというものでもないわよ。ここは日本なんだから、晴れの日もあれば、台風や大雪の日もあるものなの。それに、『雨降って、地固まる』っていうじゃないの。吉兆よ! 吉兆!」
この話題はこれでお終いとでも言うように、紫乃は、きっぱりと話を切り上げた。
紫乃は、当初、この結婚に反対していた。正確には、3ヶ月前に突然決まった結婚式に反対していた。
『結婚なんて慣れよ、慣れ。添うてしまえば、どうにだってなるわ』などと無責任なことをいう明子の実母とは違い、この腹違いの姉は、心配性で怖がりのくせに物分りだけはいい明子の性格を誰よりも理解してくれていた。だから、婚約が決まった直後など、紫乃は、愛する夫を家に置き去りにして実家に戻ると、父親にロクに口答えもできない明子に代わって、『なぜそこまで結婚を急がなければいけないのか?』『もっと、お互いを知り合う時間が必要ではないのか?』と、何日にもわたって父と派手に言い争ってくれもした。その口論は日に日に激しさを増していったので、ついには明子が耐えかねて姉を止めるハメになった。
「お姉さま。私は大丈夫です。相手の方も、それほど悪い人ではなさそうですから、きっと、うまくやっていけますわ」とは、明子が姉をなだめるために言った台詞だが、実際に口にしてみると、親同士の都合で決められた未知なる相手との結婚生活も、それほど悪いものでもないような気がしてきた。
少なくとも見合いの時の彼……喜多嶋達也に対する明子の印象は悪くなかった。優しく礼儀正しそうな人であったし、物腰も穏やかだった。それに、ハンサムでもあると思った。布地や化粧品などを扱う喜多嶋紡績という大企業の御曹司だけのことはあって、普通の男の人よりもずっとファッショナブルで洗練されているとも思った。仕事面においても彼は非常に優秀だと聞いている。喜多嶋紡績に入社後の達也は、外国で学んだ経済学の知識を生かして様々な改革を断行し、現在は、既に専務の地位にあるということである。
明子のほうにも、特に結婚を伸ばさなけばならない理由はなかった。
姉と同じく明子も高校進学後はそのまま系列の大学に進んだものの、姉は経済学が学べる4年制の大学に、明子は男子学生がいないことを最大の理由に短大の文学部に進んだので、この春、紫乃と同時に卒業式を終えている。卒業してからの半年間もそうだが、短大時代から比較的に時間的な余裕があった明子は、家で本を読んだり、美術館へ行ったり、芝居を観たりと、自分の好きなことにたっぷりと時間を使ってきた。そろそろ人生に変化があってもいい頃合いだと、自分でも思う。
こうして考えてみると、この結婚は、羨ましがられこそすれ、嫌がる理由はどこにもなかった。だからこそ、明子の父親も、喜多嶋家から申し込まれたというこの縁談を2つ返事で受けてしまったのだろう。「だから、きっと大丈夫ですよ」と言う明子に、「明子が、そう言うのなら」と、紫乃は、渋々ながら彼女の結婚を承知してくれた。
その後の紫乃は、結婚を控えた明子の不安を和らげるために、あらゆる心遣いをしてくれた。例えば、彼女は、結婚生活がどれほど幸せで、どれだけ夫が妻というものを大切にしてくれるかを、明子に話して聞かせてくれもした。姉の体験談は極めて個人的なものだろうと明子は思うのだが、ノロケもあそこまで盛大に語られると、結婚しさえすれば誰であろうと絶対に幸せになれるような気がしてくるから不思議なものである。
「でも、やっぱり納得がいかない。どうして、こんなに結婚式を急がなくてはいけないの?」
先ほどから黙りこくって雨を眺めていた末っ子の月子が、紫乃の刺すような眼差しにもめげずに話を蒸し返した。
「それは、喜多嶋紡績の会長が亡くなったからだろう」
女ばかりの兄弟姉妹の中の唯一の男性で、1つ年上の兄の和臣が口を開いた。
喜多嶋グループは、大きく分けると、衣料品などを扱う喜多嶋紡績と中心にするグループと化粧品などを扱う喜多嶋化粧品を中心とするグループの2つからなっている。現在、喜多嶋紡績の社長を務めながら喜多嶋グループを全体を束ねているのは、達也の父親である喜多嶋紘一氏である。
たが、紘一の弟……つまり達也の叔父の伊織が責任者を勤める喜多嶋化粧品が、ここ十数年の間に急成長し、今では喜多嶋紡績以上の利益を上げているため、将来的に紡績と化粧品のどちらがグループ内の主流となるかで、喜多嶋の内部は、かなりゴタゴタしているらしい。
「亡くなったふたりの父親である前会長の喜多嶋英輔氏は、喜多嶋紡績がグループの大黒柱であるべしと考えていたから、彼の存命中は、波風も立たなかった」
だが、今年の夏の初めに会長が亡くなることで、両社の力関係が大きく変わった。
「つまり、喜多嶋紡績は、六条家から明子姉さまをお嫁さんにもらうことで、相手側に大きく傾いてしまった力関係を元に戻そうと思っているわけね?」
「簡単に言ってしまえばね」
和臣が月子にうなずいた。
明子の父親が束ねる六条グループが持つ莫大な資金力は、石油ショック以来、いまひとつ業績が思わしくない喜多嶋紡績にとっては、とても魅力的であろう。だからこそ、喜多嶋グループ内での自分たちの力を維持するために、喜多嶋紡績は、明子と跡継ぎ息子を結婚させることで六条グループと手を結びたいと考えている。
それに、六条と繋がるメリットは資金的なものだけに留まらない。六条家と縁戚になれば、かつての大財閥である中村グループとも近しい関係になれる。戦前は日本屈指の大財閥であった旧中村財閥は戦後に4つのグループに分割されたが、その4グループ……中村四家の筆頭である中村本家が紫乃の嫁ぎ先であるからだ。
「明子を手に入れれば、六条の金と中村の権威が手に入る。だから、ぜひとも明子を手に入れて、六条と手を結びたい。そして将来の息子の立場を安泰にしておきたい。そういうことさ」
和臣が言った。
「でも、喜多嶋の会長が亡くなったのって、3ヶ月ほど前じゃなかった?」
紅子が不快そうに眉をひそめた。そうであれば、喜多嶋紘一は、父親が亡くなったのとほぼ同時に、息子と明子との縁談をまとめたということになる。
「正確には、うちに縁談を持ってきたのは、会長が亡くなる3日前だね。『喜多嶋の将来を磐石にすることで、安心して親父を旅立たせてやりたい』とかなんとか、喜多嶋氏は父さんに言ったらしい」
和臣が肩をすくめる。冷酷なくせに涙もろい明子の父親は、喜多嶋氏の言葉にコロッとほだされてしまったらしい。「お父さまって、変なところで単純なのよね」と、紫乃がブツブツと悪態をついた。
「でも、喜多嶋さんが達也さんのお祖父さまを安心させようとしたというのも、本当なんじゃないかしら。だって、達也さんは、もっと早くに結婚しているはずだったのでしょう?」
お人好しの橘乃は、なんとかして喜多嶋氏の肩をもとうとしているようだった。橘乃が言うとおり、3年ほど前、達也は別の女性と婚約していた。結婚式は、一昨年の春のはずであったが行われなかった。
「あちらの女性に、どうしても添い遂げたい方がいらした。そういうことらしいけれど……」
紫乃は、声をひそめて話していたが、扉を叩く音を聞くなり、ぴたりと口を閉ざした。
花嫁の控え室に入ってきたのは、これから明子の義理の親になる喜多嶋夫妻だった。